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#ご本人様とは一切関係ありません
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#ご本人様とは一切関係ありません
あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
浴室の扉が開いて、ふわっと湿った空気がリビングに流れた。
「はぁ〜……生き返った……」
髪をざっとタオルで拭きながら、カノンが戻ってくる。
Tシャツにゆるいスウェット。完全に家の顔だ。
頬は風呂上がりで少し赤い。そこにさっきの酒の熱が混ざって、いつもよりだいぶ危うい色をしていた。
ゴイチはソファに座ったまま、テレビをぼんやり見ていた。
つまみの皿は少し減っていて、缶は一本空いている。
「お、戻ったか」
「ん。お前ちゃんと飲んでる?」
「家主いないのに そんな飲むかよ」
ゴイチが肩を揺らして笑った。
「それもそうだな」
カノンはそのままテーブルに寄って、自分の缶を持ち上げる。
中身はまだ半分くらい残っていた。
「まだ飲むのかよ」
「風呂上がりだし」
そう言って、何でもない顔でぐっと飲む。
喉が鳴る。
その一口、二口で、カノンの中に残っていた酒が一気に広がった。
「…うま…」
(…?)
小さく息を止める。
アドレナリンがどうとか言ってたくせに。
一気に喉に流れ込む酒がやたら熱い。
(…風呂入って、酒回ったか……)
視界が少しだけふわつく。
頭の芯がふっと浮く感じ。
でも、その浮遊感の奥で、まだ別の神経だけは妙に冴えていた。
(いや……でも確認……)
軽く頭を振る。
何を、なんてわかってる。
わかってるくせに、まだやめられない。
ゴイチはテレビを見ている。
何でもない顔で。
つまみを食べながら。
いつもの、あの何でもない顔。
それが、今は妙に眩しい。
(…確認…)
なんか質問するのかとか、どうするとか決めずに勢いでここまで来てしまった。そして考えようとして思考が前に進まない。
どうする?って途中まで考えてたのにそれすらも頭から消えていく。
ちびっと缶に口をまた付ける。テレビ画面に視線を映すも視界が緩くボヤけていた。
「……水」
カノンがぽつりと呟く。
ゴイチはそんなカノンの小さな変化にようやく気付いてテレビ画面から視線を移した。
カノンが立ち上がろうとした、その瞬間だった。
酒が遅れて足に来る。
ぐら、と身体が傾く。
「あ」
「おいっ……!」
ゴイチがほとんど反射で腕を伸ばした。
間に合う。
でも完全には支えきれない。
そのまま二人でソファに倒れ込む。
クッションが鈍く沈む音。
カノンが下。
ゴイチが上半身だけ被さるような形になる。
ゴイチは咄嗟に両腕をカノンの顔の両脇へついて、完全には体重が乗らないように止めていた。
「っぶねぇだろ……!」
低く言う声が近い。
近すぎる。
カノンは頬を赤くしたまま、酔った目でただゴイチを見ていた。
トロンとしているのに、妙なところだけ真っ直ぐだ。
(え……)
(何、この展開……)
心臓が、酒とは別のところで変な音を立てる。
こんなの、普通にまずい。
逃げるみたいに顔を背ける方が変な気がして、カノンはそのままゴイチを見上げた。
ゴイチの方は、咄嗟に助けた勢いのまま固まっていた。
近い。
カノンの顔が。
風呂上がりの熱と、酒の匂いと、柔らかく濡れた髪の匂いが近すぎる。
「……カノン」
低い声。
でも、カノンはその声を聞いても逸らさなかった。
「俺さ……」
ぽつりと落ちる。
ゴイチの眉がわずかに寄る。
「確認したいことがある……」
そう言いながら、カノンは片手でゴイチの胸元の服をぎゅっと掴んだ。
そのまま、ゆっくり引き寄せる。
ゴイチの喉が小さく鳴る。
「おい……」
カノンもまた、少しだけ顔を近づける。
目はとろんとしてるのに、その動きだけは妙にゆっくりで、変に迷いがない。
ゴイチは目を開けたまま、固まっていた。
あと少し。
本当に、あと少しで触れそうなところまで距離が詰まる。
その瞬間だった。
ゴイチが思いっきり、胸元を握るカノンの手首を掴んで止めた。
「おいっ……」
低く、唸るみたいな声。
「……それは違うだろ」
唇が触れるか触れないかのところで、ゴイチはきっぱり止めた。
「この酔っ払いが」
そのままカノンの腕を引っ張り、自分の身体ごと起こす。
ソファの上で体勢を立て直して、無理やりでも距離を作る。
カノンはまだふわふわしている。
「いや……でも……」
「でもじゃねぇ」
ゴイチは呆れたみたいに言って、テーブルの水を掴む。
そのままカノンの腕を引いたまま、コップを口元に押し当てた。
「水飲め、水!」
「ん……」
カノンは抵抗もせず、そのままこくこく飲む。
頼るみたいに。
子どもみたいに素直で、余計に危なっかしい。
ごくごく、と喉が鳴る。
ゴイチはその様子を見ながら、内心で深く息を吐いた。
(こいつ、ほんと)
(ルイの失恋回やったあの日も、泥酔して、こんなんなった)
思い出す。
酔って潰れて、顔を真っ赤にして、意味わからんこと言いながらしがみついてきた夜。
(余計なこと言うと、考えすぎるから)
(言わなかったけど……)
あの時だって、危なかった。
今夜も同じだ。
いや、今夜の方がたぶん、ずっと危ない。
ゴイチは水を飲ませ終わって、ようやくコップを離す。
カノンはちょっとだけ目を細めて、へにゃっと笑った。
「さんきゅー。相棒」
酔ってるせいで、いつもよりだいぶ無防備だ。
そのまま、力が抜けたみたいにゴイチの胸へ倒れ込んでくる。もう手すらも付く気がないまま全身丸ごと倒れ込んだ。
「おい、こら……!」
ゴイチは思わず両手を高く上げた。
抱きとめるべきか、触らない方がいいのか、一瞬やり場がなくなる。
でも結局、完全に突き放すこともできず、身体で受け止めるしかない。
カノンはそのままゴイチの胸に額を押しつけるみたいにして、むにゃむにゃ言い始めた。
「ゴイチー……なんでだろうな…」
「知らねぇよ……」
「なんで、お前の顔なんだよ…」
その一言に、ゴイチの動きが止まる。
胸に落ちてきた頭の重み。
酔ってぐずぐずになった声。
その中に混ざる、妙に本音っぽい響き。
「俺に聞くな……」
ゴイチは低く返す。
でもその声は、さっきカノンを止めた時より少しだけ掠れていた。
カノンはそれ以上まともな返事をしない。
「しらねぇ……」
「相棒のくせに……」
そんなことをむにゃむにゃ言いながら、完全に寝る体勢に入っていく。
身体の力がどんどん抜けていくのがわかる。
ゴイチはしばらくそのまま固まっていた。
胸にカノン。
酒の匂い。
風呂上がりの熱。
ついさっき、違うと止めたばかりの距離。
「……ったく」
小さく吐き捨てるように言ってから、ゴイチは宙に浮いていた両手で自分の顔を覆った。
そのまま天井を向く。
「ほんと、勘弁しろよ……」
誰に言うでもなく、低く落とす。
でも、その声の奥には本気の苛立ちだけじゃなく、どうしようもない困り方と、少しだけ隠しきれない優しさが混ざっていた。
胸の上では、カノンがもうほとんど眠りに落ちている。
完全に安心しきったみたいな顔で。
ゴイチは、胸の上に落ちてきたカノンの重みを受け止めたまま、しばらく動けなかった。
酔って脱力した身体。
風呂上がりの少し熱い体温。
むにゃむにゃと意味の切れた言葉。
