「ほんとに、好きだったんですよ。元彼なんかよりもずっと」
「あっそ」
いつの間にか、二人の手に握られていたコーヒーは缶ビールに姿を変えていた。
奈緒子はその日の仕事の全てを、電話一本でブロッコリーに押し付け、3本目のビールを開けた。
「あんたがものぐさな女でよかった」
言いながら、実家に送ろうと準備していたお中元用のビール箱を見る。
「なんかタイミング逃したら、どうでもいいかって気になってきて」
言いながら冷蔵庫まで四つん這いで進むと、冷凍庫で急激に冷やした缶を取り出す。
「缶ビールとか、久々に飲んだわ」
言いながら奈緒子は麒麟が描かれた銀色の缶を眺めた。
「いつも奈緒子さんは何を飲んでるんですか?」
「ワインとかカクテルとか…」
「へえ。さすが」
「———何がさすがなのよ」
自分が飲んだ缶をつぶしながら数える。4本。まあ、結構飲んだほうかな。
「さすがヴァイシャだなって」
「————なにそれ」
奈緒子も自分が飲んだ缶を小さく潰している。
こうして飲みながら片付けてしまうあたり、二人とも女だな、と思う。
「インドのカースト制、知らないんですか?奈緒子さんて歴史とか成績悪かった人?」
奈緒子の小さな手が愛に手招きをする。
素直に頭を寄せると、額に強烈なデコピンが飛んできた。
「知ってるわよ。“市民”。またの名を、庶民、でしょ」
奈緒子はいよいよ愛を睨みながら言う。
「馬鹿にすんのもいい加減にしなさいよね」
愛は新しい缶を開けながら、痛みを散らすように首を振る。
「馬鹿にしてませんよ。リスペクトです。リスペクト」
「はあ?」
「私の中でヴァイシャは、男なんかに振り回されたりせずに、我が道を行く、かっこいい女性を指すんです。自分のために働いて、自分のためにお金を使う。人生を充実させている女性を」
奈緒子も片手で缶の蓋を開ける。「男前~」と愛が笑う。
「じゃあ、あんたはなんなの」
「決まってるじゃないですか。シュードラですよ」
唇の上についいた泡を舌で嘗めとりながら愛が笑う。
「人のモノをこそこそ借りて、欲情と快楽に溺れている、私みたいな奴です」
トロンとした目で奈緒子が頬杖をつく。
「あんた、本当に、馬鹿なのね」
今日何回いわれたかわからない台詞を、やけにしみじみと呟く。
「シュードラだから、バラモンの教えを学ぶことも許されてなかったのね」
(ーーーー?)
意味の分からないことを言い出した奈緒子を見上げる。
「いい?いいことを教えてあげる。
きっと半年前の私だったら、今日、あんたを追いかけたりしてない。
あんたの車を尾行なんてしてない。
あんたの部屋になんか入ってきてない。
でも、今日の私はきたのよ。ここに。なんでかわかる?」
「ーーーなんで、ですか?」
「それは」
奈緒子はなぜか口にするのを拒むように一旦大きく息をつくと、悔しそうに口を開いた。
「部下を大切にすることを、教えてくれた男がいたからよ」
「教えてくれた男?」
意外過ぎる話の展開に愛は目を点にした。
「————それって、その。彼氏さんとかでーー」
「違うっ!!」
被せ気味に奈緒子の声が響く。
愛はますます目を丸くし、口を開いて上司を見つめた。
「違うけど!でも、教えてくれたのよ。私に。だからあんたを追いかけたの。あんたを失ってからでは遅いと思って」
ーーーーーあ。
「まあ失うっていっても、仕事辞めるとか、とんずらかくとか、そんなレベルの話だけど。
本当に命まで捨てようとしているなんて思わなかったんだけど」
ーーーーーちょっと。
「それでも、あんたを追いかけてきて、よかったと思ってる」
ーーーーーやばい。
「あんたと、こうして、温くて、ところどころジャリジャリと凍ってる、まずいビールが飲めて、よかったと思ってる」
ーーーーー奈緒子さん。
「だから、私はあんたに教えるわよ。既婚者なんかに手を出されちゃだめ。両親からもらった命をそんなつまらないものに捧げちゃだめ。わかった?!」
ーーーーーもう無理。
ポロポロと涙があふれだしてきた。
「ーーーごめんなさい。“泣く資格”ないのに」
今度は額に平手が飛んでくる。
「馬鹿ね。いいのよ。上司がいい話してんだから。泣きなさい」
「ーーーーぷっ。ーーーあはは」
「……おい」
奈緒子が目を細める。
「笑うとこじゃないんだけど」
呆れた奈緒子の顔がおかしくて、愛は笑った。
笑いすぎて、涙がこぼれてきた。
それでも笑った。
笑い涙で溺れるほどに。
呆れた奈緒子が缶を逆さに傾け、ビールを胃に流し込む。
「男前ですね」
飲み終わった缶を小さくつぶす。
「女ですね」
「ーーーどっちだよ」
二人は夕陽が差し込む部屋で、いつまでも笑い続けた。
はじける泡が見えないビールも、美味しいなと思った。
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