何度も屋敷を振り返りながら遠ざかる小さな背中を見送ったギュンター・ノルベルトは、己の腕の中でなんの事情も知らずにすやすやと眠る息子を見下ろし、ついさっき決意した事を実行するためにどうしても協力を仰がなければならない妹の部屋へと足を向ける。
小一時間程前、ギュンター・ノルベルトはただ一人の妻と決めていたレジーナと両親と話し合いを持ったのだが、この間ずっと二人で話し合ってきたことは実現しない未来と互いに気づき、別々の道を歩むことに決めたのだ。
その時、幼い息子をどちらが育てるのかで激しい口論となり、黙って様子を見守っていた父や母が思わず制止しなければならないような激しさになってしまい、結果落ち着きを取り戻した彼女がここを出て行くことで折り合いが付いたのだ。
ただ出て行くだけでは禍根を残すことに気付いたレオポルドが、蒼白な顔で涙を必死に堪えるレジーナに対し年齢に相応しくない大金を現金で渡す代わりに二度とここには近寄らないこと、息子のことを誰にも話さないことを約束させただけではなく、子どもに対してそこまでしなくてもとヘクターとハンナに後ほど恨みがましい目で睨まれることになるが、レオポルドが告げたことを自ら承諾した証に一筆書かせたのだ。
その書類を握りつぶしたくなったギュンター・ノルベルトだったが、己の感情よりもこれから先ここで両親の力を借りつつ息子を育てていかなければならないのだと決意を新たにすると、妹がいる部屋のドアをノックする。
『アリーセ、良いか?』
出て行ってしまったレジーナを目の敵にするかと思ったアリーセ・エリザベスだったが、彼女の思いは兄の想像を遙かに凌駕していたようで、目の前にレジーナがいても甥がいてもその存在を一切無視していたのだ。
己の妹ながら恐ろしいと思いつつも強く出る事の出来なかったギュンター・ノルベルトは、レジーナを何とか宥め妹の前で息子の世話をしたりしていたのだ。
彼女と妹の間に立って疲労していたギュンター・ノルベルトが妹の部屋をノックし、ドアを開けてもらえて胸をなで下ろすが、アリーセ・エリザベスが腕の中で眠っている息子に視線を向けないことに微苦笑する。
『なに?』
『……レジーナが出て行った』
『そうなの。でもそれはいるじゃない』
存在を無視していた女が出て行ったことについては何らの感想も抱かないと子どもとは思えない冷たい声で言い放った彼女だったが、まだ子どもがいると不満に目を細めれば、ギュンター・ノルベルトがこのとき初めて妹を上回る冷たい目で彼女を見下ろす。
『それじゃ無いと何度言えば分かる?』
『……っ……何の用なの?』
さすがに兄の冷酷な顔を目の当たりにした妹の声が怯んでしまうが精一杯の強がりで腕を組むと、ギュンター・ノルベルトが吐息を零した後、話があるから中に入れてくれと妹の背後を顎で示す。
『良いわ』
兄と甥を招き入れた彼女がドアを閉めて己のベッドに腰を下ろすと、ギュンター・ノルベルトが彼女の前の絨毯に直接座り込む。
『なに?』
『さっきも言ったが、レジーナが出て行った。フェリクスはあの人たちが育てることになった』
兄の告白にアリーセ・エリザベスの目が大きく見開かれるが、次にさっきと変わらない冷たい色を浮かべて甥にあたる乳児を見つめる。
『……レジーナだっけ、あの人が出て行ったのならその時に一緒に連れて行って貰えば良かったのに』
アリーセ・エリザベスにしてみれば己の家になんの関係も無いレジーナと、その彼女が生んだ息子がいること自体不愉快だった。
だから母が出て行ったのならその母に子どもも預けてしまえば良かったのにと、ベッドの上で膝を抱えて冷たく笑う妹に兄が一つ肩を竦める。
『彼女もそうしたかったけど、俺が断った』
『どうして?』
『俺がフェリクスを育てたかったからだ』
『……』
