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土砂降りの雨の中、レオポルドは周囲に迷惑になりそうな速さで車を走らせていた。
彼の耳の奥底で響いているのは、二年近く前に家出をした長男、ギュンター・ノルベルトが女と乳児を伴って帰ってきていると言う、慌てふためいたヘクターからの電話の声だった。
その報せを受けたときレオポルドは大切な会議の最中で、抜け出すことなどは出来ないと突っぱねたものの、ヘクターとハンナ夫妻に代わる代わる電話口で説得され、仕方なく信頼している重役に任せて会社を飛び出したのだ。
二年近く前に家出をした息子を必死になって捜していたが、見つからない苛立ちと過去の己に対する後悔から目を背けるように警察に任せ、後は今まで通りに仕事にかまけていた。
その態度がすべての元凶なのだが、それに気付きつつも認めたくない一心で今まで以上に仕事へと全力を傾けていた彼は、自宅の大きな門を潜って屋敷へと続く一本道を猛スピードで進むと、屋敷の正面にある噴水前でヘクターとハンナが帰りを待ちわびている様子で立っているのを発見する。
『ギュンターはどこだ!』
『旦那様、落ち着いてください、お願いします』
レオポルドの剣幕を恐れつつも落ち着いて欲しいと繰り返すヘクターに足を止め、苛立たしさを隠さないで頭を掻きむしるが、ハンナに前掛けを握りしめながら涙を浮かべた目で見つめられて溜息をつく。
『……興奮して悪かった』
『ありがとうございます、旦那様。ギュンター様は今奥様と一緒にお部屋におられます』
『リッドと一緒にいるのか?』
ヘクターの言葉に軽く驚いたレオポルドは、今日は観劇に行く予定ではなかったかと、今朝出勤する前にハンナから教えられた予定を問いただせば、家出をしていた長男が帰ってきたことを知って予定をキャンセルしたことを教えられて再度溜息をつく。
ギュンター・ノルベルトが生まれた頃は仕事にも家庭にも力を注いでいたが、次子のアリーセ・エリザベスが生まれたときには仕事に全力を注いでいたため、生まれた娘の名前すらロクに考えることをしなかった。
そんな夫の家庭を顧みない態度に妻も愛想を尽かすのも当然と言えば当然で、生後間もない娘と5歳離れた長男の世話をヘクターやハンナらといった家人に任せたかと思うと、日夜観劇や旅行などで家を空けることが多くなっていた。
そんな妻が家で息子が戻ってきたという報せに予定をキャンセルしたことに驚きつつ、己も会議を放り出して戻ってきたと自らを笑うが、ヘクターとハンナの視線から非難されていることに気づき、厳めしい顔に険しさを浮かべて二人を見る。
『旦那様、差し出がましいとは思いますが……』
そう前置きをしてヘクターが語ったのは、本当ならば戻って来たくはなかったが、生後間もない息子と妻を守るために今頼れるのが実家しかないと悔しそうに語ったギュンター・ノルベルトの言葉で、自分にもっと力があれば父や母の力を借りずともすんだのにと、拳を握る息子の様を伝えられたレオポルドは、怒りは分かるがどうか今は戻ってきたことを受け入れて欲しいと懇願され、ハンナも涙を拭いながら己の夫の言葉に何度も頷く。
『……受け入れるかどうかはあいつと話をしてからだな』
『旦那様……』
『お前たちの言葉だから聞くが、どうなるか分からんぞ』
二年近くも音信不通の息子だが、それ以前から顔を合わせてもロクに口をきくこともなく、また話をしたとしてもすぐに口論になっていたのだ。穏やかに話し合いが出来るとも思えないと溜息混じりに呟くレオポルドに、話し合いをすることがまず大事だとヘクターが頷きながら歩き出した彼の後に付いていく。
長い廊下を進んで南に面したリビングのドアを勢いよく開けたレオポルドは、ドアが開いたことでソファから立ち上がった息子と、その横で緊張気味に乳児を抱く少女を発見し、大股に近づいていく。
『……』
