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放課後の静まり返った校舎。トイレの奥から聞こえてくる、胃の中のものを全て絞り出すような苦しげな音に、オレの心臓は嫌な跳ね方をした。
(……冬弥?)
個室の隙間から見えたのは、うずくまって肩を震わせる相棒の背中だった。真っ白な指先が便器の縁を強く掴んでいる。あんなに綺麗で、ピアノやバイオリンを弾くために大事にされてきたはずの指が、今は絶望に震えていた。
……ダメだ。見ていられない。
オレは助けることも、声をかけることもできず、ただその場から逃げ出した。情けねえ。あいつの相棒だって、世界一のイベントを超えるんだって息巻いてたオレが、あいつの苦しみに背を向けて走っている。
それから数日。オレの手は、望まない汚れに染まり続けていた。
冬弥の机から取り出した教科書を、中身が判別できないほどぐちゃぐちゃに引き裂く。あいつの大事なジャージにハサミを入れ、上履きの中に鋭い画鋲を仕込む。一つ一つの動作をするたびに、自分の心臓をナイフで削っているような感覚だった。
でも、やめられない。やめたら、あのクソったれな先輩たちが何を……。
教室の片隅で、冬弥が困ったように笑いながら、ボロボロになった教科書を見つめている。
「……彰人、困ったな。また誰かのいたずらみたいだ」
冬弥は、オレを真っ直ぐな瞳で見てくる。一点の曇りもない、信頼しきったその目が、今のオレにはどんな凶器よりも鋭く突き刺さる。
(やめてくれ……そんな顔でオレを見るな……!)
胃の底からせり上がってくる不快感を無理やり飲み込み、オレはできるだけぶっきらぼうな声を絞り出した。
「……んなの、放っておけよ。また新しいの買えばいいだろ」
そう言いながら、オレは冬弥から視線を逸らした。顔色が悪いのは、どっちだ。吐き気が止まらないのは、どっちだ。
彰人、大丈夫か? なんて、お前の口から言わせたくねえんだよ。
「…親に迷惑かけたくないし…別にこのままでもいい、」
親に迷惑をかけたくない、か。
冬弥のその言葉が、今のオレには何よりも重くのしかかる。あいつの親父さんがどれだけ厳しいか、音楽の道を進むことがどれだけあいつにとって命懸けのことか、オレは誰よりも知っているはずなのに。
「……勝手にしろよ。お前がそう言うなら、オレは何も言わねえ」
突き放すような言い方しかできなかった。あいつの手元にある、鋭い画鋲が仕込まれた上履き。それを履けば、あいつの足が傷つく。ピアノを弾くときも、ストリートでステップを踏むときも、その痛みがあいつを苦しめることになる。
わかってるのに、オレは止めることができない。
(くそっ……!)
視界の端で、冬弥がその上履きに足を入れようとするのが見えた。オレの胃が雑巾を絞るみたいにギリギリと鳴る。あいつが痛みで顔を歪める前に、オレは逃げるように教室のドアに手をかけた。
「先に練習場所に行ってる。……遅れんなよ」
振り返るのが怖かった。今、あいつがどんな顔をしているのか。もしも、もし万が一、オレが犯人だと気づかれたら。いや、あいつは気づかない。バカみたいにオレを信じてるから。
それが、一番死にたくなるほど苦しいんだ。
「あ…彰人、」
「……なんだよ。早く来いって言っただろ」
オレは立ち止まったまま、冬弥の方を振り返ることができなかった。背中越しに聞こえるあいつの声が、いつもより少しだけ震えているような気がして、心臓が嫌な音を立てる。
(……履いたのか? あの画鋲入りの、上履きを)
あいつが痛みで顔を歪めている姿を想像するだけで、視界がぐにゃりと歪む。オレがやったんだ。あいつの大事な足を、ストリートを駆けるためのその身体を、オレが傷つけた。
「……彰人、少し……待ってくれ」
足を引きずるような、微かな摩擦音が廊下に響く。
その音を聞くたびに、オレの喉の奥に酸っぱい塊がせり上がってきた。熱いし、苦しい。吐き気が限界だった。あいつを助けたい、抱きしめて謝りたい。でも、そんなことをすれば、あの先輩たちが今度は何をするかわからない。
冬弥をこれ以上、あいつらの餌食にしたくない。だから、オレが壊すしかないんだ。
「……チッ。どんだけノロマなんだよ、お前は」
わざと舌打ちをして、冷たい言葉を投げつける。あいつの顔を見たら、今すぐ泣き崩れてしまいそうだったから。
オレの顔色は、もう自分でもわかるくらい最悪だ。冷や汗が止まらねえ。
「……っ、ハァ……」
口元を片手で押さえながら、オレは冬弥から距離を置くように一歩踏み出した。
グイッと、細いけれど力強い指がオレの腕を掴んだ。
(……っ、やめろ、触んな……!)
心の中で叫んだ言葉とは裏腹に、オレの身体は情けなくその場に釘付けにされる。冬弥の体温が、服越しに伝わってきて、それが今のオレには焼けるような熱さに感じられた。
「……今日の練習は行かなくていいから…無理しないでくれ」
あいつの声は、どこまでも静かで、どこまでもオレを気遣う響きを孕んでいた。
(なんで……なんでそんなこと言うんだよ。お前、足……痛いだろ。画鋲、踏んだんだろ……!)
あいつの足元を見ることができない。血が滲んでいるのか、ただ痛みに耐えているのか。それを確認する勇気なんて、今のオレには一欠片も残っていなかった。
「……離せよ、冬弥。オレは、練習に行くって言ってんだろ」
声を荒らげようとしたのに、喉の奥が狭まって、掠れた情けない音しか出ない。視界がチカチカして、床のタイルの模様がぐにゃぐにゃと混ざり合う。
胃の底から、せり上がってくる熱い塊。
「……っ、う……ぐ……」
口元を強く押さえる。指の間から、今にも漏れ出しそうな不快感に耐えきれず、オレは冬弥の手を振り払おうと力なく腕を振った。
「……いいから、……あっち、行け……ッ!」
お前にだけは、こんな姿、見せたくねえ。お前を傷つけてる張本人が、お前の前で被害者面して吐くなんて、そんなの……最低だろ。
「…嫌だ!彰人が…あんなに格好悪い顔して歌うのは、もう見たくないんだ…」
ぎゅっと、細い腕がオレの体に回される。
(……っ、やめろ……!)
突き放さなきゃいけないのに、冬弥の体温が、その真っ直ぐな言葉が、オレの心の防波堤をボロボロに崩していく。格好悪い顔して歌うのは見たくない、か。
あいつは気づいてるんだ。オレが最近、まともに歌えてねえことに。相棒として、隣で歌ってるあいつが、オレの不調に気づかないわけがなかった。
「……っ、は、離せ……冬弥……ッ」
喉の奥まで酸っぱいものがこみ上げてきて、喋るのも限界だった。冷や汗がポタポタと床に落ちる。あいつに抱きしめられているせいで、オレの全身の震えが全部伝わっちまってるはずだ。
お前を傷つけて、お前の居場所を奪おうとしてるオレの、どこが格好いいんだよ。
「……オレは……別に、何ともねえ……っ」
嘘だ。心臓が壊れそうに痛い。胃がひっくり返りそうで、頭の中はあの先輩たちの脅し文句と、ボロボロになった冬弥の持ち物の映像がぐるぐると回っている。
「……う、ぐ……ッ」
ついにこらえきれず、オレは冬弥の肩に頭を預けるようにして崩れ落ちそうになった。口元を押さえる手に力が入り、指が食い込む。
(ごめん、冬弥……ごめん……っ)
心の中で何度謝っても、あいつに届くはずがない。それどころか、あいつは今、画鋲を踏んだ足の痛みすら忘れてオレを心配してるんだ。
「……っ、はぁ、はぁ……」
視界が白く霞む。あいつの温もりが心地よければよいほど、オレの罪悪感は鋭い刃物になってオレの胃を切り刻んだ。
「…トイレ行くか…吐き気するだろう、」
「……っ、う……あ、あぁ……」
その言葉が、今のオレにはトドメだった。冬弥の腕の中で、オレの身体がビクンと大きく跳ねる。
お前を傷つける準備をしてる時も、実行した後も、オレが独りで何度も吐き散らしてたこと。誰にも見られてねえはずなのに。お前にだけは、一番知られたくなかった。
冬弥の手が、オレの背中を優しくさする。その手の温かさが、逆にオレの胃をひっくり返す。
「……は、なせ……っ。お前、足……」
言いかけて、喉の奥まで熱い塊がせり上がってきた。もう、一言も喋れねえ。口を開けば、あいつの服を汚しちまう。
オレは冬弥の肩を借りるようにして、ふらふらと個室へ向かった。一歩踏み出すたびに、視界がぐにゃりと歪む。
「……っ、げほっ……う、ぐ……ッ!」
トイレの個室に転がり込むように入り、便器に掴まった。
背後で冬弥がドアを閉める音が聞こえる。追い出さなきゃいけないのに、身体が言うことを聞かない。
「……ぅ、え……っ! げほっ、はぁ、はぁ……ッ!」
胃液が喉を焼く。何も食べてねえから、苦い液しか出てこねえのに、吐き気だけは止まらなかった。
あいつの教科書を破った感触、切られたジャージの断面、水浸しになった冬弥の姿。それらが全部、吐瀉物と一緒に喉から溢れ出しそうだった。
「…俺も練習を休むから、彰人は無理しないでくれ。」
「……っ、お前…っ……、」
喉の奥を焼くような苦い液を吐き出しながら、オレは途切れ途切れに声を絞り出した。
冬弥の温かい手のひらが、オレの背中をゆっくりと、慈しむようにさすっている。その優しさが、今のオレにはどんな拷問よりも残酷だ。
(……やめろ、そんな手でオレに触るな……!)
お前の教科書をボロボロにしたのは、この手なんだぞ。お前の居場所を奪おうとして、陰湿な嫌がらせを繰り返してるのは、今お前の前で惨めに吐いてるこの男なんだぞ。
「……お前、練習……行けよ……。オレなんかに、構うな……ッ!」
無理やり身体を離そうとした拍子に、また胃がせり上がった。
「……う、げほっ……っ、はぁ、はぁ……ッ!」
便器の縁を掴む指が白く強張る。涙で視界が滲んで、冬弥の顔がよく見えねえ。でも、あいつがどんなに悲しそうな、それでいてオレを信じ切った顔をしてるか、想像するだけで胸が潰れそうになる。
「……っ、ハァ……お前……っ、足、痛えだろ……。……なんで、そんな……っ」
聞いちゃいけねえ。お前に理由なんて聞く資格、オレにはねえんだ。
あいつは、オレが自分を傷つけてる犯人だってこと、これっぽっちも疑ってねえ。それどころか、オレの体調を心配して、大事な練習まで休むって言いやがった。
(……壊れそうだ。もう、限界だ……っ)
胃の中のものを全部出し切っても、胸の奥にあるドロドロとした罪悪感だけは、どうしても消えてくれなかった。
「…っ……彰人…」
背中に回されていた手が、今度はオレの身体を正面から包み込むように強く抱き寄せた。
(……っ、やめろ……冬弥……!)
耳元で聞こえるあいつの吐息と、震える声。オレの名前を呼ぶその響きには、一点の疑いも、恨みもない。ただ純粋に、相棒であるオレを心配する情動だけが詰まっていた。
「……っ、う……ぐ……」
冬弥の肩に顔を埋めたまま、オレの目から熱いものが溢れ出した。吐き気のせいか、それとも自分への嫌悪感のせいか、もう自分でも分からない。
あいつの服を汚しているかもしれない。でも、冬弥は構わずにオレを抱きしめ続けている。その腕の温かさが、教科書を切り裂いた時の指先の冷たさを思い出させて、さらにオレを追い詰める。
「……は、なせ……っ。オレは……お前が思ってるような……っ」
いい奴じゃねえんだ。
そう叫びたいのに、喉の奥が痙攣して言葉にならない。あいつが踏んだ画鋲の痛みも、切り裂かれたジャージを見た時のショックも、全部オレが与えたものだ。それなのに、こいつは今、オレの痛みを分かち合おうとしてる。
「……はぁ、はぁ……っ、ごめん……冬弥……っ」
消え入るような声で、一度だけ謝った。
それが、何に対する謝罪なのか。あいつには伝わらないだろう。ただ、体調を崩して練習に行けなくなったことへの申し訳なさだと受け取られるに違いない。
(……死にたい。こんなの、もう耐えられねえ……っ)
オレは冬弥の胸元を力任せに掴み、嗚咽を漏らした。胃の腑をかき回されるような感覚が、いつまでも止まらなかった。
「…歩けるようになるまでこうしていよう、」
「……っ、ふ、ざけんな……っ」
冬弥の声は、どこまでも穏やかで、優しくて。その響きが、オレのズタズタになった心に毒みたいに回っていく。
歩けるようになるまで、なんて。そんなの、いつまで経っても無理に決まってんだろ。お前を傷つけるたびに、オレの足元は泥沼に沈んでいって、一歩も動けなくなってんだよ。
(……やめろ、そんなに優しくすんな……ッ!)
冬弥に抱きしめられたまま、オレは力なく首を振った。
あいつの心臓の音が、耳元でトクトクと刻まれている。あんなに酷いことをされても、あいつの鼓動はこんなに真っ直ぐで、綺麗だ。
「……お前、……自分のこと、考えろよ……っ」
喉の奥がヒリヒリと焼けて、声が上手く出ねえ。
お前が今、オレを支えてるその腕だって、いつかオレが折っちまうかもしれないんだ。あの先輩たちが「次は腕を狙え」なんて言ってきたら、オレは……。
想像しただけで、また胃の底から酸っぱいものがせり上がってきた。
「……っ、げほっ……う、ぐ……ッ、はぁ、はぁ……」
吐き気がぶり返して、オレは冬弥の胸元をぐしゃぐしゃに掴んだ。
指先が震えて止まらねえ。
「……はぁ……冬弥……っ。……頼む、から……っ」
一人にしてくれ、と言いたいのに。
本当は、この温もりから離れるのが死ぬほど怖い。
あいつを裏切り続けている最悪な自分を、こいつだけは「相棒」だって信じてくれてる。その嘘の居心地の良さに、オレは溺れそうになっていた。
頭に載せられた冬弥の掌が、ゆっくりと、あやすように動く。
(……っ、やめろ……撫でるな……ッ!)
その優しさが、今のオレには鋭利な刃物で抉られるより痛い。お前を裏切り続けてるこの頭を、なんでそんなに愛おしそうに触れるんだよ。
「……っ、う……、はぁ……っ」
喉の奥から、情けない嗚咽が漏れた。
冬弥の指先が髪に触れるたび、オレが破り捨てた教科書の感触が蘇る。お前のジャージを切り裂いた時の、あの嫌な音が耳の奥で鳴り止まねえ。
「……っ、冬弥……、お前……っ」
顔を上げられない。今のオレがどんなに醜い顔をしてるか、見せたくなかった。吐き気と罪悪感でぐちゃぐちゃになって、涙と冷や汗で汚れたこんな顔、相棒なんて呼べる代物じゃねえ。
(助けてくれ……誰か、止めてくれ……っ)
冬弥をエサに脅してくるあの先輩たちの顔が脳裏をよぎる。従わなきゃ、もっと酷い目に遭わされる。でも、従えば従うほど、オレは冬弥を殺していく。
「……はぁ、はぁ……ッ、ごめん……ごめんな、冬弥……っ」
何度も、何度も、届かない謝罪を繰り返す。
冬弥はただ、オレが体調を崩して苦しんでいると思っているんだろう。その真っ直ぐな信頼が、今のオレをじわじわと、確実に殺しにかかっていた。
(……お前が、……お前がオレを嫌いになってくれたら、どれだけ楽か……っ)
でも、冬弥は離してくれない。
震えるオレを、壊れ物を扱うみたいに優しく抱きしめて、その温もりを分け与えてくるんだ。
「…彰人は、なぜそんなに謝るんだ?俺は彰人に謝られるようなことをされた覚えがない」
「……っ、う、あ……ッ」
冬弥のその言葉が、心臓のど真ん中に突き刺さった。
された覚えがない?