自分たちは血の繋がった親が目の前にいながらもその二人から優しくハグされたことも無ければ本気で叱られたことも無いと妹同様の冷たい笑みを浮かべたギュンター・ノルベルトにアリーセ・エリザベスが目を見張るが、何を言おうとするのかを聡明な脳味噌で察していたためじっと口を閉ざして兄を見つめる。
『その代わり、ヘクターとハンナが本当の親のようにしてくれた』
良いことをしたときは心から褒めてくれ、悪いことをしたときは本気で叱ってくれたと伏し目がちに告げた兄に妹も頷き確かにそうだとも呟くと、ヘクターたちのような親になってフェリクスを育てたいと顔を上げ、妹の目をまっすぐに見つめたギュンター・ノルベルトだったが、次いで悔しそうに唇を噛み締める。
『でもまだ力が無い。世間ではまだまだ何も知らないガキだ。こんな俺を一人前に扱ってくれる人なんていない』
悔しいがそれが現実なんだと歯軋りをしつつ己の無力さを罵る兄に呆然と目を見張った妹は、だから力を蓄える間、最高の保護者である両親の力を借りるのだと静かに宣言されて納得したように頷くが、ちくりと皮肉を言うことは忘れなかった。
『……あの二人がその子を育てられるはずが無い。結局育てるのはヘクターとハンナだわ』
『ああ、お前の言うとおりだ。……だから二人に育てて貰おうと思ってる』
二人、つまりはヘクターとハンナならばフェリクスが己の足で立てるようになるまで真っ直ぐに育ててくれるだろうと頷き、アリーセ・エリザベスもその通りだとこちらは一も二もなく大きく頷く。
『大きくなったフェリクスが自分で何でも判断出来るようになったとき、本当に育ててくれたのがヘクターとハンナだと分かるだろう。それがあの二人に対する最高の復讐になると思わないか?』
一人の人間が成長し社会に出て自立するまでに本当に必要なものは何なのかを考えられるようになった頃、地位があり名声も得ているが子育てには失敗している二人と、そんなものは持っていないが親として人として必要不可欠な愛情をいつも注いでくれる二人とではどちらがより親と呼べるのかをこの子に判断させることで両親への復讐にしたいと、ギュンター・ノルベルトが暗く笑うと妹もそれに同意するように伏し目がちに小さく笑う。
『……確かに、ギュンターの言うとおりね』
自分たちを顧みることなく金だけを与えて放置していた人たちを見返すことが出来るのなら、それならばその子がここにいても反対しないと頷く。
『ああ、ありがとう、エリー』
『エリー? 何を言ってるの?』
ギュンター・ノルベルトの口からこの時初めて妹のミドルネームの愛称が流れだし、一体何事だとアリーセ・エリザベスが小さく笑うが、兄は穏やかな決意を秘めた顔で妹に笑いかけ、これから先お前のことをアリーセでは無くエリーと呼ぶと告げる。
『どうして?』
『この子はバルツァーの三人目の子どもとして役所に届け出ることになった』
『そうなの?』
『ああ。それがこの子にとって最も良い道になる、そう思ったからな』
まだまだガキで世間知らずの自分の子どもよりもバルツァーの三番目の子ども、つまりは自分たちの弟として生きていく方がより良い人生を歩めるはずだと、我が子のためだけを思って決断したギュンター・ノルベルトは、交換条件を両親から提案されたことをアリーセ・エリザベスに伝える。
『自分たちの子どもとして育てるのなら名前を決めさせろと言われた』
『名前……』
『ああ。俺はこの子の幸せを願ってフェリクスと付けたが、あの人達もそう同じように思っているらしい』
我が子の幸福を願って幾度も彼女と話し合って付けた名前があるように、戸籍上の母になってくれようとしている母にも同じ思いがあるようで、その名前を付けさせてくれることが条件だと言われたことを伝えると、ペットに名前を付ければ可愛く思えるのと同じかしらと呟かれてただ無言で苦笑する。
『……俺はフェリクスと呼ぶことを譲るつもりは無い。あの人達も自分たちが決めた名前でこの子を呼ぶそうだ』