今までどこにいた、二年近くも何をしていた、どれほど迷惑を掛けたと思うんだと息子を詰るような言葉が喉元まで出かかるが、ソファからじっと見つめてくるイングリッドの視線に籠もる思いと先ほどのハンナの顔が言葉を押しとどめたため、一つ溜息を吐いて息子を見る。
家を出る前は思春期特有の親に対する反抗を顕著に表していた顔は、少しでも世間の荒波に揉まれたからか少年の殻を脱ぎ捨てて男への階段をしっかりと上っていることを表すように精悍なものになっていて、それだけでも軽く驚きを覚えてしまうが、瞳に浮かぶものが男として夫としてそして父親として己と対等だと物語る強い光だったため、開き掛けた口を閉じて再度溜息を吐く。
『……そんなところに立っていないで座ればどう?』
父と息子の対面に冷たい声が投げかけられ二人の男がそちらに顔を向けると、ハンナにお茶の用意をするように命じていたイングリッドが二人にもう一度座ればどうだと促したため、向かい合うようにソファに腰を落とす。
たった二年という短い時間でここまで顔付きが変わるのかという驚きと、父親になったらしい自覚がまだ十六歳の子どもに芽生えたためだろうかとの疑問を抱きつつ、睨み合うような強い眼光で息子を見た父の口から発せられたのは久しぶりだなと言う、周囲の者からすれば驚きの穏やかな言葉だった。
『……久しぶり、です』
家を出る前までならば父が語りかけても息子が返事をすることはなくただ反抗期特有の目で睨み返すだけだったが、途切れてはいても返事をした息子に父が頷き、そんな息子の腕に縋るように身を寄せる少女へと視線を向けると、イングリッドが溜息を零しつつギュンター・ノルベルトの妻と息子だと答える。
『妻と息子?』
十六歳ではまだ結婚は出来ない筈だと妻を見れば結婚という正式な形を取ることは出来なくても家族にはなれると息子が返し、レオポルドが二人の子どもの顔を見る。
少女はこの後何が起こるか分からない不安から蒼白になり、その不安が隣にいるギュンター・ノルベルトにも伝わっていて表情は硬かったが、その時、少女が抱いていた乳児が泣き声を上げる。
親の不安を感じ取ったようなそれに少女よりもギュンター・ノルベルトの方が素早く反応し、少女の手から己の息子を抱き上げると不慣れながらも何とか泣き止まそうとする。
『その赤ん坊は……』
『12月に生まれた息子のフェリクスだ』
何も心配することはないとようやく首が座ってきた息子に笑いかけ、表情を変えて己の父に返事をしたギュンター・ノルベルトだったが、フェリクスと名付けた息子が泣き止みつつあるのを察し、不安そうにじっと見つめて来る彼女の肩を抱き寄せる。
『……迷惑をかけていることは分かっている』
本当ならば頼りたくはない、でも悔しいが大人の力を借りなければ自分たちは生きていけないのだと心底の悔しさを顔に滲ませながらギュンター・ノルベルトが父を見つめれば、レオポルドが短く整えた髪を掻きむしる。
『……で、お前は何を望んでいるんだ?』
二年もの間音信不通になった挙げ句、どこの誰とも分からない女に手を出して子供まで産ませたお前はいったい何を望んでいるんだと当然の問いをレオポルドが発すれば、ギュンター・ノルベルトが泣き止んだ息子から力をもらうように額にキスをする。
『力を貸してほしい』
『力?』
『今の俺では二人を養うのは無理だ。それにやりたいことも見つかった。それをする為に力を貸してほしい』
『随分と都合の良いことばかりを言っているな』
勝手に家を出て子どもを作ってきた尻ぬぐいをしてくれという、どこまで甘えているんだと父が笑えば今まで黙ってみていた母が窘めるように名を呼ぶ。
『……レオ』
『悔しいけどその通りだと思う。家を出て初めて自分がまだまだ何も世間を知らないガキだと気づいた』
ただ、そんな愚かな自分にも守るべき存在が出来たのだと父となった息子が今まで正対することを避けていたような己の父と正面から向き合い、同じ男で父ならば理解できるだろうと静かに問いかけてレオポルドの目を見開かせる。