ふざけんな。覚えがないんじゃなくて、お前が……お前がバカみたいにオレを信じてるから、気づいてねえだけだろ。
お前の教科書を破いたのも、ジャージを切ったのも、上履きに画鋲を入れたのも。全部、今お前に抱きしめられてる、このオレの手なんだよ……!
「……はぁ、はぁ……ッ、うるせえ……っ」
喉の奥が焼けつくように熱い。せり上がってくる吐き気を無理やり抑え込んで、オレは冬弥の胸元を掴む手に力を込めた。
「……謝らせろよ……っ。……オレが、……オレが全部……っ」
言いかけて、奥歯を噛み締めた。
言えるわけねえ。オレが犯人だって言ったら、お前はどんな顔をする? 絶望するのか? 軽蔑するのか?
それとも、あの先輩たちの脅しに屈したオレを、また「仕方なかったんだ」って許そうとするのか?
(……許されるのが、一番きついんだよ……っ)
冬弥の穏やかな鼓動が、オレの震える身体に伝わってくる。その鼓動を止めるような真似をしてるのは、他でもないオレなのに。
「……っ、う、ぐ……ッ、げほっ……!」
また胃が激しく痙攣した。何も出ないのに、内臓を引きずり出されるような痛みが走る。
「……お前……っ、なんで、そんなに……優しいんだよ……っ」
涙が止まらねえ。視界が滲んで、冬弥の顔が真っ白に霞む。
その優しさが、今のオレにはどんな暴力よりも残酷で、恐ろしい。
「…相棒だからだ、」
「……っ、あ…………」
その言葉が、耳元で静かに響いた瞬間。
オレの中で張り詰めていた何かが、音を立ててぶち切れた。
相棒。
その二文字が、今のオレには呪いのように聞こえる。世界一を目指して、背中を預け合って、あいつの隣に立つ資格があるのはオレだけだって自負してた。それなのに。
(……相棒? お前の教科書をズタズタにした奴がか? お前の大事な足を、画鋲で刺した奴が……相棒なわけねえだろ……ッ!)
喉の奥までせり上がった言葉を、血が出るほど唇を噛んで飲み込んだ。
言えねえ。言ったら、本当に終わっちまう。
でも、言わなきゃ、このままお前を騙し続けて殺し続けることになる。
「……っ、はぁ、はぁ……ッ!」
また激しい吐き気が襲ってきた。
でも、もう出すものなんて何もねえ。ただ、胃液の苦さと、自分への嫌悪感で胸が焼けそうだ。
冬弥の腕の温もりが、今は冷たい鉄格子みたいにオレを閉じ込める。逃げられない。お前の信頼から、お前の真っ直ぐな瞳から。
「……ふ、ざけんな……っ。相棒、なんて……っ、呼ぶな……ッ!」
オレは震える手で、冬弥の胸元を突き放そうとした。
でも、力が入らねえ。逆に縋り付くような形になっちまって、情けなくて涙が止まらねえ。
「……オレは……、お前の隣に……っ、いちゃ、いけねえんだよ……っ」
冷や汗がポタポタと床に落ちる。
視界がぐにゃりと歪んで、冬弥の顔が二重にも三重にも重なって見える。
(……助けてくれ……冬弥……、オレを……殴ってくれ……ッ)
心の中で叫びながら、オレはまた、こらえきれずに胃液を吐き出した。
「っ彰人…!…大丈夫か?どこが苦しい…、?」
「……っ、あ…………う、ぐ……ッ!」
どこが苦しいかなんて、聞くなよ。
全身が、心が、お前に触れられるたびにバラバラに壊れそうなんだ。
冬弥の焦ったような声が、鼓膜の奥で反響する。オレを心配して、必死に覗き込もうとするその綺麗な瞳。そこに映ってるオレは、きっと酷い顔をしてる。吐瀉物と涙で汚れて、嘘と裏切りで真っ黒に染まった、最低の男だ。
「……はぁ、はぁ……ッ、うるせえ……っ! 構うな……って、言ってんだろ……ッ!」
突き放そうとして出した手は、力なく冬弥の肩を叩くだけだった。
胃が雑巾みたいに絞り上げられて、焼けるような痛みが走る。もう出すものなんて何もねえのに、身体が勝手に拒絶反応を起こしてやがる。
(……お前を、エサにされて……。守るためだって、自分に言い聞かせて……っ)
でも、その結果がお前を追い詰めて、泣かせて。
今、目の前でオレを抱きしめてるお前の足からは、血が滲んでるかもしれないんだぞ。
「……っ、う、げほっ……! はぁ……はぁ……っ、冬弥……、お前……」
視界がぐにゃりと歪んで、白く霞んでいく。
冷や汗が目に入って染みる。
冬弥の胸元を掴む指先が、ガタガタと音を立てるほど震えて止まらねえ。
「……なんで、気づかねえんだよ……。……バカじゃねえの、か……っ」
お前を傷つけてるのは、オレなんだぞ。
そう叫びたいのに、喉の奥が引き攣れて、掠れた声しか出ねえ。
(……もう、いい。……全部、バラして……お前に嫌われた方が、……マシだ……っ)
意識の端っこで、あの先輩たちの笑い声が聞こえた気がした。
でも、今はそれ以上に、冬弥の体温がオレを壊しにかかっていた。
「…熱はなさそうだな、」
「…っ、触るな……ッ!」
冬弥の指先が、タオルの柔らかな感触と一緒にオレの額をなぞる。
その献身的な動きが、今のオレには焼けた鉄を押し当てられるより熱くて、痛い。
(……なんで、そんなに優しくできるんだよ……っ)
お前の汗を拭うべきなのはオレの方だろ。
画鋲を踏んで、教科書をボロボロにされて、不安で冷や汗をかいてるのはお前のはずなのに。なんで、お前を追い詰めてる張本人のオレを、そんな穏やかな顔で看病してんだよ。
「……はぁ、はぁ……ッ、熱なんて……ねえよ……っ。……ただの、……自業自得だ……っ」
喉の奥がヒリヒリと鳴る。
冬弥の手を振り払おうとしたけれど、指先に力が入らなくて、逆にその腕にすがりつくような形になってしまう。
情けねえ。
あいつを傷つけてるくせに、結局あいつの温もりに救われようとしてる。
「……冬弥……、お前……、……なんで、……疑わないんだよ……っ」
お前の周りで起きてる最悪な出来事、全部。
近くにいるオレが怪しいって、一言くらい言えよ。
怒鳴ってくれよ。殴ってくれよ。
そうしてくれたら、こんなに胃をかき回されるような罪悪感に、のたうち回らなくて済むのに。
「……っ、う、ぐ……ッ、はぁ、はぁ……っ」
また胃が激しく波打つ。
何も出ないはずなのに、内臓ごと吐き出しそうなほどの吐き気がオレを襲った。
「っ……、」
冬弥の顔から、さっきまでの柔らかな光がふっと消えた。
(……っ、え?)
一瞬のことだった。タオルを動かしていたあいつの手が止まり、その瞳に見たこともないような深い陰が差す。
心臓が、冷たい氷の塊を飲み込んだみたいに凍りついた。
「……っ、あ…………」
吐き気が一瞬で引き込み、代わりに全身を突き刺すような悪寒が走る。
なんでだ。なんでそんな、冷めたような、暗い目をするんだよ。
(……気づいたのか? お前の教科書を破いたのが……ジャージを切り裂いたのが、オレだって……!)
恐怖で指先がガタガタと音を立てる。
さっきまで「嫌われた方がマシだ」なんて思ってたはずなのに、いざあいつの表情が曇っただけで、呼吸の仕方を忘れるほど怖い。
オレが、あいつの信頼を殺したのか。
それとも、あの先輩たちがオレの知らないところで何か……。
「……冬弥……、お前……っ」
掠れた声で名前を呼ぶ。
あいつが今、何を考えているのか。その沈黙が、今のオレにはどんな罵倒よりも恐ろしい。
「……何、……怒ってんだよ……。……言いたいことが、あるなら……っ」
吐き出したあとの胃の痛みが、再び熱を帯びて暴れだす。
冷や汗がポタポタと床に落ち、オレは冬弥の顔色を伺うように、震える視線を上げた。
「…え?…怒ってはいないが……、」
「……あ、…………」
冬弥の口から出た「怒っていない」という言葉が、逆にオレの鼓動を狂わせる。
(怒ってねえ……? じゃあ、今のその顔はなんだよ……ッ)
怒りよりも深い、底の見えない闇のような表情。それが絶望なのか、それともオレへの恐怖なのか。あるいは、あいつ自身が何かを抱え込んでいる罪悪感なのか。
冬弥の瞳に映るオレは、あまりの恐怖にガタガタと震え、脂汗を流している無様な男だ。
「……っ、う、あ……ッ! はぁ、はぁ……っ」
冷たくなった冬弥の手が、まだオレのそばにある。その温度が、さっきまであんなに温かかったはずの体温が、今は死体のように冷たく感じられて、背筋が凍りついた。
(気づかれた……。オレが、アイツらの言いなりになって、お前を壊してたこと……全部……っ)
胃の奥が、焼けた鉄を流し込まれたみたいに熱い。
何も吐き出すものなんて残ってねえのに、身体が拒絶反応を起こして、喉の奥がヒクヒクと痙攣する。
「……い、言えよ……っ! 怒ってねえなら、なんでそんな……っ、死んだような目をしてんだよ……ッ!」
声を荒らげようとしたのに、情けなく裏返った。
冬弥の胸元を掴む手が、恐怖で震えて止まらねえ。
「……オレが、……オレがやったんだろ……っ。教科書も……、ジャージも……、お前の……っ」
ついに、口走っちまった。
最悪だ。自分の弱さに耐えきれず、結局、あいつを傷つける言葉を、自分から吐き出しちまった。
「……違う…、」
違う? なにが違うんだよ。
オレが全部やったんだ。お前の大事なものをボロボロにして、お前の居場所を奪おうとしたのは、他でもないこのオレなんだぞ。目の前で白状してるのに、なんで否定するんだよ。
冬弥がまた、さっきより深く、暗い顔をして俯く。その影に染まった横顔を見た瞬間、心臓が握りつぶされるような恐怖に襲われた。
(……絶望、したのか? オレに……そんな嘘をつくほど、……蔑んでんのか……っ)
あいつの沈黙が、今のオレにはどんな罵倒よりも重くのしかかる。
胃の奥が雑巾みたいにギュウギュウに絞られて、喉の奥まで苦い液がせり上がってきた。
「……っ、はぁ、はぁ……ッ! なんで……なんでだよ……ッ!」
冬弥の肩を掴む手に力がこもる。
怒ってほしい。責めてほしい。お前がやったんだろって、人殺しを見るような目で見てくれた方が、まだマシだ。なのに、なんでそんなに悲しそうに、自分を責めるような顔をしてんだよ。
「……っげほ…ッ……」
激しい吐き気がまたぶり返して、オレは便器に顔を伏せた。
もう何も出ねえのに、胃壁が剥がれ落ちるような痛みだけが全身を突き抜ける。
「……お前……っ、そんな顔……すんなよ……っ。……オレが、……オレが全部……壊したんだろ……ッ!」
涙が止まらねえ。視界が真っ白に霞んで、冬弥の姿がどんどん遠くなっていく気がした。
「ごめん…彰人……。…彰人の言う通りだったのかもしれない…、」
「……は………?」
冬弥のその掠れた声が、オレの耳の奥に突き刺さった。
ごめん、彰人……?
なんで、お前が謝るんだよ。彰人の言う通りだったのかも……って、何がだよ。オレが全部やったって言ったことか? それとも、オレが相棒の隣に立つ資格なんてねえって言ったことか?
俯いた冬弥の顔に、さっきよりも深い絶望がへばりついている。その暗い表情を見た瞬間、胃の底がヒヤリと冷たくなった。
「……はぁ、はぁ……ッ、何……言ってんだよ……っ。お前が、……謝るな……ッ!」
喉の奥がヒリヒリと焼ける。
せり上がってくる吐き気を必死に抑え込んで、オレは冬弥の腕を力任せに掴んだ。
(……やめろ、そんな顔すんな……っ! お前を追い詰めてるのは、オレなんだぞ……!)
あの先輩たちの顔が脳裏にちらつく。オレが冬弥を傷つけるたびに、あいつらはニヤニヤしながら「いい子だ」なんて言いやがった。その指示に従って、お前の大事なものを壊し続けたのは、他でもないこのオレなのに。
「げほっ、…おぇ……っ」
また激しい痙攣が走って、オレは便器の縁に顔を押し当てた。
涙で視界がぐちゃぐちゃだ。
「……お前……っ、何に、……気づいたんだよ……。……言えよ、冬弥……ッ!」
もし、もしもこいつが……。
オレが誰かに脅されて、無理やりこんなことをさせられてるってことに、気づいちまったとしたら。
そう思ったら、恐怖で全身の毛穴が開くような感覚がした。
「……はぁ、はぁ……っ、……オレの……せいだ……。全部、オレが……っ」
お前を守るためだったなんて、そんな綺麗な言い訳、今のオレには許されない。
「…俺は、彰人の隣に立っていい人間じゃないな」
「……っ、」
その言葉が、耳の奥で爆発したみたいに響いた。
冬弥の口から出た、信じられない台詞。
隣に立っていい人間じゃない。
それは、オレが……オレが心の中で、血を吐く思いで自分に突きつけてた言葉じゃねえのかよ。
「……何、言ってんだよ……っ。……はぁ、はぁ……ッ!」
喉の奥がヒリヒリと焼ける。
せり上がってくる不快感を無理やり飲み込んで、オレは冬弥の胸ぐらを掴んだ。
「……バカか、お前……っ! 隣に立っちゃいけねえのは……っ、汚ねえ手で……お前を、傷つけた……オレの方だろ……ッ!」
視界がぐにゃりと歪む。
冬弥の瞳に、絶望と自分への嫌悪がべったりと張り付いている。
なんでだ。なんで被害者のお前が、加害者のオレと同じ顔をしてんだよ。
(……やめろ、そんなふうに自分を責めるな……っ!)