『この子、自分がなんて呼ばれるかちゃんと理解出来るの?』
家族内で二通りの呼び方をされたとき幼いフェリクスは自分のことだと理解出来るのかと心配する妹に何度も頷いたギュンター・ノルベルトは、だからお前のことをアリーセでは無くエリー、もしくはエリザベスと呼ぶと伝えて目を細めれば、頭の良い妹が何事かを閃いたように口元に子どもらしい笑みを浮かべるが、素直にそれを伝えるのが悔しいと言いたげに顔を背ける。
『エリー、協力してくれないか』
『……』
『フェリクスが独り立ちするまで……高校を卒業するまででもいい。名実ともにこの子の姉になってくれ』
この通りだ頼むと座ったまま頭を下げる兄を横目に見た妹は分かったから頭を上げてと小さく叫び、両親との関係は良くないが兄妹間は違うというように兄の前に座り込んで分かったからともう一度己の思いを伝えるとようやくこの時になって乳児の顔を覗き込む。
『……寝ている時は静かなのね』
『まあ、そうだな』
妹が初めて興味を示してくれたことが嬉しくて気持ちよさそうに眠る息子を思わず起こしてしまったギュンター・ノルベルトは、突然眠りを妨げられた驚きを精一杯の泣き声で表す息子をあやしながら謝り、妹からもうるさいから泣かせるなと叱られるが、その後、何を思ったのか彼女が小さな両手を差し出してきたことに気付き、妹の思いをくみ取ってまだ泣いている息子を彼女の手にそっと抱かせる。
『……温かい、のね』
『生きているからな』
気持ちよい眠りから覚まされ、不満では無く何事が起こったのかという不安から泣くことが出来るのも生きているからだと呟く兄の言葉など耳に入っていない様子でアリーセ・エリザベスが泣き続ける甥を見つめるが、涙に濡れるターコイズ色の双眸と視線が重なった途端、泣き声が小さくなっていくことに気付いて自然と笑顔になってしまう。
不思議なことに彼女の腕の中で泣いていた乳児はぴたりと泣き止んだだけではなく、己を抱いている人物が浮かべる表情をしっかりと読み取っているかのように笑みを浮かべ出す。
『……何が楽しいの?』
初めて接する赤ちゃんが自分を見て笑ってくれたのが嬉しかったのか、アリーセ・エリザベスが不思議な表情で語りかけると、小さな小さな手が彼女の顔に向けて伸ばされ指先が白い頬に触れる。
まだ自分たちと同じ世界を見ているとは思えない乳児だったが、叔母でありたった今姉となったアリーセ・エリザベスの頬を小さな指で撫でた後、アーと意味の無い声を上げ、己のそれに驚いた様に目を丸くするが、アリーセ・エリザベスが笑った為、アウーと声を上げる。
『なによ。何がそんなに楽しいの、フェリクス』
それは偶然だったが、今まで乳児や赤ちゃんと接したことの無い彼女にとってはとても新鮮な体験だったようで、ギュンター・ノルベルトの前で久しぶりに子どもらしい笑顔になり、弟に笑いかけては喃語を真似て乳児の相手をする。
己の息子であり弟にもなる子どもをあやす妹を兄は心なしか呆然と見つめつつも先程の願いを叶えてくれるのだと態度で教えられ、これからは三人兄弟だと笑って弟となった我が子が心身共に健康に成長してくれることを願い、姉になってくれたアリーセ・エリザベスへの感謝を胸に安堵から天井を見上げるのだった。
アリーセ・エリザベスが弟に迎え入れる心積もりを決めた頃、リビングでは祖父母から父母になろうとしている二人が真剣な顔で天井を見上げていた。
『……アリーセに姉になって貰う、か』
そう上手くいくだろうかと言う疑問を口にしたレオポルドは隣で妻が不安を感じつつも大丈夫だろうと頷く顔に微苦笑し、あの子の名前を自分たちが決めるのかと問いかけながらソファに深く座り直す。
『ええ。自分で決めた名前を付けないと自分の子どもという自覚が生まれないでしょう?』