それを感じていると、勝手に思い出す夜がある。
あの失恋会の日も、そうだった。
⸻
あの日、定食屋を出たあともカノンはずっと喋っていた。
ルイのこと。
好きだったこと。
どうしようもなかったこと。
もう終わったって自分で言いながら、それでも酒が入るたび、心の奥に沈めていたものが少しずつ浮いてきていた。
ゴイチは、ただ横で聞いていた。
相槌を打って。
たまに茶化して。
たまに真面目に返して。
それが、その夜の自分にできる全部だった。
カノンは笑ってた。
よく笑ってた。
でも、酔いが深くなるにつれて、その笑いの端が少しずつ危うくなっていくのがわかった。
帰り道も、最初は平気な顔をしていた。
ベラベラ喋って、いつものカノンのテンポでふざけて、足元だってまだしっかりしてるように見えた。
だから、自分でも少し甘く見ていたんだと思う。
部屋について。
ベッドまで連れていって。
「ほら寝ろ」って、いつもみたいな顔で言って。
布団をかけた、その時だった。
カノンが、泣いた。
いきなりだった。
何かきっかけがあったわけでもない。
急に思い出したみたいに。
堪えていたものが、その瞬間だけ限界を越えたみたいに。
整ってる顔を、めちゃくちゃにして。
いつもなら、うまく笑って誤魔化すくせに。
言葉で逃がすくせに。
その夜のカノンはそれすらできなかった。
ぽろぽろ、じゃない。
もっと静かで、でも止まらない泣き方だった。
声を張り上げるわけでもなく、ただ息を詰まらせて、涙だけがずっと落ちていた。
ゴイチは、その時ほんの一瞬、どうしたらいいかわからなくなった。
慰める言葉なんか、たぶん何を言っても違う。
「大丈夫」も、「忘れろ」も、そんな軽いもんじゃないのは見ればわかった。
だから、帰れなかった。
酔っ払って泣いてるカノンを、そのまま置いて帰るなんて無理だった。
「……カノン」
呼んでも、返事はない。
ただ涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、呼吸を乱している。
ゴイチはベッドの端に腰を下ろした。
それから、少しだけ迷って。
でも結局、そっと肩を貸した。
「ほら」
それしか言えなかった。
カノンは最初、何も言わなかった。
でも、少ししてから力の抜けたみたいに身体を預けてきた。
その重みが、思っていたよりずっと正直だった。
強がって。
笑って。
軽く流して。
ずっとそうやってきたやつが、もう無理だと身体ごと預けてきた重み。
ゴイチは、それを受け止めるしかなかった。
その夜は、寝るまでずっとそうしていた。
肩を貸して。
たまに背中を軽く撫でて。
泣き疲れて息が落ち着くのを待って。
カノンは途中で何か言っていた気がする。
ルイの名前だったのか、ただ意味のない言葉だったのか、もうちゃんとは覚えていない。
でも、最後に残っているのは、泣き疲れた顔のまま、少しだけ子どもみたいに力を抜いていたあいつの姿だ。
そのまま腕の中で、カノンは寝た。
本当に、少しずつ呼吸が深くなっていって。
涙で濡れた睫毛が動かなくなって。
肩に預けていた重みが、完全に眠った人間のそれに変わっていった。
ゴイチは、そんなカノンを見てるしか無かった。
泣き止ませることも。
失恋を軽くすることも。
代わりになることも。
その時の自分には、何一つできなかった。
ただ、隣にいて。
肩を貸して。
眠るまで見てることしかできなかった。
それでも、あの夜のカノンは最後、自分の腕の中で眠った。
その事実だけが、やけに深く残っている。
⸻
胸の上で、今夜のカノンがまたむにゃっと何か言う。
「……相棒〜……」
ゴイチは天井を見たまま、小さく息を吐いた。
「……ほんと、お前な」
あの夜もそうだった。
今夜もまた、似たような顔をしてる。
違うのは、泣いてはいないことくらいだ。
でも、無防備さだけは変わらない。
酔って。
強がれなくなって。
わけのわからないまま、預けてくる。
ゴイチは胸の上の重みを感じながら、目を閉じそうになるのをこらえた。
あの夜は、見てるしかなかった。
でも今はどうなんだろうな、と、ほんの少しだけ思う。
その問いの答えは、まだ自分でも出していない。
出すつもりも、たぶんまだない。
ただ一つだけ確かなのは。
今夜も結局、自分はこいつを放っておけなかったってことだった。
朝。
カーテンの隙間から差し込む眩しい光が、飲みすぎた頭を容赦なく刺激した。
「っ……」
カノンは眉を寄せたまま、ゆっくりと目を覚ます。
頭、重っ……
喉も乾いてる。
口の中が変に気持ち悪い。
胃の奥も少しだけ熱い。
典型的な、やらかした朝だった。
それでも、ぼんやりした意識の中で最初にわかったのは、ちゃんと自分のベッドで寝ているということだった。
(あ……俺……ベッドで寝てる……)
そこだけで一瞬だけ安心しかける。
でも、その安心はすぐ次の確認で崩れた。
カノンはまだ半分しか開いていない瞼のまま、恐る恐る横を確認する。
……いない。
ゴイチは、いない。
その瞬間。
(やった……)
一拍。
(やっちまった……)
カノンは勢いよく両腕で顔を覆った。
「うわぁぁぁ……」
声にならないうめきが漏れる。
昨日のことが、走馬灯みたいに頭の中を駆け巡った。
定食屋。
帰り道。
家に招いたこと。
風呂。
酒。
よろけたこと。
ソファ。
近すぎた距離。
そして。
“確認したいことがある……”
「っあぁぁぁ……無理……」
そのまま顔を覆った腕に、額を押しつける。
全部、覚えてる。
変に記憶が飛んでた方がまだ救いがあった。
でも最悪なことに、ちゃんと残ってる。
ゴイチの服を掴んだ感触も。
自分から顔を近づけたことも。
その手を止められて、**“それは違うだろ”**って低く言われた声も。
そのあと水を飲まされて、胸に倒れ込んだことも。
わけのわからないことをむにゃむにゃ言ってたことも。
全部だ。
「終わった……」
小さく漏らす。
流石に、帰るよな……
あんなことされたら。
酔ってたとはいえ、最悪すぎる。
普通に考えて、ゴイチが呆れて帰ってても文句言えない。
カノンは重い身体をどうにか起こす。
頭がずきっと痛む。
「……水……」
喉が死ぬほど渇いていた。
ベッド脇に足を下ろして、しばらくそのまま座る。
酔いは抜けてるはずなのに、身体がまだ少しふわつく。
寝室の扉に手をかける。
深呼吸ひとつ。
(いない。たぶんもう帰ってる)
そう自分に言い聞かせて、ドアを開けた。
重い頭を上げる。
その先。
「あ。おはよ」
ソファで手をひらひらさせて、頭だけ上げてこっちを見ているゴイチがいた。
「……は?」
カノンの目が丸くなる。
ほんの一秒、完全に固まった。
何でいるんだよ。
何でそんな普通なんだよ。
何でソファで寝てんだよ。
頭の中でツッコミが一気に爆発する。
でも口はそのどれも言えない。
次の瞬間には、カノンは翻すみたいに寝室へ後退りしていた。
そして、勢いよく扉を閉める。
バタンッ。
そのまま扉に背中をつけて張り付く。
「はっ……?」
小さく息が漏れる。
(はっ? アイツ、何で居るんだよっ……)
心臓がバクバク鳴る。
頭の痛さとは別の意味で、いきなり目が覚めた。
帰ってない。
いる。
普通にいる。
しかも、あの何でもない顔で。
意味がわからない。
いや、意味はわかる。
多分、自分をそのまま放って帰れなかったんだろう。
でも。
だからって、朝までいるか?
