テラーノベル
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江戸の夏は照りつける陽光が石畳を焼き、湿った熱気が肌にまとわりつく。
そんな暑さを少しでも凌ごうと、神田川のほとりには涼を求める人々が集まっていた。
「瑞樹さん、ほら、あっちの木陰なら少しは涼しいですよ」
私は手拭いで額を拭いながら、隣を歩く瑞樹さんに声をかけた。
彼はといえば、この猛暑の中でも涼風を纏ったかのように凛としており、一滴の汗さえかいていない。
藍色の着流しが、揺れる水面の色を映して美しく光っている。
「……川か。水が、呼んでいるな」
瑞樹さんは川面を見つめ、独り言のように呟いた。
その碧色の瞳は、時折
私の知らない遠い場所を見ているようで、胸の奥が少しだけチリリと痛む。
その時だった。
「誰か、誰か助けて!お兄ちゃんがぁあ!!」
ひときわ高い子供の悲鳴が、穏やかな川べりの空気を切り裂いた。
見れば、川遊びをしていた少年の一人が
急な深みにはまったのか、濁流の中へ飲み込まれようとしていた。
「大変!どうにかしないと……っ!!」
叫ぶ私の横を、風が通り抜けた。
瑞樹さんだった。
彼は躊躇うことなく、岸から水面へと踏み出した。
───その瞬間
信じられない光景が目に飛び込んできた。
瑞樹さんの足が水に触れた刹那
川の流れが「意志」を持ったかのように左右へと割れたのだ。
轟々と音を立てていた水が、彼の歩む道だけを避けるように盛り上がり、まるで透明な壁を作っている。
「え……?」
野次馬たちのどよめきが上がる中
瑞樹さんは割れた川底を悠然と歩き、溺れかけていた少年をひょいと抱き上げた。
彼が岸に戻り、少年を震える母親の元へ届けた瞬間
割れていた川は再び大きな音を立てて一つに戻った。
あたりは水を打ったように静まり返った。
少年を救った英雄への歓声よりも先に
あまりに非現実的な「奇跡」への恐怖と困惑が、人々の間に広がっていく。
「今のは、なんだ……?」
「川を、割ったのか……?」
ざわめきが大きくなる前に、私は瑞樹さんの腕を掴んだ。
「瑞樹さん、行きましょう!早く!」
人混みを離れ、静かな柳の木の下まで辿り着いたところで、私はようやく足を止めた。
瑞樹さんは、自分のしでかしたことの重大さに気づいていないのか
不思議そうに自分の掌を見つめている。
「……無意識だった。ただ、あの子を助けねばと念じただけで、水が勝手に道を譲ったのだ」
彼の手首のあたり。
袖から覗く白い肌に、一瞬だけ
虹色に輝く小さな「鱗」のようなものが浮かび上がり、また消えたのを私は見逃さなかった。
「瑞樹さん、あなたは……」
「さよ。俺は、やはりただの人間ではないらしい」
瑞樹さんは自嘲気味に笑い、柳の葉をそっと揺らした。
「川を割り、雨を呼ぶ。こんな得体の知れない存在が隣にいて、お前は怖くないのか?」
その問いに、私は真っ直ぐ彼の目を見て答えた。
「怖くはないですよ、瑞樹さんが川を割ったのは、あの子を助けたかったからでしょう?咄嗟に動ける人だって中々いないんですから、その心は、どんな人間よりも温かいですよ」
私は彼の手を、そっと両手で包み込んだ。
ひんやりとした温度。
けれど、その奥には確かに、あの日聞いた「水の底の鼓動」が流れている。
「あなたが何者でも、用心棒で、八百万堂の居候であることに変わりはありませんし!私は味方です」
瑞樹さんは一瞬、驚いたように目を見開いた。
やがて、その碧色の瞳にこれまでにないほど柔らかな光が灯る。
「……味方、か。不思議な響きだ。だが、悪くない」
彼は私の手を、壊れものを扱うような優しさで握り返した。
夏の強い陽射しの中
私たちの間に、言葉にならない確かな信頼が芽生え始めていた。
瑞樹さんの正体に一歩近づくたび
何者なのか、という疑問を抱く。
けれど、繋いだ手の冷たさが、今は何よりも心地よかった。
遠くで鳴り始めた雷鳴が、また新しい雨の予感を運んでくる。
それは、江戸を濡らす夕立か。
それとも、瑞樹さんの優しさか。
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