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#探偵
橘靖竜
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にゃいにゃい
74
第313話 戻ってくる記憶
【どこでもない層/深部】
警告は、一つではなかった。
《被験体C/D》
《自己認識変動》
そして。
《被験体E》
《削除済み記憶領域・再反応》
白峰律は、並んだ表示を見つめていた。
昨日まで
実験はそれぞれ別のものとして扱われていた。
身体と意識を入れ替えた者。
別人の記憶を書き込まれた者。
自分の過去を消された者。
目的も
手順も
結果も違う。
だが今、複数の被験者に
同時に似た変化が起きている。
「順番に見ます」
白峰が言った。
カシウスは止めない。
オルガが最初の記録を開く。
被験体CとD。
互いの意識コアを
別々の身体へ入れ替えられた二人。
さらに。
身体の元の持ち主の記憶と人格情報を与えられている。
実験直後
一方は新しい身体と人生をかなり受け入れた。
もう一方は最後まで拒絶した。
同じように書き換えたのに
結果は違った。
そしてその違いは時間が経つほど
さらに大きくなっていた。
◆ ◆ ◆
最初の被験者が起きていた。
Dの意識を持つ
Cの身体。
以前
身体側の記憶を受け入れ
自分をCだと名乗るようになった男。
今も鏡を見れば
そこにある男性の顔を自分のものだと思っている。
だが、オルガが記録を確認しながら聞いた。
「昨日の食事、覚えてる?」
「覚えてる」
「何を食べた?」
男が答える。
内容は正しい。
「その中で、嫌だったものは?」
「別に――」
そこで男が止まった。
「どうしたの」
「いや」
皿の上。
昨日出された料理。
Cが好きだったもの。
だから与えられた人格情報でも
好きだと認識している。
だが男は少し顔をしかめた。
「……何で食べたんだろう」
オルガが聞く。
「嫌いだった?」
「違う」
「じゃあ?」
男は自分でも分からないような顔をした。
「食べたかった」
「それなら問題ないでしょう」
「でも」
一度、言葉を止める。
「食べた瞬間、気持ち悪かった」
白峰が顔を上げる。
男は続ける。
「味がまずいとかじゃない」
「身体が受け付けなかった?」
「身体じゃない」
胸を押さえる。
「もっと……中」
Dの記録。
同じ料理。
幼い頃。
食べて激しく体調を崩した経験がある。
それ以来
本人はその匂いだけでも避けていた。
だがその記憶は
現在の表層認識にはほとんど残っていない。
深層Cの声が響く。
『被験体D由来の情動反応と一致します』
男がゆっくり顔を上げた。
「D?」
誰もすぐには答えない。
「誰だ、それ」
白峰が静かに言う。
「あなたです」
男の顔が固まった。
「……何?」
「元の意識コアの持ち主です」
「俺はCだ」
「今は、そう認識しています」
「今は?」
男の声が低くなる。
「何だよ、その言い方」
白峰はそれ以上無理に説明しなかった。
だが、男の表情には
すでに小さなひびが入っていた。
◆ ◆ ◆
その日の午後。
別の異常が出た。
廊下を歩いていた男が
突然立ち止まった。
右。
左。
誰も何も指示していない。
男は迷わずある方向へ曲がった。
そのままいくつもの区画を通り
最後に一つの扉の前で止まる。
白峰たちは
少し離れた場所から記録を見ていた。
男が言う。
「ここ」
オルガが聞く。
「何が?」
「帰り道」
沈黙。
男自身が次の瞬間顔を歪めた。
「……違う」
その場所は
現在の深部施設ではない。
過去。
Dが暮らしていた町の
自宅へ向かう交差点。
空間の形が
偶然、似ていた。
男は壁を見る。
「俺、何言ってる?」
深層Cの声。
『被験体D記憶参照』
『自発反応』
男がゆっくり後ずさる。
「知らない」
呼吸が速くなる。
「俺はこんな場所知らない」
でも身体ではない何かが知っている。
その感覚が
本人を最も怯えさせていた。
◆ ◆ ◆
次は。
Cの意識を持つDの身体。
こちらは最初から
身体側の人生を拒絶していた。
だから白峰は
ある意味では変化が少ないと考えていた。
だが違った。
拒絶していたはずのDの記憶の一部が
今度は自分の感情と結びつき始めていた。
オルガが一枚の写真を出す。
