「エモいね」
「ね」
昼下がりの喫茶店の中、二人の男女が向かい合っている。彼らの視線の先にはスマホ。画面いっぱいに広がる海の写真を見て、同じ感想を口にしていた。学生時代、共通の友人と一緒に行った南国のビーチ。夕焼け、ビーチパラソル、そして水着。いかにもと言いたくなるような被写体の中で、笑顔の若者たちがセンターを飾っている。
「このあとみんなでバイキング行ったよなあ」
ハイウエストのパンツを履いた女が懐かしげに呟く。
「あーあれか。サラダが山ほど盛られてたやつか」
オーバーサイズのシャツを着たやや細身の男が、ブラックコーヒーを飲みながら言葉を返した。どうやらこの二人は思い出を振り返っているようだ。二人の穏やかな表情が、その記憶の質を物語っている。次々に写真をスクロールする女が、スマホを置いて思い出したように語り始めた。
「なんか外国の人に話しかけられてたよね、あそこで」
「そんなこともあったな」
「聞いたこともない国の言葉だーとか言って。私が助けなかったらどうなってたか」
「笑いごとじゃなかったんだぞこっちは。いきなり知らん人に話しかけられて」
「意気地なしめ」
そう言って、女は小さく笑う。男はやや不満気だが、その口角は上がったままだ。その反応に一層の楽しさを覚えながら、彼女は言葉を続ける。
「あれから、もう四年経ったんだね。もう二十一世紀も終わりかあ」
「みんな散り散りになったから、集まって飲むなんてこともあんま出来なくなったし」
「だからこそすごい確率だよね。たまたま入った店でばったり会うなんて」
「俺もだ。まさか会えるとは思ってなかった」
二人が思い浮かべたのは、学生時代の自分。あの頃は自由で、純粋で、自分の可能性を無邪気に信じられていた。責任も義務も持たずに済んでいた、人生の絶頂期。疲労とストレスに塗れた生活が待っていようとは、予想は出来ても想像は出来なかったであろう。甘い幻想に浸っていたということは、彼ら自身が誰よりも理解している。
「仕事は順調?」
「まあぼちぼち。そっちは?」
「私は……大丈夫。上手くやってるよ」
微妙に生じた間を、男は見逃さなかった。物事を明瞭に言葉にする彼女は、一瞬でも言い淀むことなどしない。背中をバシバシ叩いて檄を飛ばすような人だった。だが今は、目線も逸らしてどこか頼りなさげである。男の中にある女の人物像とは、似ても似つかない様相を呈していた。そんな彼の戸惑いと葛藤など露知らず、彼女は仕事の様子を語る。
「最近新人の教育係とかさ、色々任されるようになって。残業もしょっちゅうある」
「そっちも大変そうだな……新人として扱われる時期も過ぎる頃だろ」
「まあ、仕事に張りが出てきて望むところって感じ」
気丈に振る舞う女。店内の照明で分かりづらかったが、よく見ると涙袋には薄い影が出来ていた。大丈夫ではないということは男の目にも明らかであった。いつも快活だった憧れの相手が弱り切っている様を前に、このままでいいのかと男は自問自答する。一人で頑張っている彼女を放ってはおけない。
しかし今の自分に、誰かを支えるだけの力はあるのだろうか。口で言うのは簡単だが、現実は甘くない。助けが必要だというのは勝手な思い込みだということもあり得る。何より男が信じられなかったのは、自分の中にある動機だった。学生時代に芽生えた気色の悪い執着。なんだかんだとそれらしい言葉で飾った、ただの欲得。そこに相手への思いやりなど欠片ほどもない。
「何? その顔。ひょっとして心配してくれてんの?」
「いや、まあ…」
男は内心で自嘲した。自分勝手な感情を何年も燻ぶらせて、挙句相手の弱みに付け込もうとしている。自分は卑怯者だ。時間をかけて薄める腹積もりだった情念を、思わぬ形で刺激されて悶々としているだけの小心者だ。にやにやとからかってくる女を前に、彼はそんなことを考えていた。
「うわ、もう六時だ」
「そろそろ出る?」
「そうしよっか」
手早く会計を済ませ、出ていく二人。普段と変わらない足取りの女とは対照的に、男のそれはやや重い。別れを惜しんでいるようにも、決断を迫られて悩み抜いているようにも見える。西日が照らす歩道に出来たビルの影に入った時、男は遂に口を開いた。
