テラーノベル
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午後のスタジオは、相変わらず賑やかだった。
音源の確認をしているスタッフ。
鏡の前で立ち位置を直しているメンバー。
アダムの「屍」発言から何とか人間の顔に戻りつつあるカノンは、まだ完全には復活しきれていなかった。
スポドリを片手に、ようやく息を整えて。
でも頭の中ではまだ、朝のコーヒーとゴイチの嘘がぐるぐるしている。
(頼むから今日はこれ以上、何も起きるな……)
そう思った矢先だった。
スタジオの扉が勢いよく開く。
「カノン!」
その声だけで、空気が一瞬そっちを向く。
雛子だった。
相変わらず忙しそうだ。
ジャケットの裾を揺らして、ヒールの音を鳴らしながらスタスタと入ってくる。
片手には分厚い資料の束。
もう片方にはスマホ。
その目は完全に仕事モードだ。
一直線にカノンの前まで来る。
「案件!」
一拍。
「え」
カノンが間の抜けた顔で返す。
雛子はそんな反応を一切気にしない。
むしろカノンの顔を上から下まで一瞬で見て、すぐに眉を寄せた。
「何、その顔。ひっどいわね」
カノンが少しだけ目を見開く。
「いきなり悪口?」
「悪口じゃない。事実よ」
雛子は容赦なく言う。
「美形男子が台無し」
「ちゃんとしなさい。顔も売りなのよ、あなたたちは」
「いや、知ってるけどさ……」
「はい、聞いて」
にしても、屍から戻り切らないカノン。
雛子が資料の束でカノンの胸を軽く叩く。
「あ、ん、け、ん!仕事!」
一語ずつ区切って言ってから、少しだけ口角を上げた。
「映画!」
スタジオの空気が、そこでほんの少しだけ変わる。
カノンの表情が止まる。
「……え」
今度は、さっきよりずっと真顔だった。
雛子はそんなカノンを見て、やっと少しだけ満足そうに頷く。
「その顔よ、それ」
「やっと頭まで届いたわね」
資料を一番上からめくって、早口で説明が始まる。
「若手監督の新作。配給も悪くない。企画は前から動いてたやつ」
「オーディション形式も一応通したけど、向こうが最後にあなたを推した」
「映像資料と、ライブでの表情、あとインタビューの言葉の置き方」
「“あなたは目に残る”って」
カノンが資料を受け取る。
重い。
紙の重さじゃない。
言葉の重さだった。
映画。
その二文字だけで、昔の自分が一瞬で喉の奥まで戻ってくる。
俳優志望だった頃。
鏡の前で台本を読んだこと。
うまくいかなくて、でも諦めきれなかった時間。
歌とダンスに進みながらも、どこかでずっと心の端に残っていた場所。
#ご本人様とは一切関係ありません
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#ご本人様とは一切関係ありません
あんにんどう腐(ゆ腐)
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#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
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「主演候補」
雛子がさらっと言う。
カノンの目が、そこでようやく本当に揺れた。
「……は?」
「だから、主演」
雛子はさらりと繰り返す。
「相手役とのバランスを見たうえで、最終的にあなたでいきたいって」
「もちろん、正式決定までは詰めるけど、ほぼ本線」
「いや……ちょ、待って……」
カノンが資料を抱えたまま、完全に追いつけていない顔になる。
雛子はそんなことお構いなしにページをめくる。
