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静寂に包まれた特別な店で、少女は出会う。 冷たく優雅な女神のような存在と、無邪気な微笑みを向ける幼子。 胸に秘めた願いが動き出す時、運命の歯車は静かに回り始める──。
丘の上には、静かに時を刻むように
ひっそりと佇む一軒の喫茶店があった。
瓦屋根の街並みから少し離れ
騒がしさからは隔絶されたその場所は
まるで──
時が緩やかに流れているかのように
穏やかで
春の陽光が柔らかく丘の緑を包み込んでいた
喫茶店の周囲には
丹念に手入れされた桜の庭園が広がっている
幾本もの古木が枝を伸ばし
ふわりと舞い散る淡紅の花弁が
空気そのものを霞ませるように踊っていた。
風は音もなく吹き抜け
地面には花びらが折り重なり
まるで⋯⋯
桃色の絨毯が敷かれているかのようだった。
その中でも
ひときわ目を引く巨桜──
どっしりとした幹は
人の歴史を知るかのような重みを湛え
力強く広がる根は
この大地に深く繋がっていた。
まるで
この丘全体がその木の呼吸に合わせて
鼓動しているかのように
空気がほんの僅か震えている。
桜のすぐ隣に建てられた喫茶店は
クラシカルな洋館の趣を漂わせていた。
白く磨かれた石造りの壁には蔦が這い
風にそよぐ葉が優しく影を落としている。
窓枠は深いマホガニー色で縁取られ
緩やかに弧を描くその形は
柔らかな陽の光を中へと取り込む。
瓦屋根は黒漆に似た艶を湛え
和の意匠を残す繊細な彫刻が
軒下に連なっていた。
扉は重厚な木製。
深い栗色の板に丁寧な研磨が施され
真鍮の取っ手が静かに光を返している。
扉の横には小さな黒板が置かれ
白墨で書かれた『喫茶 桜』の文字が
春の花のように優しく人目を引いた。
──そして
その前に立つ一人の少女。
肩に掛からない程の黒髪ボブが春風に揺れ
翠緑の瞳が
戸惑いの色を帯びて細かく瞬いていた。
小柄な体に淡いベージュのコートを羽織り
足元には僅かに泥の跳ねたスニーカー。
街からここまで
長い道を歩いてきたのだろう。
少女──
レイチェル・カメレリス。
その指先は真鍮の取っ手へと伸ばされるも
ぎりぎりで止まった。
──触れることができない。
まるでその扉の向こうに
自身の全てを暴かれてしまうかのような恐怖
もう一度、指を伸ばす。
また、引っ込める。
何度も繰り返されるその動作は
躊躇と焦燥が入り混じる無言の葛藤だった。
胸の奥に隠してきた──
他人には決して理解されない〝秘密〟
それが、あまりに異常なものなのか。
あるいは
自分の心が壊れてしまっただけなのか。
答えは未だ分からない。
それでも
それを抱えたまま生きていくことに
限界が近いことだけは確かだった。
レイチェルの耳に届いた、ささやかな噂。
『喫茶 桜』──
「片想いの相手の気持ちが知りたければ」
「友人の嘘があるかどうかも」
「知りたかった事が──」
「ただ思うだけで、答えが返ってくる」
そんな非現実的な囁きが
気まぐれに通っていた大学の
昼休みの教室で交わされていた。
女子生徒たちの笑い声に紛れて
語られていた他愛もない話──
だが、レイチェルの心は
その言葉に静かに吸い寄せられていた。
──ほんの少しでも、答えがあるなら。
「⋯⋯入るだけなら、いいよね⋯⋯」
誰に向けたわけでもない
か細い独り言が唇から零れ落ちる。
震える手が
再び真鍮の取っ手に触れようとする。
この店が自分のことを知るはずがない。
それでも。
それでも──
どうしても、この扉の先に
〝答え〟がある気がして、ならなかった。
⸻
──レイチェルには、家族がいなかった。
けれど
かつて確かに〝いた〟記憶だけはある。
母の髪の、あの柔らかな香り。
父の手の、包み込むようなぬくもり。
ほんの幼い頃の記憶──
だが、なぜか思い浮かぶその顔は
いつも恐怖に歪んでいた。
化け物を見るように怯え
声を上げられずに震える母。
怒りとも哀しみともつかぬ表情で
睨みつける父。
──なぜ?
あの日、何が起きたのか。
今ならレイチェルにも分かる。
彼女は──〝誰にでもなれた〟
カメレオンのように。
ただの色彩だけでなく
姿形も、声も、雰囲気も。
それは
あの日の幼い願いから始まった。
「お姫様になりたい」
テレビに映る美しい女性に
ただ純粋な憧れを抱いただけだった。
そして、気づけば──
鏡の中の自分が、別人になっていた。
金色の巻き髪。
深い蒼の瞳。
レースのドレスに身を包んだ
自分ではない誰か。
その姿に、無邪気に笑い
母のもとへと走った。
──その瞬間、崩れた。
母の顔が恐怖に引き攣り
父の怒声とともに頬を打たれた。
床に倒れたレイチェルを
両親は、もはや
〝娘〟としては見ていなかった。
化け物。
理解できない存在。
それが──あの時の目だった。
あの日を境に、家族は遠ざかっていった。
怯える母。
遠巻きに睨む父。
その家に、自分の居場所はなかった。
だから、家を出た。
そして
街を変え、姿を変え、名前を変え──
生きてきた。
誰かと関われば
自然とその人の姿を真似てしまう。
やがて、それが習慣になり
癖になり
──呪いになった。
気づけば
自分の〝本当〟が分からなくなっていた。
自分の顔も。
声も。
性別すら──曖昧。
鏡を見れば
そこにはいつも〝誰か〟が映っている。
けれど、その〝誰か〟は
決して『レイチェル』ではなかった。
「⋯⋯こんなこと
世界中で私だけなんじゃ⋯⋯?」
その思いが頭を過ぎった瞬間
胸の奥に、穴が空いたような感覚が広がった。
誰にも理解されない。
誰にも相談できない。
けれど、それでも。
どこかに〝答え〟があるなら。
自分という存在を失いきってしまう前に──
せめて、それを、知りたかった。
だから、彼女はここにいる。
春の陽光が降り注ぐ丘の上──
幻想のような桜の花が舞う中で。
『喫茶 桜』
その扉の前に、静かに立っていた。
かすかに震える指先が、再び──
冷たい真鍮の取っ手に触れた。