『二人を守るためにあんたに……父さんに頭を下げなければならないのならいくらでも下げる。どんなつらいことでも耐える』
甘えていることも都合のいいことを言っていることも承知しているが、その上で父さんと母さんの力を借りたい、どうか自分の家族を助けてくれと息子を膝に抱いたままレオポルドに向けて静かに頭を下げたギュンター・ノルベルトの姿に隣で少女が息をのみ、頭を下げられた父と母も息子の変化をただ驚きを持って見守ってしまう。
息子の変化は喜ばしいものだったが、ただそれを手放しで喜べるかと言えばそうでもなかった。
ギュンター・ノルベルトが家に帰ってくることは良いが、彼が妻と称している少女-どう見ても彼と同年代に見えた-や、十二月に生まれたという乳児のことなど考えなければならない問題はいくつもあった。
子供を育てるというのは犬や猫を飼うのとは違うというのを理解しているのかと静かに問いかけたレオポルドは、分かっている、自分の力だけではそれが出来ないことも分かっているからせめてこの子が基礎学校に入学するまで力を貸してほしいともう一度頭を下げられて腕を組んで嘆息する。
『……あなたのその言葉が本気かどうか、わたくし達に見せなさい』
『リッド?』
『その子のために本当に何でもするのか、どんな嫌なことでも耐えるのか。それをわたくし達に示してからどうするか決めれば良いのでは?』
今まで黙って夫と息子の話を聞いていたイングリッドの提案に二人がそれぞれ彼女の顔を見ると、彼女はハンナが用意してくれていたお茶を一口飲んで小さなため息をつく。
『ギュンターだけではありません。そちらの彼女にも同じく本気を見せていただきたいですわ』
『え、それは……』
『ギュンターは貴女を妻と思っている。貴女もギュンターを愛しているのでしょう? ならば夫婦一緒に同じ苦しみを乗り越えていけるのではなくて?』
愛する人の母からの言葉に少女が不安げにギュンター・ノルベルトを見つめると、そんな妻を安心させたいからか太い笑みを浮かべて少女の肩を抱く。
『もちろん、二人で頑張る。な、ジーナ』
その言葉にジーナと呼ばれた少女の顔に不安と不満が一瞬で浮上し不信感となって視線に宿るが、それに気付かなかったのかどうなのか、ギュンター・ノルベルトが少女の肩を抱く手に力を込める。
その様子を見守っていたイングリッドがまるで先を見越したかのように小さく溜息を零すが、レオポルドとこれからのことについて話をするから部屋に行けと促され、胸に芽生えた靄を抱えたままギュンター・ノルベルトは少女と息子を抱いて部屋を出る。
『……レオ』
出て行く息子の背中を腕組みのまま見送る夫に呼びかけたイングリッドは、自分の思いは伝えたがあなたはどうだと問いかけると、レオポルドが溜息をついて髪を掻きむしる。
『あいつらの本気などひと月持つかどうかだろうな。愛しているだの妻だのと言っても夢を見ているだけだ』
それでも見守っているのかと問われた彼女は、お茶を飲みながら静かに首を上下に振る。
確かに夫が言うようにまだまだ子どもの域を出ない二人が乳児を育てる苦労に直面した時、協力し合ってそれを乗り越えられるとは思えなかった。
子どもが子どもを育てることなど出来るはずがないと穏やかに断言すれば、本気を見せろと提案をしたのは何故だとレオポルドが問うと、イングリッドが目を伏せる。
『あなたもわたくしも、ギュンターにとってはいい親ではないわ』
『……そうだな』
レオポルドは軌道に乗り始めた会社経営が面白く、寝食も惜しんでただ会社を大きくすることに意識を向けた結果、家庭を顧みなくなり、そんな夫に妻は愛想を尽かしたように観劇だパーティだと出歩くようになったために二人の子どもの世話は全幅の信頼を置いているヘクターとハンナに任せきりになり、子ども達が何を考え親に何を求めているのかを察しようともしなくなった。
その結果がギュンター・ノルベルトの家出であり、同級生の女子を妊娠させて出産させたと言う事実だと、声に小さな反省を込めて彼女が呟くとレオポルドも何も言い返さずに目を伏せる。