「撮影は来期頭に入る予定。今のうちに演技レッスン増やす」
「スケジュールはグループ仕事と調整。台本はまだ決定稿じゃないけど、役どころはかなりいい」
「あなたに合ってる。繊細さと軽さが両方必要な役」
カノンは何も言えない。
真顔のまま、資料だけ見ている。
でも文字があまり頭に入ってこない。
主演。
映画。
自分。
その並びが、まだ現実味を持たない。
少し離れたところで、アダムが小さく目を細めた。
ゴイチも一瞬だけ動きを止める。
ルイとタイキも、自然とそちらを見た。
雛子はそこで一度だけ資料を閉じる。
「カノン」
名前を呼ぶ。
カノンが顔を上げる。
雛子の目は、仕事の目だった。
でも、その奥にはちゃんと、カノンの過去も今も知ってる人間の色があった。
「取りに行きなさい」
短い一言。
それだけで、カノンの喉が小さく鳴る。
冗談じゃない。
煽りでもない。
本当に、“これは取りに行く仕事よ”って言われている。
カノンは資料を抱えたまま、少しだけ息を吸った。
でも、まだうまく何も言えない。
「え……」
ようやく出たのは、そんな情けない声だった。
雛子は少しだけ笑った。
「何その反応」
「もっとこう、“ありがとうございます!”とかないの?」
「いや……だって……」
「だって、じゃない」
「やりたかったんでしょ」
その時だった。
雛子がふと思い出したみたいに、また資料の端をぱらっとめくる。
「あ、それから」
カノンの目がまたそっちへ向く。
雛子はごく普通のテンションで続けた。
「シナリオは青春に恋愛もあり」
「多少の絡みは覚悟しなさいね。まだ台本はこれからだけど」
一拍。
「ファンが跳ね上がるわね」
そう言って、ふっと笑う。
その言い方があまりにも軽くて、カノンは逆に固まった。
「……マジか……」
ぽつりと漏れる。
さっきまで主演の衝撃で埋まっていた頭の中に、今度は別方向の現実が流れ込んでくる。
映画。
主演。
青春。
恋愛。
ファンが跳ね上がる。
いや、そりゃそうだ。
自分だって想像できる。
公開された瞬間のSNS。
切り抜かれる予告。
騒ぐファン。
それを横目にたぶん真顔になるメンバーたち。
「覚悟しときなさい」
雛子は最後にそう言って、資料をカノンの胸へしっかり押しつけた。
「あなた、そういう時こそ強いから」
その言葉だけを置いて、またヒールの音を鳴らしながらスタジオの奥へ消えていく。
「あと顔どうにかしなさいよー!」
最後に飛んできたその声だけが、やけにいつもの雛子だった。
静かになる。
さっきまで賑やかだったスタジオの音が、またゆっくり戻ってくる。
でも、カノンだけがそこに立ち尽くしていた。
資料を胸に抱えたまま。
目だけ少し見開いて。
まだ現実についていけてない顔で。
「……マジか……」
今度はもう少し小さく、でもちゃんと本音で漏れる。
失恋だの。
泥酔だの。
ゴイチの嘘だの。
朝から脳内パニックで散々だったのに。
そこへ飛んできたのは、映画主演。
しかも、恋愛あり。
カノンは資料を見下ろす。
それから、何でもない顔でストレッチしているゴイチの方を、ちらっとだけ見た。
(いや、今それどころじゃねぇんだけど……)
そう思うのに。
頭の片隅ではちゃんと、別の意味でも心臓が忙しい。
夢だったはずのものが、急に手の届くところまで来た。
その現実と。
まだ整理できてない自分の感情と。
両方を抱えたまま、カノンはしばらくその場から動けなかった。
雛子が去ったあとも、カノンはしばらく動けなかった。
資料を胸に抱えたまま。
さっきまで屍みたいな顔してた男とは思えないくらい、今度は別の意味で魂が抜けている。
映画。
主演。
青春。
恋愛あり。
頭の中で、その単語だけが何度も反響していた。
「……マジか……」