お前が自分を否定するたびに、オレの犯した罪がさらに重くなって、心臓を握りつぶしにくる。
あの先輩たちの笑い声が、耳の奥でガンガン鳴り響く。
『冬弥をエサにすれば、彰人は何でもする』
そう言われて、実際にお前を壊し続けているのは、このオレなんだ。
何も出ねえのに、胃が裏返るような痛みが止まらねえ。
「……冬弥……っ、頼むから……っ。……オレを、嫌ってくれよ……ッ! じゃないと……オレ、……本当に、壊れちまう……っ」
涙と冷や汗でぐちゃぐちゃになりながら、オレは縋るように叫んだ。
お前の優しさが、信頼が、今はどんな毒よりもオレを殺しにかかっていた。
「…彰人のことを…助けられない…。……俺の温もりじゃ、彰人は救えないんだよ…」
「……っ、あ…………」
その言葉が、耳の奥で爆発したみたいに響いた。
違う、違うんだよ、冬弥……。
お前の温もりが足りないんじゃない。お前の手が、その優しさが、あまりにも綺麗すぎて……。汚れちまった今のオレには、眩しすぎて直視できねえだけなんだ。
「……はぁ、はぁ……ッ! やめろ……っ、そんなこと、……言うな……ッ!」
喉の奥がヒリヒリと焼ける。
せり上がってくる吐き気を無理やり飲み込んで、オレは冬弥の胸元を掴む手に力を込めた。
(……助けられない? 救えない……? お前が、そんな顔して……っ!)
さすってくれた手も、抱きしめてくれた腕も、全部覚えてる。そのたびに、オレの凍りついた心が溶けそうになって、でも、溶けるたびに犯した罪がドロドロと溢れ出してくるんだ。
オレが吐き続けてるのは、お前のせいじゃねえ。
お前を裏切り続けてる、このオレ自身の吐き気が止まらねえだけなんだよ。
「……っ、う、ぐ……ッ、はぁ…」
また激しい痙攣が走って、オレは冬弥の胸元に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らした。
何も出ねえのに、胃を直接掴んで引きずり出されるような痛みが止まらねえ。
「……冬弥……っ、お前は……何も、悪くねえんだ……っ。……悪いのは、……全部、オレなんだよ……ッ!」
涙が溢れて、冬弥の服を濡らしていく。
お前をエサに脅してくるあの先輩たちの顔を思い出すたびに、目の前の相棒を突き放さなきゃいけないって頭では分かってるのに。
でも、こんなに絶望した顔をしてるお前を置いて、一人になんてなれるわけねえだろ。
「……はぁ、はぁ……っ、……頼むから……。……そんな、……悲しいこと……言うなよ……っ」
震える声で、縋るように呼びかけた。
お前の温もりじゃ救えないなんて、そんなこと、世界で一番言わせたくなかった言葉だった。
「……ごめん…っ…」
「…あ…………」
その謝罪を聞いた瞬間、オレの心臓はどろどろに溶けて、そのまま足元にこぼれ落ちたような気がした。
なんで、お前がそんな顔をするんだよ。
悪いのはオレだ。お前の大事なものを壊して、お前の居場所を汚し続けてるのは、このオレなんだ。お前に謝らせるなんて、そんなこと、あっていいわけねえだろ。
「……やめろ……っ。……謝るな……ッ!」
喉の奥がヒリヒリと焼けて、掠れた叫びが漏れる。
視界が涙でぐにゃぐにゃに歪んで、冬弥の悲しげな表情が、まるでスローモーションみたいにオレの脳裏に焼き付く。
(……助けてくれ、誰か。……もう、これ以上……こいつを壊したくねえ……ッ!)
胃の底からせり上がってくる熱い塊が、また喉を突き上げる。
「…げほっ……、… はぁ……はぁ……っ」
吐き気が限界だった。何も出ねえのに、胃液を絞り出すような痛みが全身を駆け巡る。
冬弥の服を掴む指先に、もう力が入らねえ。
「……冬弥……っ、お前は……、……悪くねえ……んだよ……っ」
冷や汗がポタポタと床に落ちる。
意識が遠のきそうになる中で、あの先輩たちの笑い声が耳元で響いた気がした。
『彰人、お前のせいで冬弥が壊れていくぞ』
(……オレのせいだ。全部、オレの……っ)
お前を守るためにやってるなんて、そんなの、ただの自分勝手な言い訳だ。
結局、オレはお前を一番苦しめてる、最低の相棒だ。
「……はぁ、はぁ……っ。……行けよ……。……オレみたいな……、クズ……放っておけよ……ッ!」
そう言いながら、オレは冬弥の胸元から顔を離し、床に突っ伏した。
お前のその綺麗な手で、オレに触らせたくなかった。
「…そう、だな。……きっと…きっと、1人の方が苦しくないだろう…、?」
「……っ、ま、……て……」
冬弥が立ち上がる気配。
床を蹴るかすかな音が、今のオレには絶望の合図みたいに聞こえた。
行くな。
行かないでくれ。
オレみたいなクズ、放っておけよって言ったのはこの口だ。なのに、あいつが本当にオレから離れようとした瞬間、心臓が凍りつくような恐怖が全身を駆け巡る。
「……ぁ、……冬弥……ッ!」
床に突っ伏したまま、震える手を伸ばした。
あいつの裾にすら届かねえ。
一人の方が苦しくない? そんなわけねえだろ。お前がいなくなったら、オレは、あの先輩たちの言いなりになるだけの、ただの人形になっちまう。
吐き気がまたぶり返して、視界が真っ白に明滅する。
でも、今は吐いてる場合じゃねえ。
「……行くな……、頼む……っ。……一人に、……しないでくれ……ッ!!」
ついに、本音が喉から溢れ出した。
お前を傷つけた。裏切った。最低なことばっかりしてきた。
それでも、お前がいない世界なんて、オレにはもう生きていけねえんだよ。
「……ごめん……っ、……オレが、……オレが全部……悪かったから……っ! だから……、冬弥……ッ!!」
喉を掻きむしるような悲鳴。
冷や汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら、オレは必死に冬弥の背中を、その去りゆく影を、掠れきった声で呼び止めた。
「……っ、あ…………!!」
冬弥の背中が遠ざかっていく。
その手が、オレの涙じゃなく、自分の涙を拭うために動いたのが見えた。
(……泣かせてる。オレが、冬弥を……泣かせた……っ)
あいつは、オレを一人にするのが「正解」だと思い込んで、傷ついたまま去ろうとしてる。オレを苦しめないために、あいつ自身の心を削りながら、出口に向かってるんだ。
「……待てよ……っ! 違うんだ……冬弥……ッ!!」
這いつくばるようにして、震える手を伸ばす。でも、指先は虚しく空を切るだけで、冷たいタイルの感触しか伝わってこねえ。
胃の腑が雑巾みたいに絞り上げられ、視界がチカチカと白く爆ぜる。もう、限界だ。
無理に声を出そうとしたせいで、再び激しい嗚咽が襲ってきた。でも、ここで意識を飛ばしたら、本当にお前を失っちまう。
「……行かない……でくれ……っ。……オレを、……一人にしないでくれ……ッ……!!」
喉から血が出るような思いで叫んだ。
お前の教科書を破いたのも、画鋲を仕込んだのも、全部オレだ。でも、それを言ったらお前がもっと傷つくのが怖くて、ずっと言えなかった。
冬弥の足が、一瞬だけ止まった気がした。
「……頼む……っ。……殴っていいから……、殺したっていいから……っ。……隣に、……いさせてくれよ……ッ!」
床に額をこすりつけるようにして、オレは泣き喚いた。
相棒なんて呼べる資格はもうねえ。でも、お前がいない未来なんて、オレには絶望しか残ってねえんだ。
「……ぁ、……っ、……やだ、…………ッ!!」
冬弥が走った。
オレから逃げるように、いや、オレをこれ以上傷つけないように、必死で涙を拭いながら遠ざかっていく。
(待てよ……待ってくれよ、冬弥……ッ!)
その背中が見えなくなる。
その瞬間、オレの肺から空気が全部引きずり出されたみたいに、息ができなくなった。
「……っ、は、……っ、はぁ……ッ!!」
喉の奥がヒュッ、と鳴る。
空気を吸い込もうとしても、罪悪感と絶望が喉に詰まって入ってこねえ。視界がぐにゃりと歪んで、タイルの模様がぐるぐると渦を巻く。
「……は、あ……っ、ごめ、……と、や……っ……」
指先が痺れて、自分の意志で動かなくなった。
胃を掴まれていたような吐き気は、いつの間にか全身を締め付ける激痛に変わって、意識を闇の底へと引きずり込んでいく。
ドクン、ドクン、と耳の奥で心臓の音がうるさい。
あいつを泣かせた。あいつを一人にした。あいつの「相棒」を、オレがこの手で殺した。
「……っ、う……あ…………」
指先から力が抜け、伸ばしていた腕が虚しく床に落ちる。
薄れゆく意識の中で、最後に見えたのは、冬弥が去っていった冷たいドアの影だけだった。
(……ごめんな、……冬弥……)
オレの意識が、真っ暗な闇に飲み込まれていきそうになる。
意識が途切れる寸前、遠ざかる冬弥の足音とは別に、複数を連ねた不快な足音がトイレの中に響き渡った。
「おーおー、惨めなもんだな。おい、彰人。何床に這いつくばってんだよ」
聞き覚えのある、反吐が出るほど卑劣な声。
冬弥を脅し、オレに加害を強要させているあの先輩たちだ。
彼らは倒れているオレを見下ろし、冷笑を浮かべながら口々に言葉を吐き捨てる。
「あーあ、冬弥くんに逃げられちゃったのか? せっかく『お前が一人になれば、彰人は楽になれる』って吹き込んでやったのに。……あいつ、馬鹿正直に信じて泣きながら走っていったぞ」
「……っ、お前、ら……冬弥に、何を……ッ!」
「何って、アドバイスだよ。お前が吐くほど苦しんでるのは、あいつが隣にいるせいだって教えてやっただけだ。……おかげで面白いもんが見れたよ。相棒に拒絶されたと思って絶望する顔、最高だったなぁ」
一人の先輩が、オレの震える指先を靴の先で小突く。
「さぁ、次はどうする? あいつ、今ごろ一人で屋上かどっかで震えてるぜ。……もっと壊してほしいんだろ? ほら、立てよ。次はあいつの楽器か、それとももっと大事なもんを壊しに行くか?」
「……ぁ……っ、う……」
冬弥が去ったのは、オレを嫌いになったからじゃない。
こいつらに「自分が彰人を苦しめている」と思い込まされたからなんだ。
「……ふざけ、んな……っ…。」
「……っ、ふざけんな……って、言ってんだよ……ッ!!」
オレは、獣のような咆哮とともに立ち上がった。
胃を焼くような痛みも、指先の痺れも、今は怒りの熱で無理やりねじ伏せる。
「お前らが……っ、お前らがアイツに何を吹き込んだか知らねえが……絶対に許さねえ……ッ!」
フラつく足取りで、オレは一番近くにいた先輩の胸ぐらを掴み、そのまま壁際まで押し込んだ。
「あいつを……冬弥を二度と泣かせるな……ッ! お前らの言いなりになるのは、もう終わりだ!!」
「……は? 彰人、お前……誰に向かって口きいてんだよ」
先輩の一人が、顔を引きつらせながらも冷笑を浮かべ、彰人の腹部を強く蹴り上げる。
「ぐ、ふっ……!!」
まだ収まっていなかった吐き気と衝撃が混ざり合い、オレは口から血の混じった唾液を吐き出す。しかし、その手は離さない。
「……あいつに……、全部、話す……っ。オレがやったことも、お前らが……やらせたことも……全部だ……ッ!」
「おい、やめろ彰人。そんなことしたら、お前……この学校で歌えなくなるんだぞ? 冬弥だって、自分のせいで相棒がこんなことになったって知ったら、それこそ立ち直れなくなるぜ?」
「……あいつは、……冬弥は……お前らみたいなクズが思うより……ずっと……強いんだよ……ッ!!」
オレの瞳には、これまでになかった覚悟の光が宿っていた。もう、逃げない。自分の罪も、先輩たちの汚さも、すべて背負って、あいつの前に立つ。
「お前らの……、思い通りには……させねえ……っ。消えろ……視界から、消え失せろ……ッ!!」
先輩は、胸ぐらを掴まれているにもかかわらず、余裕たっぷりに口の端を吊り上げた。オレの顔にこれ以上ないほどの絶望を刻み込むために、獲物をいたぶるような低い声で囁く。
「……ははっ、いいぜ? 全部バラせよ。でもよ、彰人。想像してみろよ、お前から真実を聞いたあいつのツラを」
先輩はオレの手を乱暴に振り払い、耳元に顔を近づける。
「あいつ、ただでさえ『自分が隣にいるからお前が苦しんでる』って思い込んで泣いてたんだぜ? そんなやつに、『実はお前がボコボコにされてたのは俺のせいでした』なんて突きつけてみろよ。……あいつ、責任感じて今度こそ本当に壊れるぞ。お前を救えなかったどころか、お前の人生をめちゃくちゃにした張本人は自分なんだってな」
「……っ、それは……っ」
「いいよ、俺たちはもう冬弥には手を出さないでやってもいい。……でもさ、お前が本当のことを言えば言うほど、あいつは一人で勝手に追い込まれていくんだ。お前のせいで、お前が守りたかった『冬弥の心』がトドメを刺されるんだよ。……それこそ、あいつ、もう二度と歌えなくなるんじゃねえの?」
先輩は、オレの顔色が真っ白に変わるのを楽しそうに見つめ、わざとらしくため息をついた。
「お前にとっての『正義』は、あいつにとっての『地獄』なんだよ。……なぁ、彰人。それでもお前は、自分の罪を軽くするためにあいつに全部背負わせるのか? 最高の相棒だな、おい」
(……ああ、そうか。……詰んだんだ、オレは)
先輩の嘲笑う声が、遠くの方で反響している。
言わなければ、冬弥は「自分が原因だ」と思い込んだまま、オレから離れていく。あいつの隣には、もう二度と戻れない。
けれど、真実を言えば──。あいつが命がけで守ろうとした絆が、他でもないオレ自身の手でズタズタにされていたと知れば、冬弥の心は今度こそ、修復不可能なくらいに砕け散る。
(どっちを選んでも……地獄しかねえのかよ……っ)
指先の震えが止まらない。
お前を守るため、お前を守るため……。そう自分に言い聞かせてきた日々が、どれほど独りよがりで、残酷な裏切りだったか。
「……っ、あ…………」
胃の奥から、また熱い塊がせり上がってくる。
でも、もう吐き出す力すら残っていない。
目の前の先輩たちの顔が、冬弥の泣き顔と重なって、歪んで見える。
(冬弥……、ごめん……。……オレ、……どうすれば、いい……?)
あいつが一人で追い込まれていくのを、ただ黙って見ていることなんてできない。
でも、あいつに絶望という名のトドメを刺すのも、この手じゃなきゃいけないのか。
「……はぁ、はぁ……っ、……お前ら……、……笑ってろよ……っ」
オレは力なく壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
瞳からは、生気が失われていく。
逃げ場のない究極の選択。
愛憎と罪悪感の狭間で、オレの精神は、いよいよ限界の淵へと追い詰められていた。
「で?彰人は言う?言わない?」
「……っ、あ…………」
唇が、ガタガタと震えて音を立てる。
先輩の催促する声が、死刑宣告を待つ法廷の静寂みたいに耳にこびりついて離れねえ。
言うのか?
言えば、冬弥は救われるかもしれない。……いや、違う。あいつは「自分が原因で彰人が脅されていた」と知って、今よりもっと深く自分を呪う。
言わないのか?
言わなければ、冬弥は「自分が彰人を苦しめている」という誤解を抱えたまま、オレの前から消える。
(どっちだ……。どっちが、あいつにとって……マシなんだ……ッ!)