ソファで寝るか?
起きたら普通に「おはよ」って言うか?
「何なんだよ、ほんと……」
カノンは扉に額をこつんとつけた。
恥ずかしい。
死ぬほど恥ずかしい。
でも、それと同時に。
心のどこかが、妙にあたたかいのも否定できなかった。
こうして。
ふたりの朝が始まる。
寝室の扉が勢いよく閉まったあと。
リビングでそれを聞いたゴイチは、ソファに座ったまま目を瞬かせた。
「……何だよ」
小さく呟く。
別に追いかけるつもりはない。
でも、あの反応を見る限り、どうやら全部覚えてるっぽいな、となんとなく察する。
察するけど。
だからといって、ここで真正面から触れるのも違う気がした。
ゴイチは少しだけ首を鳴らしてから、いつも通りみたいな声を寝室に向けて飛ばした。
「おーい。カノン」
少し間。
「コーヒー飲むかー」
その、やたら平和な声音が、寝室の扉に張り付いていたカノンの鼓動を余計に速くした。
「……っ」
動揺を隠しきれない。
(何考えてんだ、アイツ……)
視線は床。
でも頭の中だけが忙しい。
(昨日、あんなことがあって……)
ソファ。
近すぎた距離。
自分から引き寄せたこと。
止められたこと。
そのあと、水を飲まされて、胸に倒れ込んで――
「うわぁぁ……」
声にならない小さいうめきが漏れる。
(いや……もしかしたら)
カノンはそこで、はっと息を止める。
(酒に酔ってたからってことで
きっと片付けたのかもしれない)
(アイツのことだ……)
きっと。
そうだ。
そういうことにしたんだ。
わざわざこっちが気まずくならないように。
あの夜のことを、酔っ払いのやらかしとして処理したんだ。
ゴイチなら、やりかねない。
カノンは扉に背中をつけたまま、深く息を吸った。
よし、切り替えろカノン。
何も覚えていないフリをしろ。
よし……
頬を両手でぺち、と軽く叩く。
それから一度だけ表情を整えて、扉を開けた。
「おはよう。相棒」
声も、トーンも、いつも通り。
少なくともそう見えるように作った笑顔だった。
ソファに座ったまま振り返ったゴイチは、その顔を見てほんの少しだけ目を丸くする。
一瞬。
でもすぐに、こっちも何でもない顔に戻った。
カノンは頭を掻きながら、わざとらしく少し困った顔をする。
「いやぁ……昨日飲みすぎたな」
はは、と乾いた笑い。
「俺、また管巻いてた?」
人差し指で頬を掻きながら、いかにも“何も覚えてません”みたいなトーンで言う。
ゴイチはソファに座ったまま、顔だけ向けてカノンの目を見た。
その目がやたら静かで、カノンの胸が少しだけ鳴る。
「あぁ」
ゴイチは何でもない顔で言った。
「確かに酔っ払ってたけど、早々に飲みすぎた〜とか言って、自分の足でベッド行って寝てたぞお前」
平然としている。
声色も自然。
変に優しくもない。
茶化しもしない。
本当に、“それだけだった”みたいに言う。
カノンの頭の中が、一瞬止まる。
(は……?)
(こいつ……だいぶ嘘ついてる……)
あまりにも滑らかすぎる嘘だった。
ソファの上で転んだことも。
胸元を掴んだことも。
顔を寄せたことも。
止められたことも。
全部なかったことみたいに、さらっと。
カノンは一瞬だけ言葉を失って、それから慌てて笑顔を作り直す。
「そ、そう。
ならよかった」
声が少しだけ上ずる。
自分でもわかるくらい不自然だ。
「あ、コーヒー飲む?
