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丘の上にはひっそりと佇む
一軒の喫茶店があった。
町の喧騒から離れた、静かな場所。
丘の上からは
瓦屋根が連なる街並みと
遠くに聳える
教会の尖塔が一望できる。
店の周囲には
まるで庭園のように整えられた
桜の木々が広がり
淡い花弁が風に舞っていた。
春の陽光に照らされたそれは
まるで、霞が漂うように
幻想的な光景を作り出していた。
その中でも
一際目を引く
大きな桜の樹があった。
幹はどっしりと太く
根は地面を這うように広がり
幾年もの時を重ねた事が伺えた。
その巨桜の直ぐ隣に建てられた店は
クラシカルな石造りの
洋館風の建物だった。
白い石壁には蔦が絡み
緩やかに弧を描く窓枠は
深い色の木で縁取られている。
軒先には
和の意匠を感じさせる
細やかな彫刻が施され
黒瓦の屋根が
その落ち着いた雰囲気を
引き立てていた。
入口の扉は重厚な木製で
濃い栗色に磨き上げられ
真鍮の取っ手が鈍く光っている。
その脇には
可愛らしい額に入った黒板が
置かれていた。
『喫茶 桜』
そう書かれた文字は
丁寧な筆跡で
柔らかくも
何処か品のある文字だった。
その看板の前に
一人の少女が立っていた。
少女は
肩に掛からない程の黒髪ボブを揺らし
エメラルドグリーンの瞳を
戸惑いがちに揺らしている。
ーレイチェル・カメレリスー
彼女の指先は震えながら
真鍮の取っ手に向かって伸ばされる。
しかし
ほんの僅か触れそうになった所で
その手は引っ込められた。
再び手を伸ばしては
引っ込める。
その繰り返しに
焦りと躊躇が入り混じっていた。
レイチェルには
誰にも言えない秘密があった。
それが他人には理解できない程
異常なことなのか
或いは自分が何か壊れてしまったのか⋯
彼女自身
答えが分からないまま
悩みを抱えていた。
相談する事もできず
ずっと胸に閉じ込めてきた。
その中で
ふと耳にした噂があった。
─片想いの相手の気持ちが知りたければ
この店に行くといい─
─恋人の嘘があるかどうかも
店内でただ心に強く思うだけで分かる─
─悩みを思うだけで
心に響くようなアドバイスがあった─
気紛れで通っている大学の
女子生徒達の間で広がっている
そんな噂。
彼女は
それが噂話に過ぎないと
分かっていた。
それでも
どうしても縋りたくなるほど
心は限界に近かった。
「⋯⋯入るだけなら、いいよね⋯⋯」
か細い声が
震える唇から漏れた。
レイチェルは再び
震える指先を取っ手に向ける。
この店が
自分の抱えた悩みを知る筈がない。
それでも
どうしても⋯⋯
この扉の先に
答えがあるような気がして
ならなかった。
レイチェルには家族はいなかった。
けれど
かつては確かに
〝いた〟という記憶は
僅かにある。
母の髪の柔らかな感触。
父の大きくて温かな手。
幼い頃の記憶の断片が
時折ぼんやりと脳裏に浮かぶ。
しかし
思い浮かぶ顔は
何故かどれも恐怖に歪んでいた。
怯え
醜く顔を歪め
まるで化け物を見るような目で
自分を見下ろしていた。
何故あの時
あんな顔をされたのか⋯
レイチェルは
今ではその理由を知っている。
彼女は
誰にでも〝なれた〟ー⋯。
まるでカメレオンが
周囲の色に溶け込むように。
思い思いの人物像に
自分の姿を変えられた。
それは
幼い頃の無邪気な願いが引き金だった。
ーお姫様みたいになりたいー
ある日テレビに映る
美しい女性タレントを見て
ふとそう願った。
その時の事は
今でも鮮明に覚えている。
鏡の中に映った自分の姿が
そのタレントに変わっていた。
髪は艶やかな金に染まり
目は深い蒼に輝き
レースをふんだんに使った
華やかなドレスに包まれた姿。
まるで絵本で見た
理想の『お姫様』
そのものだった。
はしゃぎながら
母に駆け寄った瞬間
その顔が⋯醜く歪んだ。
「あ⋯⋯っ」
母の顔は恐怖に引き攣り
父が立ち上がる音がした。
次の瞬間
レイチェルの頬に鈍い衝撃が走り
床に叩きつけられていた。
母は怯え
声も上げられないまま
レイチェルを指差して震えていた。
父は恐る恐る近付き
まるで其処に
得体の知れないものが
転がっているかのように
彼女を睨んでいた。
自分の娘が
目の前で突然
別人に変わったのだから。
それが家族の怯えの理由であると
レイチェルは今なら分かる。
あの日を境に
家族は彼女を避けるようになった。
父の冷たい、嫌悪の目。
母の震える、怯えた声 。
暫くして
彼女は家を出た。
それからは
街を変え
姿を変え
行く先々で名を変えながら
生きてきた。
最初は楽しかった。
目を引く美しい少女になったり
力強い青年になったり。
誰かと深く関わると
その人の姿に自然と変わってしまう。
何度も何度も変わり続けるうちに
レイチェルは気付いた。
─自分の本当の顔が⋯思い出せないー
気が付けば
子供の頃の自分の姿も
声も
記憶の中で霞んでいた。
思い出せない自分の顔が
そもそも女だったのか
男だったのかすらも
今となっては
曖昧になり分からない。
鏡を見れば
いつも〝誰か〟の顔が映っている。
そんな生活が続き
レイチェルは自分が何者なのかさえ
分からなくなっていた。
「⋯⋯こんなこと
世界中で私だけなんじゃ⋯?」
その疑念が頭を過ぎった時
心の奥にぽっかりと
穴が空いたように感じた。
誰にも相談できず
誰にも理解されるはずがない。
それでも
それでも⋯⋯もし
何処かに、答えがあるのなら。
このまま〝自分〟を見失う前に
せめてそれだけでも知りたかった。
だから彼女は
『喫茶 桜』の扉の前に立っていた。
藁にも縋るような思いで
その冷たい真鍮の取っ手に手を掛けた。