全身から力が抜けたようにもたれ掛かるウーヴェを長椅子へと導いたリオンは、これはボスに感謝だなと苦笑混じりに呟き、抱いた細い肩をぴくりと揺らさせる。
「・・・どうしてここが・・・?」
「話せば長いというか色々あるけど・・・・・・」
リオンが努めて冷静に話している事を示す様にウーヴェの肩を抱く腕に力が込められるが、ウーヴェはそれに対して苦情を言うどころか痛みを感じる余裕すらなかった。
「────お前が誘拐された事件をボスに聞いた」
「・・・っ!!」
ウーヴェの色を無くした否定の声にリオンが左右に首を振って否定をするが、腕の力はそのままだった為、恋人の身体が腕の中で硬直するのを如実に感じ取り、空いている手で拳を作る。
驚愕に染まった声を挙げたウーヴェだが、日頃の彼であれば警察に勤務するリオンやヒンケルが、ウーヴェが巻き込まれた事件を事情は別にして調べる可能性がある事に思い至っても良いはずだった。
だが全く予想も出来なかったように驚愕することを思えば、冷静で明哲な頭脳を持つはずのウーヴェが受けた傷はかなり深く大きく、日頃の冷静さを喪わせる程のものだった事を思い知らされてしまい、拳の中に悔しさを込めて握りしめる。
リオンにせっつかれて漸く事件の詳細を思い出したヒンケルも、20年以上昔とは言え凄惨な事件の被害者がウーヴェである事にどうして誰も気付かなかったのか。
国の内外でも治安の良さには定評のある街だからこそ、犯人と被害者が亡くなる最悪の結末を迎えた事件ならば誰かが覚えていても良いはずだったし、またその時の唯一の生き残りが同じ街に暮らしているのならば口の端に上ってもおかしくないはずだった。
だが現実にはリオンの周囲で事件に関する声が挙がることはなく、知っているはずのヒンケルですらリオンに問われて初めて思い出したものの、その被害者の一人がウーヴェだとは思いもしないようだった。
今朝の車内での話しぶりなどからすると、恐らく気付いていないだろう。
長年刑事をしているヒンケルが気付かなかった事実に不可解さを感じ、また麓のカフェで刑事が話してくれた言葉が思い浮かんだ刹那、不可解さが一気に氷解する。
それはウーヴェの実家の存在だった。
ウーヴェの父は国内どころか欧州でも名の通った企業を一代で大きくした偉人で、兄はその父の後を歩みながらも独自のカラーを発揮し、今や大企業となったグループの中核企業で辣腕を振るっている。
そんな彼らが末子であるウーヴェが誘拐事件に巻き込まれた時も後も、警察に総てを任せてただ手を拱いているとは思えなかった。
手段は不明だがウーヴェの為ならばどのような事でもするのではないのか。それが刑事が発した家族の横槍で、その力を利用した結果、あっという間に人々の口から事件が消え去ったのではないのか。
ウーヴェにしてみれば更に顔色を無くしてしまうような事をリオンが考えていると、硬直した身体が今度は震えだし、同じく震える声で名を呼ばれる。
「リ、オン・・・まさか・・・」
ウーヴェの声が問い掛けた先をしっかりと読み取ったリオンは、どう答えれば良いのか逡巡するが、事実をありのまま伝えるしかないと腹を括り、報告書に記載されている事だけを知ったと告げた瞬間、ウーヴェがリオンの腕を振り払って長椅子から転げ落ちる。
「オーヴェ!」
床の上を這って逃げようとするウーヴェの前に回り込み、恐怖に目を見開く顔をじっと見つめて目を細める。
「事件を・・・知った・・・!?」
「・・・お前以外が死んだ事だけだ」
埃っぽい床の上に二人で向かい合うが、どちらの口から流れ出す声は重苦しいものだった。
床に付いた手をぎゅっと握りしめたウーヴェを目を細めて見守っていたリオンは、小さな溜息を一つ零した後、ウーヴェの視線の先で胡座を掻いて座り込み、握りしめられた手をまるで至宝か何かのように鄭重に持ち上げると、握られていた己のジッポーを離させた手を包んでコツンと額に触れさせる。
「ごめんな、オーヴェ。お前が話してくれるまで待つって決めたけど・・・また待てなかった」