俺が淹れてくる」
そのまま方向転換して、早足でキッチンへ向かう。
逃げた、に近い動きだった。
ゴイチはその背中を見ながら、小さく目を細める。
(それ、さっき俺が聞いたんだけど……)
そう思う。
寝室の扉越しに「コーヒー飲むかー」って聞いたのは、自分だ。
なのに今、まるでカノンが最初に思いついたみたいな顔で言い出した。
わかりやすい。
わかりやすすぎる。
でも、ここで「さっき俺が聞いた」なんてわざわざ突っ込むほど子どもでもない。
カノンがそう言うなら、黙って乗る。
たぶん今はその方がいい。
「じゃあ、もらう」
ゴイチは大人しくソファから動かない。
カノンはキッチンに立ったまま、背中を向けている。
その肩が、さっきからほんの少しだけ落ち着かない。
棚からマグを二つ出す。
コーヒー豆の袋を開ける。
電気ケトルに水を入れる。
手は動いている。
でも、胸の奥のざわめきが全然止まらない。
(ゴイチが……何事も無かったかのように
嘘をついている……)
その事実が、やけに重い。
優しさなんだろう、たぶん。
気まずくさせないための。
昨夜のことを、自分が“朝から死にたい”みたいな顔をしなくて済むようにするための。
でも、それが余計にカノンの胸をざわつかせた。
あんなことがあったのに。
自分は全部覚えていて、今も心臓がうるさいのに。
ゴイチはそれを見越したみたいに、さらっと嘘をつく。
責めるでもなく。
触れるでもなく。
ただ、逃げ道だけを置くみたいに。
「……何なんだよ、ほんと」
ごく小さく呟く。
お湯が沸く音が、キッチンに広がる。
カノンはマグを並べながら、無意識に下唇を噛んだ。
ゴイチが後ろでテレビを見ている気配。
ソファの軋む小さな音。
その全部が、妙に近い。
昨夜、確認したかったことは、まだちゃんと言葉になっていない。
でもひとつだけ、確かなことがある。
ゴイチが“なかったこと”にしてくれたその嘘は、 カノンにとって少しも軽くなかった。
むしろ、ちゃんと刺さっていた。
カノンはコーヒーを二つ持って、キッチンからソファーへ戻る。
白いマグカップから、細く湯気が立っている。
さっきまでより少しだけ落ち着いた顔を作ってはいるけど、胸の奥のざわめきは全然消えていなかった。
「はい」
ローテーブルに片方を置く。
もう片方は自分の前に。
ゴイチは「おう」とだけ言って、マグに手を伸ばした。
指先が取っ手にかかる。
それだけの動きが、妙に普通で、妙に自然で。
昨夜のことが本当に何でもなかったみたいに見える。
カノンはソファの端に腰を下ろした。
少しだけ距離を空けて。
でも、空けすぎないくらいに。
コーヒーの香りがふわっと広がる。
テレビはついたままだけど、二人とも画面なんてほとんど見ていない。
沈黙。
気まずいほどじゃない。
でも、何もなかった朝の沈黙とも違う。
カノンはマグに口をつけるふりをして、結局飲まずに戻した。
喉は乾いている。
でも今は、コーヒーの熱より、自分の中の方がうるさかった。
「……ゴイチ」
ぽつりと、名前を呼ぶ。
ゴイチが顔だけ向ける。
「ん?」
カノンは少しだけ視線を落とした。
言わなきゃいけない気がした。
何もなかった顔のまま、この朝を終わらせたら、たぶんずっと引っかかる。
でも、真正面から全部聞く勇気もまだない。
だから少しだけ。
本当に少しだけ。
「昨日さ」
間が落ちる。
ゴイチは急かさない。
マグを片手に持ったまま、ただ続きを待っている。
カノンはそこで、やっと言った。
「俺、変なこと言ってない?」
その問いが、部屋の真ん中に静かに落ちる。
ゴイチはすぐには答えなかった。
少しだけ間を置く。
そのわずかな間が、カノンにはやけに長く感じた。
全部覚えてるのか。
覚えてないのか。
どこまで本気で“何もなかったこと”にしようとしてるのか。
そんなことが、一瞬で頭を駆け巡る。
やがてゴイチが、低く言った。
「言ってたけど」
カノンの身体が固まる。
心臓が、どくんと鳴る。
マグを持つ手に、少しだけ力が入る。
ゴイチはその反応を見たのか見てないのか、変わらない顔のまま続けた。
「酔っ払いの戯言だろ」
その一言が、静かに刺さった。
あまりにも、まっすぐで。
あまりにも、やさしい逃がし方で。
カノンは何も言えなくなる。
本当は全部覚えてる。
ソファの上で。
近づいて。
掴んで。
止められて。
胸に倒れ込んで。
わけのわからないことまで言った。
それを、ゴイチも全部覚えてるはずだ。
覚えてるはずなのに。
酔っ払いの戯言だろ。
その一言で、全部を軽くしてみせる。
責めない。
茶化さない。
でも、なかったことにもしていない。
ちゃんと“言ってた”と認めた上で、それでも朝の自分が立っていられる場所を残してくれる。
それが、あまりにもゴイチだった。
カノンは目を伏せる。
胸の奥が、変に熱い。
恥ずかしさだけじゃない。
助けられた感じがしてしまうのが、余計にきつい。
「……そう、だよな」
ようやく、それだけ返す。
声が少しだけ掠れていた。
ゴイチはコーヒーを一口飲んでから、小さく息を吐いた。
「まぁ」
少し間。
「酔ってるやつの言うこと、いちいち真に受けてたら身が持たねぇし」
何でもない調子。
でも、その何でもない顔が、今のカノンには一番ずるかった。
それ、本気で言ってるわけじゃないだろ、とわかるからだ。
真に受けてないわけがない。
あの瞬間、ゴイチの目は確かに揺れていた。
止めた声だって、あんなに低かった。
なのに今、わざと軽く言う。
自分が気まずくならないように。
朝から勝手に傷ついたみたいな顔をしなくて済むように。
カノンはマグを見つめたまま、小さく笑った。
「便利だな、それ」
ゴイチが少しだけ眉を上げる。
「何が」
「“酔っ払いの戯言”」
少し間。
「だいぶ、便利な言葉」
ゴイチはそこで、ほんの少しだけ口元を動かした。
「お前が昨日“相棒”便利って言ってたのと同じだろ」
その返しに、カノンは思わず顔を上げる。
ゴイチは相変わらず、淡々としていた。
でも、その目だけはちゃんとこっちを見ている。
逃がすだけじゃない。
見てないふりをするだけでもない。
全部わかった上で、それでも今はこの言葉を選んでる。
そのことが、カノンにはちゃんと伝わってしまう。
「……何なんだよ、ほんと」
小さく溢す。
「ん?」
「いや」
カノンは少しだけ口元を緩めた。
「お前、そういうとこな」
ゴイチは意味がわからないみたいに少しだけ首を傾げる。
でも、深く聞かない。
それもまた、ちょうどよかった。
コーヒーの湯気が、二人の間でゆっくり薄くなる。
カノンはようやく一口、マグに口をつけた。
熱い。
少し苦い。
でも、その熱でやっと喉の奥がほどける。
酔っ払いの戯言。
そうやって逃がしてもらったはずなのに。
その一言で、逆に全部が消えない。
むしろ、余計に残る。
本当は覚えてるくせに。
本当は、何もなかったことになんかしてないくせに。
それでも、自分のために軽く言ってくれた。
その優しさが、朝の光よりずっと眩しかった。
カノンはマグを両手で持ったまま、少しだけ視線を落とす。
苦い。
コーヒーの味なのか、今の自分の気持ちなのか、もうよくわからない。
本当は、全部覚えてる。
ソファで転んだことも。