視界が真っ赤に染まる。
怒りか、絶望か、それとも脳の血管がぶち切れそうなのかも分からねえ。
目の前でニヤついている先輩の顔が、どんどん醜く歪んでいく。
「……言える……わけ、ねえだろ……っ」
振り絞った声は、情けなく掠れていた。
冬弥の、あの真っ直ぐな瞳。
『彰人は俺の誇りだ』なんて笑った、あの顔に。
「お前の教科書を破いたのはオレだ」なんて、言えるわけねえだろ。
「……言わねえよ……。……全部、オレが……っ、墓まで持っていってやるよ……ッ!!」
オレは拳を血が滲むほど固く握りしめ、顔を上げた。
その瞳には、もはや自分の救済など微塵も考えていない、底なしの絶望と決意が宿っている。
「だから……っ、もう冬弥には構うな……。あいつの……あいつの視界に、一瞬でも入るんじゃねえ……ッ!!」
自らが「悪」になりきることで、冬弥の心にトドメを刺さない道を選んだ。
しかし、その選択は同時に、世界で一番大切な相棒を自らの手で永遠に切り離すことを意味していた。
「……っ、う、ぐ……ッ、はぁ……っ、はぁ……」
胃が、また狂ったように痙攣し始める。
もう、立っていることすら奇跡だった。
「まあ、俺たちは手出さないけど…お前はいじめ続けるんだからな?分かってて言ってるよな?」
「……っ、あ…………」
先輩のその言葉が、止めを刺すようにオレの胸に深く突き刺さった。
そうだ。
オレが「言わない」道を選ぶということは、これからもこの汚ねえ手でお前を傷つけ続けなきゃいけねえってことだ。
お前が一人で苦しむのを、救いの手を差し伸べるどころか、さらに奈落へ突き落とし続けなきゃいけねえんだ。
「……分かって、……るよ……っ」
喉の奥が、鉄の味がする。
唇を噛み切りすぎて、血が滲んでいることにも気づかねえ。
「……分かってんだよ……ッ!!」
叫び声が、冷たいトイレの壁に虚しく反響する。
お前を救いたいのに、お前を守りたいのに。
そのためには、お前の心を殺し続けなきゃいけないなんて。
こんな……こんな残酷なことが、あっていいのかよ。
「……はぁ、はぁ……っ、……っう、……げほっ、……!!」
激しい痙攣とともに、また胃液が込み上げてきた。
でも、もう何も出ねえ。ただ、空っぽの胃を雑巾みたいに絞り上げる痛みだけが、オレが生きている唯一の証みたいに体に刻まれる。
(冬弥……、ごめん……。ごめん、冬弥……っ)
心の中で、何度もあいつの名を呼ぶ。
「相棒」という言葉を捨て、ただの「加害者」として、これからもお前の前に立ち続ける。
お前に憎まれ、蔑まれ、それでもお前の心が壊れないのなら。
(……オレが、……全部、背負ってやるよ……っ)
オレの瞳からは、もう光が消えていた。
ただ、冬弥を守るためだけに自分を壊し続ける、死人のような決意だけがそこにある。
「……満足かよ……っ。……これで、……満足なんだろ……ッ!!」
先輩たちを睨みつけるオレの頬を、冷たい涙が伝い落ちた。
「あーバイト遅れるー。じゃな」
「……っ、…………ぁ…………」
遠ざかっていく、軽快な足音。
あいつらにとっては、オレの人生を、冬弥との絆をメチャクチャに踏みにじる行為も、ただの「バイト前の暇つぶし」に過ぎなかったんだ。
静まり返ったトイレ。
耳が痛くなるような静寂の中で、自分の荒い呼吸と、ドクンドクンと脈打つ頭痛だけが嫌にハッキリと聞こえる。
「……はぁ、……っ、はぁ……っ……」
支えを失った体が、そのままズルズルと冷たいタイルに沈んでいく。
もう、指一本動かす力も残ってねえ。
(終わった…………。全部、終わっちまった……)
明日からまた、オレは冬弥を傷つける。
あいつの悲しそうな顔を見て、絶望に震える背中を見て、それでも「オレがやった」と笑わなきゃいけねえ。
あいつが自分を責めて、一人で追い込まれていくのを、一番近くで見守りながら……追い討ちをかけなきゃいけねえ。
「……う、……ぁあ、…………っ、あああああッ!!!」
叫びは、嗚咽になって喉に詰まった。
床に額をこすりつけ、血の混じった唾液と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、彰人は声を殺して慟哭した。
お前を愛してる。相棒として、誰よりも大切だ。
だから、お前の心を壊さないために、オレは「最低のクズ」としてお前の前から消えなきゃいけない。
「……ごめん、……冬弥……っ、ごめん……っ……」
何度も、何度も、届くはずのない謝罪を繰り返す。
冬弥が拭いながら走っていったあの涙を思い出すたびに、心臓がズタズタに裂ける。
「……助けて、くれよ……っ……誰か…………ッ」
その時。
閉まったはずのドアの向こうから、微かな、でも聞き覚えのある、震える息遣いが聞こえた気がした。
「っ……、」
「……ぁ、…………」
ドアの向こうから漏れた、小さな、けれど決定的な**「息を呑む音」**。
その瞬間、オレの全身の血が逆流した。心臓が跳ね上がり、喉の奥までせり上がってくる。
(嘘だろ……。……まさか、……今の……)
ゆっくりと、錆びついた機械のように首をドアの方へ向ける。
そこには、さっき泣きながら走り去ったはずの、世界で一番会いたくて、世界で一番会っちゃいけない奴が立っていた。
冬弥の瞳は、これまでに見たことがないほど大きく見開かれ、絶望という言葉すら生ぬるいくらいに激しく揺れている。
「……っ、…………ぁ………………」
声が出ない。
何を言えばいい? 先輩はもういない。言い訳も、演技も、何一つ用意できてねえ。
さっきの会話をどこから聞いていた?
オレが「言えない」と言ったことか? お前を「いじめ続ける」と約束したことか? それとも、オレが全部の犯人だと認めたことか?
「……ち、が……っ、冬弥、……これは……っ」
這いつくばったまま、震える手で地面を掻く。
逃げなきゃいけないのに、体は鉛のように重くて動かねえ。
冬弥の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
あいつの頭の中で、今、これまでの全ての出来事が、最悪な形でパズルのように組み合わさっていくのが分かった。
(やめろ……。そんな顔でオレを見るな……っ! 頼むから、……そんな……、化け物を見るような目で……っ!)
お前を守るためだった。そう叫びたかった。
でも、その結果がお前をこの世で一番残酷な「真実」に直面させることだったなんて。
「……っ、う、あ……ッ!! げほっ、……はぁ、はぁ……っ!!」
激しい過呼吸がオレを襲う。
視界が冬弥の姿を捉えたまま、火花を散らして暗転していく。
お前にバレること。それがオレにとって、何よりも恐れていた、本当の「終わり」だった。
「…っ……、」
(……ああ、……やめろ。……その目で、オレを見るな……っ)
冬弥は駆け寄ってこなかった。
いつもなら、オレが少し咳き込んだだけで、誰よりも早く心配して駆け寄ってくれるあいつが、今はただ、そこに立ち尽くしている。
真っ黒な、光の消えた瞳。
そこから溢れ出す涙が、頬を伝って床に落ちる。
(怒れよ……っ。怒鳴れよ! なんで嘘ついたんだって、お前が犯人だったのかって、……殴ってくれよ……ッ!!)
でも、冬弥は何も言わない。
ただ、絶望をそのまま形にしたような顔で、床に這いつくばるオレを見下ろしている。
あいつの頭の中には、怒りなんて一欠片もねえ。あるのは、吐き気がするほどの自責だ。
「……っ、と、……や…………」
オレのせいだ。
オレが、アイツらの脅しに屈して、お前を「被害者」にしちまった。
お前に「自分のせいで彰人が苦しんでいる」と思わせたまま、今の今まで真実を隠し続けた。
冬弥はきっと、今この瞬間も「自分がもっと早く気づいていれば」「自分が彰人をこんなに追い詰めてしまった」って……また、自分を殺そうとしてる。
「……あ、……ぁあ……っ」
喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れる。
救いたかった。お前を救いたいために、オレは泥水を啜ってきたはずなのに。
結局、オレがやってきたことは、お前に「一番信じていた相棒に裏切られていた」という、最悪のトドメを刺しただけだったんだ。
冬弥の絶望した視線が、刃物のようにオレの体を切り刻む。
あいつの心は今、パニックで粉々に砕け散っている。その破片が、オレにも突き刺さって、もう息の仕方も分からねえ。
「……ごめん……、冬弥……っ。……ごめんなさい、……っ……」
オレは床に顔を押し当て、子供のように泣きじゃくった。
もう、何も隠せない。何も守れない。
二人の間にあったはずの絆は、真っ黒な絶望の海に沈んで、もうどこにも見当たらなかった。
「……、」
「……っ、…………ぁ、……」
冬弥は、何も言わなかった。
叫ぶことも、オレを責めることも、ましてや裏切りに逆上して殴りかかってくることもなかった。
ただ、糸が切れた操り人形みたいに、その場に力なく膝から崩れ落ちた。
タイルの上に、冬弥の膝が当たる乾いた音が響く。その音が、今のオレには、あいつの心が完全に壊れてしまった音に聞こえた。
(……やめろ、冬弥。そんな顔ですわり込むな……っ。逃げろよ……、こんなクズのそばから、早く……っ!)
でも、冬弥は動かない。
視線は床の一点を見つめたまま、ただひたすらに涙を零し続けている。
あいつの瞳に映っているのは、もうオレじゃない。自分が引き起こしてしまった(と思い込んでいる)取り返しのつかない惨状と、守れなかった「相棒」という名の幻想だ。
「……は、ぁ……っ、う……、…………っ」
オレは、そんな冬弥に触れることさえできなかった。
伸ばしかけた指先が、自分のあまりの汚さに耐えきれず、激しく震えて戻ってくる。
お前を救いたかった。
お前のその綺麗な瞳を、絶望で染めたくなかった。
だから、一人で泥を被る道を選んだのに。
その「自己犠牲」という名の傲慢さが、結局はお前を、今この瞬間も地獄に突き落としている。
静まり返ったトイレの中に、二人の、壊れたような荒い呼吸音だけが混ざり合う。
謝罪の言葉は、もう何の意味も持たなかった。
『ごめん』と言えば言うほど、冬弥は「自分がそう言わせているんだ」と自分を責めるだろうから。
(……終わったんだ。……全部、オレが壊したんだ……)
オレは、血の滲む唇を噛み締めながら、ただ冬弥の傍らで丸まることしかできなかった。
二人の間に流れるのは、どんな言葉でも埋められない、真っ黒で深い沈黙。
太陽の光が届かないこの場所で、かつての「相棒」たちは、お互いの存在を感じながらも、決定的に独りきりだった。
「っ……、」
「……っ、あ……待て……っ、冬弥……!!」
必死で伸ばした指先は、今度こそあいつの影にさえ届かなかった。
今度は涙を拭うこともしないで、ただ、溢れ出す絶望を撒き散らすようにして冬弥が走り去っていく。
ガランとしたトイレの中に、遠ざかっていく足音だけが、やけに響く。
(行くな……行かないでくれ……ッ! 一人に……一人にしないでくれよ……!!)
声にならない叫びが喉の奥で詰まる。
自分を「原因」だと思い込み、オレに「裏切られた」という事実さえも、あいつはきっと自分のせいにして飲み込もうとしている。
そんな顔で、あんな絶望に染まった目で、一人でどこに行くんだよ。
「……っ、う……、ぁ……ッ!!」
追いかけようとして力を込めた腕が、ガタガタと震えて崩れ落ちた。
胃が裏返るような激痛。視界が白く爆ぜて、自分が床に這いつくばっているのか、宙に浮いているのかさえ分からなくなる。
もう、何一つ守れなかった。
あいつを傷つけないために嘘をつき、あいつを救うために泥を被ったつもりだった。
だけど、結局オレがしたのは、冬弥から「相棒」を奪い、代わりに「人殺しを見るような真実」を突きつけただけだったんだ。
(……は、ははっ……最悪だ……。何が『守る』だ……。オレが一番……アイツを壊してんじゃねえか……ッ!!)
誰もいない冷たいタイルの上で、声を殺して慟哭した。
涙が止まらない。吐き気が止まらない。
自分のあまりの無力さと、汚さに。
そして、この先、もう二度とあいつの隣で歌うことが許されないという絶望に。
「……っ……冬弥……、……ごめん…………」
意識の淵で、最後に見たのは、あいつが去っていった開け放たれたドアの向こう側の、空っぽの景色だった。
しばらくして、ふと意識が浮上した。もしかしたら、練習場所に冬弥がいるかもしれない。
そんな微かな希望を手に、オレは練習場へ走り出した。
「…あ、東雲くん!体調、大丈夫……?」
「そうそう!昨日冬弥が連絡くれたんだよね〜、彰人の体調が悪いからこっちにつくって!」
…お人好しがすぎるんだよ……。
そんなことしてくれていたのも、オレは全く知らなかった。
「…でも、今日はまだ青柳くん来てないから…委員会かなって話していたところなんだ」
「……あぁ。……わりぃ、心配かけたな」
こはねと杏の声が、今のオレには鼓膜を直接針で刺されるみたいに痛い。
冬弥が……連絡をくれた?
あんなことがあった後なのに。あんな真っ黒な目をして走り去った後なのに、あいつはオレを庇って、「体調不良」なんて嘘をついてくれたのか。
(……どこまで、お前は……っ)
胃の奥がまた鉛を飲んだみたいに重くなる。
冬弥が嘘をつくときの、あの不器用なほど真っ直ぐな声を想像して、吐き気がぶり返しそうになった。
「……委員会、か」
こはねの言葉を、ただオウム返しにする。
違う。そんなはずねえ。今日は委員会の当番の日じゃない。そんなこと、隣にいたオレが一番よく分かってる。
「……そう、だな。あいつ、真面目だからな……」
嘘だと分かっていながら、そう答える自分の声が、他人のものみたいに冷たくて震えていた。
(違う。委員会なんかじゃねえ。……あいつ、来れねえんだよ。オレの顔なんて、もう二度と見たくねえはずなのに……)
杏が「冬弥が連絡くれた」って言った瞬間の、あの少し心配そうな、でもいつも通りの明るい顔。
もし、真実を話したら。
『彰人が冬弥の教科書を破いたんだ』なんて知ったら、こはねは、杏は、どんな顔でオレを見る?
「……、……っ」
冷や汗が背中を伝う。
練習場所のスタジオの空気が、息ができないほど薄く感じる。
「……悪い、やっぱり……まだちょっと、頭が重くて……。少しだけ、外……風に当たってくる」
「…彰人?大丈夫?」
「東雲くん、顔…真っ白だよ!?」
二人の呼び止める声を背中で聞きながら、オレは逃げるようにスタジオを飛び出した。
向かう場所なんて決まってねえ。
ただ、冬弥がいないこの場所が、あいつの優しさが詰まった「嘘」が、今のオレには耐えられなかった。
(冬弥……、どこに……どこにいるんだよ……ッ)
屋上、音楽室、図書室、あいつが行きそうな場所は全部回った。
だけど、どこを探しても、あの静かな佇まいも、綺麗な2色の透き通った髪も見つからねえ。
走り回るたびに、肺が焼けるように熱くなって、呼吸が浅くなる。
冬弥が「体調が悪いから」と杏たちに連絡を入れたのは、オレを守るためなんかじゃない。……いや、守るためだったのかもしれないが、それ以上に、もうオレと同じ空間にいることすら耐えられなかったからなんじゃないか。
(どこに行ったんだよ……。あんな状態で、一人で……っ)
ふと、嫌な予感が脳裏をよぎる。
先輩たちのあの言葉。
『あいつ、責任感じて今度こそ本当に壊れるぞ』
アイツは、自分が原因でオレがいじめられていたと思い込んでいる。
真実を知った今、あいつが自分をどう定義しているか、想像するだけで指先が凍りつく。
あいつは……自分という存在そのものが、オレを、オレたちの歌を壊しているって、そう結論づけてしまったんじゃねえのか。
「……っ、はぁ、……はぁ……ッ!!」
校門を飛び出し、あてもなく走り出す。
夕暮れ時の街並みが、冬弥を飲み込んで消してしまったみたいで、無性に恐ろしい。
(頼む……。どこかで、座り込んでるだけでいい。無事でいてくれ……ッ!)