Dの家族。
本人は以前
「知らない」と答えた。
今、写真を見る。
長い沈黙。
「……この人」
「誰?」
「分からない」
「本当に?」
「名前は知ってる」
Dの母親の名前。
書き込まれた記憶として存在している。
「それだけ?」
被験者は答えない。
目から涙が落ちた。
本人が驚いたように頬へ触れる。
「まただ」
白峰が聞く。
「また?」
「最近」
写真を見る。
「知らない人を見て、泣く」
胸を押さえる。
「でも」
言葉が震える。
「知らないって言えなくなってきた」
白峰の表情が変わる。
被験者は続ける。
「この人が笑った顔」
「怒った声」
「風邪ひいた時に持ってきたスープ」
「全部、思い出せる」
「それはDの記憶です」
「分かってる」
被験者が白峰を見る。
「でも」
一度息を吸う。
「思い出した時に、懐かしいって思うのは」
声が小さくなる。
「誰なんだ」
誰も答えられなかった。
◆ ◆ ◆
記憶は
ただの映像ではなかった。
その場で
何を感じたか。
誰を好きだったか。
何を怖がったか。
それらと結びついている。
最初は
「他人の記憶」として入れられたもの。
だが何日も何度も思い出せば。
今の自分の感情と絡み始める。
白峰はその変化を見て
ようやく理解する。
人間へ記憶を入れるということは
本棚へ本を置くようなものではない。
一度その人の中へ入れた時点で
別の記憶。
別の感情。
今の経験。
それら全部と繋がっていく。
後からきれいに
一つだけ取り出せる保証など
最初からなかった。
◆ ◆ ◆
そして
被験体E。
記憶を消された男。
十七歳の夜。
雨。
車。
事故。
友人の死。
自分が原因だと考え続けた罪悪感。
それらは参照できない状態にされていた。
男は事故を覚えていない。
友人の死も知らない。
それでも雨の日には胸が苦しくなる。
車のライトを見ると手が震える。
それは以前から分かっていた。
今回はさらに違う。
睡眠記録。
深層Cが再生する。
男の寝言。
最初意味のない音。
次。
一つの名前。
白峰が画面を見る。
「これは」
オルガも確認する。
事故で死亡した友人の名前。
男が眠ったまま
もう一度呼ぶ。
「……ごめん」
白峰の表情が固まった。
事故を覚えていない。
死んだことも。
自分が原因だと考えていたことも。
全て削除した。
それなのに謝っている。
男の頬に
涙
深層Cが結果を反映する。
《削除対象記憶・直接参照なし》
《関連情動反応・上昇》
《名称情報・再出現》
カシウスが初めて少しだけ前へ意識を向ける。
「どこから名前が戻った」
深層Cの声。
『特定不能』
「削除漏れは」
『確認されません』
「ならなぜ」
『関連情報から再構成された可能性があります』
白峰の目が動く。
「再構成?」
『はい』
事故そのものは消した。
でも事故の前に
友人と過ごした記憶。
友人の名前を見た記録。
別の人物がその友人について話した場面。
事故後に変わった行動。
雨を避けるようになったこと。
大学へ進まなかったこと。
車を運転しなくなったこと。
人生のあちこちに、その人物が残っている。
一つの中心記憶を消しても
周囲から形が戻る。
白峰が呟いた。
「人間の記憶は」
カシウスが見る。
「何だ」
「一つずつ独立していない」
「分かっていたことだ」
「分かっていたつもりだった」
白峰は眠るEを見る。
「これほどとは思っていなかった」
◆ ◆ ◆
数時間後
被験体たちの記録が一つの画面へまとめられた。
A/B。
元の名前と
元の家族を
夢で思い出し始めた。
C/D。
身体側の記憶と
元の感情が
互いに混ざり始めている。
E。
消したはずの人物名を
別の記憶から再構成した。
白峰が言う。
「成功じゃない」
カシウスは答えない。
「私たちは、書き換わった直後だけを見ていた」
オルガが記録を眺める。
「時間経過による再結合を想定していなかった」
「ええ」
白峰は頷く。
「人間は固定された状態じゃない」
昨日。
今日。
明日。
思い出す。
忘れる。
誰かと話す。
新しい経験をする。
そのたび
記憶の意味も変わる。
「書き換えた瞬間にAになったから」
白峰が言う。
「ずっとAのままだと思った」
カシウスがようやく答えた。
「なら」
白峰を見る。
「もっと深く消せばいい」
空気が止まった。
白峰の目が細くなる。