ゴイチの上半身が覆いかぶさるみたいな形になったことも。
自分から服を掴んだことも。
確認したいなんて、わけのわからないことを言ったことも。
あと少しで触れそうだったことも。
全部だ。
ちゃんと、全部。
忘れてた方が楽だった。
酒のせいで記憶が飛んでくれてた方が、たぶん今朝はもっと笑えてた。
でも最悪なことに、ちゃんと覚えてる。
しかも、ゴイチも覚えてる。
あの間。
“言ってたけど”の一言。
あれでわかった。
覚えてるくせに。
ちゃんと見てたくせに。
その上で、“酔っ払いの戯言”って逃がした。
優しすぎるだろ、と思う。
いや、優しいって言葉だけじゃ、なんか違う。
あれは、たぶんゴイチなりの配慮だ。
朝の自分が、ベッドから出てきた瞬間に死にたくならないように。
気まずさで何も喋れなくならないように。
昨夜の自分の失態を、そのまま刃みたいに返さないための。
そんなの、刺さるに決まってる。
カノンは小さく息を吐く。
こんなふうに逃がしてもらったら。
逆に、全部が軽くならない。
何でもなかったことになんか、ならない。
むしろ、残る。
ゴイチが“なかったこと”にしようとしてるんじゃないのもわかる。
なかったことにするなら、“言ってたけど”なんて言わない。
ちゃんと言ってた、ちゃんと聞いてた、その上で今はこれ以上傷つかなくていいって逃がした。
そのさじ加減が、ほんとにずるい。
相棒。
便利な言葉だって、自分で言った。
でも今は、その便利な言葉の中に、思っていたよりずっと色んなものが入ってる気がしてしまう。
放っておかない、とか。
見捨てない、とか。
今は無理に進めない、とか。
そういう全部を、あの男は平気な顔で“相棒”に詰めてくる。
だから厄介なんだ。
ルイのことを思って揺れた一瞬も、嘘じゃなかった。
でも、その瞬間に浮かんだのがゴイチだった理由は、たぶんもう誤魔化せない。
自分が本当に確認したかったのは、ルイへの未練が残ってるかじゃなくて。
今、自分の胸を動かしてる相手が誰なのか。
それだったんだと思う。
カノンはマグの縁に視線を落としたまま、唇を少しだけ噛んだ。
朝の光の中で、ゴイチはほんとに何でもない顔をしてる。
テレビを見て。
コーヒー飲んで。
昨夜のことなんか、少しも引きずってないみたいに。
でも、そんなわけないだろとも思う。
あの距離で。
あの声で止めて。
そのあと朝までいたくせに。
何でもないわけ、ない。
何でもない顔をしてるだけだ。
そこまでわかるから、余計に胸が騒ぐ。
(……ほんと、何なんだよ)
心の中で、もう一度だけ呟く。
その問いに答えを出すにはまだ早すぎて。
でも、もう“相棒だから”だけじゃ片付かない場所まで来てることだけは、わかっていた。
⸻
沈黙が、少しだけ続いた。
テレビでは朝のニュースが流れている。
スタジオやライブの空気とは真逆の、あまりにも普通な朝の音。
アナウンサーの落ち着いた声。
小さく切り替わる映像。
生活の匂いがする時間。
カノンはコーヒーを持ったまま、まだ少しだけ下を向いていた。
ゴイチはそんな横顔を、数秒だけ静かに見ていた。
それから、ふっと小さく息を吐く。
ごく自然な動きみたいに、片手が伸びた。
カノンの頭の上へ。
ポン。
本当に一回だけ。
やさしく跳ねるみたいに触れて、すぐ離れる。
撫でるほど長くない。
抱え込むほど深くもない。
でも、確かに“気にすんな”を触れ方にしたみたいな、短い一回だった。
カノンが少しだけ目を上げる。
ゴイチはそのまま、ふっと小さく笑った。
目元だけが少しやわらぐ。
口角が、ほんのわずかに上がる。
その笑い方が、やけに静かで、やけに刺さる。
「酔っ払ってる時のことは」
ゴイチが低く言う。
「あんまり、気にすんな」
少し間。
「相棒」
その一言を落として、ゴイチの視線はまたテレビへ戻る。
それ以上は何も言わない。
確認もしない。
追い詰めない。
昨夜のことを蒸し返して、わざと空気を濃くしたりもしない。
ただ、一回頭に触れて。
気にすんな、と言って。
相棒、といつもの言葉に戻す。
朝のニュースが天気予報を告げていた。
今日は晴れ。
昼間は少し暖かくなるでしょう、と、どこか間延びした声が部屋に流れる。
その平凡さの中で、さっきの一回だけのタッチが妙に生々しく残っていた。
カノンは何も言えなかった。
頭の上に残る感触が、まだ消えない。
軽いのに。
一瞬だったのに。
なんでこんなに残るんだよ、と思う。
(……ずる)
小さく、心の中だけで呟く。
でも、そのずるさを責めたいわけじゃなかった。
⸻
ゴイチはテレビへ視線を戻したまま、マグを口元へ運ぶ。
コーヒーは少しぬるくなり始めていた。
横にいるカノンの気配は、さっきより少しだけ静かだ。
でも、その静かさは悪くない。
言いすぎると、こいつは考えすぎる。
そこはもう、よくわかっている。
真面目な顔で全部話したっていい。
昨夜のことを、正面から整理したっていい。
でも、今のカノンにそれをやると、たぶん余計に絡まる。
“何で止めたのか”とか。
“どこまで本気だったのか”とか。
“もし酔ってなかったらどうだったのか”とか。
そんなことまで考え始めたら、こいつは一人で勝手にしんどくなる。
だから、今はこれでいい。
酔っ払いの戯言。
相棒。
気にすんな。
軽く聞こえるくらいでいい。
逃げ道があるくらいでいい。
ゴイチは横目で少しだけカノンを見る。
下を向いたまま、マグを持ってる。
さっき頭に触れた時、少しだけ固まってた。
でも、そのあと逃げなかった。
それで十分だと思う。
昨夜だって、止めて正解だった。
あのまま触れてたら、多分違った。
確認とか、酔ってたからとか、そういう曖昧な理由のまま進むのは違うって、あの瞬間に思った。
カノンがどうとかじゃない。
自分が嫌だった。
こいつの酒の勢いに乗るみたいなのは、違うだろって。
それに、もし本当に何かが始まるなら。
始めるなら。
たぶん、もっとちゃんとした時の方がいい。
酔って泣いた夜でもなく。
酔って押し倒しかけた朝でもなく。
もっと、こいつがちゃんと笑ってて、ちゃんと自分で選べる時。
そこまで考えて、ゴイチは小さく息を吐いた。
何考えてんだ、と思う。
自分でも。
でも、否定もしない。
胸の上で寝られた時だって。
昨夜、顔を寄せてきた時だって。
“何でお前の顔なんだよ”なんて寝言みたいに言われた時だって。
何も思ってないわけがない。
ただ、それを今すぐどうこうする気もない。
今はまだ、これでいい。
相棒として、隣にいる。
酔った朝を変に傷つけない。
必要以上に揺らさない。
そのくらいの距離が、たぶんちょうどいい。
少なくとも今は。
ゴイチはテレビを見たまま、もう一度だけコーヒーを飲む。
横ではまだ、カノンが黙っている。
でも、その沈黙が嫌じゃないなら。
朝のこの空気が壊れてないなら。
それでいい、と思う。
“これでいい”
そう思った。
今のところは。
少なくとも、この朝は。
朝のスタジオは、いつも通りに始まっていた。
プライベートで何が起きようと、仕事は容赦なくやってくる。
スタッフの声。
機材の移動音。
床を擦るスニーカー。
流しっぱなしの音源。
鏡の前でストレッチをするメンバーたち。
外から見れば、何も変わらない朝だ。
でも、変わっていないのはたぶん見た目だけだった。