いつかの雨の日のように、あいつが一人で、世界の終わりみたいな顔をして立ち尽くしているんじゃないか。
そう思うと、足の震えが止まらねえ。
「……冬弥……ッ!! どこだ……返事しろよ……ッ!!」
人通りの少ない路地裏で、名前を叫ぶ。
だけど、返ってくるのは冷たい風の音だけだ。
その時、ふと足元に落ちているものに気づいた。
それは、冬弥がいつも大切に持ち歩いている、楽譜の入ったファイル。
その表紙は泥で汚れ、中身が少しはみ出した状態で、道端に打ち捨てられていた。
震える手で、泥のついたファイルを開く。
中から滑り落ちたのは、昨日配られたばかりの新曲の楽譜だった。まだ一日も経っていないはずなのに、紙の余白が見えないくらい、びっしりと書き込みがされている。
『ここは彰人の声が一番綺麗に響くから、俺は一歩下がる』
『彰人の高音に合わせて、ブレスの位置を調整する』
『彰人の熱量に負けないように、でも、彰人を殺さないように』
……全部だ。
全部、オレのことばっかりだ。
あいつは、自分がどう歌いたいかじゃなく、どうすればオレが一番輝けるか、そればっかり考えて、この短い時間の間に何度も、何度も読み返したんだ。
「……っ、ふざけんなよ……、冬弥……ッ!!」
視界が、一気に滲んで歪む。
こんなに……こんなにオレのことを信じて、オレと一緒に歌う未来だけを見てた奴に。
オレは、あのゴミみたいな先輩たちの言いなりになって、あんな……っ!
楽譜の端には、強くペンを握りしめた跡が残っている。
でも、その書き込みの最後の方は、震えたような線で、何かに怯えるように途切れていた。
(……もう、歌えないって……思ってるんだろ)
あいつの性格だ。
「自分という存在が彰人を苦しめ、彰人にこんな嘘をつかせ、彰人を犯人に仕立て上げてしまった」……今の冬弥にとって、歌うことは、オレを傷つけ続けることと同義になっちまってる。
「……っ、う、あああああッ!!」
ファイルを抱きしめて、その場にうずくまった。
楽譜についた泥が、オレの頬の涙と混ざって汚れていく。
この楽譜は、あいつの希望だったはずだ。
それを、オレが、オレ自身の弱さが、ゴミ溜めに突き落としたんだ。
「どこだ……、どこにいるんだよ、冬弥……ッ!!」
立ち上がり、がむしゃらに走り出す。
その時、路地の先──。
暗い高架下のベンチに、街灯の光さえ届かない場所に、ただじっと、幽霊みたいに座り込んでいる人影が見えた。
膝の上に置かれた両手は固く握りしめられ、微かに震えている。
あいつだ。間違いねえ。
「……、」
「……っ、…………冬弥……!!」
駆け寄る足音が、コンクリートの地面に虚しく響く。
近づくにつれ、あいつの姿が鮮明になっていく。
街灯の届かない暗がりに沈み、肩を小さく震わせて座り込む冬弥。
その背中があまりにも小さくて、今にも消えてしまいそうで、オレは息が止まるかと思った。
「……はぁ、はぁ……っ、おい……っ!!」
すぐそばまで来て、声を張り上げる。
でも、冬弥は顔を上げない。
ただ、自分の膝の上に置いた、何も持っていない空っぽの両手を、じっと見つめている。
さっき拾ったあの楽譜……あいつが命を削るみたいに書き込みをしていたあの希望は、もうあいつの手にはなかった。
「……冬弥、……これ……っ」
泥に汚れたファイルを、差し出す。
でも、冬弥はそれを見た瞬間、火を押し付けられたみたいに肩を跳ねさせて、……ガタガタと、目に見えるほど激しく震え出した。
おびえてる。
オレに。
それとも、自分が「彰人を壊した」という事実に。
「……っ、あ…………」
冬弥の口から、掠れた、絶望そのものみたいな音が漏れる。
その瞳は、さっきトイレで見たときよりもさらに深く、暗い闇に飲み込まれていた。
あいつの頭の中じゃ、もうオレは「守るべき相棒」じゃなくて、「自分のせいで地獄に落とされた被害者」になっちまってるんだ。
「……違うんだ、冬弥。……聞け。……この書き込み、見たぞ……。お前、こんなに……っ」
楽譜を掴むオレの指先に力がこもる。
「こんなにオレのこと考えて、歌おうとしてたんだろ!? なのに、なんで……なんで一人でこんなとこにいるんだよ!!」
……返事はない。
ただ、冬弥の目から、大粒の涙がポタポタと地面の汚れを濡らしていくだけだ。
その沈黙が、何よりも重く、鋭く、オレの心臓を抉る。
「……怒れよ……っ。オレを……殴れよ……ッ! お前を傷つけたのは、アイツらじゃねえ、……この、オレなんだぞ……っ!!」
叫びながら、オレは冬弥の目の前で膝をついた。
もう、先輩たちの脅しなんてどうでもいい。あいつがこんな風に壊れていくのを見るくらいなら、オレはどうなったっていい。
「っ……ごめんなさい…ごめんなさい……ッ……、!!」
「……っ、やめろ……! 謝るな……ッ!!」
必死で耳を塞ぐ冬弥の前に、無理やり割り込むようにして叫んだ。
その小さな、壊れそうな背中を抱きしめることすら、今のオレには許されない気がして……、ただ目の前で拳を握りしめる。
「謝るな……っ! 悪いのはお前じゃねえ、オレだ……!! オレがお前を裏切って、お前をいじめて……っ、お前の居場所を壊したんだぞ!? なんで、なんでお前が謝るんだよ……ッ!!」
お前が耳を塞ぐのは、オレの声を聞きたくないからじゃない。
これ以上、自分の存在がオレを追い詰めているという「罪」の意識から逃げ出したいからなんだろう。
「冬弥……っ、手を離せ! 見ろよ、この楽譜を……ッ!!」
泥のついたファイルを無理やり冬弥の視界に押し込む。
「これを見ても、お前は自分が悪いって言うのかよ!? こんなにオレのことばっかり考えて……! オレが、……オレがどれだけお前に救われてきたか、お前はちっとも分かってねえ……ッ!!」
喉が焼ける。心臓が、後悔でズタズタに引き裂かれる。
お前に謝らせるために、オレはあいつらの言いなりになったわけじゃねえ。
お前を……お前を、こんな顔にさせるために、オレは泥を被ったわけじゃねえんだよ……!!
「……っ、う、あああああッ!! 頼む……っ、冬弥……ッ!! オレを……、オレを殺してくれよ……ッ! お前にそんな顔させるくらいなら、いっそ、……お前の手で、終わらせてくれよ……っ!!」
地面に額を擦りつけ、オレは冬弥の足元で泣き崩れた。
相棒なんて、呼べる資格はもうねえ。
それでも、お前にだけは、自分を責めてほしくなかったんだ。
「…ぁ……」
(……っ、あ………冬弥…?)
血の気が引く。
叫び、地面に額を擦りつけたまま、オレは自分の吐いた言葉の恐ろしさに気づいて凍りついた。
『殺してくれ』
……一番、言っちゃいけねえ言葉だった。
あいつは今、自分がオレを追い詰め、化け物に変えてしまったと絶望してるんだ。そんなあいつに、オレは死にたいなんて、トドメを刺すような言葉をぶつけちまった。
恐る恐る顔を上げると、そこには、もはや人間らしい生気を失った冬弥がいた。
(……やめろ、……その目は……っ)
黒い瞳が、周囲の光も、オレの存在も、全部飲み込んでしまいそうなくらい濁りきっている。
その瞳に映っているオレは、もう相棒でも何でもない。自分が完膚なきまでに「壊してしまった」という、動かぬ証拠そのものなんだ。
「……っ、ちが、……違うんだ、冬弥……ッ。今のは、忘れてくれ……! 死にたいなんて、そんな、本気じゃ……っ!!」
慌てて手を伸ばすが、冬弥の瞳はもうオレを捉えていない。
焦点の合わない真っ黒な目は、虚空を見つめたまま、あいつの心だけをどこか遠い地獄へ連れ去ろうとしている。
「冬弥……? おい、冬弥!! 返事しろ……ッ!!」
必死に呼びかけるが、あいつの表情はピクリとも動かない。
涙すら止まっている。ただ、自分を呪うことすら忘れてしまったかのように、その場に固まっている。
(オレのせいだ。……オレが、冬弥を……完全に壊した……)
かつて、屋上で『相棒』になろうと誓ったあいつの綺麗な声が、今はもう二度と聞こえない気がして、オレは絶望に震えた。
(……っ、ああ…………ッ!!)
自分の吐いた言葉が、冬弥の瞳から最後の光を奪い去るのを見て、オレは、自分がこの世で一番残酷な加害者だと確信した。
あいつのあの目は、もう言葉が届く場所にはいない。
「……っ……、…………ッ!!」
心臓が、喉元を突き破るんじゃないかってくらい激しく脈打つ。
おびえてるのは、冬弥じゃねえ。……オレだ。
お前を壊してしまった自分自身の姿に、耐えられなくなった。
「あ……、あぁああ……ッ!!」
オレは、差し出しかけたその手を、ひったくるように引っ込めた。
泥だらけのファイルも、絶望しきった相棒も、その場に置き去りにして、オレは踵を返した。
逃げなきゃいけない。
今、この場から。これ以上、あいつの前にいたら、オレは本当にあいつを……。
「はぁ、っ、はぁ……ッ!!」
高架下の暗闇を、がむしゃらに駆け抜ける。
背後で、冬弥がどんな風に崩れ落ちたのか、あるいはまだそこに立ち尽くしているのか、確かめる勇気なんて一欠片もねえ。
(ごめん、冬弥……。ごめん、ごめん……ッ!)
心の中で、何度も吐き気を伴う謝罪を繰り返す。
逃げるな、戻れ、あいつを一人にするな。
頭の片隅で理性が叫んでいるのに、足は止まらない。
自分の罪から、あいつの絶望から、そして、もう二度と元に戻れないという現実から、オレは無様に逃げ出した。
冷たい夜風が頬を打つ。
でも、どれだけ走っても、あの真っ黒な冬弥の瞳だけが、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
自分の部屋に駆け込み、ドアを閉めた瞬間に崩れ落ちた。
真っ暗な部屋。電気をつける気力もねえ。
壁に背中を預けて座り込むと、肺の奥が焼けるように熱い。
「……っ、……、……ッ!!」
自分の手が、ガタガタと震えて止まらねえ。
この手で、お前の教科書を破いた。
この手で、お前の隣にいる資格を捨てた。
そして今日……この手で、お前を絶望の底に突き放して、一人で逃げてきた。
(……最低だ。……何が相棒だ。……何が、守る、だ……ッ!!)
拳を床に叩きつける。何度も、何度も。皮が剥けて血が滲んでも、心の奥の痛みに比べりゃあ、蚊に刺された程度のもんだ。
机の上に置いてある、二人で撮った写真。
週末のライブに向けて、あいつと並んで練習したスタジオ。
全部、全部、オレがこの手でゴミ溜めに放り込んだ。
「……っ……冬弥……」
暗闇の中で、あいつのあの真っ黒な瞳が浮かんで消えない。
あいつは今、どこにいる?
あの高架下で、まだ一人で震えてるのか?
それとも、抜け殻みたいになって、家まで帰り着けたのか?
「……はは、っ……」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
今さら心配するなんて、どの口が言ってんだよ。
一番あいつを傷つけて、一番あいつを一人にしたのは、他でもないこの、東雲彰人だっていうのに。
胃が、また捻れるように痛む。
何も食べてねえのに、胃液と一緒にどす黒い後悔がせり上がってくる。
(もう、無理だ……。……あいつの隣には、……二度と、戻れねえ……)
布団に顔を押し込み、声を殺して泣いた。
独りよがりの正義感で、お前の一番大切なものを奪い去った自分を、殺しても殺し足りなかった。
一睡もできねえまま、気がついたら外に出ていた。
足が勝手に向かったのは、いつか二人で話したあの公園だった。
……いた。
朝日が当たっているはずなのに、そこだけポッカリと影が落ちているみたいに、冬弥がブランコに座っていた。
公園の入り口に背を向けて、ただ、ゆっくりと、力なく揺れている。
「…………っ」
声が出ねえ。
昨日、あんな風に逃げ出したオレが、今さらどんな顔して近づけばいい。
あいつの背中は、昨日よりもさらに小さく、脆そうに見えた。
昨日の夜、あいつは家に帰れたんだろうか。
それとも、一晩中こうして、一人で自分を責め続けていたのか。
「……冬弥」
震える声で、ようやく名前を呼んだ。
でも、あいつは振り返らない。
ブランコの鎖が軋む「ギィ……ギィ……」という乾いた音だけが、静かな公園に響いている。
「冬弥……、聞こえてるか。……昨日は、……逃げて、悪かった」
一歩、近づく。
あいつの肩が、ビクッと跳ねた。
でも、やっぱり振り返りはしない。
「……お前の楽譜、拾ったんだ。……泥、ついてたけど、中身は……読めるから。……あとで、渡す」
何を言ってんだ、オレは。
あんな風にあいつの心を壊しておいて、楽譜の話なんて。
でも、そうでもして繋ぎ止めておかなきゃ、今にもあいつが、この空気の中に溶けて消えてしまいそうで怖かった。
「……冬弥。……頼むから、……一言だけでいい。何か言ってくれよ。……怒鳴ってくれても、……いいから……っ」
オレは、あいつの背中に向かって、絞り出すように言った。
あいつが今、どんな目で、どんな顔で前を見つめているのか。
それを確かめるのが、死ぬほど怖くて、足がこれ以上前に進まねえ。
「……、」
「……っ、…………」
ブランコの鎖が軋む音が、止まった。
冬弥が、ゆっくりと、本当にゆっくりとこちらを振り返る。
だが、その動作には意志なんてものはこれっぽっちも感じられなくて、ただ重力に従って動いているだけの、壊れた機械みたいだった。
「…………あ、」
あいつの顔が見えた瞬間、オレの心臓は凍りついた。
そこにあるのは、怒りでもなければ、悲しみですらなかった。
ただ、すべてを諦めきったような、底の知れない「空虚」。
赤く腫れ上がった目の下には、一晩中自分を呪い続けたことを物語るような色濃い隈が落ちている。
唇は白く乾ききって、そこから漏れる吐息さえも、もう生きてる人間のものとは思えねえ。
お前は、そんな目でオレを見るのか。
「自分が彰人を壊してしまったから、自分も壊れるしかない」とでも言うような……、逃げ場のない絶望を湛えた、真っ黒な瞳。
「冬弥……、お前……、……っ」
一歩踏み出そうとした足が、すくんで動かねえ。
オレがあいつを守るために選んだ「嘘」も「暴力」も「沈黙」も、すべてはこの瞬間のためにあったのか?