前にも同じような事で口論をしてしまったよなと、何時かの口論を思い出して苦笑したリオンだが、ウーヴェはと言えば頭髪の色を顔中に広げた様な顔で呆然と見つめているだけだった。
「俺が聞いたのはその事件の概要と・・・お前だけが生き残ったということだけだ」
聞けば詳しく教えてくれる人がいたが約束をしたから断ったと、それだけは誉めてくれと言いたげな顔でいつもの様に笑みを浮かべたリオンの前、ウーヴェの口から途切れ途切れに震える声が流れ出す。
「リ・・オン・・・っ、リ・・・っ!!」
「なぁオーヴェ。ここまで来たけどさ、やっぱりまだ話せないか?」
ヒンケルの策略に見事に嵌ってしまったと苦笑しながらも目には真剣な色を浮かべたリオンが問い掛け、永遠のような一瞬のような間の後、ウーヴェが睫毛を震わせながら目を閉じたかと思うと、総てを受け止めてくれと口にする代わりにもたれ掛かる事で示そうとするかのように身体を傾げる。
それを先程のようにしっかりと受け止め、肩を抱いて色を無くしたこめかみに口付けたリオンは、次に震える唇から流れ出す言葉が何であれしっかりと受け止めると腹を括り、腕の中のウーヴェの言葉を待ってみる。
「リオン・・・」
「何だ?」
「首に・・・まだ・・・」
赤い首輪が付いているだろうかと、消え入りそうな声で問われてさすがに意味が理解出来ずに白い顔を覗き込んだリオンは、ウーヴェの指がシャツの襟元を大きくはだけさせ、目が覚めるようなスカイブルーのアスコットタイを解いたのを見た刹那、青い眼を限界まで見開いて絶句する。
ウーヴェの喉にまるでたった今付いたかのような痣が浮かんでいたのだ。
指の幅で言えば3本分ほどだろうか、喉仏を中央に上下に幅のあるその痣はウーヴェの喉をぐるりと一周しているようだった。
そしてその中央、ちょうど喉仏を左右から挟むように楕円形の痣が二つ、浮かび上がっていた。
「な・・・んだ、これ・・・!?」
幾度となくこの白い肌を見つめては抱き合ってきたが、こんなにも目立つ痣など当然見たことが無く、初めて目の当たりにしたリオンが衝撃を受けて絶句してしまうが、程なくしてその衝撃から立ち直ったらしい口から漏れたのは歯軋りと驚きの声だった。
だがその声にウーヴェの身体がびくんと竦み、驚いただけだと説明をして肩を抱く手に力を込めてしまう。
「オーヴェ・・・まさか・・・っ」
ぐるりと首を一周する痣は兎も角、喉仏を左右から挟むように浮かび上がる二つの楕円形のそれは職業柄幾度となく見た事のあるものと同じで、己の脳味噌が思い浮かべた言葉を口に出すべきかどうか瞬間躊躇うが、それを見越した様な笑みを浮かべたウーヴェが哀しげに肩を揺らす。
「・・・気に入らない事があるとすぐに喉を絞められた。警察に保護されるまではずっと首輪を巻かれていた」
誘拐されてまず最初に連れて行かれた家で幼い自分に与えられたのは、人として当然持っている喜怒哀楽の感情の総てを喪わせる暴力とこの痣を作った首輪だったと告げ、アスコットタイを投げた手で目元を覆い隠す。
「お前は人じゃない、金を産む卵だと言って毎日殴られた」
誘拐されるまでは何不自由なく笑って毎日を過ごしていたが、事件が解決した時には総ての感情を喪っていた事を自嘲気味に告白するウーヴェの手の甲に口を寄せ、語られ始めた過去を受け止める力を彼から得ようとリオンが口付けるが、この手が経験したであろう痛みを思ってきつく目を閉じる。
幼い彼が泣くことも忘れてただされるがまま血を流す、その姿を想像するだけで脳味噌が怒りに沸き立ちそうだった。
「・・・痛かったな、オーヴェ」
「────っ・・・暫くして・・・俺とそう変わらない子供が来た・・・」
「その子がもう一人の子供か?」
「ああ・・・」
名前をハシムと言ってトルコ系の移民の子供だが、両親とはぐれてしまった所を連れてこられた事を思い出し、哀しい姿も思い出してウーヴェが歯を噛みしめる。
「・・・その子が・・・最初に殺された」