もう一回、小さく漏らす。
そのタイミングで、横からひょいと影が差した。
「映画?」
ゴイチだった。
何でもない顔。
本当に、びっくりするくらい何でもない顔で、カノンの持ってる資料をちらっと見ている。
カノンの肩がびくっと揺れる。
「うわっ」
「何だよ、またそんな驚き方すんの」
「いや、急に来んなって……」
言いながら、カノンは妙に資料を抱え直してしまう。
その動きがすでに怪しい。
ゴイチはそんなカノンを見て、少しだけ眉を上げた。
「単独のやつ?」
「……うん」
「へぇ」
ゴイチはそこで、資料より先にカノンの顔を見た。
「主演?」
カノンの喉が小さく鳴る。
「……たぶん」
「たぶんって何だよ」
「いや、まだ細かいの詰めるって言ってたけど」
「でも、ほぼ本線……らしい」
そこまで言うと、ゴイチの目がほんの少しだけやわらぐ。
「すげぇじゃん」
その一言が、思っていたよりまっすぐで、カノンの胸の奥にじわっと入る。
いつもみたいに茶化さない。
「俳優様」とか言ってくるかと思ったのに、最初に出たのはちゃんとすげぇじゃんだった。
それだけで、少しだけ救われる。
……はずなのに。
カノンの頭の中では、別の一文が勝手に再生される。
シナリオは青春に恋愛もあり。多少の絡みは覚悟しなさいね。
(うわ)
ゴイチが普通に「すげぇじゃん」って言えば言うほど、カノンの脳内ではその一文が太字になっていく。
映画。
主演。
ヒロイン。
恋愛。
絡み。
(いやいやいやいや)
何で今ここで、そこまで再生されるんだよと自分で思う。
でも止まらない。
もしゴイチがこのあと、
「どんな話なんだ?」
とか、
「ラブ要素あるやつ?」
とか、
普通に聞いてきたらどうする。
(いや、あるんだよ!
あるけど言いたくねぇんだよ今!)
カノンは心の中で勝手に荒れる。
一方のゴイチは、本当に普通だった。
「いつから?」
「まだ先」
「でもレッスン増えるかも」
「そっか」
頷いてから、ゴイチは資料の端を指さした。
「読んだ?」
「……まだ」
「読めよ」
「今読もうとしてたとこだし」
「その顔で?」
「どの顔だよ」
「情報量多すぎて死にかけの顔」
図星すぎてカノンは反論に一瞬詰まる。
「……うるせぇ」
ゴイチは少しだけ口元を上げた。
「でも、よかったじゃん」
「やりたかったんだろ、そういうの」
その言い方が、あまりにも何でもなくて。
でも、ちゃんとわかって言ってる感じがして。
カノンの中で、また胸が少し鳴る。
俳優志望だったこと。
その夢がどこかにずっと残ってたこと。
たぶん、前にちゃんと話したことを覚えているからこその声だった。
「……うん」
今度は、ちゃんと頷けた。
でもその直後、また脳内に別のテロップが流れる。
下手したら、ファンが跳ね上がるわね
(やめろ雛子)
カノンは資料を持つ手に少しだけ力を入れた。
ゴイチがそれに気づいたのか、少しだけ首を傾げる。
「何だよ」
「いや……」
「いや、じゃわかんねぇだろ」
「なんでもない」
「出た」
ゴイチはそこで少しだけ笑った。
「今日のお前、なんでもないが全然なんでもなくない」
その返しに、カノンは思わず「うっ」と変な声を飲み込む。
(いや、だってお前が普通なんだもん……)
(普通に“すげぇ”とか言うし……)
(そのうえもしこの先、恋愛要素の話になったら俺だけ変なとこで詰むし……)
脳内だけが忙しい。
ゴイチはそんなカノンを数秒見て、それ以上追わなかった。
「まあ、ちゃんと読んでこいよ」
軽くそう言って、肩をぽんと一回だけ叩く。
その一回がまた妙に効いてしまって、カノンは思わず資料で顔を隠したくなった。
「……おう」
やっとそれだけ返す。
ゴイチは何でもない顔でそのまま離れていく。
