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部屋に入ってからしばらく、二人とも何も言わなかった。
ハリーの部屋は暖かかった。
暖炉の火が低く燃えている。窓の外はもうすっかり夜で、カーテンの隙間から冬のように冷たい月明かりが細く差し込んでいた。
ドラコは部屋の中央に立ったまま、ローブも脱がずにいた。
さっきからハリーのそばにいるのに、まだどこか地下牢の冷気をまとっているみたいだった。肩が少しだけ強張っていて、呼吸が浅い。落ち着こうとしているのが分かる。分かるのに、うまくいっていないのも分かる。
ハリーは扉に背を預け、しばらくその様子を見ていた。
何があったのかは聞かない。
そう決めた。
聞けば答えてくれるかもしれない。でも、今のドラコに必要なのは尋問じゃない。問い詰めることではない。
そう思っている。
そう思っているのに。
胸の奥では、別のものがじくじくと動いていた。
地下牢で、あの男と、二人きりで。
何を言われたのか。
どこまで近づかれたのか。
ドラコはどんな顔をしたのか。
あの低い声で何を囁かれ、何に揺れたのか。
知りたかった。
全部知りたい、と思う自分にハリーはひどく嫌気がさした。
今、目の前にいるドラコは明らかに削られている。余裕を失い、何かを抱えて、それでもここへ来た。その相手に向かって最初に湧くのが慰めではなく嫉妬だなんて、あまりにも醜い。
「ハリー」
先に口を開いたのはドラコだった。
声は低い。少し掠れている。
ハリーは顔を上げた。
「ん?」
「……見ないで」
その言い方に、胸が締まる。
見ないで、と言いながらドラコは逃げない。
むしろここに来た。
抱きしめられる場所へ、自分から来た。
ハリーはゆっくり近づいた。
「無理だよ」
ドラコの睫毛がわずかに揺れる。
「今の君を見ないでいるなんて、無理」
「そういうところが腹が立つ」
「知ってる」
目の前まで行くと、ドラコは少しだけ目を伏せた。
頬は青白いのに、耳だけがうっすら赤い。スネイプに何を言われたのかは分からない。でも、この顔はただ怒っているだけじゃない。もっと複雑だ。自分に腹を立てている顔でもある。
ハリーはそっと手を伸ばし、ドラコの頬に触れた。
冷たい。
その冷たさに、胸の奥の嫉妬が一瞬だけ引いた。
代わりに来たのは、どうしようもなく単純な衝動だった。温めたい。離したくない。今夜だけでも、何も考えなくていい場所に置いてやりたい。
なのに、そのすぐ裏側で別の声がする。
スネイプはどこまで触れた?
ドラコは、一瞬でもあの男に引かれたのか?
ハリーはその声を押し潰すみたいに、ドラコを抱き寄せた。
ドラコの身体が一瞬だけ固まる。
けれど次の瞬間には、自分からもたれかかってくる。額がハリーの肩口に落ち、指先がローブの背を探るように掴む。
その仕草だけで、ハリーの胸の奥が熱く痛んだ。
「……何があったかは聞かない」
ハリーは低く言った。
ドラコの肩がわずかに動く。
「でも」
そこでほんの少しだけ言葉に詰まる。
「今夜は離さない」
ドラコはしばらく黙っていた。
返事をしないまま、ローブ越しにハリーの背を掴む手に少しだけ力を入れる。
それが答えだった。
二人はそのまま、しばらく立ったままでいた。
暖炉の火が鳴る。部屋は静かだ。ドラコの呼吸が少しずつ深くなっていくのが、抱き合ったまま分かる。
けれど、ハリーの内側は静かじゃなかった。
腕の中の体温は本物だ。
ここにいる。戻ってきた。自分のところへ来た。
それなのに、胸の奥ではまだ黒いものが動いている。
スネイプの顔が浮かぶ。