ウーヴェが声を振り絞る様に告げた辛い過去、それを聞きながら白っぽい髪を何度も撫で、目元を覆った手の甲も撫でながら片手で震える身体を抱いていたリオンは、胸の奥に秘めた想いを言えばお前が死ぬと血の涙を流した時を思い出し、その少年の最後が言わせたのだろうと気付くが、次々と告げられる事実に眩暈を堪えることだけで手一杯になりそうだった。
後三ヶ月足らずで11歳を迎える秋の午後、いつものように迎えに来た車に乗り込んだウーヴェはそのまま連れ去られてしまい、気がついた時には子供の細い喉なら簡単に絞める事の出来る首輪を巻かれ、家に帰りたいと言った途端、その場にいた男女から殺されない程度に抑えながらも、子供にとっては命に関わりかねない暴行を受け始めた。
その数日後、犯人達はハシム少年を連れてきた為、それ以降少年の命が奪われるまでウーヴェとハシムは犯人やその後にどんな理由かは分からないが新たにやって来た三人の男達の中で二人身を寄せ合っていたが、警察も何も手を拱いていた訳ではなく、ウーヴェの家族と協力の下全力を挙げて居場所を突き止めようとしていた。
その為、誘拐されてから2週間近く経った頃、身代金の受け取りの際に漸く犯人の目星を付けた警察が犯人達の周辺へと手を伸ばしたのだが、警察が動く僅かの間に素早く動きを察した犯人達が皆を連れて慌ててここの教会に逃げ込んだ。
連日罵声を浴びせられ暴行を受け続けていたウーヴェは諦め以外の感情は喪失していた為、首輪に繋がれた鎖を映画などで見るような奴隷と同じように引っ張られて歩かされ、この教会に辿り着いた時にはハシムが心配そうに覗き込む顔すら判別できない程心を閉ざしてしまっていた。
「外は雨が降っていて・・・ちょうどそこに転がされていた時・・・犯人の一人に聞かれた」
「何を聞かれたんだ?」
ウーヴェの手が再度喉元に宛がわれたかと思うと、喉笛が鳴ったような音が零れ落ち、リオンの大きな手がウーヴェの手をやんわりと握って掌を重ね合わせる。
いつもの様に繋いだ手が震えている事が哀しくて辛かったが、脳味噌がぐらぐらと揺れそうな怒りを何とか腹の底に沈めて先を促す。
「誰を・・・生き残らせて欲しいか・・・っ・・・」
犯人を除いて三人の男と少年がいるが、この四人の中でただ一人だけを生きて解放してやる。誰が良いかお前が選べと言われた事をリオンは教えられ、歯が砕けてしまいそうなほど噛みしめる。
10歳の子供に命の選択をしろと迫った犯人は笑みを浮かべてさも楽しそうに命じたのだろうと予測し、その通りだったことを知って拳を床に叩き付ける。
「ハシムを解放して欲しい、そう言いたかった・・・っ・・・でも・・・っ」
それを言えば三人の男は殺されてしまうのだ。年齢や出身、信じる神が何であれ今目の前にいてどうなるか分からない日々を一緒に送っている内の一人を選べと言われて選べる筈などなかったし、失いかけている心の奥底にどうしても消せない顔があったのだ。
例え本心ではハシムに生き残って欲しいと思っていても、心の中に大好きな笑顔がある為、そう告げる勇気がウーヴェにはなく、答えられないでいると不満を覚えた男に蹴られ、一晩考えろとその場に放置されてしまったのだ。
「・・・翌朝・・・司祭の部屋に連れて行・・・が・・・っ・・・ハシ・・・ムは・・・っ!!」
ウーヴェの手が震えながら上がり、小さなドアを指さした為そちらへと視線を向けたリオンの腕の中でウーヴェがガチガチと歯を鳴らし出す。
その様があの夜の光景を思い出させ、一瞬にして顔色を無くしたリオンが頭を振る。
「もう良い!それ以上思い出すな!!」
ウーヴェの身体をしっかりと抱きしめて遮るように叫んだリオンは、今恋人が脳内で再生している過去で少年が殺されたと気付き、もう良いと震える身体を抱きしめる。
あの夜と同じようにまた涙を見なければならないのかと、胸に芽生えた痛みに眉を寄せると、歯がぶつかる音に紛れて殺されてしまったと告白されて頭を振る。
刑事になって結構な年月が流れたが、その自分ですら告げられる事実に戦慄し、もう止めてくれと叫びたくなるのだから、幼いウーヴェがそれを体験したときの恐怖、苦痛はどれ程のものだっただろう。