家族の関係としては破綻しかけているのだと苦く笑う彼女にレオポルドも口を閉ざすが、妻の顔に何かしらの決意の色が浮かんだように感じて眉を開くと、たおやかな白い手が同じく白い頬に宛がわれる。
『でも、わたくし達はわたくし達なりにいろいろな出来事を乗り越えて来た』
例え、出逢った頃のあの思いを忘れてしまったような関係になっていたとしても、それでもわたくしはあなたを愛しているし、子ども達を大切だと思っているが、この思いを口にしたところで信じてもらえないだろうから、自ら子育てをする最中に気付いて欲しいと告げたイングリッドは、目を見張る夫に若い頃と全く変わらない笑みを浮かべて夫をさらに驚かせる。
『わたくし、こう見えてもまだまだあなたを愛しているのよ、レオ』
妻の告白に照れたようにそっぽを向いた辣腕実業家は、咳払いを一つすると同時に立ち上がり、随分久しぶりだと思いつつも妻の横に腰を下ろすと、いつまでも変わらない細い身体がそっと寄り添うように寄せられる。
『……あー、なんだ。……あいつらの頑張りを少し見守るとするか』
『ええ、そうですわね』
息子一家がどのような道を歩むのかを間近で見守ろうと二人が頷き合い、ギュンター・ノルベルトが妻と息子を抱いて出て行ったドアを静かに見つめるのだった。
リビングを出て己の部屋に向かおうとしたギュンター・ノルベルトは、両親に己の妻と紹介した少女、レジーナが袖を引っ張って引き留めたことに気付き、息子を抱いたまま彼女の顔をのぞき込む。
『どうした?』
『ね、フェリクスを育てるのに助けが要るのならマリアを頼ろうよ』
どうしても大人の力を借りなければならないのなら私の姉に頼ろうと詰め寄られ、ここであなたと二人で子どもを育てる自信がないとも告白されたギュンター・ノルベルトは、彼女の口から出たマリアという姉のことを思い浮かべる。
彼女の年の離れた姉はどんな仕事をしているのかまでは不明だったが、定期的に家に戻ってきてはレジーナにとっては大金を持ち帰り、またしばらくすると家を出て行って何日間も帰ってこないような暮らしをしているそうだが、ギュンター・ノルベルトの本能が危険だと警告を発していた。
育児を使用人に任せて遊び歩いているような最低な-子どもの立場からすれば-両親だが、その二人と家にやってくる二人の友人知人などから感じ取るものとレジーナの話から感じ取ったものとは開きがあり、そこからギュンター・ノルベルトはできる限り近づかない方が良いのではとの危機感を得ており、彼女がなおも姉に頼ろうと詰め寄るのに口を閉ざす。
『ねえ、ギュンター、そうしましょう』
マリアならばきっとこの子を育てる力を貸してくれるだろうし金銭的な事も問題ないと必死になる妻に何故か素直に頷けず、どうだろうと呟きながら腕の中で不安そうに-彼には見えた-見つめて来る息子に何とか笑いかけ、心配しなくて良いと額にキスをする。
『ジーナ、その話は部屋でしよう』
『でも、ギュンター……』
どうしても今すぐここから一緒に姉の元に行くと言って欲しいと今にも泣きそうな顔で詰め寄られて困惑したギュンター・ノルベルトは何とか彼女を説得しようと試みるものの、レジーナの中ではここを出たいという意思は強いようで、彼の説得を端から聞き入れようとはしなかった。
出て行かずにここで育てる、嫌だ、出て行って姉に頼もうと押し問答のようなやりとりを廊下で繰り広げている時、子どものものだが子どもらしさのかけらも無い冷たさすら感じる声がギュンター・ノルベルトの背中に投げかけられる。
『……何を騒いでいるの?』
その声にその場にいた全員が振り返り、一人は懐かしさと後ろめたさを浮かべ、一人はただ目を丸くして声の主を見るが、そこにいたのは声同様年相応に見られることの少ない少女だった。
『アリーセ様、お帰りだったんですね』
『今帰ってきたの。ハンナ、何か食べたいわ』
『今日はケーゼクーヘンをご用意いたしましたよ』
