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オメガバース同居設定『番の予約は君の隣で』~m×s~
Side佐久間
大学の春学期の始まり。
朝の空気は、まだ少しだけ冬の冷たさを残している。窓を細く開けていたせいで、ひやりとした風が部屋を撫でていった。俺はソファの上で毛布にくるまり、半分夢の中みたいな顔をしていた。
カチ、カチ、とトースターのレバーが戻る音がして、パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。ああ、またね。俺が起ききる前に、めめは、もう台所で朝食の支度を整えている。
世間的には兄弟となっているけど血は繋がっていない。小さい頃、親が再婚して気づけば一緒に暮らしていた。だから俺にとっては、家族以上の存在。けれど家族だと一言でくくるには、少し違和感もある。俺自身、説明できない距離感に包まれてきた。
そして高校三年の春のこと。
大学へ進学する事になった俺に合わせるようにしてめめは『同じ大学に行くから、二人暮らしにしてほしい』と言い出した。
両親もそれは安心だと言い簡単に二人暮らしをOKしてくれたのだった。
二人だけの生活は案外と気楽で楽しい。
「佐久間君、起きて。朝だよ」
低くて落ち着いた声が、キッチンから飛んでくる。俺はううん、と喉の奥で声をもらし、毛布に顔を埋める。昨日の夜、寝るのが遅くなったせいで、頭がぼんやりしていた。
「……ん~、あと五分……」
「あと五分って言いながら、十五分寝るのが佐久間君だからね」
淡々とした調子で、でも少し笑っているのがわかる声。彼のこういうところがずるい。俺はわざと聞こえないふりをして、ソファに横たわったまま天井を見上げる。
数秒の沈黙のあと、近づいてくる足音。俺の上に影が落ちる。
ふわりと鼻をくすぐったのは、パンの焼けた匂いと、彼がいつもつけている柔軟剤の香りだった。清潔で、穏やかで、なんだか落ち着く匂い。
「……髪、寝癖ひどいよ」
目の前に立っためめが、軽くため息をついた。俺はまだ夢の境界にいるみたいで、返事が適当になる。
「ん~」
まるで猫が喉を鳴らすみたいな声を出す俺に、めめは少しだけ笑って、そしておなじみの台詞を口にする。
「はい、やってあげるから、こっち来て」
その言葉を聞いた瞬間、俺はようやく目を細めながら体を起こした。眠気が完全に抜けたわけじゃないけれど、これだけは外せない。俺の日常の始まりを告げる儀式みたいなものだった。
寝癖直し。普通なら自分でやればいいことを、なぜか俺はずっと彼に任せてきた。気がつけば当たり前になっていて、彼も何も言わず受け入れている。兄が弟にしてやる、ただの世話。そう思えばいいのに、俺は毎回胸の奥が妙にあったかくなる。
ソファから立ち上がり、ふらふらと洗面台の前まで歩く。めめは既にヘアアイロンとスプレーを手にして、俺を待っていた。彼の長身に見下ろされると、どうしても子どものころを思い出す。背の高さも、声の落ち着きも、俺を守ってくれる大きさそのもの。
「じっとしててね。動くと火傷するから」
俺は素直に頷いて、洗面台の前で背筋を伸ばす。アイロンが髪に触れるたび、じゅ、と小さな音がして、熱が伝わる。そのたびに、後頭部からじんわり温かさが広がる。めめの指先が髪をすくいあげ、丁寧に撫でて整えていく。
「ここ、跳ねてる。……どんな寝方したらこんなになるの」
「知らないよ、俺も寝てるときの姿はわからないしね」
「だろうね。ソファで毛布にくるまってる姿は、まるで繭みたいだった」
「繭って……俺は蛹なの」
思わず笑いがこぼれる。鏡越しに見えるめめの横顔は、いつもの無表情のようで、ほんの少し口角が上がっていた。俺の返事に、楽しそうにしているのが伝わってくる。
「まあ、羽化してちゃんと髪整ったら、人前に出せる顔になるよ」
「めめ相変わらず容赦ないね」
「事実を言ってるだけ」
淡々と返されるけれど、その手つきは驚くほど優しい。髪の一本一本を大事に扱って、まるで宝物を整えるみたいにしてくれる。
俺は鏡越しに目を細める。――こうやって甘やかされる時間が、俺にはたまらなく心地よかった。大学生にもなって、まだ兄に髪を直してもらっているなんて、少し情けないのかもしれない。それでも、やめたいと思ったことは一度もない。