相棒の瞳から、光を、希望を、そして「俺と一緒にいたい」という意志を、完全に削ぎ落とすために。
「……違うんだ。……冬弥、頼むから、そんな顔すんなよ……っ。オレは、お前と一緒に……っ!!」
言いかけて、言葉が喉に詰まった。
『一緒に歌いたい』なんて、今のこいつに言えるわけがねえ。
オレと歌うことが、あいつにとって、自分を傷つけ、オレを追い詰める「罰」になってしまっているのだとしたら。
冬弥の視線が、オレの顔を通り抜けて、どこか遠くの、何もない空間へと向けられる。
そこにはもう、オレの居場所なんて、どこにも残っていない気がした。
「……、」
一度はオレを捉えたはずのその瞳が、また、ゆっくりと、力なく逸れていく。
冬弥は、何も言わない。
ただ、吸い込まれそうなほど真っ黒な視線を、再び公園の何もない地面へと落とした。
(……やめろ。……無視されるより、キツい……ッ)
一度視線を合わせたことで、あいつの中にあったはずの「オレ」という存在が、今はもう「自分を責めるための材料」でしかなくなっているのが分かってしまった。
あいつは今、オレのことを見てるんじゃねえ。
オレをこんな風にした「自分」という化け物を、心の中でずっと、ずっと殺し続けてるんだ。
「……冬弥。……こっちを見ろよ……っ」
震える声で呼びかけても、もうあいつの肩は跳ねもしない。
ただ、微かに揺れるブランコの上で、抜け殻のように座っているだけだ。
あいつの周りだけ、時間が止まってしまったみたいに冷たくて、重い。
「……悪かった。全部、オレが間違ってたんだ……! お前を守りたかったなんて、そんなの、ただのオレのワガママだった……。だから、……自分を、そんな風に追い込むなよ……ッ!!」
必死に言葉を絞り出すが、そのすべてがあいつに届かずに、地面に吸い込まれて消えていく。
今の冬弥にとって、オレの言葉はもう「救い」なんかじゃない。
傷口を抉るだけの、鋭い刃物と同じなんだ。
「……っ、う、あ……」
冬弥が、ゆっくりと自分の両手を見つめた。
何も持っていない、震えるだけの手。
まるで、その手がオレの首を絞め、オレから歌を奪ったのだと確信しているかのような……、絶望しきった眼差し。
(……壊したんだ。……オレが、あいつの心を、完全に……)
かつて、背中を預け合って笑っていたあの頃が、何千年も前の出来事みたいに遠く感じる。
目の前にいるのは、オレが愛した相棒じゃない。
オレという「毒」に侵されて、ただ死を待つだけになった、一番大切な、オレの半身だった。
「……っ、……じゃあな。……もう、いいよ」
突き放すような、突き放されるような、ひどく歪んだ声。
オレはわざと足音を荒らげて、公園の出口へと向かった。
あいつの視界から、オレという「絶望の原因」を消してやりゃあ、少しは呼吸が楽になるんじゃねえかって、そんな身勝手な期待を抱きながら。
だが、そのまま帰れるわけがねえ。
公園の隅、大きな木の陰に身を隠し、息を殺してあいつを盗み見る。
(……冬弥…………)
オレがいなくなった後も、冬弥は微動だにせず、ブランコに座ったままだった。
背中を丸め、ただ地面を見つめている。
風に揺れる蒼い髪が、朝の光に透けていて、それが余計に今のあいつの「不確かさ」を際立たせていた。
あいつは今、何を考えている?
「彰人がいなくなって良かった」なんて、そんな風に思えるような奴じゃない。
きっと、オレが去ったことも、全部自分の罪のせいにして、一人で真っ暗な穴の中に潜り込んでいるんだ。
あいつの手が、ゆっくりと動く。
自分の胸のあたりを、苦しそうに、ぎゅっと、引きちぎらんばかりの勢いで掴んだ。
(……やめろ、冬弥……っ。……自分を、傷つけるな……ッ!!)
飛び出していきたくなる衝動を、必死で抑える。
今オレが行けば、またあいつはオレを見て、自分の罪を数え始める。
オレにできるのは、こうして影から、あいつが消えてしまわないか見守ることだけだ。
声も出さず、ただ静かに、冬弥の肩が激しく震え出す。
泣いているのか、それとも過呼吸に耐えているのか。
公園の入り口に背を向けているせいで、あいつの顔は見えない。
ただ、その背中から、耐えがたいほどの孤独と、自分への憎悪が溢れ出しているのだけは、痛いほど伝わってきた。
(……助けてくれ。……誰でもいい、……あいつを、救ってくれよ……ッ)
自分がその資格を捨てたというのに、心の中では無様に、神様にだって縋りたかった。
(……っ、な…………!?)
木の陰で息を呑んだ。心臓が跳ね上がり、視界が真っ赤に染まる。
冬弥が、ゆっくりと、地面に落ちていたあのファイルに手を伸ばした。
泥に汚れ、あいつの想いが、オレとの未来がびっしりと書き込まれていた、あの楽譜。
「……やめろ、冬弥……ッ!!」
叫びそうになるのを、必死で拳を噛んで抑え込む。
あいつの手が、震えながら楽譜の端を掴んだ。
そして──。
静かな公園に、あまりにも残酷な音が響き渡る。
昨日、あいつが一睡もしないで書き込んだはずの、オレたちの「明日」が。
「彰人とハモる」「彰人を引き立たせる」……そうやって綴られた無数の言葉たちが、あいつ自身の指によって、無残な紙屑へと変わっていく。
(……なんで、……なんでだよ、冬弥……ッ!!)
一枚、また一枚。
あいつは感情の消えた瞳で、ただ淡々と、機械的に楽譜を裂いていく。
それは、まるで自分たちの絆を、あいつ自身の存在意義を、一つずつ丁寧に殺しているかのような光景だった。
破かれた紙片が、朝風に舞って、泥のついた地面に散らばっていく。
(……もう、……歌わない……っていうのか……。オレと一緒にいることを、お前自身が……許さないっていうのかよ……ッ!!)
その破片の一つひとつが、オレの心臓に突き刺さる。
あいつにとって、あの楽譜はもう「希望」じゃねえ。
自分を、そして相棒を地獄に突き落とした「呪い」の紙切れに成り下がっちまったんだ。
最後の一枚を破り終えたあいつの手が、力なく膝の上に落ちた。
足元には、真っ白な紙の死骸が散らばっている。
冬弥は、それを見つめることすらしないで、また空っぽの目で、遠くの、何もない空を仰いだ。
(終わった。……本当に、全部、壊しちまったんだ……)
オレは木の陰で、立っていられなくなって崩れ落ちた。
自分の吐いた嘘が、自分の臆病さが、あいつから「歌」まで奪い去った。
あいつはもう、自分の声さえも、自分自身の心さえも、信じることができなくなっている。
(……っ、……ああ……)
木の陰で、オレはただ、震える手で自分の口を塞いでいた。
足元に散らばった楽譜の残骸。あいつの希望だったはずのものが、今はただのゴミとして、冷たい地面に打ち捨てられている。
その光景を見て、オレは、自分がどれだけ取り返しのつかないことをしたのか、本当の意味で理解した。
──その時。
公園の入り口から、明るい子供たちの声が聞こえてきた。
日曜日だ。もうすぐ、ここには家族連れやガキどもが溢れかえる。
(……やべえ……。どかなきゃ、……っ)
あんな、絶望を形にしたような顔をして、破かれた楽譜に囲まれている冬弥。
あいつの性格なら、子供たちの邪魔になることを一番嫌うはずだ。
たとえ心が死んでいても、あいつの根底にある「優しさ」だけは、きっとあいつを動かそうとするだろう。
「…………」
オレは、木の陰から動けない。
今のオレがあいつの前に出れば、あいつはもっと深い闇に沈んでしまう。
かといって、あいつをこのまま、あの場所で独りきりにしておくことなんて……。
冬弥のすぐそばに、風に流された紙切れが舞い上がる。
「彰人の声」……そう書かれていたはずの文字が、半分に裂かれて、泥の上を滑っていく。
(行くな……。どこにも行かないでくれ……ッ)
心の中で、無様に叫ぶ。
でも、現実のオレは、ただあいつが子供たちの声に反応して、その場所を譲ろうとする姿を……その「壊れた優しさ」を、残酷に、ただ見守ることしかできなかった。
「あ!お母さん見て、ブランコ空いてる!」
小さな男の子が、タッタッタッと元気な足音を立てて駆け寄ってくる。その後ろから、荷物を抱えた母親がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「本当ね。あ、でも、お兄ちゃんが座ってるわよ。順番待とうね」
母親の声に、男の子は冬弥の目の前でピタッと足を止めた。でも、冬弥は微動だにしない。足元に散らばった「紙屑」と、幽霊みたいに動かない冬弥の様子に、子供は不思議そうな、少し怖がるような顔で首を傾げた。
「ねえ、お兄ちゃん!そこ、ぼく使いたいんだけど……。お兄ちゃん、どいて?」
無邪気な、でも今の冬弥には鋭利な刃物のように突き刺さるであろう言葉。
「……こら、そんな言い方しないの。すみません、お兄ちゃん、少しだけ場所を……」
母親がそこまで言いかけて、言葉を飲み込むのが分かった。
木の陰から見ているオレにも伝わってくる。異常だ。この明るい日曜日の公園で、足元にズタズタに引き裂いた楽譜を散らかし、死人のような顔で座り込んでいる少年。
「……あ、あの……? 大丈夫、ですか……?」
母親の声に、戸惑いと、明らかな「警戒心」が混じり始める。
「……お母さん、このお兄ちゃん、おめめが真っ黒だよ。……こわい」
子供が母親のスカートの陰に隠れる。
その「こわい」という一言が、静かな公園に冷たく響いた。
(やめろ……。そんな目で、あいつを見るな……ッ!!)
オレは木の陰で、拳を血が滲むほど握りしめた。
あいつは怖い奴なんかじゃない。誰よりも優しくて、誰よりも真っ直ぐで……。
そのあいつを、こんな……「子供に怖がられるような姿」にしたのは、オレなんだ。
「……、」
「……お母さん、あのお兄ちゃん、お耳聞こえないのかな? なんでずっと地面見てるの?」
「……しっ、見ちゃダメ。あ、あっちの砂場に行きましょう? ね、ほら!」
母親が、子供の肩を抱き寄せるようにして、冬弥から距離を置く。その足取りは明らかに急ぎ足で、まるで「関わってはいけないもの」を避けるような、露骨な拒絶の色が含まれていた。
「……っ……、ふざけんなよ……ッ」
木の陰で、オレは奥歯が砕けるほど噛み締めた。
あいつは……冬弥は、ただ、自分を責めて、傷ついて、ボロボロになってるだけなんだ。変な奴じゃねえ。怖い奴なんかじゃねえんだよ。
でも、世間から見れば、日曜の朝に子供の遊び場で紙屑を散らし、死んだ魚のような目で座り込んでいる男なんて、不審者以外の何者でもねえ。
「……あ……」
母親に引かれて去っていく子供が、最後にもう一度だけ冬弥を振り返り、ひそひそ声で呟いた。
「……あの紙、ゴミ箱に捨てなきゃダメだよね」
無垢な正論。
あいつが、命を削るようにして書き込んだ「彰人のための歌」が、今、この場所ではただの『掃除されるべきゴミ』として扱われている。
(……やめろ……。もう、やめてくれ……ッ)
オレは耳を塞ぎたくなった。
あいつの繊細な心が、今の言葉を聞いてどれだけ抉られたか。
自分の居場所が、もうこの世界のどこにもないと思い知らされているようで、見ていられねえ。
冬弥は、まだ動かない。
子供たちが遠ざかっても、その母親の向けた冷たい視線の余韻だけが、あいつの周りに停滞している。
日差しはどんどん強くなって、公園全体を明るく照らしていく。
その光が強ければ強いほど、ブランコに座る冬弥の影は、真っ黒に、濃く浮き彫りになっていった。
(……っ、また……)
遠くから、今度はもっと騒がしい足音が近づいてくる。
さっきの親子連れとは違う。親の目が届かないところで、やりたい放題に暴れ回るガキどもの集団だ。
「あ! ブランコ空いてんじゃん! ラッキー!」
「あー、でも一人座ってるよ。……っていうか、何これ? 紙屑だらけじゃん。汚ねー!」
3、4人くらいの小4くらいのガキどもが、冬弥を囲むようにして立ち止まった。一人が面白がるように、地面に散らばった楽譜の破片を、わざと靴の先で蹴り飛ばす。
「おい、お兄ちゃん。そこどけよ。俺らが使うんだからさ!」
「無視かよ? 具合悪いの? もしかして、どっかおかしい奴なんじゃないのー?」
一人がニヤニヤしながら、仲間に向かって大声で煽り立てる。
あいつらには、冬弥がどれだけ傷ついているかなんて、これっぽっちも分かっちゃいねえ。ただ、目の前にいる「無反応で奇妙な大人」を、格好の遊び道具だと思っていやがる。
「おーい、生きてるかー? ほら、どけよ! 邪魔なんだよ!」
ガキの一人が、さらに調子に乗って冬弥の顔を覗き込んだ。
その瞬間、あいつが冬弥の瞳を見たのか、一瞬だけ怯んだような顔をした。だが、それを隠すように、さらに声を荒らげる。
「うわ……なんだよその目。真っ黒で気持ち悪っ!! ……おい、聞こえてんのかよ!?」
(やめろ……。もう、それ以上言うな……ッ!!)
オレは木の陰で、飛び出しそうになる足を必死で抑える。
でも、ガキの一人が、ニヤけ面を浮かべながら、冬弥の肩に手を伸ばした──。
「ちょっと触ったくらいで怒るなよな……っ!」
その指先が、冬弥の震える肩に触れようとした、その瞬間。
「……うるさいな…。…黙れよ」
「……っ!!」
木の陰で、心臓が跳ね上がった。
ずっと死んだように黙り込んでいた冬弥の口から、低く、地を這うような声が漏れた。
「……うるさいな……。……黙れよ」
その声は、いつもの穏やかな冬弥のものとは似ても似つかない、凍りつくような冷たさを孕んでいた。
子供の肩に触れようとしたガキの手が、空中でピタリと止まる。
ガキどもは、一瞬何が起きたのか分からないといった風に顔を見合わせたが、冬弥のその「目」を見た瞬間、一気に顔から血の気が引いていくのが分かった。
「……ひっ、……な、なんだよ……っ!!」
「……こわっ、……行こうぜ、こいつマジでヤバいって!!」
さっきまで威勢よく煽っていたガキどもが、蜘蛛の子を散らすようにして逃げていく。
あいつらの足音が遠ざかる中、公園には再び、重苦しい沈黙が降りてきた。
(冬弥……。お前、今……)
あいつの声が、耳の奥にこびりついて離れねえ。
「黙れ」と言ったあいつの瞳には、ガキどもへの怒りなんてなかった。
ただ、自分を責め続ける思考を邪魔されたことへの、……あるいは、自分の限界を、もうこれ以上一歩も踏み越えさせないという、絶望的な拒絶だけが宿っていた。
冬弥は、再び視線を地面へと落とした。
ガキどもに蹴散らされ、さらに遠くへ飛んでいった楽譜の破片。
「彰人と……」という文字が、泥にまみれて、もう判別できないほど汚れている。
あいつは、またあの「無」の状態に戻ろうとしている。
だが、一度声を出してしまったことで、あいつの中に溜まっていたどす黒い何かが、今にも溢れ出しそうに見えて、オレは恐ろしくてたまらなくなった。
(これ以上……、あいつを一人にしちゃダメだ……。でも、オレが行ったら……ッ)
心臓が、痛いほど警鐘を鳴らしている。
あいつが、あいつ自身を完全に終わらせてしまう前に、何とかしなきゃいけないのに。
「……、」
(……あぁ、クソ……ッ!!)
