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地下牢はいつも息苦しい
地下牢の空気は、昔から少しだけ肺に悪かった。
湿った石の匂い。薬品の残り香。火の消えかけたランプがつくる曖昧な影。
ホグワーツのどこよりも静かなはずなのに、ここに来るとドラコはいつも、誰かに見透かされているような気分になった。
だから本当は、夜に呼び出された時点で行くべきではなかったのだ。
それでもドラコは行った。
「補修」とだけ記された一枚の紙。
筆跡は、見間違えようもない。セブルス・スネイプ。
地下牢教室の扉を開けると、室内にはスネイプが一人で立っていた。
黒いローブ。痩せた輪郭。蝋燭の光が頬骨の影を深くしている。
視線一つで部屋の温度を下げられるような男だ、とドラコは改めて思う。
「来たか」
「補修とは、随分曖昧な言い方ですね」
ドラコはできるだけ平静に返した。
だが声はわずかに硬かった。
スネイプはその硬さを聞き逃さない。薄い唇の端が、ほんの少しだけ歪む。
「曖昧なのはお前のほうだ、ドラコ」
名を呼ばれて、ドラコの肩がかすかに強張る。
「何の話です」
「ポッターの話だ」
空気が止まる。
ドラコは表情を動かさなかった。
動かさないようにした。だがそれだけで、むしろ答え合わせになったのかもしれない。
スネイプは机の端に指先を置いたまま、ゆっくりと続ける。
「隠すつもりなら、もう少し上手くやれ」
低く、滑らかな声。
「地下牢にまで落ちてくるような視線は、あまりに稚拙だ」
ドラコは喉の奥で息を殺した。
ハリーの名を口にされるだけで、体のどこかが先に反応してしまう。
それが癪だった。スネイプの前ではなおさら。
「……それをわざわざ確認するために呼び出したんですか」
「確認?」
スネイプは鼻で笑う。
「違う。興味があっただけだ」
その言い方が妙に生々しくて、ドラコは眉を寄せた。
「興味?」
「お前が、何に惹かれるのか」
蝋燭の火が揺れる。
スネイプが一歩、こちらへ近づいた。
何をされるわけでもない。
まだ距離はある。
だが、この男は昔から、何もしないまま相手を追い詰めることができた。
「正義感か。愚かさか。自己犠牲の癖か」
低い声が淡々と続く。
「あるいは、自分に向けられないものを平然と他人に与えられる、その無神経さか」
ドラコは思わず言い返した。
「あなたにハリーの何が分かる」
その瞬間、スネイプの目がわずかに細くなった。
失言だった。
分かっている。
スネイプ以上にハリーの性質を長く見てきた人間は、たぶんそう多くない。
だが、それでも言わずにいられなかった。
スネイプは少し黙ってから、静かに言う。
「お前が思うほど、私は無知ではない」
そしてさらに低く続ける。
「むしろ、よく知っているからこそ興味がある」
ドラコは言葉を失った。
スネイプの声には感情がなかった。
いや、正確には、感情が奥底に沈みすぎていて表面にほとんど出てこない。だが、それがかえって不気味だった。何かひどく長いものを抱えた人間だけが持つ、乾いた静けさ。
「ポッターは」
スネイプが言う。
「昔から、自分が見たくないものを持っている人間に妙に目を引かれる」
ドラコの背筋に冷たいものが走る。
「……何が言いたいんです」
「分かっているくせに」
スネイプはようやく机から手を離し、完全にこちらへ向き直った。
「お前は、似ている」
「誰に」
「私に」
その一言は、ドラコの胸に不快なほどまっすぐ落ちた。
すぐに否定したかった。
冗談じゃない、と言いたかった。
だが、喉に上がってきた言葉は口の手前で止まる。
似ていない、とは言い切れなかったからだ。
意地。
執着。
言わないまま腐らせる感情。
選べないくせに、手放すこともできない性質。
不本意なほど、どこかが似ている。
スネイプはその沈黙を見逃さない。
「気に入らない顔だな」
「当然でしょう」
「そうだろうな」
ひどく静かな応酬だった。
怒鳴り合いではない。むしろ低い声しかないのに、空気だけが刃物みたいに鋭い。