「……あのさ」
「何?」
背中ほどまである黒髪を揺らし、女が振り向く。その態度には何の疑念も感じられない。一方の男は、勇気を振り絞って出した言葉の次を探し当てられていなかった。何を伝えればいい? どう伝えればいい? 持ちうる語彙にも、記憶にも、経験にも、あてになるものは何一つない。だけど言葉にしたい何かはある。幾ばくかの沈黙の末、導き出した答えは――
「エモいね……夕日」
これしかなかった。これ以外など有り得なかった。それもその筈、誰かに執着することなど、ましてそれを言葉にすることなど、決して許される行為ではないのだから。再燃しかけた何かを無理やり胸にしまい込んで、男は帰路についた。
仕事というものはとても難しい。取引先に頭を下げ、上司の機嫌を取り、部下と無難なコミュニケーションを交わして、誰もいない家へと帰る。精神が少しずつ削られていく実感がある。頭を下げるのは別にいい。こっちが折れたり謝ったりしなければ事を納められない時はある。機嫌取りもまだ許容範囲内だ。適当に持ち上げておけばそれなりの評価を貰える。しかし、若い世代とのコミュニケーションだけは別だ。本当に掴みどころがない。
「お疲れ様です」
噂をすれば何とやら。入社したての部下と退社のタイミングが重なった。決して悪い男じゃないんだが、時々感情が読み取りづらい。別にしかめっ面でも口数が特別少ないわけでもないからこそ、どうも引っかかる。社会人になって四半世紀ほど経つが、「理解」ではなく「共感」がこんなにも難しい世代は初めてだ。少しでも情緒を揺さぶられたらエモい、エモいの一点張りだ。「エモい」ってそんなに万能な単語か? 俺らも若い頃言ってたけどそんな頻繁に出てくるもんじゃなかったと思うぞ。あんまり連呼するから、なんでこいつはいきなり感傷に浸ってるのかと困惑せずにいられなかったのを今でも覚えている。
「今日は思ったより早く片付いたな」
「課長のお力添えあってこそですよ」
「世辞がうまいな。……それより、明日はうちの創立記念日だ」
「今年でちょうど五〇年でしたか」
「ああ、二十一世紀最初の年に立ち上げられたからな」
「半世紀ですか……エモいですね」
何とか無難な会話をこなす。自分が沈黙に堪えられないクチなのもあるが、部下と会話をして情報を集めるのも上司の務めだ。幸い雑談に乗ってくれるタイプではあるようで、こちらとしては有り難い。最低限の返事だけ返ってきたり、そもそもの愛想がよくなかったりすると中々に苦しい。というか、今どきの子らって上司との会話でもエモいって言うのか。彼の場合は素の言葉遣いがしっかりしている分、とても勿体ない気がするが……これも時代の流れと言うやつか。少し前に受けたコンプラ研修で、そんなことを言ってた気がする。具体的にどんな内容だったかと記憶を巡らせていると、新人が自販機の前で立ち止まった。
「課長も何か飲まれますか?」
「ブラックにしよう」
「分かりました」
そう答えると、彼は缶コーヒーを二本買って、そのうちの一本を渡してきた。
「いいのか?」
「折角ですから」
気の利く男だと感心しつつ礼を言って受け取る。さっきの言葉遣いといい、この気配りといい、とても「エモい」で全ての感想を完結させる人物には思えない。自分の中で「エモい」を使いまわす人間のイメージがあまり良くなかったというのもあるが。変化についていけてない世代らしいとは思いつつも、この疑問を解消せずにはいられなかった。
「ひとつ気になっていたんだが……君たちの世代だと、『エモい』にはどんな意味が込められているんだ?」
「意味、と言いますと?」
「私が今の君たちくらいの歳の頃は、『エモい』とは感傷に浸る時に使う言葉だった。若者でなくなってから久しいが、その意味も使い方も大きく変わったように思えてね」
「成程……我々の世代でも、感傷に浸る時には『エモい』と言います」
「言葉そのものの意味が変わった、というわけではないのか」
単に若者の感性が研ぎ澄まされているだけなのか、あるいは単語の万能さ故の選択肢か。そんなことを考えていると、予想外の答えが返ってきた。