ガキどもが逃げ去った後、冬弥はまた、あの静寂の中に一人で取り残された。
だけど、さっきの「黙れよ」っていう声の残響が、この空気の中に嫌な形でこびりついて離れねえ。
あいつは今、何を見てる?
自分を怖がって逃げた子供たちの背中か? それとも、誰に対しても牙を剥くしかなくなった、変わり果てた自分自身の心か?
(もう、見てらんねえ……)
木の陰で、オレの指先が、自分の爪が食い込むほど手のひらを握りしめている。
あいつを一人にしたらダメだ。あいつが、あいつ自身を「化け物」だと思い込む前に、誰かが、たとえそれが一番あいつを傷つけたオレだとしても、隣に立たなきゃいけねえんだ。
だけど、足がすくむ。
今の冬弥にとって、オレの顔を見ることは、さっきのガキどもの煽りなんかよりもずっと、残酷な拷問になるんじゃないかって。
「…………っ」
冬弥の肩が、微かに、本当に微かに震えた。
また、あのブランコの鎖が「ギィ……」と、泣くような音を立てて揺れる。
あいつの視線の先には、バラバラに裂かれた楽譜の破片が、冷たい風に吹かれて無様に踊っている。
昨日まであいつの命だったものが、今はただの、誰にも見向きもされない汚れとして、そこに転がっている。
(お前を、……こんな場所に、置いていけるわけねえだろ……ッ!)
嫌われてもいい。殴られてもいい。
たとえ「殺してくれ」とまた言われることになっても、オレは──。
「……、」
(……あぁ、もう、これしかねえのかよ……っ)
木の陰で、オレは自分の顔を強く拭った。
「お前は悪くない」なんて、今の冬弥には一番言っちゃいけねえ。あいつは自分が「悪」だと信じ込んで、その罪に飲み込まれようとしてるんだ。だったら、その罪を……あいつが抱えてるその地獄を、正当化してやるしかねえ。
オレは、ゆっくりと木の陰から姿を現した。
あいつの背中に向かって、わざと冷たく、突き放すような足音を立てて近づく。
「……何してんだよ。みっともねえ」
冬弥のすぐ後ろで立ち止まり、あえてあいつの顔を見ずに、散らばった紙屑を冷ややかな目で見下ろした。
「子供にまで気味悪がられて、自分を被害者みたいに演じて……満足か?」
喉の奥が引き裂かれそうだ。今すぐ「嘘だ、ごめん」って抱きしめたい衝動を、必死で殺す。
今のこいつに必要なのは、優しい嘘じゃない。……あいつが望んでる「罰」だ。
「楽譜を破れば、それで終わりか? 全部なかったことにできると思ってんのかよ。……ふざけんな。お前がやったことは、そんなもんで消えねえよ」
わざと、重く、鋭い言葉を選んであいつの背中に叩きつける。
「お前がオレをこうさせたんだろ。お前がオレを追い詰めて、嘘をつかせて、こんな泥沼に引きずり込んだんだ。……その責任、破った紙と一緒に捨てるつもりかよ」
オレは一歩、冬弥の隣に踏み込んだ。
あいつの震える肩が視界に入る。
「……逃げるなよ、冬弥。お前は加害者なんだ。オレを壊した、張本人なんだよ。……だったら、最後まで見届けろ。オレがどんな風に腐っていくか、お前のその真っ黒な目で、ちゃんと見とけよ」
……ごめん。ごめん、冬弥。
お前をこれ以上、一人で「自分を責める」という逃げ場にいさせないために。
オレの隣で、オレと一緒に、この地獄を背負わせるために。
「立てよ。……お前の『罰』は、ここで震えてることじゃねえ。……オレの隣で、一生、後悔し続けることだろ」
「……、」
(……っ、……あぁ……)
あいつが、ゆっくりと立ち上がった。
ブランコの鎖が、最後の一鳴きをして、静かに揺れを止める。
あんなに酷い言葉を投げつけなきゃ、あいつは立てなかった。
優しく「大丈夫だ」なんて言っても届かなかったのに、自分を「加害者」だと決めつけ、「逃げるな」と呪いのような罰を突きつけた途端に、あいつは動いた。
……それが、たまらなく惨めだった。
立ち上がった冬弥の背中は、ひどく不安定で、今にも風に吹かれて折れてしまいそうなくらい細い。
それでも、あいつは立っている。
オレが与えた「罪」という重荷を、必死に背負い直すみたいに。
足元に散らばった楽譜の死骸を、あいつはもう見ない。
ただ、指示を待つ人形のように、あるいは断頭台へ向かう罪人のように、絶望を背負ったまま、オレの次の言葉を待っている。
(……これで、いいんだろ。冬弥……)
心の奥が、ぐちゃぐちゃに掻き回される。
あいつを救うために、あいつの心を殺した。
あいつを隣に留めておくために、あいつの瞳から光を奪い去った。
オレを見上げるその瞳は、さっきよりもずっと深く、暗い闇に沈んでいる。
その闇は、「彰人の罰を受ける」という歪んだ目的だけで繋ぎ止められた、脆い命の輝きだった。
「……行くぞ」
オレは、あいつの手を引くことはできなかった。
ただ、振り返らずに歩き出す。
背後で、泥のついた靴音が、力なく、でも確実にオレのあとを追ってくる。
(……一生、後悔させてやる。……オレも、お前も……二人で、この地獄を歩き続けてやるよ……)
朝日が眩しすぎて、視界が滲んだ。
自分たちの影が、長く、黒く、地面に這いつくばっている。
「……、」
(……っ、……、……)
背後から聞こえる、力ない足音。
それが、今のオレたちが繋がっている唯一の「鎖」だ。
冬弥は何も言わず、ただオレの数歩後ろを歩いている。
その距離は、以前のオレたちが並んで歩いていた時とは決定的に違う。
隣を歩く資格なんてない、前を見る権利なんてない――そう言いたげな、卑屈なほどに控えめな足取り。
(……これで、本当に良かったのかよ……)
喉の奥まで出かかった言葉を、血が出るほど唇を噛んで飲み込む。
今、オレが少しでも情けを見せたり、優しい声をかけたりすれば、この鎖はすぐに千切れてしまう。
あいつはまた、自分の殻に閉じこもって、死を望むような闇に堕ちていく。
だから、オレは前を向いたまま、一度も振り返らない。
あいつが今、どんな顔をして、どんな風に絶望を噛み締めているか、見ちまえば……オレの方が先に崩れちまうから。
風が吹くたび、あいつの服が擦れる小さな音が聞こえる。
それは、あいつがまだそこに存在しているという証明なのに、同時に、あいつの心がもうここにはないことを突きつけてくるようで、息が詰まる。
「……っ」
不意に、背後の足音が少しだけ乱れた。
立ち止まりそうになるのを、あいつが必死で堪えているのが分かる。
オレに与えられた『罰』を全うするために、その震える足に力を込めて、一歩、また一歩と、泥を啜るような思いで歩を進めている。
(……ごめん。……本当に、……ごめんな……)
心の中で繰り返す謝罪は、誰にも届かない。
朝日を背に受けて、オレたちの影は重なることもなく、ただ黒く、長く、アスリートのように冷たく地面に伸びていた。
(……きっと。こうするしかない。……こうするしか、ないよな……?)
自分に言い聞かせるたびに、胸の奥が焼けるように痛む。
あいつを救うために「罪人」に仕立て上げ、あいつの隣にいるために「地獄」を用意する。こんなの、もう相棒でもなんでもねえ。ただの共依存だ。
でも、そうでもしなきゃ、冬弥は今すぐこの世界から消えてしまいそうなんだ。
人通りのない裏路地を抜け、オレたちはかつての練習場所でもあった、見捨てられた廃ビルへと足を踏み入れた。
湿った埃の匂いと、冷たいコンクリートの感触。
かつては「夢」を語り合ったこの場所が、今はあいつを閉じ込めるための檻のように見える。
「…………」
冬弥は、何も言わずにオレの後ろをついてくる。
階段を上る足音が、ガランとした建物内に虚しく響く。
あいつの視線は、ずっとオレの背中のどこか一点に固定されたままだ。そこにはもう、かつての信頼や親愛なんて微塵もない。ただ、自分を裁く「執行人」を見つめるような、絶対的な服従と絶望があるだけだ。
最上階の、窓ガラスが割れ落ちた部屋に着く。
吹き込んでくる風は冷たく、あいつの薄い肩を容赦なく震わせた。
オレはゆっくりと振り返り、壁際に立ち尽くす冬弥を見た。
あいつの瞳は、相変わらず黒く、光を吸い込んで戻さない。
逃げ場のないこの密室で、あいつはただ、オレが下す次の「罰」を待っている。
「……ここなら、誰も来ねえよ」
わざと低く、突き放すような声で言う。
「お前がオレに何をしたか。オレがお前に何をされたか。……誰も知らない、オレたちだけの場所だ」
一歩、また一歩と、冬弥との距離を詰める。
あいつは逃げない。拒まない。ただ、オレが近づくにつれて、その瞳の奥にある闇が、さらに深く、静かに広がっていくのが分かった。
(……壊れてる。……オレの手で、完全に……)
その事実を突きつけられるたびに、オレの心もまた、音を立てて崩れていく。
「……、」
(……っ、……ぁ…………!!)
無理だ。こんなこと、続けられるわけねえ。
あいつを「加害者」にして、罰だなんて呪いを吐いて……そんなことしてまで繋ぎ止めて、何が相棒だ。
「……っ、……う、あぁああ……ッ!!」
耐えきれず、視界が激しく歪んだ。
ボロボロと溢れ出した涙が、頬を伝ってコンクリートの床に落ちる。
オレは、自分でも制御できないほどの力で、目の前に立つ冬弥の体に縋りついた。
「……っ、……ごめん、冬弥……っ!! 嘘だ、全部嘘なんだ……ッ!!」
抱きしめたあいつの体は、驚くほど冷たくて、細い。
まるで魂だけがどこかへ行ってしまったみたいに、何の熱も感じられない。
「お前は何も悪くない……っ!! お前を壊したのはオレだ……、オレが全部……、お前を追い詰めて、楽譜まで破らせて……っ!!」
冬弥の胸元に顔を埋めて、子供みたいに声を上げて泣いた。
あいつを傷つけたくなくてついた嘘が、結局あいつを一番深く切り裂いた。
自分を殺してまでオレの隣にいようとする、その壊れた優しさが、今のオレには痛くて、怖くて、たまらない。
「……頼む、冬弥。……何か言ってくれ……っ」
腕の中のあいつは、ただ静かにオレの嗚咽を聞いている。
震える手で、あいつの背中を、服を、強く掴む。
「……何でもいい……。オレを恨んでるなら、そう言ってくれ……! 殴ってくれよ……!! お前が今、何を考えてるのか……、その真っ黒な瞳の奥で、何を感じてるのか……全部教えてくれ……っ」
教えてくれ。
お前のその絶望を、一人で背負わないでくれ。
オレが壊してしまったお前の心を、もう一度、オレに触れさせてくれ。
「……冬弥…………」
廃ビルの中、オレの泣き声だけが虚しく反響する。
抱きしめているのは、確かに冬弥のはずなのに。
すぐそこにいるはずなのに、その心だけが、果てしない暗闇の向こう側で、オレの手の届かない場所にいる気がして、オレは狂いそうなほどに叫び続けた。
「…彰人と出会わなければよかった」
「…………っ、え…………」
抱きしめる腕の力が、一瞬で抜けた。
全身の血が凍りつき、心臓が止まったかと思うほどの衝撃が、耳の奥で爆発した。
……今、なんて言った。
冬弥の口から漏れたのは、拒絶でも、怒りでも、恨み言ですらなくて。
出会ったこと、隣にいたこと、そのすべてを根底から覆す「終わり」の言葉だった。
「……っ……冬弥、お前…………」
恐る恐る体を離し、あいつの顔を見上げる。
その瞳は、相変わらず光を吸い込んだまま、揺れることもなくオレを見つめていた。
涙すら流さず、ただ、その結論だけが唯一の真実だと言わんばかりの、あまりにも静かな、絶望的な声。
(出会わなければ、よかった……?)