ドラコは自分でも気づかぬうちに、一歩だけ後ろへ下がっていた。
それを見て、スネイプの口元にかすかな皮肉が浮かぶ。
「逃げるのか」
「距離を取っているだけです」
「言い換えの才能は評価しよう」
スネイプはまた一歩近づいた。
ドラコの喉が乾く。
この男の何が厄介か、今さら思い出す。
美しいわけではない。優しいわけでもない。
むしろ人を安心させる要素など一つもない。
なのに、目が離せない瞬間がある。
暗く、冷たく、長いあいだ誰にも触れさせずにいたものが、ほんのわずかに表へ滲む時。
その危うさに、一瞬だけ引き寄せられる。
ドラコは自分のその感覚に気づいて、ぞっとした。
「……あなたは最低だ」
思わず口をついて出た言葉に、スネイプは眉一つ動かさない。
「褒め言葉として受け取っておこう」
「冗談じゃない」
「なら、お前はなぜ帰らない」
その問いに、ドラコは息を詰めた。
帰ればいい。
扉はすぐそこだ。
スネイプはまだ何もしていない。腕も取られていないし、呪文で縛られてもいない。ただ言葉で追い詰めているだけだ。
なのに、足が動かない。
腹が立つ。
怖い。
それと同時に、ほんの一瞬だけ、この男が本当にどこまで自分の中を見抜いているのか知りたいと思ってしまう。
その自分が気持ち悪かった。
スネイプは低く言う。
「お前は、ポッターを見ている時と同じ顔で私を見ている」
ドラコの心臓が強く打った。
「ふざけるな」
「ふざけてはいない」
スネイプの視線は容赦がない。
「欲しいものに手を伸ばす時と、伸ばすべきではないと分かっているものに目を奪われる時、人間の顔はよく似る」
ドラコは本気で殴りたいと思った。
だが同時に、その言葉のどこかが当たっている気もして、さらに腹が立つ。
「あなたは」
ドラコは歯を食いしばる。
「何でも知ったような顔をする」
「知っているからだ」
「何を」
スネイプの目が、そこで初めてほんの少しだけ翳る。
「手遅れになる速度を」
その声は、さっきまでと少し違った。
あまりにも短い変化だったが、ドラコは聞き逃さなかった。
リリー。
その名は出ない。出さない。
けれど、スネイプの中に沈み続けている何かの輪郭だけが、一瞬だけ見えた気がした。
地下牢の空気が、さらに重くなる。
スネイプはもう一歩だけ近づき、ドラコの前で止まる。
「興味はある」
低い声。
「お前が、ポッター以外のものにどこまで揺れるのか」
「試すつもりですか」
「試されるのが嫌なら、なぜまだそこにいる」
ドラコの喉がかすかに鳴る。
正面から言い返したい。
だが、今の自分の沈黙が何を意味するのか、自分でも分かってしまう。
この男に惹かれているわけではない。
そうではない。
ただ、危うい崖の縁を覗き込むみたいな種類の興味がある。落ちたら終わりだと分かっているからこそ、一瞬だけ目を逸らせなくなるあの感じ。
スネイプはその一瞬を逃さない男だ。
長い指が、ドラコの顎先に触れそうなところで止まる。
本当に触れはしない。
その寸前で止める。
それが余計に残酷だった。
ドラコは目を上げた。
近い。スネイプの顔が。睫毛の影まで見える距離だ。薬品とインクと、ひどく微かな煙の匂いがする。
「……やめろ」
声が少し掠れた。
スネイプは低く問う。
「命令か。懇願か」
その言い方に、ドラコの背筋が粟立つ。
「あなたは最低だと言ったはずだ」
「それでも興味を失わないお前も、たいしたものだ」
ドラコはそこで、はっきりと自分が限界に近いと知った。
もう一秒ここにいたら、何かがおかしくなる。
自分が何に対して反応しているのか、分からなくなる。
スネイプの闇にか。
自分の中の醜さにか。
あるいは、ハリーとはまるで違う危険な引力に、一瞬でも目を奪われた事実にか。
そのどれも嫌だった。
嫌なのに、体はすぐ動かない。
その一瞬のためらいを断ち切ったのは、スネイプの次の言葉だった。
「ポッターなら」
ドラコの目が鋭くなる。
「お前が今どんな顔をしているか見たら、ひどく傷つくだろうな」
空気が変わった。
それまで胸の奥を這っていた曖昧な熱が、一気に冷えた。