そして、年も近い少年が無残にも殺されたのを見せつけられてしまった時、例え既に心が死んでいたとしても感じた絶望はどれ程深いものだっただろうか。
想像するだけで犯人に対する怒りが抑えきれず、拳を作って床を殴ってしまうリオンの耳に自嘲が流れ込む。
「結局・・・警察がここに踏み込む事が分かった後、他の皆も殺された」
その後、犯人同士の仲間割れでまず男が一人殺されるが、こうなってしまえばウーヴェの存在はただのお荷物になると男が叫び、ヒステリックな声で女も賛成したが、残るもう一人の女がウーヴェを庇った為に彼は生き残り、後の二人は僅かの金だけを持って逃げる途中に死んだそうだとも教えられ、ウーヴェの身体に回した腕に軽く力を込める。
「・・・犯人が庇った?」
「・・・・・・ああ」
その女もそれまで他の犯人と同じように人として扱わなかった癖に、最後の最後で身を挺して庇ったと頷いたウーヴェは、震える腕を持ち上げて触れた布地をきつく握りしめる。
警察がやっと駆けつけて救出された時、自分は息絶えた女の下でただ天井を見上げていたそうだと他人事のように告げ、のろのろとリオンの身体から離れるように起き上がる。
「リオン・・・首輪はまだ・・・付いている・・・か?」
まだ自分はあの悪夢のような現実の中にいて、今触れているお前は狂った脳が見せる夢ではないのか。
リオンの肩に両手をついて距離を保とうとするのか、それとも両掌のみで身体を支えようとしているのか、ウーヴェが俯きながら震える声で問い掛ける。
意外な強さで肩を押さえられた為に腕を上げることが出来なかったリオンだが、脳味噌の中で沸騰する怒りとウーヴェが受けた痛みを思う辛さと、何よりも事件の後も生きていてくれた事への感謝が入り混じって眩暈を引き起こそうとするが、頭を一つ振ってそれらを一瞬のうちに混ぜ合わせ、過去を知った今でもやはり抱く感情はただ一つであることを再認識する。
過去がどうであれ、己はウーヴェを愛している。
その思いをちゃんと伝え、無理矢理聞き出そうとした事をもう一度しっかりと詫び、そしてこれからもまた二人こうして抱き合えるようになろうと決めれば後は簡単だった。
「オーヴェ」
リオンにしか出来ない声と呼び方で愛しい何よりも掛け替えのない名を呼び、震える頭がゆっくりと上がるのを待ち構え、複雑な色に染まるターコイズをやっと真正面から見る事が出来たと笑みを浮かべたリオンは、肩に置かれた手を取って胸の前で祈りの形に組ませるとその手を護るように包み込む。
「もうお前の首には何も付いていない」
事件の時に付いていたものも付けられた傷もないと頭を振るが、それ以上に激しくウーヴェが頭を振ってその言葉を否定する。
「嘘だ・・・っ」
「ウソじゃない」
ほら、と言いながら片手を喉元へ伸ばせば身体が逃げを打つように後退るのが哀しかったが、怯える必要は無いと教えるようにウーヴェの目を見つめながらそっと指の腹で喉を撫でる。
「な?何も付いていない」
「嘘・・・だ・・・っ・・・」
「あー、疑り深いドクだなぁ」
さすがに少しだけムッとしたような声を出し、嘘だと言い張るウーヴェを上目遣いで睨んだ後、嘘じゃないと一際強く告げて今指で触れた痣に口付ける。
「・・・っひ・・・っ!!」
「ああ、ごめん。でも大丈夫だ────な?」
自分のキスが分かるだろうと目を細めるリオンの前、飲み込んだ悲鳴が零れ落ちないように手を宛がって口を封じたウーヴェがいたが、喉に何度も何度も触れる唇の感触が自宅でもリオンの家でも抱き合っているときに得ていた感触と同じである事を脳味噌が思い出したのか、口を封じていた手から力が抜けたかと思うと、リオンの腕にそっと載せられる。
「リオン・・・っ!」
「うん。オーヴェ・・・本当に・・・痛かったな」
今まで良く我慢していたな。お前は本当に強い男だと愛する男を褒め湛え、また何よりもの自慢だと言いたげに目を細めて頬を撫でるリオンの声にウーヴェが俯いて唇を噛む。