それを見送りながら、カノンは心の中で本気で思った。
(今、恋愛ありのこと言わなくてよかった……)
でも同時に、こうも思う。
(いや、そのうちバレるじゃん……)
そして、まだ台本も来ていないくせに、なぜか勝手に胸の奥がざわついていた。
⸻
それから数日後。
スタジオの一角、少しだけ人の少ないスペースで、カノンは一人書類に目を通していた。
白い紙。
黒い文字。
作品概要。
役の説明。
監督コメント。
関係図。
雛子から「とりあえずあらすじと初期プロットだけ先に共有きた」と渡されたものだ。
朝から何度も開いては閉じて、でも結局まだちゃんと読み切れていなかった。
今は、少しだけ落ち着いて読める時間。
カノンは椅子に座って、肘を膝に置くみたいな体勢で一ページずつめくる。
物語は、思っていた以上にちゃんとしていた。
青春。
進路。
すれ違い。
音楽。
仲間。
家族。
そして恋愛。
軽いラブコメじゃない。
ちゃんと人の感情が揺れる話だった。
その真ん中に、自分が立つ。
カノンは読めば読むほど、少しずつ表情が真面目になっていく。
これ、面白いかもしれない。
いや、面白いじゃなくて。
たぶんちゃんと、やりがいがある。
役の内面も細かい。
セリフ回しも、言葉にしないところが多い。
目線や間で見せる芝居が必要になるタイプだ。
「……うわ」
小さく声が漏れる。
これは、逃げられないやつだ。
ちゃんと向き合わないと成立しない役だ。
その時だった。
次のページをめくったカノンの指が、ぴたりと止まる。
そこに、箇条書きの形で書かれた“重要シーン案”が並んでいた。
・中盤、雨の帰り道での告白シーン
・終盤、再会後の抱擁
・クライマックス前、ヒロインとのキスシーン
「…………は?」
本当に、声が出た。
視線がその一行に固定される。
ヒロインとのキスシーン
見間違いじゃない。
書いてある。
ちゃんと、書いてある。
カノンは瞬きを忘れたみたいに、その文字を見つめた。
「うそだろ……」
ぽつりと漏れる。
いや、うそじゃない。
紙に書いてある。
公式に。
作品の流れとして。
重要シーン案のひとつとして。
映画だ。
恋愛あり。
多少の絡みは覚悟しろ。
雛子が言っていたことが、いきなり現実の形を持つ。
キスシーン。
その四文字が、妙に生々しい。
カノンは無意識に資料を持つ手を少し下げた。
代わりに、空いた手が口元へ行く。
(マジか……)
頭の中に、昨日までとは別の方向のざわめきが広がる。
演技だ。
仕事だ。
作品の一部だ。
わかってる。
そんなの、わかってる。
でも。
キスシーン。
その言葉が、今の自分には妙に引っかかる。
理由を考えた瞬間、もっと面倒だった。
浮かぶ顔があるからだ。
ゴイチ。
「……っ」
カノンはそこで思わず資料を閉じかけて、でも閉じきれずに止まる。
何でここでゴイチなんだよ、と思う。
ただの仕事だろ。
映画だろ。
主演だろ。
むしろ夢だった仕事が来てるのに、そこへ余計な感情を混ぜるなよって、自分で自分に言いたくなる。
でも止まらない。
もしこの話をゴイチにしたら。
“キスシーンあるらしい”なんて言ったら。
あいつ、どんな顔するんだろう。
何でもない顔で
「仕事だろ」
って言うかもしれない。
あるいは、少しだけ黙るかもしれない。
そこまで想像して、カノンは本気で頭を抱えたくなった。
「終わってる……」
小さく呟く。
俳優の仕事が来て、最初にそこを考える自分が終わってる。
でも、それが今の本音だった。
夢だった仕事。
しかも主演。
ちゃんと嬉しい。
嬉しいに決まってる。
それなのに、その真ん中にある“キスシーン”の一行だけが、やけに心臓を騒がせる。
カノンはもう一度、ゆっくりその文字を見た。