冷たい目。人の内側を抉るような声。ドラコに近づいた距離。今夜、自分の知らないところで何があったのか、その輪郭だけが見えない。
見えないから余計に想像してしまう。
ハリーは唇を噛んだ。
聞きたくない。
でも知りたい。
知りたくない。
でも、どこまでドラコが揺れたのか、知らずにいるのも耐え難い。
その矛盾が自分でも醜かった。
「……ハリー」
肩口でドラコが低く呼ぶ。
「うん」
「お前、今、何かを我慢してるだろ」
心臓が止まりそうになった。
ハリーは答えなかった。
ドラコは少しだけ顔を上げる。銀灰色の目が、近い距離からまっすぐ見てくる。疲れているくせに、こういうところだけ妙に鋭い。
「顔に出てる」
「そんなことない」
「嘘だね」
ドラコの声は弱い。
でも、いつもの皮肉がほんの少し戻ってきている。
「……君だってそうだろ」
ハリーが言い返すと、ドラコは目を逸らさなかった。
「そうだ」
あっさり認める。
「僕は今、自分が気持ち悪い」
その言葉に、ハリーの胸がきつく縮む。
ドラコは乾いた笑いみたいな息を漏らした。
「一瞬でも、あの男に興味を持った」
視線が揺れる。
「いや、正確には、あの男の抱えてるものにか。あの暗さに、自分の醜い部分が引っ張られた」
そこで唇が歪む。
「そんな自分に吐き気がする」
ハリーは何も言えなかった。
聞きたかった。
でも、本当に口にされると苦しい。
ドラコは続ける。
「何かされたわけじゃない」
先回りするように。
「触れられてもいない。キスもされてない。そういう意味で何かがあったわけじゃない」
その声は低く、固い。
「でも、だからこそ質が悪い。何も起きていないのに、自分の中でだけ何かが動いた」
ハリーはそこでようやく、押さえていた感情が少しだけ顔を出すのを感じた。
安堵。
まず、それが来た。
何もされていない。
触れられていない。
その事実に、思った以上に救われている自分がいて、ハリーは自分の小ささにうんざりした。
でも、そのすぐあとに来るのはまた別の感情だった。
何が動いた?
どこまで?
それを聞きたがる自分が本当に嫌だった。
ハリーは目を閉じ、深く息を吸った。
「……ごめん」
ドラコが眉を寄せる。
「何が」
「今、安心してる」
ハリーは正直に言った。
「何もされてないって聞いて、すごく安心してる」
喉が熱い。
「でも、それと同時に、何を感じたのか全部知りたいって思ってる」
ドラコの表情が止まる。
ハリーは笑えなかった。
笑えるような告白じゃない。
「最低だよね」
ハリーは低く言う。
「君がこんな顔してるのに、僕はちゃんと優しくなりきれない。取られるかもしれないって思ってた。今でも少し思ってる」
視線を落とす。
「スネイプにじゃなくても、君の中の何かに」
それは、ほとんど敗北宣言みたいなものだった。
ドラコはしばらく何も言わなかった。
暖炉が小さく鳴る。部屋の空気が静かに揺れる。
やがて、ドラコがごく小さく言った。
「……よかった」
ハリーは思わず顔を上げる。
「何が」
ドラコは少しだけ目を細めた。
疲れているくせに、その時だけ妙にやわらかい顔をした。
「お前だけが綺麗じゃなくて」
その一言で、ハリーは息を呑んだ。
ドラコは視線を伏せる。
「僕だけが、最低だと思ってた」
低い声。
「スネイプに揺れた自分も、それをお前に言えないまま抱かれに来た自分も、全部気持ち悪かった」
指先がハリーの背を掴む。
「でも、お前も醜いなら、少し楽だ」
ハリーは胸が痛くてたまらなかった。
綺麗じゃなくていい。
完璧に優しくなくていい。
ただ、自分だけが醜いんじゃないと思えたら、少しだけ息ができる。
今のドラコは、たぶんそういう場所を求めてここへ来たのだ。
ハリーはもう一度、強く抱きしめた。