「顔上げろよ」
その声に従うように上がった顔に安堵の溜息を零したリオンは、再度白い頬を両手で包むと、コツンと額と額を触れ合わせる。
「────生きててくれてありがとうな、ウーヴェ」
そんなにも辛い目に遭いながらも良く死ではなく生を選んでくれたと、いつもと全く変わらない笑みを浮かべて真正面から見つめれば、ウーヴェの目が零れ落ちそうな程見開かれ、震える手で同じように頬を挟まれる。
「リーオ・・・っ!!」
「うん」
重い荷物を背負いながらも、精神的であれ肉体的であれ死を選ばずに生きていてくれた事を感謝するともう一度告げた後しっかりとウーヴェを抱きしめ、今生きている実感を得ようと首筋に顔を押しつける。
何日ぶりかに五感の総てで感じた恋人の存在。そうと気付いた瞬間、リオンの全身を巡る血が一気に沸騰したような熱を感じ、背中を抱く腕に必要以上に力を込めてしまう。
「リーオ・・・苦しい・・・・・・」
途切れ途切れの声に悪いとしか返せず、ただただウーヴェを抱きしめ続けたリオンは、同じように身体にそっと手が添えられ抱きしめられて顔を更に擦り寄せる。
「オーヴェ、オーヴェ・・・!」
「・・・・・・うん」
リオンが繰り返し呼ぶ名にウーヴェが短くうんと返せば、背中に回った腕の力が徐々に弱くなり、コツンとウーヴェの肩にリオンが額を押し当てる。
「ここはオーヴェにとっては辛い場所だろ?なのにどうしてここに来たんだ?」
リオンが思い出した様に疑問をぶつけた為、ウーヴェは咄嗟に返事が出来なかったが、約束だったとぽつりと呟いて小さな聖堂の天井を見上げる。
「ハシムと約束をした・・・」
自分を忘れないでくれと、元気な姿を見せてくれと、少年が命を落とす前日に話し合った事を思い出すだけでウーヴェの胸の奥深くがどうしようもない程痛んでしまうが、その時の約束を果たす為に毎年自分は此処に来ていると、感情の流出を防ごうとするかのようにきつく目を閉じる。
「そっか・・・約束、守ってるんだな、オーヴェ」
ただ感心した声を上げたリオンは見つめた横顔が一瞬だけ歪んだ後、すぅと波が引くように穏やかな表情を浮かべだしたことに気付いて目を細め、恋人の表情の変化が心の変化の表れであることを切に願ってしまう。
「約束、果たせたか?」
「・・・・・・多分」
いつもの穏やかさが姿を見せつつある横顔に内心で安堵の溜息を零し、それならば良いと笑って肩を抱き、気が済んだのなら山を下りようと誘ってみると、いつしか震えの止まった手が肩を抱くリオンの手に重ねられ、頭が軽く傾いで身体全体でもたれるように寄り掛かる。
「・・・外に墓がある」
「墓参りをするか?」
惨劇が起きたこの教会の好意により、敷地内に墓地を用意して貰えたと告げられ、傾いた日が差し込む窓を見たリオンにつられるようにウーヴェも窓の外を見る。
あの日見上げた窓は遙か遠くに見えていて、窓から見える空と雲も絵に描いたようなのっぺりとした灰色の世界だったが、今見えているのは暮れ始めていたがそれでも青い秋の空と自由に風に乗る白い雲の姿だった。
此処に来たときにこんなにも色彩豊かに世界が見えていた事など今まで無かった為に軽い驚きでもってそれを見つめていると、コツンと頭に頭がぶつかってくる。
「墓参りして早く下りようぜ。遭難なんてヤだぜ、俺」
「・・・・・・ああ」
俺も遭難はしたくないと苦笑し、温もりと優しさを分け与えてくれるリオンの手を取り、愛すべき男の貌から悪戯小僧になった恋人に笑いかけようとするが、極度の緊張を強いられた身体や顔の筋肉は思った通りに動いてくれず、浮かんだのはほんの微かな笑みだった。
だがそれを真正面から見ていたリオンには十分すぎるほど気持ちが伝わったのか、撫でられる手の感触に目を細めて無言で先を促せば、やや躊躇った後、意を決したような声で問い掛けられる。
「・・・・・・ついてきて・・・くれないか、リオン」
何処にと告げる事は出来なかったが、此処に来ては帰る間際にだけ訪れる彼らの墓に一緒に来てくれないだろうかと問い掛けたウーヴェは、穏やかさの下では鼓動を早くしていた。