「何を」
「戻ってくる経路だ」
カシウスの声は穏やかだった。
「Bの記憶が残るなら消す」
「Dの感情が残るなら抑える」
「Eが関連情報から友人を再構成するなら」
少し間。
「関連する全記憶を消せばいい」
白峰の顔から表情が消えた。
「どこまで?」
「戻らなくなるまでだ」
「友人の記憶を全部?」
「必要なら」
「家族も?」
「必要なら」
「学校も」
「行動も」
「事故のあと選ばなかった人生まで?」
カシウスは少しも揺れない。
「そこまで原因と繋がっているなら」
白峰が低く言う。
「それを全部消したら」
カシウスを見る。
「何が残るんです」
「新しく作ればいい」
白峰の目が僅かに開く。
カシウスは続ける。
「古いものが邪魔なら捨てる」
「必要な記憶を与える」
「必要な人格を作る」
「安定するまで」
白峰が遮った。
「それは人を治してるんじゃない」
カシウスが見る。
「では何だ」
「消しているんです」
静かな声。
だがはっきりしていた。
「元の人間を」
◆ ◆ ◆
カシウスは
しばらく何も言わなかった。
やがて。
「榊原梓も同じだ」
白峰の表情が変わる。
「何が」
「長い時間」
「記憶を失い」
「名前を失い」
「身体から切り離された」
「それでも君たちは、今の存在を榊原梓だと言う」
「本人がそう名乗ったからです」
「実験体が新しい名前を自分で選べば?」
白峰はすぐには答えなかった。
カシウスが続ける。
「AでもBでもない」
「新しい名前」
「新しい人生」
「それを本人が選んだなら」
「君は認めるのか」
白峰は被験体たちを見る。
Aか
Bか
どちらかに戻す。
その二択自体が
自分たちの都合かもしれない。
「……認めます」
カシウスの目が僅かに変わる。
「ただし」
白峰が続ける。
「本人が、本当に選べる状態なら」
「本当に?」
「はい」
「どうやって証明する」
白峰は答えられない。
記憶を書き込まれ。
人格を変えられ。
自分が誰なのかも分からない人間の。
「選択」が。
どこまで本人のものなのか。
簡単な答えはない。
それでも白峰は言った。
「だからこそ」
一度息を吐く。
「私たちが先に答えを決めちゃいけない」
◆ ◆ ◆
その夜。
被験体Eが目を覚ました。
白峰が呼ばれる。
男は寝台の上で
ぼんやり天井を見ていた。
「どうしました」
白峰が聞く。
男は長く何も言わない。
やがて。
「夢を見た」
「どんな?」
「友達がいた」
白峰の目が動く。
「名前は?」
男は答える。
事故で死んだ友人の名前。
「その人を知っていますか」
「分からない」
「でも、名前は分かる?」
「うん」
男は胸元を掴む。
「それと」
涙が
ゆっくり落ちる。
「すごく」
言葉が震えた。
「謝らなきゃいけない気がする」
白峰は何も言えなかった。
男が聞く。
「俺」
顔を向ける。
「何を忘れたんですか」
白峰は長い時間その目を見た。
以前なら。
実験のために答えなかったかもしれない。
刺激を避ける。
記憶を戻さない。
観測を続ける。
だが、今は違った。
「あなた自身に関わることです」
「戻せますか」
白峰はすぐに「戻せる」
とは言わなかった。
「分かりません」
正直に答える。
「完全に元通りにできるかは」
「でも」
少し間。
「残っているものはあります」
男は涙を拭わなかった。
「知りたい」
白峰の顔が変わった。
「何を」
「俺が忘れたこと」
もう一度。
「知りたい」
白峰はゆっくり頷いた。
「分かりました」
今度は誰かに決められた実験ではない。
本人が知りたいと言った。
その直後。
深部の別領域で
新しい反応が静かに灯った。
白峰たちとは離れた場所。
一つの白い光。
榊原梓。
そのさらに外側。
長く姿を見せていなかった何者かが。
白色コアへ続く経路を。
再び観測し始めていた。
コメント
1件
うわあ…重いなあ、この回。記憶って書き換えた瞬間に終わりじゃなくて、その後も本人の中でじわじわ繋がり直してくるっていう描写が本当に生々しかった。特にC/Dの被験者が「懐かしい」って感じることの切なさと、それが誰の感情なのか分からなくなる恐怖。そしてカシウスの「戻らなくなるまで消せ」に対して白峰が「元の人間を消してる」って言い返したシーン、ここが今の立場の分岐点だなって感じました。Eが自ら「知りたい」と選んだのも大きい。