ハンナが少女に笑顔でおやつの用意を伝えると、彼女の顔に一瞬だけ年相応の子供らしい笑みが浮かび上がるが、じっと見つめてくるギュンター・ノルベルトと見たこともない年上の少女を見たときにはその笑みも消え去っていた。
『久しぶりだな、アリーセ』
『帰ってきたの?』
こんな家に一時でもいたくないと言って家を飛び出したくせにもう帰ってきたのかと、二年近く前に家を飛び出した兄を冷たく糾弾した妹は、以前のように誰に対しても冷たく笑う兄の顔を想像していたが、その兄が乳児を抱いていることに気付き、少女の頃からすでに整っている顔立ちを歪める。
『それは?』
兄の腕の中にいる乳児に対しそれと呼びかけたことに鋭い反応をしたのはレジーナで、私の子供をそれなんて言わないでと言い放つと、ギュンター・ノルベルトの腕から抱き上げ、今度はここで頼れるものが息子しかないと言うように抱きしめる。
周囲の急激な変化に驚いた乳児が盛大な泣き声を上げると、アリーセ・エリザベスがうるさい、迷惑だから黙らせてと吐き捨てる。
『アリーセ様……』
『その人は誰?どうして私の家にいるのよ』
彼女の疑問は当然のもので、それに対してハンナが説明をしようとアリーセ・エリザベスと視線の高さを合わせるように腰をかがめるが、そんな彼女の背中にそっと手を置いたギュンター・ノルベルトが妹の前に膝をついたため、皆が驚きに目を見張る。
『アリーセ、話を聞いてくれ』
『……何の話?』
妹とこうして面と向かい合ったことはあったが、彼女の心を読むために、また己の本心を伝えるために向き合ったことが今まであっただろうかと彼の脳味噌の片隅が思案するが、それに羞恥を覚えてしまい口を閉ざしてしまえばきっと妹は己の息子をそれとしか呼ばないだろうことを感じ取っていたギュンター・ノルベルトは、ちゃんと説明をするから聞いてくれと本心からの言葉を伝えると、兄のそんな様子に何かを察した妹がきゅっと口を結んで小さく頷く。
『二年前、お前の言うとおり自由になりたくて家を飛び出した』
ここを飛び出せば自分は自由で好きなことが出来ると思っていたし、またその通りだったが、それに気付くと同時に今まで好きにさせてもらっていたことにも気付いたと自嘲したギュンター・ノルベルトの横顔は十六歳の少年には見えないほど落ち着いていたが、それとは違った意味で十歳には見えないアリーセ・エリザベスが兄の変化を敏感に感じ取り、次の言葉が出てくるのを待ち構える。
『……今俺が抱いていたのは俺達の息子だ。名前はフェリクス。イブに生まれた』
『あなたとその女の子供?』
『ちょっと、その女なんて言い方しないでよ!』
『……うるさいわね。名前を知らないのだから仕方ないでしょ』
『アリーセ、彼女はレジーナだ』
『ふぅん。でもどうでも良いわ、そんなの』
そこにいる女の名前などどうでも良い、私が気になるのはそこで今うるさく泣いている子供がこれからここに住むのか、ギュンターは帰ってくるのかということだけだと言い放ったアリーセ・エリザベスは、これからしばらくは親子三人で一緒にここに住むと教えられると青っぽい緑の瞳を限界まで見開くが、次いで体が震えてしまいそうな冷たい目でレジーナと泣き止まない乳児を睨み付ける。
『どうして泣くだけしか能がない子供とその女も一緒に住むのよ。ギュンターだけ帰ってくればいいでしょう?』
アリーセ・エリザベスの言葉にレジーナが顔色をなくして涙を浮かべるが、そんな彼女の腕から息子をそっと抱き上げ、確かに今は泣くだけしか能はないが、それが子供の仕事であり本能なのだと、妹の痛烈な罵倒にも以前と違う己を見せるように息子の頬にキスをしたギュンター・ノルベルトは、自分が愛する女性とその彼女の間に出来た息子を認めてくれなくても良いが、ここにいることだけは許してくれと、己のためには決して使うことのなかった言葉を穏やかに妹に告げると彼女の目がもう一度見開かれるが、唇をかみしめた後、ただおろおろしながら様子を見守っているハンナの前掛けを無意識に握りしめる。