「はい、完成」
数分後、めめは最後にスプレーで形を固定し、俺の肩を軽く叩いた。髪が鏡の中で落ち着いて見える。少し大人っぽく見えるのは気のせいだろうか。
「……ありがとう」
「いいよ。こっちも慣れてるからね」
そう言って彼は器具を片づけ始める。その姿を見ながら、俺は胸の奥がじんわりと温まるのを感じていた。
これが俺の日常。
春学期の始まりの朝、台所でパンを焼く兄と、寝癖を直してもらう俺。変わらない光景。変わらない距離。
テーブルに座ると、めめが俺の前にこんがり焼けたトーストを置いてくれた。バターがじゅわっと溶けて、香りがさらに広がる。俺は思わず笑ってしまう。
「やっぱり朝ごはんはパンだね。美味しそう」
「そうだね。……はい、牛乳も」
差し出されたグラスを受け取る。俺は一口飲みながら、鏡の中で整えられた髪を思い出した。触れるとまだ少し温かい。めめの手の温度が残っているような気がして、頬がじんわり熱くなる。
それを悟られたくなくて、俺はわざと大げさにパンをかじり、もぐもぐと音を立てた。
めめは何も言わず、静かにコーヒーを啜っている。
その沈黙すらも、俺にとっては心地よい。
春の始まり。大学生活の始まり。
―――――――――――――――――――
まだ桜の花びらがキャンパスのあちこちに残っていて、風が吹くたびに淡い花片が舞い散る。その中を歩く。
俺は片手に講義表を持ちながら、掲示板の前で立ち止まった。
講義表には一週間分の時間割がぎっしりと印刷されていて、色ペンで印をつけたり、付箋を貼ったりしている学生も多い。俺はまだ真っさらなままで、どこか自分がこの場所に馴染めていない気がして、指先で紙の端をいじっていた。
「必修は全部取ったし……空きコマ、どうしようかな」
独り言を呟いていると、隣でサークル勧誘のビラを配っている上級生の声が耳に届いた。
「演劇研究会です! 初心者大歓迎!」
「バスケサークル! 男子も女子も関係なし!」
「アロマ部!Ωの人も気軽にどうぞ~」
あちこちで声が飛び交っている。キャンパスの春は、講義だけじゃなくてサークル戦争の季節でもあるらしい。手渡されるビラの山の中には、当たり前のように”α歓迎”“Ωも安心”なんて文字が並んでいる。
俺は苦笑しながら一枚を受け取った。俺はβだから、正直どこに行っても問題ない。
どちらかといえば空気のように扱われる存在だ。特別な力も、本能的な制約もない。だからこそ自由だといえるし、同時に、誰も俺に期待なんかしていないともいえる。
「βでよかったね」
そう思う瞬間は、これまでに何度もあった。
たとえば――めめ。
俺の世間的兄は、堂々たるαだ。背が高くて、顔立ちは凛々しくて、声は低くて、何より周囲を自然と従わせる雰囲気を持っている。小さいころからそうだった。俺が何かに困っていれば、黙って前に立ってくれる。道を歩けば、自然に人が彼に道を譲る。そういう人だ。
αという存在は、生まれながらにして他者を守る力を持っている、とよく言われる。
逆に、Ωは守られる側で、時にその体質が負担にもなる。
そしてβは、その中間。何者でもなく、誰に縛られることもない。
俺は平凡なβだ。小さいころの検査でもそう出たし、それ以上疑ったこともない。
だからこうしてキャンパスで堂々と歩けるし、サークル勧誘の声にも気楽に耳を傾けられる。
掲示板の横には、大きなポスターが貼られていた。
「抑制タグの正しい使用方法」
太い文字と、わかりやすいイラスト付きで描かれている。
キャンパスにいる全員が使うわけじゃない。けれどαやΩは、状況に応じて抑制タグを着けることが推奨されている。
タグは小さなリストバンド型で、体調や発情期のサインを色で示す仕組みだ。
青は安定、黄色は注意、赤は要休養――そうやって周囲に伝えることで、無用なトラブルを避ける。
「もしものときのために、必ず携帯してください」
ポスターの下にはそう書かれていた。
俺は腕を見下ろす。何もつけていない。βだから。必要がないから。
それを誇らしく思うべきなんだろうか。それとも、ただの”透明人間”みたいに感じてしまうのは、俺の性格のせいだろうか。
すれ違ったΩらしき学生が、白いタグを手首に巻いているのが目に入る。彼は少し不安そうに、それを袖で隠して歩いていった。その姿を見て、胸がちくりと痛んだ。