ヒロインとのキスシーン
逃げられない。
たぶん、ちゃんとやることになる。
そう思った瞬間、胸の奥でまた別の意味の覚悟が少しだけ固まる。
俳優をやるなら、そこから逃げるわけにはいかない。
でも同時に。
(……ゴイチ、何て言うかな)
そう思ってしまう自分も、もう止められなかった。
資料を胸の前に抱え直して、カノンはしばらくその場に立ち尽くす。
夢が動き出す時って、もっとまっすぐ嬉しいだけのものだと思っていた。
でも今の自分は、嬉しさと、緊張と、妙なざわつきと、全部がごちゃ混ぜだった。
そしてたぶん、そのごちゃ混ぜの中には、ちゃんと“恋”も混ざっている。
それを認めるのが、いちばん面倒だった。
午後のスタジオは、朝より少しだけ落ち着いていた。カノンだけずっと忙しそうにしていたけど、ルイとタイキはいつもよりも静かだった。
リハの前に、届いたばかりのデモ音源を確認する時間。
スタッフが機材の前で何やら話していて、メンバーはそれぞれ壁際や椅子に散っている。
その中で、ルイとタイキはモニター用のスピーカー前に並んでいた。
厳密には、並ぶというより。
ひとつの音を一緒に聞くために、自然と距離が寄った形だった。
「ここ、サビ前」
スタッフが言う。
「一回だけ確認して」
ルイが機材側に少し身を寄せる。
タイキも同じタイミングで、音を逃さないようにほんの少しだけ近づいた。
近い。
肩が触れそうで触れない。
腕の熱が、服越しにわかりそうな距離。
タイキの心臓が、そこで一気にうるさくなる。
(やば……)
昨日のキスの余韻が、全然消えていない。
夜のスタジオ。
止まった音楽。
同時に寄った顔。
“今のが最初”って言ったルイの声。
その全部が、今のこの“ただ近いだけ”の距離に一気に戻ってくる。
スピーカーから流れるデモ音源はちゃんと耳に入っている。
でも、意識の半分以上はルイの方に持っていかれていた。
ルイの横顔。
少しだけ伏せた睫毛。
仕事の顔で音を聞いているのに、昨日触れた唇の記憶だけが変に近い。
タイキは視線を前へ固定したまま、どうにか呼吸を一定にしようとする。
隣のルイは、一見何でもない顔だった。
でも本当は、ルイもかなりまずかった。
デモ音源に集中している。
しているはずなのに、タイキが隣にいるだけで、昨日の夜の熱が静かに戻る。
しかも今のタイキは、病み上がりの弱さじゃなくて、ちゃんといつもの顔に近い。
そのぶん余計に、昨夜のキスが“事故じゃなかった”ことを思い出させる。
スタッフが「ここ、どう?」と聞いてくる。
「悪くないです」
ルイがすぐ返す。
声はいつも通りだ。
でも、その声がタイキにはやけに近く聞こえる。
音源が一度止まる。
ほんの短い静けさ。
スタッフが隣の機材側へ視線を移した、その一瞬だった。
ルイがほんの少しだけ身体を傾ける。
そして、タイキの耳元にだけ届く声で、静かに言葉を落とした。
「……次のオフ、ふたりで出かける?」
タイキの呼吸が止まる。
その声は、他の誰にも聞こえない。
本当に、タイキにしか届かない秘密のトーンだった。
柔らかい。
でも、曖昧じゃない。
誘ってる。
ちゃんと。
タイキは目を上げられないまま、小さく喉を鳴らす。
「……今?」
掠れそうになる声を、どうにか押し留めて返す。
ルイは正面を向いたまま、ほんの少しだけ口元を動かした。
「今、聞いとかないと」
「流れそうだから」
その返し方まで、やけにルイらしくて、タイキの胸の奥がまた静かに鳴る。
タイキは視線をスピーカーに向けたまま、できるだけ平静を装って言う。
「……行く」
小さな返事。
でも、その一言で充分だった。
ルイの目元がほんの少しだけやわらぐ。
「LINEで候補送る」
低く、でも優しい声。