実際は自分が産んだ訳では無いが、自分たちが暮らしていた世界ではこうした関係の親子は良くあることだったし、せっかく育てることになったのだから名前はやはり自分が付けたいと笑う妻に夫が今度は溜息をつく。
『確かにな』
『ええ。……わたくしが妊娠していないのに三人目の子どもが出来たと知れば世間は勝手に理由付けをしてくれるでしょう。そうなればギュンターの子どもという事実は少しは隠し通せるのではないかしら?』
自分たちが今最も気にかけなければならないのは己の体面を守ることではなく、息子とともに帰って来た幼い命が無事に成長し自らの力で歩いて行けるようになるまで庇護することだとも告げたイングリッドは、レオポルドの気持ちが同じ場所にあることに気付き小さく胸を弾ませる。
『リッドの言うとおりだな』
こうなった原因は自分たちにある、その結果がこうして結実してしまったのならばその果実をもがなければならないと決意をするように頷いたレオポルドは、ソファから乗り出すように上体を屈めるとイングリッドが自然と顔を寄せて夫の顔を横合いから覗き込む。
『名前はもう決まっているのか?』
『いいえ、まだ候補をいくつか考えただけよ』
『そうか……』
ソファの間にあるコーヒーテーブルで指先をタップさせつつ視線を左右に泳がせるレオポルドを急かすでも無くじっと次の言葉を待っている彼女だったが、聞こえにくい小さな声が告げた名前に小首を傾げ、その意味を理解した瞬間に大きく目を見張る。
『……初めて出会ったあの避暑地を覚えているか?』
『忘れるはずがないでしょう?』
夫の威厳が出てきた顔に出逢った頃のような表情が浮かんだのを見た妻は、一体何を言い出すのかと訝りつつも一つの期待を胸に秘めて次の言葉を待つ。
『俺が働いていた別荘の管理を任されていた叔父を覚えているか?』
遠い遙かな昔のように思えるあの時、自分たち二人を引き合わせてくれた人物がいたがその人を覚えているかと問われ、もちろん覚えていると強く頷いたイングリッドは、あの時一目見て好きになってしまった少年のような笑みを浮かべたレオポルドの横顔に息をのみ、無意識に口元に白くたおやかな手を宛がう。
『あの叔父がいたから俺たちは出会えた』
『そうね』
避暑地として名の通った小さな村にレオポルドの叔父が管理を任されていた別荘があり、そこにイングリッドが母とともにやってきたことでその夏別荘で管理の手伝いをしていたレオポルドと出会ったのだが、二人同時に当時のことを思い出して小さく笑い合う。
『……ギュンターが子どもを連れて帰ってきたことは、もしかすると良いことだったのかもしれないな』
『え?』
レオポルドがコーヒーテーブルに語りかけるようにぽつりぽつりと呟く言葉にイングリッドが顔を上げて瞬きをし、どういう意味だと口に出して真意を問いただすと、テーブルをタップしていた指先が動きを止め、そのまま彼女の膝に手が宛がわれる。
二人の子どもの世話を全くせず何もかもをヘクターとハンナに任せっきりにし、レオポルドは軌道に乗って大きくなり始めた会社経営に、イングリッドはそんな夫に愛想を尽かして観劇だパーティーだと出歩くようになった結果、家族が崩壊する一歩手前にまで来てしまっていたが、長男が子どもを連れて戻ってきたことは崩壊しかけている家庭を再構築する機会を与えられたのではないかと呟くレオポルドにイングリッドが無言で先を促す。
『……ギュンターが生まれた頃、あの子のために頑張ろうと思った』
『ええ、そうね。いつもそう言っていたわね』
『帰ってきたギュンターを見て、その時のことを思い出した』
自分にもあのような顔をして同じことを思っていた時期があった、それを思い出すと無碍にも出来ず、またさっきも言ったが当時の気持ちを思い出させてくれたことを告げて顔を上げたレオポルドは、イングリッドの目が優しくこちらを見つめていることに気付いて咄嗟に顔を背けるが、大切な話をしていることを思い出して自嘲する。