怒りだった。はっきりした怒り。
ドラコは初めて、真正面からスネイプを睨んだ。
「それ以上あいつを使うな」
声は低く、震えていない。
スネイプは無表情のまま見返す。
けれど、その目の奥で何かがわずかに揺れた。
ドラコは一歩、今度は自分から踏み出した。
「僕がここに立っていることと、あいつは関係ない」
ゆっくりと、噛みしめるように言う。
「今の僕が最低なのは認める。あなたに一瞬でも引かれた自分に吐き気がするのも認める。でも」
そこで息を吸う。
「あいつを引き合いに出した瞬間、それは終わりだ」
地下牢が静まり返る。
スネイプはしばらく動かなかった。
やがて、顎先に触れかけていた手をゆっくり下ろす。
「……ようやく、まともな顔をしたな」
ドラコは言葉の意味をすぐには理解できなかった。
スネイプは半歩退き、距離を戻した。
それだけで室内の圧が少し下がる。
「試したんですか」
ドラコが低く問うと、スネイプはいつもの皮肉な表情に近いものを浮かべた。
「お前が自分の醜さをどこまで理解しているかはな」
「趣味が悪い」
「今さらだろう」
ドラコは本気で忌々しかった。
だが同時に、さっきまで自分が本当に崖の縁に立っていたのだと理解して、遅れて寒気が来る。
スネイプは背を向け、机に戻った。
「帰れ」
「それだけですか」
「不満か」
「……いえ」
ドラコは扉のほうへ向かいかけて、そこで止まった。
聞くべきではない。
だが聞かずにいられなかった。
「あなたは」
振り返らずに言う。
「どうして、わざわざこんなことを」
背後で、しばらく沈黙があった。
やがてスネイプの声が落ちる。
「繰り返すのを見るのは、うんざりだからだ」
それだけだった。
リリーの名も、ハリーの名も出ない。
けれど十分すぎる答えだった。
ドラコは扉に手をかける。
冷たい金属の感触が掌に触れる。
「僕は」
小さく言う。
「あなたにはならない」
スネイプの返事はなかった。
ただ、背中でひどく乾いた声がした。
「それでいい」
ドラコは地下牢を出た。
廊下の空気は冷たく、さっきまでの薬品の匂いがまだ喉に残っている。
数歩歩いてから、ようやく大きく息を吸えた。
手が少し震えていた。
気持ち悪かった。
スネイプに一瞬でも目を奪われたことが。あの闇の深さに、自分のどこかが反応してしまったことが。
でもそれ以上に、その直前でハリーの顔が浮かんだことが、妙に鮮明だった。
ハリーなら、あんなふうには追い詰めない。
見透かすことはあっても、崖の縁まで相手を連れて行って笑ったりはしない。
まっすぐで、無遠慮で、ときどき腹が立つほど明るくて、でも欲しいものを欲しいとしか言えないような、あの愚かで誠実なやり方しかできない。
それがどれだけ救いか、ドラコは今、嫌というほど分かっていた。
廊下の角を曲がると、柱にもたれて立っている人影が見えた。
ハリーだった。
「ドラコ?」
その声を聞いた瞬間、ドラコの全身から変な力が抜けた。
「……どうしてここにいる」
「君がスネイプに呼ばれたって聞いたから」
ハリーは眉を寄せる。
「何かされた?」
ドラコは数秒、答えられなかった。
された、のか。
言葉で。視線で。自分の醜さを剥がされるみたいに。
だが、そういうことを今ここで全部説明する気にはなれなかった。
代わりに、ドラコは数歩近づき、ハリーのローブの袖を掴んだ。
ハリーが驚いて目を見開く。
「ドラコ?」
「……少し黙れ」
「え?」
「今は、お前の声だけ聞いていたい」
自分でも驚くほど正直な言葉だった。
たぶん、スネイプに削られたせいだ。いつもなら飲み込めたものが、そのまま落ちてしまった。
ハリーは一瞬黙り、それから何も聞かずにドラコを抱き寄せた。
その腕のまっすぐさに、胸の奥が少し痛む。
スネイプの冷たさを知ったあとだと、なおさらだった。
ドラコはハリーの肩へ額を押しつけ、低く息を吐く。
地下牢の冷気はまだ身体に残っている。
けれど、もう大丈夫だと思えた。
少なくとも、どこへ戻ればいいかは分かっている。
それだけで十分だった。