「来るなって言われても行くぜ」
黙っていなくなったお前を捜してこんな辺鄙な山奥にまで来たんだ、今更ついて行かないもクソもないと、言葉は誉められないがウーヴェが望む以上の思いを伝えながら逆にウーヴェの手の甲を撫でたリオンは、だから早く墓参りをして帰ろうと笑みを浮かべる。
「・・・ああ」
自分は一体何に怯えて心の何処かで別れを覚悟し、あの夜黙ったままリオンの家を出たのだろうか。
今振り返ってみれば己の言動が過去の恐怖に負け、受け止めてくれる筈のリオンからもただ逃げただけに思え、自分の弱さをまた見せつけられてしまった気持ちになるが、この今も手を取ってただ優しく撫でてくれる恋人の存在が何よりも大切だとも思い知らされたと気付く。
「ハシムは何が好きだったんだ?」
「家に帰ればお母さんが作る料理が食べたいと言っていたな」
埃っぽい床からやっと立ち上がり服についた埃を手で払った二人は、長椅子の間の絨毯の上を扉へと向かって歩きながら互いの腰に手を回す。
一方は別れを覚悟し、もう一方はもしかすると別れたいと思っているのかもと疑心暗鬼に囚われかけた相手をしっかりと抱き寄せて扉を開けると、秋の空がやや暮色に染まり始めていた。
教会の横手に周り、古びているが手入れだけはされている墓石が何基か整然と並んでいる一角へと進むと、ウーヴェがリュックの中からワインのボトルと紙コップを出して一基以外の前にワインを注いで置いていく。
ここにある墓は生年は違えども死亡年月日はほぼ同じ墓ばかりで事件の異様さを伝えてくるが、ウーヴェが少しだけ顔色を無くしながらもそれでも心静かな様子で墓にワインを供えるのをジーンズの尻ポケットに手を突っ込んで見つめていたリオンは、アップルジュースをボトルのまま備えられた墓がハシム少年のものであると察しを付け、ウーヴェの背後に静かに立つ。
「これがハシムの墓か?」
「・・・・・・ああ」
どんな事情があったのかは幼いウーヴェには理解できなかったが、遺体は引き取られることがなくここに埋葬されていると語り、汚れる事も厭わずに雨でぬかるんでいる地面に膝を着く。
「・・・・・・・・・」
声として発せられることはないが、きっと心の中で言葉を交わしているのだろう、そんな表情のウーヴェを黙って見つめていたリオンだが、静かに立ち上がったウーヴェが何かを堪えるようにきつく目を閉じたのを見た瞬間、咄嗟に腕を伸ばして背中から抱きしめる。
「なぁ、ハシム。ついさっきあんたの話を聞いたばかりだけどさ・・・」
目の前にまるでハシムがいるように語りかけたリオンの腕の中、ウーヴェが動揺するがそれすらも受け止めるようにしっかりと腕を回して語りかける。
「もう許してやってくれよ。一人で今まで苦しんできたんだ。もう良いんじゃねぇの?」
白っぽい髪に口を寄せて許しを請うにしてはぞんざいな口調で告げたリオンは、ウーヴェの口から震える呼気が零れ落ちた事に気付き、肩を抱いていた腕を今度は目元を覆うように回す。
「もし無理だーって言うならさ・・・あんたの痛みも苦しみも死ぬまで俺も背負ってやる」
だからもう許してやってくれないか。
事件に巻き込まれ、命の選択を強要させられた挙げ句にその死を見届けなければならなかった辛い過去を一人で背負ってきたウーヴェを思えば自然と出たその言葉がハシムに届く前、リオンの腕の中で微かに本当に微かに嗚咽が流れ出し、さわりと吹いた秋の風に乗って流れていく。
「来年のヴィーズンにまたオーヴェと一緒に来るからさ」
だからまた来年ここで会おうと笑い頬を伝う涙に口付けたリオンは、顔を背けて涙を隠そうとするウーヴェをそっと抱きしめてハシムが俺と仲良くしてくれると良いなと笑い、暮色が濃くなり始めた空を見上げてそろそろ帰ろうと囁くのだった。
窓からは祭壇の中央でマリア像が差し込む光に照らされ、ただ静かに見守る姿が見えていた。
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