「近衛社長は彼と……そちらのヤスイアヤナさんがお付き合いされていたのはご存知ですか?」
「え? ああ、まぁ存じ上げていますが……」
コノエ産業では社内恋愛は禁止ではないのだろう。何故いきなりそんな話? と訝りつつもうなずいた様子の近衛社長に、岳斗は心底面倒くさいなと思いながらも続けた。
「ことの発端はそこのササオさんが僕の大事な美住さんにセクハラしようとしたことです」
さり気なく〝僕の大事な〟と付け足して杏子のことを引き合いに出すと、岳斗は自分のすぐそばでギュッと身体を固くしている杏子に視線を向ける。そうして彼女の耳元へ唇を寄せると、「杏子ちゃん、自分で話せそう?」と静かに問い掛けた。その声は、他の人たちに発するのとは全く違う、心の底から杏子のことを気遣う優しい声音だ。
岳斗は大切でない相手に気を遣う気はさらさらない。処世術として基本的にはふんわりした印象を心掛けるようにしているけれど、この会社ではそんな仮面を被る必要はないと判断した。
いわゆる〝素〟をさらけ出すみたいに冷たい物言いで淡々と語っている岳斗だけれど、杏子だけは別だ。意識しなくても自然と優しい声で語り掛けたくなる相手は、荒木羽理を除けば初めてかも知れない。
***
倍相岳斗から穏やかな声音で「自分で話せそう?」問い掛けられた美住杏子は、不安に揺れる瞳で周りを見回した。
今まで自分がどんなに声を上げても誰一人として杏子の言うことに耳を傾けてくれる人なんていなかった。でも、今はどうだろう?
岳斗のお陰で随分周りが自分を見る目が変わった気がする。
杏子は身体の奥底に滞ったままの不安を追い出すみたいに肺の中の空気を静かに吐き出すと、一度だけ目を閉じた。
それから次にまぶたを上げた時には決心が付いていた。
全て岳斗がそばに居てくれると思えるお陰だ。
杏子は真っすぐに近衛社長を見据えて、凛とした声音で「お話します」と答えた。
***
杏子の意志表示を受けた岳斗は、コクッとうなずくと杏子に「ちょっとだけ待ってね」と告げてその場にいる面々を見回した。
「さて、皆さん。このままここで断罪劇場を繰り広げるのも僕としては面白くていいなと思うのですが、それでは業務に支障が出てしまいます。自社内の問題を理由に、取引先の方々へご迷惑をお掛けするのはおかしな話です」
そこまで言って「ですよね?」と近衛社長を見詰めると、「あ、ああ、その通りです」と慌てたように社長が同意してくる。
(こういうのは本来、僕がすべきことじゃないんだけどね)
通常ならこういう采配は社長自らが行うべきだ。だが、恐らく彼は今、岳斗への遠慮も手伝ってそういうことが出来ずにいるんだろう。
(それに……実情を知らない社長じゃ、この中から誰を残して誰を立ち去らせるべきか、見極めがつかない)
そう判断した岳斗は、社長の了承も得られた、ということでそのまま話を続けさせてもらうことにした。
「今から僕が名前を呼んだ方だけ残って頂けますか? 呼ばれなかった方々は……とりあえず今回に限っては〝何もお咎めなし〟ということで持ち場へお戻りください」
(この場で皆に断罪の全ては見せないけど、無傷のままここから姿を消させてあげるほど僕がお人好しだとは思わないでね?)
きっとここまで言えば、名前を呼ばれた人間はすべからく〝制裁対象と断定された側〟だとこの場にいる全員へ伝わるはずだ。それを見越した上でわざとそういう言い方をした岳斗である。ついでに他の面々についても、今回に限ってはと牽制することも忘れなかった。
繋いだままの杏子の手を握る手に気持ち力を込めると、岳斗は心の中で酷薄な笑みを浮かべる。
(僕の大事な杏子ちゃんを傷付けたこと、必ず後悔させてあげる)
そうして岳斗は、営業課の笹尾、志波、経理課の中村経理課長、安井、古田、木坂の六名の名を声高に宣言した。
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