『いつしか目的よりも手段が大切になってしまっていた。ギュンターやアリーセに対してはもう遅いかもしれないが、フェリクスにはこれからいくらでも向き合える』
妻や子どもを守るために必死に働いてきた自分だが、いつの間にか働くことに重点を置いてしまい、結果守るべき存在に見放されかけていたが、自分たちの三番目の子どもとして乳児を育てることになったのは過去の己と向き合い今度こそ親としての務めを果たせと言われているのではないかと、滅多にないが自信がなさそうな顔で髪に手をやる夫に妻が何度も何度も頷き、その手を両手で握って胸元に引き寄せる。
『……レオ』
『だから、俺たちが結婚した時に決めたことを今度こそ果たしたい』
二人が身分差という格差を乗り越え結婚式を挙げた時に決めた家族を守る約束を果たさせてくれないかと妻の手を逆に握りしめながら問いかけた夫は、妻の白く綺麗な頬に涙が一筋流れていくことに気付きそっと肩を抱きよせる。
『……あなたの口からまたその言葉を聞けるようになるなんて、思ってもみなかったわ』
それに、今までならば相談も無く自ら思案し決断した結果だけを伝えてきていたのにと、涙に震える声が小さく笑いながらレオポルドを非難したため、それはなんだ、言い出す機会がだのと言い訳じみた事を呟きながらもレオポルドはイングリッドの肩をしっかりと抱き寄せて見事なブロンドに口付ける。
『だからフェリクスに、叔父の名前を付けたい』
あの日、自分たちを導いてくれた叔父がいたからこそ結婚をし今の自分たちになったのだから、結婚当初の気持ちを思いだして新たに家族になる子どもを育てていく中でこの気持ちを忘れないようにするため、同じ轍を踏まないようにするため自分たちの三番目の子どもの名前を叔父から貰いたいと告げて涙の流れる頬に口付けたレオポルドは、もちろんそれで問題は無いと何度も頷くイングリッドに素直に感謝の気持ちを伝える。
『ありがとう、リッド。……これからはウーヴェの母になってやってくれ』
叔父の名を貰いウーヴェと名付ける子どもの母になってやってくれと笑うと、あなたも父になって陰日向に守ってあげてと胸に手を宛がわれ、二人だから大丈夫だろうと笑って妻の目を見開かせる。
『それに、子育ての大先輩が二人いてくれる。何かあれば二人に相談しよう』
レオポルドが言う大先輩が誰だかすぐに気付いたイングリッドが綺麗な笑みを浮かべ、ええ、その通りだと頷いた為、引き取ることに決定した乳児の名前がウーヴェ・フェリクスと決まり、後日、正式な出生届がバルツァー家の顧問弁護士でありレオポルドの幼なじみであるウルリッヒを通じて役所に提出され、ウーヴェ・フェリクス・バルツァーとしての人生を歩み始め、二人はその父と母として新たな家族の形を作り始めたのだった。
何となく予想していたが己のものとはかけ離れた事実を教えられてさすがに今度は呆然としたリオンは無言で見つめて来る二人を交互に見つめるが、今までずっと喉の奥に刺さった小骨のように違和感と疼痛を与えてきていた言葉の真意も知ることになり、思わず目を見張ってその言葉を呟いてしまう。
「特別な子ども……」
「ああ。ウーヴェをそう呼んだ意味が分かったか」
お前が考えている様な、バルツァーの全財産を生まれたときから受け継ぐ資格を持つ子どもだから特別と呼んだ訳では無いとレオポルドが微苦笑を浮かべつつ腕を組み、椅子の背もたれを軋ませながら寄りかかる。
「破綻していた家族の関係を取り戻させてくれた子ども、それがウーヴェだ」
その言葉の本当の意味を教えられて目を見張ったリオンだったが、アリーセ・エリザベスがウーヴェやギュンター・ノルベルトのことをミドルネームで呼び合うのはある程度大きくなったウーヴェに違和感を抱かせないようにするためというよりは対外的な配慮もあったのでは無いかと問いかけ、ギュンター・ノルベルトに何度目かの衝撃を与えてしまう。