「タイキも考えておいて」
そこまで言ったところで、スタッフがまた戻ってくる。
ルイは何事もなかったみたいに顔を上げた。
「すみません、もう一回頭からいいですか」
完全に仕事モードへ戻っている。
さっきまで耳元に秘密を落としていた人間と同じとは思えないくらい自然な切り替えだった。
タイキはその横顔を見て、内心で小さく息を吐く。
(ずる……)
でも、そのずるさが嫌じゃない。
ルイはもうタイキを見ていない。
スタッフの方を向いて、音の確認へ意識を戻している。
それなのに、さっきの「ふたりで出かける?」だけが、耳の奥にずっと残っていた。
⸻
デモ確認が終わって少しばらけたあとも、タイキの心臓はなかなか静かにならなかった。
次のオフ。
ふたりで。
どこ行くか考えておいて。
たったそれだけのやり取りなのに、やけにうれしい。
しかも、ルイの方から言った。
あんな静かな声で。
あんな秘密みたいな聞き方で。
タイキはスマホをポケットの中で軽く握った。
行ってみたいところ、か。
考え始めると、少し困る。
何でもいいわけじゃない。
でも、変に気取った場所も違う。
ルイと二人で行きたい場所。
頭の中に、いくつか浮かぶ。
レコード店はもう行った。
水族館みたいなベタすぎるところは、一瞬だけ過ぎって恥ずかしくて消し去る。
映画館は暗すぎて、たぶん今は余計なこと考える。
歩けて。
話せて。
でも、話さなくても少し間が持つところ。
タイキはそこで、ふと一つ思い浮かぶ。
展望台。とか?
高い場所。
街が見えて…
ルイはたぶん、景色を見ながら黙ってる時間も平気だ。
タイキも、無理に喋らなくて済む。
そのうえ、帰り道がちゃんとある。
そこまで考えて、タイキは少しだけ口元を緩める。
(……ありかも)
休憩の合間に、スマホを開く。
ルイからはまだ何も来ていない。
でも、先に返したくなった。
短く打つ。
俺は展望台とか気になる
景色見るだけでも、たぶん落ち着く
少し迷って、もう一文。
ルイが嫌じゃなければ
送信。
画面を閉じた瞬間、また少しだけ心臓が鳴る。
数秒後。
ルイのスマホが、少し離れた位置で震えた。
ルイはスタッフと話しながらそれに気づいて、ほんの一瞬だけ画面を見た。
“俺は展望台とか気になる
景色見るだけでも、たぶん落ち着く
ルイが嫌じゃなければ”
その文面を見た瞬間、ルイの目元がほんの少しだけやわらいだ。
嫌じゃないどころか、かなりいいと思う。
タイキらしい選び方だとも思う。
話しすぎなくてよくて、でも一緒にいる意味がちゃんとある場所。
ルイはすぐには返信しない。
仕事中だから、というのもある。
でもそれ以上に、その提案がうれしくて、一回ちゃんと胸の中へ落としたかった。
視線を上げる。
少し離れたところで、タイキが何でもない顔をしようとしてる。
でも、送ったあとの微妙な落ち着かなさだけは隠しきれていない。
ルイはその顔を見て、小さく息だけで笑った。
次のオフ。
また、ふたりで出かける。
その約束が、午後のスタジオの空気を昨日までとは少し違うものにしていた。
ルイは、スタッフとの短いやり取りを終えたあとで、もう一度だけスマホを見た。
俺は展望台とか気になる
景色見るだけでも、たぶん落ち着く
ルイが嫌じゃなければ
画面の文字は短いのに、妙にタイキらしかった。
派手じゃない。
でも、ちゃんと二人でいる時間を考えて選んでる。
喋りすぎなくてもいい場所。
黙って景色を見ていても、変じゃない場所。
ルイは小さく息を吐く。
展望台。
いいと思った。
しかも、今のタイキに合ってる。
病み上がりで、まだ少しだけ無理はさせたくない。
電車で人混みに揉まれるより、そっちの方がいい気がした。
ルイは親指を動かす。