「それもそうなのですが、何より大きいのは雰囲気ですね」
「雰囲気?」
「なんと申しましょうか、自分の感情を細かく言葉にするのはよくない、といいますか」
「物心ついた時には、みんなそういう感じでした」
何とも要領を得ない答えだ。家の躾なのか。学校教育なのか。そんな簡単に大人の認識が変わるのもいまいち想像がつかない。時代が変わると感情表現の是非も変わるらしい。やはり分からないことだらけだと思いつつ、残ったコーヒーを冷え切る前に飲み干す。
「また今度何かおごらせてくれ」
「いえいえ、それ程のことはしていませんよ」
「部下に缶コーヒー買わせてそのままなのも格好つかないからな。上司の顔を立てると思ってくれ」
「なんだかエモいですね、課長」
「どういう意味なんだ、それは」
休憩コーナーの窓から見える夜空には、星も月も浮かんでいなかった。
「ですから、子供の言葉遣いに問題があると言っているのです」
強い口調で主張するのは、眼鏡をかけた白髪の男性。書類を握る右手に込められた力は、その思いの強さを物語っている。
「いじめの原因には、得てして歪なコミュニケーションがあるものです。汚い言葉を使い、下品なあだ名をつけ、自分勝手に感情を叫ぶ。こういった現状に手を打つことが、校内でのトラブルを抑止する第一歩ではありませんか」
ここはとある会議室。四角に並べられた長机の前に腰掛ける者は、ほとんどが中年か壮年といった顔立ちだ。席から立って話す白髪の男に、全員が視線を向けている。すると、やや恰幅の良い女が口を開いた。
「しかし手を打つと言っても、現実的な手段などあるのでしょうか。今の子供はネットから知識を吸収していますし、一人一人の言動を監視するのにも限度があります」
その指摘は尤もだ、と言うように周囲の人間は頷く。確かに個々人の物言いや言葉遣いに目を光らせるほど教師は暇な仕事ではない。それどころか――
「現場の環境は逼迫しています。部活に保護者対応など授業以外のタスクが山積みです。これ以上新しいことを盛りこむのは……」
休む間もない激務だ。七三分けの男が、それを事細かに説明している。ただでさえスケジュールに余裕がないというのに、仕事を上乗せされてはたまったものではない。口火を切った二人に続くように、白髪の男への風当たりはさらに強くなっていく。
「目標が抽象的すぎる」
「仕事が増えるだけだ」
「ただのパフォーマンスに過ぎない」
「この二〇三〇年にそんな管理教育めいたことをするのか」
次々に飛び交う批判を前に沈黙する白髪の男。返す言葉もなく立ち尽くしているように思われたが、全員が静まると雄弁を再開した。
「何も今すぐどうにかする、というわけではありません。時間をかけて少しずつ、新たな文化を根付かせていくのです」
「新たな文化、とは?」
「直接的な感情表現を、タブーにしてしまうことです」
困惑や驚愕など、様々な表情を浮かべている他の参加者をよそに、男は言葉を続ける。
「子供は何かと自分の気持ちを言葉にしたがります。これでは回避できるトラブルも回避できない。幼い頃から感情表現をコントロールする術を身につけさせねばなりません」
「その為には、価値観が形成される低学年の時期にそのような指導をするべきでしょう。授業でも、給食の時間でも、あらゆる場所でそれを徹底させれば、一定の年齢に達する頃にはその認識が内在化します」
一理ある、と他の参加者は唸る。幼いから、発達段階の途上だから、という条件を理知的な振る舞いを身につけさせないことの言い訳にしてはならないだろう。それに、校内トラブルという癌を根絶できるなら、手段を選ぶ必要はない。
「しかし、どのような表現を生徒に使わせるのです? あれもダメ、これもダメ、ではストレスのはけ口がなくなってしまうのでは」
「無論、学校側から推奨する表現も考えてあります」
一呼吸置いて、白髪の男は高々と宣言した。
「子供たちに相応しい表現、それは――」
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