自分たち兄妹間でミドルネームで呼び合っているとウーヴェのことを自らが名付けたフェリクスと呼んでも誰も違和感を抱くことは無いし、両親にしてみれば自分たちが名付けた名を呼べるのだからなんの問題も無かった。
唯一の問題は家から出た時の周囲の声だった。
レオポルドやギュンター・ノルベルトらの考えでは進む道を自ら選択するようになった時に己の出生にまつわる話も聞かせようと思っていたのだが、この手の話は得てして周囲から流れ込んでくることが多く、それに対しては可能な限り予防線を張るようにしていた。
その一つが名前を親子と兄弟の間で呼び分けることだったが、もう一つがベルトランだと教えられてさすがに今回は素直に驚きを表現してしまう。
「ベルトラン!?」
「ああ。あの子はウーヴェが風邪を引いた時に病院で知り合ったと聞かされているが、本当はそうでは無い」
ウーヴェがほ乳瓶を片手にこの広い屋敷の中を必死に歩き回っていた頃からの付き合いであるベルトランだが、二人の出会いは偶然などでは無く自分たちの知人でドイツに引っ越してきたばかりの夫婦に同じ年頃の乳児がいる事をヘクター夫妻に教えられ、その子どもと友達になっていればウーヴェが己に関することをレオポルド達が望まないタイミングで耳にする可能性が低くなるとの思いから引き合わされたのだ。
ただ、出会いがどうであれ、同い年の二人の乳児はそれぞれほ乳瓶を手にしながら子どもだけがわかり合える言葉で親交を深めていったのだ。
恋人とその幼なじみの関係の由来を図らずも知ってしまい、そうだったのかと口に手を宛がったリオンは、ウーヴェを引き取って育てることにしたレオポルドが物事の善悪を己で判断出来る年頃になるまでウーヴェの耳に真実を伝えないように、また流れ込まないように周到に準備をしていたことも教えられるが、それら総てをぶち壊したのがあの事件だったと気づき、やるせない溜息を零して天井を見上げる。
ウーヴェとその家族の関係が大きく変化をしたのがあの事件だとは聞かされていたが、レオポルドの周到な準備もそれを遙かに上回る悪意によって壊されてしまったと呟くと重苦しい溜息がほぼ同時に二人の口から流れ出す。
「お前の言うとおりだ」
「……そっか」
総てはあの事件をきっかけに変化をしてしまったのだとどれほど悔い改めても戻す事の出来ない過去に対する後悔の念を顔中に浮かべるギュンター・ノルベルトとレオポルドにそっと頷いたリオンだったが、どんな理由かは不明だが不意に己の両頬を掌で叩いたかと思うとその行動に二人が目を見張る。
「……腹が減ってるときに事件の話とか聞けば怒りっぽくなるからちょっと休憩しても良いか、親父?」
「あ、ああ、構わないが、朝食はさっき食べたんじゃないのか?」
「んー、食ったけど兄貴がすぐそばでホットサンド食ってるから俺も食いたくなってきた」
だからハンナに頼んで作って貰おうと伸びをするリオンに呆れ顔の二人が今まで見せた真剣な顔や鋭さの片鱗は一体何だったと声を荒げてしまう。
ただそれがリオンの癖で本心を押し隠すためのある種の擬態であるとここにウーヴェがいれば指摘できるが、残念ながらレオポルドもギュンター・ノルベルトもリオンのことをまだまだ理解していなかった。
そんな二人を尻目にもう一度伸びをしたリオンがギュンター・ノルベルトの非難じみた視線をさらりと受け流して立ち上がり、腹ごしらえを終えてから戻ってくると残し、恋人の父と兄がいる部屋を後にする。
出ていったリオンの背中を呆然と見送った二人だったが、どちらからともなく肩を揺らしてしまい、気付いた時には二人揃って小さな笑い声を上げるほどだった。
自分たちが今まで必死になって隠し通そうとしてきた事実、それをリオンに伝えた意味の持つ大きさをリオンは理解していないと笑うが、それよりも何よりも、この世で最も重く大きな秘密だと思っていたものがリオンにとってはそうでも無いという現実を見せつけられた瞬間でもあったことに気づき、二人揃って微苦笑を浮かべる。