タイキがスタジオに入ってきた時、ルイはすでに中にいた。
壁際で軽く首を回して、肩をほぐしている。
服もいつも通り。
顔も、仕事の顔。
でも、タイキの姿が視界に入った瞬間、ルイの呼吸がほんの少しだけずれた。
「おはよ」
タイキが先に言う。
短い。
でも、かすかにいつもより低い。
ルイはそちらを見て、「おはよ」と返した。
それだけ。
たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥が妙にうるさい。
昨夜のことが、消えていない。
むしろ、寝たことで余計にはっきり残っている。
ヘッドホン。
止まった音楽。
同時に寄った距離。
最初のキス。
“今のが最初”って言った声。
全部が、今朝のルイの中にそのまま残っていた。
タイキも同じだった。
ルイの「おはよ」を聞いただけで、昨夜のキスのあと、少し掠れた声で「俺もやばい」って言った顔まで思い出してしまう。
だから、あまりちゃんと見られない。
見るとたぶん、思い出しすぎる。
しかも、最悪なことに。
昨夜キスをした、あの長椅子が、今日も普通にそこにある。
スタジオの壁際。
何でもない顔で置かれたまま。
昨日と変わらない位置に。
でも、ルイにもタイキにも、もうただの長椅子には見えなかった。
タイキは飲みかけの水を取りに行こうとして、ふとその方向に視線が行きかけて、すぐ逸らす。
(無理)
近寄れない。
いや、近寄れる。
物理的には全然近寄れる。
でも、そこで普通に座ったりしたら、たぶん頭の中に昨夜の全部が一気に戻る。
ルイの方も似たようなものだった。
ストレッチをしながら、なるべく壁際に行かないようにしている自分に気づく。
不自然じゃないように立ち位置を選んでいるのに、内心では
あそこに行くな
って、理性がずっと言っていた。
そんな二人の空気は、周りから見たら微妙に変だった。
近づかない。
でも、視線は行く。
目が合いそうになると、どっちも少しだけ変な間ができる。
タイキは鏡の前に立ちながら、ふと反射したルイの姿を見る。
鏡越しなら少しだけマシだと思った。
でも、その鏡の中でルイが一瞬だけ同じように自分を見ていたことに気づいて、心臓がまた変な音を立てる。
(やめろって……)
自分でもそう思う。
ただの朝だ。
ただのスタジオだ。
今は仕事前だ。
でも身体は全然、ただの朝として処理してくれない。
一方のルイも、かなりまずかった。
タイキが鏡越しに自分を見た。
たったそれだけで、昨夜最後に額を合わせて呼吸を整えた時間まで思い出してしまう。
だから、ルイはほんの少しだけ視線を逸らす。
逃げてるわけじゃない。
でも、今ちゃんと見たらたぶん、普通の顔でいられない。
「ルイ」
スタッフに呼ばれて、ルイは助かったみたいにそちらへ向く。
「はい」
「立ち位置、一回確認しまーす」
「了解」
仕事の声が入ると、少しだけ救われる。
やることがある方がまだマシだ。
でも、その“マシ”の中でも、意識は消えない。
長椅子。
壁際。
昨夜キスした場所。
そして、少し離れたところにいるタイキ。
何もなかった顔でいられるほど、ふたりとも器用じゃなかった。
その少しあとに、カノンとゴイチが並んでスタジオへ入ってくる。
昨日の朝と似ている。
でも、少し違う。
ゴイチは本当にいつも通りだった。
「おはよ」
荷物を置いて、自然にストレッチに入る。
誰に対しても同じトーン。
同じ歩幅。
同じ空気。
昨日、カノンの部屋で飲み直して。
朝、ソファでコーヒーを飲んで。
“酔っ払いの戯言だろ”って逃がして。
頭をぽんと一回だけ叩いて。
“気にすんな、相棒”って言った男とは思えないくらい、いつも通りだった。
それがゴイチらしいといえば、そうだった。
でも、カノンにはその“いつも通り”が妙に眩しかった。
カノンの方は、いつも通りを装っていた。
「おはよー」
声は明るい。
笑顔も作れる。
荷物を置く動きも自然。
でも内側は、全然自然じゃない。
朝のコーヒー。
ゴイチの嘘。
“酔っ払いの時のことは、あんまり気にすんな、相棒”
あの頭の上の一回。
全部が残ったままなのに、隣の男は何でもない顔で靴紐を結び直している。
(何なんだよ……)
そう思う。
でも、その“何なんだよ”の半分くらいは、もう不満じゃなかった。
カノンはなるべく普通に振る舞うために、逆に喋る。
「今日だる…」
「朝って何でこんな眠いわけ?」
「お前、酒残ってんだろ」
ゴイチが即答する。
カノンはそこで少しだけ顔をしかめる。
「うるせぇな」
「水飲んだか」
「飲んだ」
「ならいい」
それだけ。
その短い会話が、逆にカノンには効く。
朝の余韻を持ち込まない。
でも、ちゃんと見ている。
“水飲んだか”って、ただの体調確認みたいに聞く。
そういうところが本当にずるい。
カノンはゴイチの横顔をちらっと見る。
変わらない。
何でもない。
でも、だからこそ、朝のあの時間が本当にあったことが不思議みたいだった。
「何」
ゴイチが気づいて聞く。
カノンはすぐに目を逸らす。
「別に」
「そういうの大体、別にじゃねぇやつだろ」
そう言って笑う。
笑いながらも、胸の奥は静かに騒いでいた。
でも、そのざわめきごと、今はまだこの“いつも通り”の中に置いておくしかない。
ゴイチもたぶん、それをわかっている。
だから普通にする。
普通に隣にいる。
それが、今は一番ありがたかった。
今朝の天気予報の予報通りだった。
頭が痛いくらい、太陽が照りつけている。
スタジオの外。
白く照らされたコンクリート。
照り返しまで眩しい。
夏一歩手前みたいな熱を持った空気の中で、カノンは自動販売機の前に立っていた。
ガコン、と缶コーヒーが落ちる音。
カノンは無言でそれを取る。
冷たい缶を額に当てたい気分だったけど、さすがに人目があるからやめた。
代わりに、スタジオ横の壁へもたれかかるようにして、ずる、と少しだけ項垂れる。
「……っはぁ……」
深く息を吐く。
日差しがきつい。
眩しい。
暑い。
でも、たぶん今いちばんしんどいのは天気のせいじゃない。
(俺……何やってんだ……)
心の中で、朝から何度目かわからないその言葉が落ちる。
ルイに失恋した。
その夜、泥酔した。
朝起きたら隣にゴイチがいた。
あの時のことは、正直ほとんど記憶がない。
覚えてるのは、飲みすぎたことと、頭が痛かったことと、ベッドの横にゴイチがいたことくらいだ。
あとはもう、ぼんやりだ。
でも、昨日は違う。
昨日も泥酔した。
そして、またアイツはうちに居た。
しかも今回は、俺は全部覚えている。
全部だ。
風呂上がりに酒が回ったこと。
よろけたこと。
ソファに倒れ込んだこと。
ゴイチの胸元を掴んだこと。
顔を近づけたこと。
止められたこと。
“それは違うだろ”って言われたこと。
水を飲まされて、そのあと胸の上で寝たこと。
さらに今朝。
“昨日も確かに酔っ払ってたけど、そのまま自分の足でベッド行って寝てたぞ、お前”
あの、あまりにも平然とした嘘。
カノンは缶コーヒーのプルタブを開けながら、空を仰いだ。
眩しい。
眩しすぎる。
(アイツ、何か隠してないよな……)
ぐび、とコーヒーを一口飲む。
苦い。
妙に苦い。
失恋会した夜。
本当に何もなかったんだよな……?