その行為は彼女が思い通りにならなかったり悔しい思いをしたときに無意識にする行動だったが、妹がそう感じているのを察した兄は、己の言葉ではうまく説明も説得も出来ないことを痛感し、今ここにいる大人に任せた方が良いとも気付いて立ち上がる。
『ヘクター、ハンナ、アリーセのことを頼んでも良いか?』
『え? ええ、ええ、もちろんです、ギュンター様』
妹への説得を親代わりの二人に託し、怒りと不満を顔中に広げるレジーナの肩を抱いて自室に向かう事を告げてその場を立ち去るのだった。
部屋の中の空気が重苦しいものに変化した事に気付いたリオンは、居心地が悪そうに尻をもぞもぞさせてしまい、恋人の父と兄に落ち着きが無いと睨まれてしまう。
「……いや、だってさ、……」
リオンの言い訳じみた言葉に、普通はこの手の話を聞かされたときは深刻な顔をするものだとギュンター・ノルベルトがため息をつくが、深刻にしたいが自分にとってこの手の話は路傍の石のように周囲にあって当然のものだったから当時の親父とムッティの苦労が今なら理解できるし、兄貴がとった行動もレジーナが不安や不満を訴える気持ちも理解できると頭に手をやると、お前に分かるのかと二人から睨まれてしまう。
「や、俺自身は運が良かったけど、マザーやゾフィーがそのことで駆け回ってるのも見てきたしなぁ」
レオポルドやイングリッドが息子夫婦を見守る決意をしたことも分かるし、反発していた親の力を借りることなど本当はしたくないが自身の非力さを痛感しつつも戻ってきた兄貴の気持ちもなんとなく分かるが、一番理解できるのはこの家で頼るものがギュンター・ノルベルトしかいない中での子育てに対する不安を抱いていたレジーナだと告げながら組んだ親指をくるくると回転させたリオンは、目を見張る二人を交互に見つめながら無意識に指を回す。
「姉がいるんだからそっちに頼りたいって思うのは当たり前だよな」
しかも姉妹の仲は良かったようで、ならばなおさらだと肩を竦めるリオンにギュンター・ノルベルトが今度は目を細めるが、思いを口にすることはなかった。
「レジーナ達の出身地区には何度も遊びに行ったことがあるけどさ、あそこも俺が育ったとこと大差ないヒドさだったしなぁ。あんなところで子どもを育てりゃどうなるか、そりゃあ兄貴も不安になってここで育てたいって押し切るよな」
当時のギュンター・ノルベルトの不安を見事に推し当てたリオンに彼の目が限界まで見開かれるが、次いで呟かれた言葉に一度口を開くが何も言えずに閉ざしてしまう。
「でも、レジーナにとっては自慢で頼れる姉だったし、そこが生まれ育った世界だったんだ」
自分が生まれ育った世界が環境の良くない地区であったとしてもそこで暮らしていく以外になく、またその中で金を稼いで衣食住を与えてくれる姉が自慢に思えても仕方がないと己の環境と比べているかのような声でひっそりと呟いたリオンは、ウーヴェには滅多に見せることのない暗い自嘲の混ざった笑みを浮かべ己の世界とは隔絶した雲の上にいる二人に笑いかける。
「住む世界が違うってのを当時のレジーナは痛いほど感じてたと思うぜ」
ウーヴェと出会った頃の自分のように己の出自と比べれば眩しすぎて直視できないほどの世界で生きてきたギュンター・ノルベルトの世界に足を踏み入れた彼女は、きっとものすごく不安だったしコンプレックスを刺激されて辛かっただろうと肩を竦める。
リオンとしては別に当時のギュンター・ノルベルトの行動を責めるつもりもなかった。ただあの当時感じていたものをまざまざと思い出したギュンター・ノルベルトの顔が一瞬だけ赤みを増すが、次いで冷静さを取り戻そうとするように長く息を吐く。
「お前に何が分かる?」
「んー、正直な話、俺に分かるのは当時のレジーナの不安だけだな」
だから兄貴が本当はどんな思いでここに帰ってきたのかまでは分からないと肩を竦めるリオンを睨んだギュンター・ノルベルトだったが、そのリオンが一転して表情を真剣なものに切り替えたことに気付いて瞬きをする。