「……本当に仕方の無いヤツだな」
「全く。どうしてフェリクスはあんな男が良いんだ」
どうしても納得出来ないと腕を組む息子に無言で肩を竦めた父は、性格的に難があったとしても心の奥底ではしっかりと事実を受け止めるだけの力を持っているだろうからウーヴェも付き合えるのだろうとリオンを庇うと、父さんはフェリクスに甘いと言い放たれてしまう。
「どっちが甘いんだ」
お前にだけは言われたくないと不毛な親子間の口論が始まってしまうが、どちらもそれに気付いて口を閉ざす。
「……ウーヴェの目が心配だな」
「そう、だな。知り合いの医者に相談してみるかな」
見えないわけでは無いが世界が灰色というのは限りなく不便だろう、何とかならないか相談してみることを告げたギュンター・ノルベルトは、父が頷くのに合わせて立ち上がり、リオンに事件の話をするのならば呼んでくれと言い残して部屋を出て行く。
その長男の背中を見送った父は、家族間の秘密を昔風の言葉で言えばどこの馬の骨とも分からないリオンに話した結果、不安よりも心の閊えが取れかかっているように感じていたのだった。
恋人の父と兄から聞かされた出生の秘密。それについては多少珍しいもののどこにでもある話だとリオンは感じていたが、特に驚かせていたのはウーヴェを中心とした世界を築き上げるまでの家族間の関係だった。
先日ウーヴェ自らが見せてくれた家族写真から想像も付かないほどその関係は冷え切っていて壊れかけていたのだ。
その崩壊しかけていた関係を修復し新たなものへと作り替える原動力になったのがウーヴェの存在だと教えられてしまえば、今でもやはり小さな疼痛を伴って存在していた特別な子どもという意味が全く違ったものに感じられ、己がいかに小さな男なのかを痛感してしまう。
広い屋敷の廊下を歩き階段を上った先にあるドアの前に立って足を止めたリオンは、このドアの向こうで灰色の世界でも諦めず一緒に生きていこうと誓ってくれた恋人が本を読んでいるはずだと思い出す。
こんな小さな己でも信頼し総てを預けてくれる恋人に己は応えることが出来ているのかと自問するが答えは無く、自分自身を公平に評価出来るはずも無いと気付いて苦笑し、頭を一つ振って気分を切り替えるとウーヴェが常に望んでいる笑みを浮かべつつドアを開ける。
「オーヴェ、腹減ったんだけどさー……」
ドアを開けつつ腹が減ったから戻ってきた事を強調したリオンだったが、その配慮は無駄なことだったと目の前に広がる光景から教えられる。
珍しいことにウーヴェがベッドで異様な大きさを誇るテディベアの腿に腕を回した姿で寝ていたのだ。
緩く規則的に上下する背中から穏やかな眠りが訪れていることを知るが、ベッドにそっと近づいて顔を覗き込んだリオンは、その眠りが確かに穏やかなものであることをウーヴェの口元に浮かんだ笑みから確信する。
この家に戻ってくることで自然と引き起こされる感情の起伏。それがどのような幅を持つのかが分からずに不安に感じていた数日前からは想像も出来ない穏やかな顔で眠っているウーヴェの頬にかかる髪を掻き上げてやると、小さな声が流れ出す。
ウーヴェの寝顔をじっと見つめる経験など滅多に出来るものでは無いためにベッドサイドの床に腰を下ろして顔だけをベッドに乗せたリオンは、穏やかに眠るウーヴェを見ていると言葉では言い表せない気持ちと家族の重大な秘密-出来るならば誰にも知られたくなかったであろうそれ-を教えてくれたレオポルドと、リオンを気にくわないから口を開けば別れろと言い張るギュンター・ノルベルトが全力で守ろうとし、またその通りにしてきた為、今こうしてウーヴェがここで穏やかに眠れているのだとも気付くと二人の偉大な男の力に自然と頭が下がってしまう。