その疑問が、朝からずっと頭の片隅で暴れている。
だっておかしいだろ、と思う。
あの時だって、朝起きたら隣にいたんだ。
しかも自分はほとんど記憶がない。
で、今回は全部覚えてるうえで、“酔っ払いの戯言だろ”で逃がされた。
じゃあ前回も――
「うわぁぁぁ……」
声に出しかけて、寸前で飲み込む。
缶を持ったまま頭を抱える。
(あ〜〜
聞く勇気ねぇーー)
ほんとに、それだった。
聞けばいいのかもしれない。
“前も何かあった?”って。
“俺またなんかやらかしてた?”って。
でも、もし聞いて。
“あった”
なんて返ってきたらどうするんだ。
いや、なくても困る。
でも、あっても困る。
どっちに転んでも、自分だけが大事故である。
晴天の空の下、スタジオは賑やかに日常を進めている。
スタッフは荷物を運んでいるし、遠くでは誰かが笑っているし、搬入口の方からは音源チェックの音も聞こえてくる。
世界は平和だ。
たぶん自分以外は。
その中で、ひとりだけ頭を抱えているカノン。
(落ち着け、俺)
カノンは壁にもたれたまま、自分に言い聞かせる。
(まず整理しよう)
整理。
いい言葉だ。
今の自分に一番必要なやつな気がする。
(失恋会の夜)
(俺、記憶ない)
(朝、隣にゴイチ)
(昨日の夜)
(俺、記憶ある)
(ソファで事故る)
(ゴイチ止める)
(朝、ゴイチ嘘つく)
ここまで並べて、カノンは缶コーヒーを握ったまま遠い目になった。
(いや整理したら余計やばいな???)
おかしい。
全然落ち着かない。
脳内で勝手に再生される。
パターンA:何もなかった説
→ ゴイチはほんとに相棒で、ただ泊まっただけ。
→ じゃあ昨日の嘘は何?
→ 優しさ?
→ 優しさすぎて逆に怖い。
パターンB:何かあったけど黙ってる説
→ 最悪。
→ 何が最悪って、自分だけ覚えてないこと。
→ しかもゴイチが何もなかった顔してること。
→ いや待て、それ逆に大人すぎるだろ。
→ 何その男。
パターンC:俺が毎回泥酔するとゴイチに寄ってる説
→ それが一番嫌だ。
→ いや嫌というか、死にたい。
→ なんで酔うと本能に忠実になるんだよ俺。
「むり……」
小さく漏れる。
そして、その“むり”の一番中心にあるのは、実は一つだけだった。
(なんで、ゴイチなんだよ……)
ルイじゃなくて。
過去の未練でもなくて。
今こうやって頭を抱えてる理由の中心にいるのが、ゴイチだってこと。
それがもう、だいぶ意味わからない。
カノンは缶をもう一口飲んで、そのまま首の後ろを壁に預けた。
(いや待て)
(逆に俺、聞いたら終わるタイプじゃない?)
“前もなんかあった?”
なんて聞いた瞬間、ゴイチがもし、
「何でそんな気になるんだよ」
とか返してきたらどうする。
(いや、返してきそう〜〜〜!)
両手で顔を覆いたくなる。
(落ち着け)
(とりあえず今日は普通にしろ)
(普通にして、普通に仕事して、普通に笑って……)
そこまで考えたところで。
「何してんだ、お前」
真横から、低い声が落ちた。
「ぅわっ!?」
カノンが本気で肩を跳ねさせる。
見れば、ゴイチがすぐ隣に立っていた。
いつもの顔。
いつものTシャツ。
片手にはスポドリ。
もう片方の手はポケットに突っ込んでいる。
何でもない顔。
何でもない顔すぎる。
それが今のカノンには一番心臓に悪かった。
「びっくりした……!」
「いや、お前が勝手に驚いてるだけだろ」
「気配消すなよ!」
「消してねぇよ」
ゴイチはそこで少しだけ眉を上げた。
「つーか何だ、その顔」
「もう暑さでやられてんのか」
「やられてねぇし」
即答したつもりが、ちょっと上ずった。
ゴイチの目が、ほんの少しだけ細くなる。
見てる。
ちゃんと見てる。
カノンの脳内で警報が鳴る。
(やばい、今のは不自然!)
(いやでも不自然じゃない朝って何!?)
(そもそも俺、今ゴイチ相手に自然って何!?)
「……コーヒー買ってただけ」
どうにか絞り出す。
ゴイチは「へぇ」とだけ返して、カノンの持ってる缶を見る。
「ブラック飲めんの」
「飲めるわ」
「顔は全然飲めてないけど」
「何その顔情報」
ゴイチはそこで小さく口元を上げた。
「二日酔い顔」
それを言われて、カノンはぐっと言葉に詰まる。
図星だ。
でも、それだけじゃない。
二日酔いだけなら、まだマシだった。
「……うるさいな」
「水飲めよ」
「飲んでる」
「足りてねぇ顔してる」
「だから何その顔情報!」
カノンが軽く噛みつくと、ゴイチはスポドリを少し持ち上げた。
「飲むか」
「いらない」
「強がんな」
そう言って、キャップを開けて差し出してくる。
その自然さがまた腹立たしいくらい優しい。
カノンは数秒だけ睨むみたいに見て、それから観念したように受け取った。
「……ありがと」
「ん」
短い返事。
何でもない。
何でもない会話。
でも、何でもないわけがない。
カノンはスポドリを飲みながら、横目でゴイチをちらっと見る。
やっぱり普通だ。
今朝、頭をぽんとした男と同一人物とは思えないくらい普通だ。
それがもう本当に意味がわからない。
ゴイチはその視線に気づいて、少しだけ首を傾げた。
「何」
カノンは一瞬だけ“今だ”と思う。
聞くなら今かもしれない。
外だし。
明るいし。
最悪、スタッフが来て話は流れる。
でも。
「……いや」
結局、逃げた。
ゴイチは数秒だけカノンを見ていたけど、それ以上は追わなかった。
「そうかよ」
それだけ。
その一言が、今のカノンには逆に助かる。
追及されたら終わってた。
脳内が。
(危なっ……)
カノンは内心でそっと胸を押さえた。
ゴイチは壁にもたれたまま、空を見上げる。
「今日、暑くなるらしいな」
「……今それ言う?」
「天気予報でやってた」
「朝のニュースと同じテンションで喋るなよ」
「お前が朝から重いんだよ」
「っは?」
その返しに、カノンは思わず目を見開く。
ゴイチはそこでようやく、ちゃんと笑った。
意地悪でもなく、でも少しだけ楽しそうに。
「顔に出てんの」
カノンはそこで言葉を失って、それからぐしゃっと顔をしかめた。
「……最悪」
「自覚あんじゃん」
「お前のせいだろ」
「何で俺のせいなんだよ」
「なんでも!」
ほとんど逆ギレみたいに返すと、ゴイチは本気で少しだけ呆れた顔になった。