「……レジーナがここにいたのはひと月ほどじゃねぇの?」
二人そろって本気を見せろと言われたが、彼女の我慢の限界はひと月程度じゃなかったかと問うとレオポルドが舌打ちをしつつ頷くが、その横顔は思い出したくないと言いたげな苦々しさを伴っていて、この時の出来事がウーヴェの人生や家族との関係をがらりと変化させたあの事件に繋がるのだと気づき、手を組み替えて軽く握る。
「その時に親父が生まれて間もないオーヴェを金で奪い取ったってことか」
「……その言い方は腹が立つが、結果的にそうなったのだからそう言われても仕方がないな」
レオポルドの眉がきつく寄せられ不満を顔中に浮かべるが、そう非難されても仕方のないことを己はしたのだと自嘲すると、彼女にしてみればそうかもしれないとリオンが頷く。
「子どもは母親と三歳ぐらいまでは一緒にいるべきだって考えが今でも通ってるからなぁ。それにレジーナにしてみればここにいる人間で血の繋がりがあるのはオーヴェだけだったし」
心理的に頼れるもの-どちらかと言えば縋れるもの-は息子だけで、最も頼らなければならないしまた頼れるのはギュンター・ノルベルトだったが、この時彼女の胸にあった劣等感や苦痛などが彼には理解できないことを痛感していたはずで、それ故にひと月も保たずに家を出たのだろうと肩を竦めるリオンの言葉にギュンター・ノルベルトもレオポルドも先ほどから反論や同意の言葉を口にすることが出来ないでいた。
今まで自分たちが見聞きしてきたリオンの言動からすれば、あの当時の自分たちには正確に察することの出来なかった彼女の心をまさか読み取れるとは思わず、その驚きにリオンを凝視してしまうが、見られている本人は二人が意外に感じていることに気付いていないのか、首や肩の凝りをほぐすように肩を上下させたあと小首をかしげて天井を見上げる。
この家を出て行くことになった直接の理由は分からないが、ウーヴェを置いていく条件が付けられ、そこに口止めか慰謝料かはたまた手切れ金かは分からないが、なにがしかの金銭の授与があったのだろうとくすんだ金髪を掻きむしると、レオポルドとギュンター・ノルベルトが顔を見合わせる。
「……彼女は、お前が言うようにここでの暮らしには耐えられないと毎日言っていた」
ギュンター・ノルベルトの目が遠い昔を思い出すように細められ、悲しいことに一緒に頑張ろうと決めた約束はひと月もたたずに破られてしまい、出て行く時にこれもまたお前が言うとおり、彼女に纏まった金を手渡す代わりに子どもには二度と会わないと約束をさせたことを苦々しく呟く。
「……それで金で奪った、かぁ」
「ああ」
ギュンター・ノルベルトとレオポルドが同じような表情で頷きリオンの中の疑問が解消されたことを知るが、次の疑問を解消してくれと肩を竦められてもう一度顔を見合わせる。
「オーヴェがさ、なんで二通りの呼ばれ方をしてるのかってこと」
「ああ、それか」
「二通りと言うが、お前もフェリクスをオーヴェと勝手に呼んでいるだろうが」
リオンの言葉にレオポルドが苦笑しギュンター・ノルベルトが不愉快そうに顔を顰めるが、両親-この場合はレオポルドとイングリッド-がウーヴェと呼ぶのに、何故子ども達の間ではフェリクスなのかと首を傾げるリオンにギュンター・ノルベルトが吐息を零し、今までその質問を投げかけられたことは無いと呟けばベルトランは疑問に感じなかったのかとリオンが盛大に驚く。
「ああ、あの子はずっとウーとしか呼ばなかったからな」
「そー言えば今でも時々そう呼んでるな、ベルトラン」
ベルトランの店に顔を出すと、時々だがウーヴェをそう呼んでいる場面を見かけたことがあるリオンが小さく笑うと、ウーヴェもバートと呼んでいる事も二人に伝える。
ウーヴェと幼なじみが文字通り幼い頃から互いを呼ぶそれを変えていない事にレオポルドとギュンター・ノルベルトが安堵したように目を細めるが、咳払いを一つしたギュンター・ノルベルトが先程とは少し違う心持ちでリオンの二つ目の疑問に答え始めるのだった。