守るといくらでも口にすることが出来るが、あの二人はその対象から二十年以上も憎まれても疎遠になっていても今でも陰日向になってウーヴェを守っているのだ。
いくら家族といっても何故それが出来るのだと理解出来ないと問いかけたリオンだったが、その根源が家族の崩壊を防ぎ新たな関係へと導いてくれたウーヴェへの感謝にあるのだと教えられ、胸の奥にあった閊えが一気に消え去ったことを知る。
いつも家族の中心にいたウーヴェが知らず知らずのうちにバルツァーという家族を支えていたのだ。
それが事件で失われた衝撃はどれほどのものだっただろうか。
だが、その中でもレオポルドとギュンター・ノルベルトは、憎まれることでウーヴェを生かす道を選択し、今もそれを続けているのだ。
ああ、どう太刀打ちしても勝つことが出来ないと溜息をついた時、小さなかすれた声が聞こえ、のろのろと顔を上げるとターコイズ色の双眸を眠気に染めたままのウーヴェがじっとリオンを見つめていた。
「ハロ、オーヴェ」
「……どうした?」
「へ?」
眠気を感じてることを表すように何度も瞬きを繰り返しながらリオンを気遣う言葉を口にし、そっと頬を撫でてくれるウーヴェにリオンも目をぱちぱちさせる。
「あの人達に……何か言われた、のか?」
「へ? ああ、いや、そうじゃねぇけど、どうしてそう思ったんだ?」
ウーヴェの問いが意外に感じられ、どうしてだと目を見張ったリオンの頬にウーヴェが身体を伸ばしてそっとキスをする。
「泣いてるのかと思った」
「……」
ウーヴェの優しい言葉にリオンが膝立ちになってウーヴェに覆い被さるように身を屈めると、自然と上がった腕がリオンの背中に回される。
こうしてこちらの思いを口にせずとも察して気遣ってくれる優しさは持って生まれたものもあるだろうが、あの事件が切っ掛けに生まれたものだと知ってからは優しく笑える人は辛い事を今まで経験してきているからだとマザー・カタリーナにいつも聞かされていた言葉が身に染み、思わず鼻を啜ってしまいそうになる。
「泣いてねぇよ、オーヴェ」
お前やお前の家族が経験してきた苦労に比べれば自分が経験してきたことなどなんとちっぽけなものなのだろう、そう思えば涙なんて出てこないと自嘲すると、ウーヴェの手がリオンの背中を優しく撫で、苦労を比べることなど出来ない、その人はその人なりに辛い思いをしているのだと優しく諭されてうんと頷く。
「ひどいことを言われたんじゃ無いんだな?」
「ああ、それだけは断言出来る。――あの人達は本当にすごい。前にも言ったけどさ、マジで尊敬する」
出来る事ならあんな腹の据わった男になりたいと告げてウーヴェの手を取ってシーツに押しつけたリオンは、至近距離で目を覗き込み、早く灰色の世界から帰って来いと囁きながら額に口付ける。
「……うん」
「腹減ったって言って抜け出してきたけど、多分後で事件の話を親父が教えてくれると思う。……聞いて来ても良いか、オーヴェ?」
事件についてはお前から教えて貰うと約束したが親父から聞かされても良いかと問いかけつつ返事を待つと、長い間考え込むようにターコイズ色の双眸が左右に泳ぐが、何も隠し事をしないと約束したことを思い出したウーヴェが小さく頷く。
「ああ」
「ダンケ、オーヴェ」
もう一度ウーヴェの額にキスをしたリオンはウーヴェに覆い被さるようにベッドに身を沈めると、その重みを受け止めたウーヴェが満足そうな吐息を零す。
「いつかさ、親父みたいな男になるから……」
どうか待っていてくれ、必ずお前を苦しみから解放する、そして守ってやるとウーヴェの耳に直接囁きかけたリオンは、背中に回ったままの手が緩く上下に動き、うんという小さな声が返ってきたことに自然と安堵の吐息を零すのだった。
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