俺がβである限り、そんな不安とは無縁でいられる。
でも、その無縁さが、俺をめめから遠ざけているような気がする。
「佐久間君」
振り返れば、背の高い影。
めめが講義表を片手に立っていた。彼は掲示板なんかじっと見なくても、自分の予定を全部頭に入れていそうな顔をしている。
「次のガイダンス、行くよ」
その声に俺は頷き、手にした紙を畳んだ。
―――――――――今日は朝からしとしとと雨が降っていた。
春先の雨は冬の名残を少しだけ引きずっていて、冷たいようでどこかやわらかい。キャンパスの木々の若葉に水滴が光り、地面に映る傘の影は揺れている。
「佐久間君、ほら。入って」
講義が終わって校舎を出た瞬間、めめが無言で傘を差し出した。
大きめの黒い傘。俺はその中に潜り込むようにして肩を並べる。背の高いめめが傘を持つと、自然に俺の頭上に余裕ができて、濡れる心配がなかった。
「やっぱり背が高いと便利だね」
「便利ってなんだよ。……まあ、傘係には向いてるかもね」
淡々とした返事。けれど口元は少し笑っていた。俺もつられて笑ってしまう。
雨音に混じって、たわいない会話が続いた。
今日の講義のこと、先生の独特な口癖のこと、学食で食べたカレーがやけに辛かったこと。どれも大したことじゃないのに、めめと並んで歩いて話していると、どうしてこんなに楽しいんだろう。
俺はときどき傘の端から落ちてくる水滴を見つめながら、彼の横顔を盗み見る。
整った輪郭、真っ直ぐな鼻筋、雨粒を弾く黒髪。その姿は誰が見ても堂々たるαだとわかるだろう。俺にとっては当たり前の風景なのに、ふと胸がくすぐったくなる。
「……ん?」
キャンパスの広場に差しかかったとき、不意にざわめきが起きた。
学生たちが集まり、道の真ん中に一人の先輩がしゃがみ込んでいる。
「大丈夫ですか?」
「顔、真っ青だよ……」
近づくと、Ωの先輩だった。白いリストバンドの抑制タグが手首に見えている。どうやら人混みや雨で体調を崩したらしい。額に手を当てている姿は、見ているこちらまで不安になるほど弱々しかった。
俺が立ち止まった瞬間、めめが一歩前に出た。
「救護室に運ばないと。佐久間君、傘頼む」
そう言うと、俺の手に傘を預け、自分は迷わず先輩に駆け寄っていく。
大きな体をかがめ、落ち着いた声で「大丈夫ですか」と呼びかける。腕を支え、周囲に指示を飛ばす。
「誰か保健センターに連絡して。俺が付き添います」
その姿はまさにαそのものだった。頼もしくて、冷静で、周囲を安心させる。人が自然に彼に従うのも当然だと思えた。
俺は少し離れたところで傘を持ちながら、その様子を見ていた。
胸の奥で、何かがチクリと刺さる。
……なんでだろう。
先輩を助けているめめを、誇らしく思う気持ちがあるのは確かだ。俺の兄は、やっぱり誰にでも優しくて、頼られる存在だ。
でも、その優しさを自分以外に向けているのを見て、胸がざわついた。
落ち着かない。理由がわからない。
「めめ……」
小さく呼んでみる。でも彼は先輩の肩を支えながら保健センターの方へ歩いていく。俺の声は雨音に溶けて届かなかった。
傘の下で一人取り残されたような気がして、指先が冷たくなる。
俺はただのβだ。体調を崩すこともないし、誰かに守られる必要もない。だからめめに甘やかされるのは俺だけでいい、なんて――そんな子どもじみた考え、口にできるわけがない。
けれど今、胸に広がっているこの感情はなんなんだ。
誇らしいのに、少し寂しい。安心するのに、どこか痛い。
心臓が小さく跳ねるたび、その正体を掴もうとしても、指の隙間から零れ落ちていくみたいに、うまく言葉にならない。
「……俺、なんでこんな……」
自分のつぶやきに、雨だけが答えを返す。
めめが保健センターのドアを開け、先輩を中に誘導する。その背中が遠ざかるのを、俺はただ傘の下から見送るしかなかった。
胸の奥のチクリとした痛みは、雨よりもしつこく残って、消えてはくれなかった。
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作者名「木結」(雪だるまアイコン)でご検索ください。
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