でも、その顔すら今のカノンには刺さる。
(だめだ)
(無理だ)
(こいつが普通なほど俺だけおかしい)
晴天の空の下。
スタジオの日常は相変わらず騒がしく進んでいて、その中でカノンの脳内だけが一人、完全にパニックだった。
そしてその中心には、今日もやっぱりゴイチがいた。
自販機前でゴイチと別れて、カノンはスタジオの搬入口の方へ向かって歩き出した。
日差しは相変わらず強い。
缶コーヒーの冷たさはもうほとんど消えていて、代わりに頭の中だけがずっと熱い。
足は前に出てる。
でも思考は、さっきから同じところをぐるぐる回っていた。
(いくらでも言い様あるだろ……)
歩きながら、心の中で吐き捨てる。
(いつもみたいにふざけて、
お前タコみたいな顔してキスしようとしてきた〜とか、なんとか)
それくらい言えただろ、と思う。
ゴイチなら。
茶化して。
笑って。
“酔っ払いってほんと怖ぇな”くらいで流して。
そういう逃がし方だって、いくらでもあったはずだ。
なのに、あいつはそれをしなかった。
酔っ払いの戯言だろ。
あの言い方。
軽いようで軽くない。
笑いにしきらない。
でも、真面目にもしすぎない。
その絶妙さが、今になって余計に腹立たしい。
(なんで隠そうとするんだよ……)
カノンは項垂れたまま、小さく息を吐いた。
いや、違うかもしれない。
隠そうとしてるんじゃなくて、ただ自分が気まずくならないように逃がしてくれただけかもしれない。
でも、どっちにしろそれが余計に気になる。
はっきり笑い飛ばしてくれた方が、まだこっちも“はいはい酔ってました〜”で済ませられた。
あんなふうに静かに処理されると、逆に全部残る。
「うわぁ……」
小さく声が漏れる。
すると急に、別の案が頭に浮かぶ。
(……それか、あれか!)
歩きながら、カノンはほんの少しだけ顔を上げる。
(俺、昨日思い出したわ〜って言って、
酒飲むとキス魔になるとはな〜とかなんとか言って、誤魔化せばいいのか!)
少しだけ希望が見えた気がした。
そうだ、それならいけるかもしれない。
酔うと距離感バグるタイプだったわ俺〜、みたいなノリで。
軽く。
あくまで軽く。
ゴイチ相手なら、たぶんそれでも拾ってくれる。
「……」
数歩歩いて、カノンの顔がまた死んだ。
(いや……無理がある……)
自分で思う。
無理だ。
酒の勢いで顔近づけただけなら、まだその路線もいけた。
でも昨日の自分は、もっと最悪だった。
確認したいことがある。
言った。
はっきり言った。
それを、自分はちゃんと覚えている。
「っあ〜〜……」
片手で顔を覆いたくなる。
でも今ここスタジオ外だし、誰かに見られたらそれはそれで終わる。
だからギリギリで耐える。
(確かめたいって言っちまった……)
確認。
それってもう。
好きかどうか確認したい、ってことじゃねぇか……
その言葉が、自分の頭の中であまりにもはっきりした形になる。
カノンはその場で一回ほんの少しだけ立ち止まりかけて、また歩き出した。
(どうすんだ……俺……)
本気で、それだった。
ルイに失恋したのは事実。
でも、そのあとに自分の中で何が動き始めてるのかを、今さら認めるのがしんどい。
しかも相手がゴイチ。
あの、何でもない顔でスポドリ差し出してくる男。
朝、頭をぽんとして“気にすんな、相棒”とか言う男。
全部わかった上で、わざと軽く処理する男。
そんなの、気になるに決まってる。
カノンはとぼとぼとスタジオへ戻る。
背中が少し丸まっている。
歩幅もいつもより狭い。
まるで本当に何かを失って帰ってきた屍みたいだった。
しかも本人に自覚があるのが、また救えない。
(終わった……いや終わってない……
むしろ始まってんのか……?
うわ無理……考えたくねぇ……)
頭の中だけが、ずっとひとりで騒がしい。
⸻
そんなカノンの背中を、スタジオの入口付近からアダムが見ていた。
目を細める。
数秒、無言。
それから、ちょうど横を通ったゴイチに小さく声をかける。
「何あの屍。飲み過ぎ?」
ゴイチは歩きながら、ちらっとカノンの後ろ姿を見た。
たしかに屍だった。
肩が落ちてる。
足取りが重い。
しかも顔まで死んでる。
「まぁ、たぶんそれもある」
ゴイチが何でもない顔で答える。
アダムはその返しを聞いて、少しだけ眉を上げた。
「それ“も”なんだ」
「知らん」
ゴイチは肩をすくめる。
「朝からひとりで忙しそうだった」
「へぇ」
アダムはもう一度カノンを見る。
スタジオへ戻る背中が、明らかに“普通の二日酔い”ではない。
もっとこう、内臓じゃなく心がやられてるやつの歩き方だ。
「面白いね」
「面白がるなよ」
「だって面白いじゃん」
アダムは静かに言う。
「魂三分の一くらい置いてきた顔してる」
その表現に、ゴイチは思わず少しだけ笑った。
アダムはまた平然と前を向く。
ゴイチは小さく息を吐いたあと、遠くのカノンに向かって声をかけた。
「おーい、屍」
カノンがぴたりと止まる。
振り返る。
「誰が屍だ!」
返ってきた声はちゃんと元気だった。
アダムが小さく頷く。
「三分の一くらい戻った」
「アダムまでなんなの!?」
その返しに、スタジオの空気が少しだけ笑いに揺れる。
カノンは不本意そうな顔をしながらも、少しだけいつものテンポを取り戻したように見えた。
ゴイチはそれを見て、目立たないくらいにほんの少しだけ口元を緩める。
アダムはそれも見ていたけど、何も言わなかった。
ただ、静かに一つだけ思う。
今日は空気がちょっとうるさい。
でも、悪くない。
そんな午後だった。
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いやもう……読み終わってしばらく動けなかったんですけど……😭💔 カノンの「全部覚えてる」っていう苦しみと、ゴイチの「酔っ払いの戯言だろ」っていう逃がし方、その裏にある優しさが刺さりすぎて……。あの朝の空気感とか、スタジオで普通を装うふたりの距離感とか、細かい描写がもう本当にずるいです。ゴイチが「水飲め、水!」って押し付けるところも、頭ポンするところも、全部優しさで泣ける。カノンの「なんでゴイチなんだよ」って心の叫び、わかる……わかるよ………… 次が気になりすぎて息できません。ありがとうございます、大事に読みます🤍🥀