「君がどこまで揺れたのか、今すぐ全部聞いたら」
囁くように言う。
「たぶん僕、嫌な顔する」
正直に。
「嫉妬する。たぶんすごく」
ドラコの肩がわずかに震える。
笑ったのか、息を詰めたのか、すぐには分からない。
「正直だな」
「今夜くらいはね」
「今夜だけか?」
「……たぶん明日も少し」
ドラコがとうとう、かすかに笑った。
ひどく疲れて、でも少しだけ救われたような笑いだった。
「じゃあ僕も正直に言う」
目を閉じたまま続ける。
「一瞬、引かれた」
ハリーの腕がぴくりと強ばる。
「でも、それは欲しいからじゃない。落ちたら終わる穴を覗き込むみたいな興味だ」
そこで、ハリーの胸に額を押しつける。
「戻りたい場所は最初から決まってた」
ハリーは目を閉じた。
その言葉だけで十分なはずだった。
なのに、自分の中の嫉妬は完全には消えない。スネイプの影はまだちらつく。今夜ドラコが見たもの、感じたもののすべてを知りたいという欲も消えない。
それでも、腕の中の重さは確かだった。
ドラコはここにいて、自分の服を掴んでいる。逃げていない。
それを、今は信じるしかない。
「……今は聞かない」
ハリーが言うと、ドラコが小さく息を吐く。
「助かる」
「でも、いつか聞くかも」
「その時は」
ドラコは少し考えてから言った。
「お前がちゃんと自分の醜さを認めたまま聞くなら、答える」
ハリーは苦く笑った。
「条件が面倒くさい」
「誰に言ってる」
それがドラコらしくて、ハリーは少しだけ肩の力を抜いた。
二人はそのままベッドへ移った。
服を脱ぐ音も、シーツの擦れる音も、今夜はどこか静かだった。慰め合うためだけではない。確かめ合うためだけでもない。互いの中にある黒いものまで知った上で、それでも離れたくない夜だった。
ハリーはドラコを抱き寄せたまま、髪に顔を埋める。
ドラコは抵抗しない。むしろ自分から脚を絡め、体温を預けてくる。その仕草に、ハリーの胸の奥の独占欲がまた疼く。ここにいる。自分の腕の中にいる。その事実に安堵し、同時にひどく執着している自分を感じる。
「……ハリー」
「うん」
「今夜は、優しくするな」
ハリーが目を上げる。
ドラコは薄闇の中で、ひどく静かな目をしていた。
「優しくされたら」
声が掠れる。
「たぶん、余計につらい」
ハリーは少しだけ息を止めて、それから頷いた。
「分かった」
その代わり、額に口づける。
やさしさではなく、確認みたいに。ここにいる、という印をつけるみたいに。
ドラコの睫毛が揺れる。
次の瞬間には、彼の指先がハリーの首筋へ触れ、少しだけ強く引き寄せた。
キスは深かった。
慰めるためではなく、忘れないためのキス。相手の中に残った他人の影ごと、自分の熱で上書きしたいと願うような、少し醜いキスだった。
ハリーはその醜さを否定しなかった。
ドラコもまた、否定しなかった。
そういう夜だった。
眠る直前、ドラコがほとんど夢の手前みたいな声で言った。
「……お前、まだ少し嫉妬してるだろ」
ハリーは薄く笑った。
「してる」
「よかった」
「君は?」
少しだけ間があく。
「……自分に腹が立ってる」
「それだけ?」
ドラコは答えない。
その代わり、ハリーのシャツを握る手が少し強くなる。
ハリーはその手を包み込んだ。
「じゃあ今夜は」
低く囁く。
「二人とも最低ってことで」
ドラコが小さく鼻で笑う。
「最悪だな」
「うん」
「でも」
そこで声が途切れかける。
「一人よりましだ」
ハリーは返事の代わりに、指を絡めた。
暗い部屋の中で、暖炉の火が最後に小さく揺れた。
誰も綺麗じゃない。
でも、その綺麗じゃなさを知ったまま隣にいられる夜も、たしかにあるのだと、二人とも少しだけ信じかけていた。