少しだけ考えてから、打った。
いい
そしたら車で行こう。
それだけ。
余計な飾りも、照れ隠しも入れない。
でも、その短さの中に“ちゃんと行く気でいる”感じがまっすぐ入っていた。
送信。
画面が切り替わる。
ルイはそのままスマホを伏せる前に、少しだけ遠くのタイキを見る。
まだこっちを見てはいない。
でも、たぶん返信を待ってる。
その横顔が、少しだけ落ち着かない顔をしていて、ルイは目元だけでほんの少し笑った。
⸻
少しして。
タイキのスマホが震えた。
反射みたいに画面を見る。
ルイからの返信。
いい
そしたら車で行こう。
その文字を見た瞬間、タイキの呼吸が一拍止まる。
「……は?」
ほんの小さく、声が漏れた。
車。
思ってなかった。
展望台、という返しに対して、“いい”だけでも充分だったのに。
その次にさらっと車で行こうが来る。
それだけで一気に現実味が増す。
助手席。
二人きり。
夜の道。
流れる音楽。
ルイの運転する横顔。
そういうのが、一瞬で頭に浮かんでしまって、タイキは慌ててスマホを少し伏せた。
(やば……)
展望台より先に、車の方に心臓が反応した自分が悔しい。
でも、たぶんルイはそこまでわかってない顔で送ってる。
それもまた、ずるい。
タイキは少しだけ唇を噛んでから、もう一度画面を見た。
そしたら車で行こう。
言い方が自然すぎる。
前からそうするつもりだったみたいに。
でも、その自然さの裏にはちゃんと、タイキの体調とか、人混みとか、そういうのまで考えてる感じがする。
そこまで思って、胸の奥がまた静かに熱くなる。
ルイはたぶん、そういうところでちゃんとやさしい。
それを、今のタイキはもうごまかせない。
少し考えてから、返信を打つ。
“了解
助手席でちゃんと大人しくしてる”
送ってから、少しだけ間。
それだと軽すぎる気がして、もう一文。
“……ちょっと楽しみ”
送信した瞬間、自分で耳が熱くなる。
何を素直に言ってるんだと思う。
でも消したくはなかった。
⸻
ルイのスマホが、また小さく震えた。
ルイはすぐには見ない。
でも、どうせタイキだろうと思いながら、少しだけ遅れて画面を開く。
“了解
助手席でちゃんと大人しくしてる
……ちょっと楽しみ”
ルイの喉が、小さく鳴る。
その最後の一文が、思っていたより深く刺さった。
楽しみ。
たったそれだけ。
でも、今のタイキがそれを打ったことが、やけに嬉しい。
ルイは数秒だけ画面を見つめてから、短く返した。
俺も
送信。
それだけで充分だった。
少し離れた場所で、タイキのスマホがまた震える。
画面を見た瞬間、タイキの口元がほんの少しだけやわらいだ。
“俺も”
短い。
でも、ルイはこういう時、それ以上いらないくらいまっすぐな言葉を置いてくる。
午後のスタジオ。
仕事の途中。
周りには人がいる。
なのに、たった数通のメッセージだけで、次のオフの空気がもう少しだけ近くなる。
ルイは仕事の顔に戻っていて、タイキも何でもない顔をしようとしている。
でも、お互いのスマホの中には、もうちゃんと約束が残っていた。
展望台。
車。
二人きり。
それを思うだけで、午後の空気が少しだけ甘くなる。
次のオフは、たぶんまた静かに心臓がうるさい。
コメント
1件
いやあ、20話、読み終わりました。カノンに映画主演の話が来て、しかもキスシーンがあると知った時の動揺がすごく伝わってきました。夢だったはずの仕事なのに、ゴイチの顔が浮かんじゃうって、もう恋ですよね…。ルイとタイキのやり取りも可愛くて、車で展望台デートの約束、いいなあ。スタジオの日常の中で、それぞれの心が静かに動いている感じがとても良かったです。ゴイチが「すげぇじゃん」って言ったところ、ぐっときました。