あいつと過ごした、あの週末のライブも。
屋上で、夜の街を見下ろしながら誓い合ったあの日も。
初めてハモった時の、あの震えるような高揚感も。
全部、あいつにとっては「なかった方がいい」苦しみでしかなかったのか。
オレが必死に守りたかった、あいつとの時間は、冬弥にとっては自分を化け物に変えるための、ただの呪いだったのか。
「……は、っ……あ……」
声が、掠れて出ない。
『そんなこと言うな』なんて、言えるわけがない。
オレが、あいつにそう思わせたんだ。
オレの存在そのものが、冬弥にとっての「最大の不幸」だったんだと、今、あいつ自身の口から宣告された。
冬弥の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、縋るような、あるいはすべてを断ち切るような、鋭い痛みが走った気がした。
あいつは、オレを傷つけるために言ったんじゃない。
本心から、心底から、自分とオレが交わらなければ、オレがこんな風に壊れることも、自分がこんな風に狂うこともなかったと、そう結論づけてしまったんだ。
「……あ…………、…………っ」
膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で耐える。
目の前にいる相棒が、これ以上ないほど遠くに感じられた。
伸ばした手は、もうあいつの肌に触れることすら許されないような気がして、宙で虚しく震え続けた。
沈黙だけが、重く、冷たく、廃ビルの中に満ちていく。
オレがどれだけ喉を枯らして叫んでも、どれだけ惨めに縋りついても、冬弥からの返事はない。
ただ、あいつの体温だけが、オレの腕の中で少しずつ奪われていくような気がして、それが何よりも恐ろしかった。
あいつは、オレを見ていない。
「出会わなければよかった」という言葉を吐き出したあいつの瞳は、もう、この世界のどこも映していないみたいに濁りきっていた。
オレの手を振り払うことさえしない。
怒ることも、泣くことも、否定することもしない。
ただ、そこに『在る』ことさえも、自分に許していないような――。
「……っ、ふ、あ……」
オレの指先が、冬弥の背中で震える。
あいつの心は、もうとっくにここから逃げ出して、オレの手の届かない、もっとずっと暗くて深い場所に、一人で閉じこもっちまったんじゃないか。
「……なぁ、……冬弥……」
縋りつく腕に力を込めても、返ってくるのは冷たい沈黙と、風がコンクリートを叩く音だけ。
あいつの「無」が、オレの言葉も、感情も、全部吸い込んで消していく。
(……助けてくれ。……誰か、こいつを……)
心の中で、もう何度目か分からない救いを求める。
だけど、ここにはオレと、オレが壊してしまった冬弥の二人しかいない。
あいつの絶望を肯定し、あいつの居場所を奪い、挙句の果てに出会ったことさえ後悔させたのは、紛れもない、オレ自身なんだ。
オレは、ゆっくりと顔を上げた。
涙で視界はぐちゃぐちゃだけど、目の前にいる冬弥の、その空っぽな表情だけは残酷なほど鮮明に見えた。
「…………」
冬弥の指先が、ほんの少しだけ動いた。
だけどそれはオレを抱き返すためじゃなく、ただ、重力に従って力なく垂れ下がっただけだった。
「……、」
(……っ、……、……)
その沈黙が、あまりにも深すぎて、もう二度とあいつの声を聴くことができないんじゃないかと、心臓が握り潰されるような恐怖が襲う。
冬弥の身体は、抱きしめているオレの腕の中で、驚くほど動かない。
抵抗もしない、縋りもしない。
ただ、そこに「肉体」という器だけが置いてあるような、そんな空虚さ。
さっきあいつが吐き出した「出会わなければよかった」という言葉が、呪いのようにこの部屋の空気を侵食していく。
あいつは今、自分の過去を、オレと積み上げてきた時間を、一つ一つ記憶の奥底で消し去っているのかもしれない。
そうしなければ、自分が自分でいられないほどに、オレとの関わりが、あいつをズタズタにしてしまったから。
「……っ、……ふ、……」
オレは、震える手で、冬弥の頬にそっと触れた。
あいつの瞳は、目の前にいるオレを通り越して、ずっと遠く……何もない虚無を見つめている。
(……ごめんな、冬弥。……お前に、こんなこと言わせて……)
出会わなければよかった。
その言葉の裏にある、あいつの血を吐くような絶望を、オレは受け止めることしかできない。
否定したくても、今のあいつのこの姿が、それが「真実」なんだと突きつけてくる。
オレは、ゆっくりと腕の力を緩めた。
密着していた体温が離れていくたびに、二人の間に取り返しのつかない亀裂が走っていく。
冬弥は、支えを失ってもなお、ただの石像のようにそこに立ち尽くしていた。
微かに開いたままの唇からは、もう、ため息すら漏れない。
(……もう、いいよ。……冬弥)
オレは、あいつの虚ろな瞳をじっと見つめ、無理やり歪んだ笑みを作った。
涙が、止まらずにその笑みを汚していく。
「……お前の、言う通りだ。……オレたちは、出会うべきじゃなかったのかもしれねえな……」
自分の心臓を、自らの手で抉り出すような心地だった。
あいつが望むなら、あいつが少しでも楽になれるなら、オレとのすべてを「間違い」だったことにしてやるよ。
「……さよならだ、冬弥。……お前を、……解放してやる」
「……、」
オレは、震える足で一歩、また一歩と、冬弥から距離を置いた。
背中を向けるのが、これほどまでに怖いと思ったことはない。
一歩離れるたびに、あいつとの間に冷たい風が吹き込み、二度と埋めることのできない溝が深まっていく。
「……っ」
廃ビルの入り口へ向かう足音が、ガランとした空間に不気味に響く。
あいつは……冬弥は、追いかけても来ない。
呼び止める声もしない。
あいつが望んだのは、オレという存在が消えることだ。
出会わなければよかったと言ったあいつにとって、オレの去り際は、救い以外の何物でもないはずだ。
(……これで、いいんだ。……これで……)
出口の階段に手をかけた時、どうしても、最後にもう一度だけあいつの姿を焼き付けておきたくて、オレは振り返った。
冬弥は、さっきと同じ場所に、同じ格好で立ち尽くしていた。
割れた窓から差し込む光が、あいつの蒼い髪を白く飛ばしている。
その姿は、あまりにも美しくて……、あまりにも、死に急ぐ幽霊みたいに儚かった。
あいつの瞳は、やはり何も映していない。
去りゆくオレの背中さえ、もう見ていないのかもしれない。
「…………」
オレは、声を出す代わりに、強く唇を噛み切った。
血の味が口の中に広がる。
このビルを出れば、もう、オレはあいつの「相棒」じゃなくなる。
街ですれ違っても、名前を呼ぶことも、目を合わせることも許されない。
あいつの人生から、オレという汚れを完全に拭い去ってやるんだ。
「……じゃあな。……冬弥」
震える声で、届かないかもしれない別れを告げた。
オレはそのまま、暗い階段へと足を踏み出し、あいつの姿を視界から消した。
一歩、階段を下りる。
もう一歩、下りる。
あいつのいない世界へ、オレは自ら進んでいく。
心臓が、内側からボロボロに崩れていく音が聞こえる。
それでも、あいつが「出会わなければよかった」と願うなら、オレの最後の手向けは、その願いを叶えてやることだけだった。
階段を下りる足が、どうしてもそれ以上、動かなかった。
(……クソッ……!)
これでいい。あいつの願いを叶えてやるのが、オレにできる最後の……。
そう自分に言い聞かせても、胸のざわつきが、本能的な警告となって全身を駆け巡る。
あいつは「出会わなければよかった」と言った。オレを突き放した。
なのに、その言葉を吐いた時の、あいつのあの、この世の終わりみたいな空っぽな瞳が、瞼に焼き付いて離れねえんだ。
「…………」
オレは、逃げるように下りていた階段で足を止め、ゆっくりと、来た道を引き返した。
音を立てないように、慎重に。
もう一度だけ、あいつの顔を、本当の最後に見るために。
扉の隙間から、さっきの部屋を盗み見る。
「……っ……」
そこにいたのは、さっきまでの「石像」のような冬弥じゃなかった。
冬弥は、崩れ落ちるのを必死に堪えるように、自分の身体を抱きしめて震えていた。
その頬には、止めどなく溢れる涙が光っていて。
さっきまで何も映していなかった瞳は、今はただ、絶望と後悔に歪んで、激しく揺れている。
あいつの指先が、何かに縋りつくように、自分の腕を強く、白くなるほど握りしめている。
(……冬弥…………)
分かってしまった。
あいつは、オレを嫌いになったからあんなことを言ったんじゃない。
「自分がいれば、彰人が不幸になる」……そう信じ込んで、オレの未来を守るために、自分の心臓を抉るような想いで、あの言葉を絞り出したんだ。
「出会わなければよかった」なんて。
そんなの、あいつが一番、言いたくなかった言葉に決まってるだろ……!
あいつの唇が、音もなく動く。
何を言っているのかは聞こえない。だけど、その絶望しきった横顔は、自分という存在を、この世から消し去りたがっている「加害者」の顔そのものだった。
自分で自分を裁いて、自分に死以上の罰を与えて。
そうして、オレから離れることが「当然の報いだ」と、あいつは一人で、真っ暗な地獄に足を踏み入れようとしている。
(……ふざけんな。……ふざけんなよ、冬弥……ッ!!)
オレは、扉にかけた手に力を込めた。
お前を救えるのがオレだけなら、たとえお前がそれを「罪」だと言っても、オレは、その地獄からお前を何度でも引きずり出してやる。
「…っ……う…。……ッうぁあ………っ…、!!」
(……っ、……あ、……)
目の前で、冬弥が息を詰まらせ、喉を震わせながら泣いている。
あんなに静かだった空間が、あいつの声にならない慟哭で満たされていく。
飛び込まなきゃいけない。今すぐ、その身体を抱き止めて、「バカなこと考えるな」って怒鳴りつけてやりたい。
なのに、オレの足は、その一歩を踏み出すのを拒絶するように床に張り付いて動かねえ。
(……待てよ。オレが行って、……本当にあいつのためになるのか?)
今ここでオレが飛び出せば、冬弥はまた、オレを傷つけたっていう罪悪感に押し潰されるんじゃねえのか?
あいつが今、一人でボロボロになって泣いてるのは、そうやって「罰」を受けることで、なんとか自分の心を保とうとしてるからなんじゃないのか。
オレが現れれば、あいつはまた、その涙を隠そうとするだろう。
「ごめん」って、謝ることもできないほど自分を追い詰めて、またあの「空っぽ」な顔に戻っちまうんじゃねえのか。
(オレが……、あいつを追い詰めてるんだ……)
飛び込みたい。助けたい。
その衝動は、ただのオレのエゴなんじゃないか?
あいつが今、あんなに震えながら「自分がいなければ」と願ってるなら、オレの顔を見せることは、救いじゃなくて、さらなる残酷な「拷問」になるんじゃねえのか。
「……っ……、ぅ……」
冬弥が、自分の胸元を掻きむしるようにして、さらに小さくうずくまる。
その指先が震えるたびに、オレの心臓も一緒に削られていく。
行かなきゃいけないのに、行っちゃいけない。
あいつを一人にしちゃいけないのに、オレがいちゃいけない。
オレは、扉の陰で、自分の口を両手で強く押さえた。
声を上げて泣き出しそうなのは、オレの方だ。
相棒が目の前で壊れていくのに、何が正解なのかも分からず、ただ震えながらそれを見守ることしかできねえ。
(……冬弥……、お前、……どうして……っ)
廃ビルの埃っぽい空気の中で、あいつの震える吐息と、オレの激しい動悸だけが混ざり合っていく。
「っ…ぅ……ッ…あ…。……ぅう……っ…。」
(……っ、…………ッ)
心臓が、耳元でうるさいくらいに脈打ってる。
扉の隙間から見える冬弥の背中は、今にも消えてしまいそうなくらい小さくて、脆い。
今、オレが「彰人」として入っていけば、あいつはまた自分を殺して、オレのために「完璧な相棒」を演じようとするかもしれない。それはあいつをさらに深く、逃げ場のない地獄へ追い込むことになる。
だけど、このまま放っておけば、あいつは自分の出した結論……「オレさえいなければ」っていう最悪な答えに飲み込まれて、本当に二度と戻ってこれなくなる。
(一度きりだ……。この一度の判断を、絶対に間違えちゃいけねえ……!)
オレは、震える手で自分の顔を強く叩いた。
涙を拭い、ぐちゃぐちゃな感情を、無理やり「覚悟」という形にねじ込む。
優しく抱きしめるだけじゃ足りない。突き放すのはもうやった。
なら、今のあいつに必要なのは……「お前がどう思おうが、オレがお前を離さない」っていう、理屈も罪悪感も全部踏み潰すような、傲慢なまでのワガママだ。
「……っ、……ふぅ、……」
深く息を吸い込む。
迷いを殺す。
オレは、扉を大きく蹴り開けるようにして、部屋の中に足を踏み出した。
わざと大きな足音を立てて、床の瓦礫を踏み鳴らす。
驚いて顔を上げるだろう冬弥に、考える隙なんて与えねえ。
「……おい」
あえて、震える声を隠さずに、だけど逃げ場のないほど強い視線をあいつに叩きつける。
「勝手に一人で完結させてんじゃねえよ、……バカ冬弥」
オレは、うずくまる冬弥の目の前まで歩み寄り、その肩を掴んで、無理やり自分の方を向かせた。
「っ…、!」
「……っ、ふざけんな、何が『出会わなければよかった』だ!」
震える冬弥の肩を、指が食い込むほどの強さで掴み、無理やりその顔を覗き込んだ。
あいつの瞳は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていて、突然戻ってきたオレを信じられないといった風に、激しく揺れている。
「お前が……っ、お前が自分をどれだけ責めても、どれだけ『いない方がいい』なんて思っても、そんなのオレには関係ねえんだよ!!」
喉が焼ける。あいつの顔が、自分の涙で滲んでよく見えねえ。
それでも、オレはあいつを離さなかった。
「お前がオレを苦しめた? 報いだ? ……ああ、そうだよ。お前のせいでオレはボロボロだ。お前がいないと何もできねえくらいに、壊されちまったんだよ……ッ!」
冬弥の胸元を握りしめたまま、その額に自分の額を思い切りぶつけた。
ゴツン、と痛いくらいの衝撃が、二人の間に走る。
「……だから、責任取れ。オレをこんなにした責任、一生かけて取れよ! 勝手に消えて、一人で清算したつもりになってんじゃねえ……ッ!!」
お前さえいなければ、なんて、そんな悲しい嘘を、二度とその口から吐かせてたまるか。
「お前がいない世界で、オレに一人で笑えってのかよ……。そんなの、……死ぬより残酷だってこと、分かってんのかよ……冬弥……っ!!」
オレはそのまま、力を失ってその場に膝をついた。
冬弥を抱えたまま、二人で冷たいコンクリートの上に崩れ落ちる。
「……行かせねえ……。お前がどこまで自分を嫌いになっても、……オレがその分、お前を離さないでいてやるから……っ」
廃ビルの中に、重なる二人の呼吸と、止まらない嗚咽だけが響き渡る。
あいつの細い身体が、オレの腕の中で、激しく、激しく震え続けていた。
「…っ……」
(……っ、……やべえ!)
冬弥の瞳に浮かんだのは、希望なんかじゃなかった。
「まだ歌いたい」っていうあいつの本心と、「これ以上彰人を壊したくない」っていう恐怖が、あいつの中で激しくぶつかり合って、火花を散らしている。
「……ぁ……、……っ……!!」
冬弥が、突然自分の耳を強く塞ごうとした。
まるで、頭の中に響く「自分を責める声」を必死に振り払おうとするみたいに。
その形相は、見ていられないほどに必死で、パニックに陥っているのは一目瞭然だった。
「冬弥……っ! 落ち着け、冬弥!!」
オレは咄嗟に、あいつの耳に伸びた両腕を掴んだ。
自分を傷つけさせないために。オレの声を、ちゃんと聴かせるために。
だけど、掴んだ瞬間のあいつの身体の「跳ね方」が、普通じゃなかった。
ビクッ、と全身を震わせ、オレに触れられた場所から逃げるように身を捩る。
その、拒絶というよりは「恐怖」に近い反応に、オレは火傷でもしたみたいに、慌ててその腕を離した。
(……っ、……オレの声も、今はあいつを追い詰める毒になってんのか……?)
冬弥は、腕を離されたあとも、その場にうずくまってガタガタと震え続けている。
塞ぐことができなくなった耳を隠すように、首をすくめ、何かに怯えるように視線を泳がせている。
あいつの瞳の奥、真っ黒な闇の中で、一体何が聞こえてるんだ。
父親の罵声か? 世間の冷たい目か?
それとも、オレがさっき吐いた「お前がオレをこうさせた」っていう、呪いの言葉の残響か……。
「……、……冬弥、……悪かった。……もう言わねえ。……だから、……っ」
一歩、距離を置く。
触れることが救いにならないのなら。
今のオレにできるのは、あいつをこれ以上追い詰めないように、ただ、ここにいると示し続けることだけなのか。
冬弥の震えは止まらない。
床に散らばった楽譜の死骸と、この廃ビルの冷たい静寂が、あいつをじわじわと飲み込んでいく。
「…ッはぁ…っ……はぁ…ッ……ひゅ…っ…。…ッげほ、…はぁ…ッ……、」
「……っ、冬弥! 落ち着け、息を吐け……っ!!」
目の前の冬弥が、必死に空気を求めて喉を鳴らしている。
「はぁ……っ、ひゅ……っ」と、喉が狭まったような苦しげな音が廃ビルの中に響き、あいつの手は、耳から今度は自分の目を覆い隠すように移動した。
(……何も見たくねえってのか……っ。それとも、自分自身から逃げたいのかよ……!)
彰人には、冬弥の頭の中で鳴り響く声までは聞こえない。
だけど、自分を隠すようにして丸まるその姿を見ていれば、あいつが今、どれほど自分という存在を呪っているか、痛いほどに伝わってくる。
冬弥の心の中は、もう、ぐちゃぐちゃだった。
彰人に今まで投げた言葉、浴びせた絶望。それが一つ一つの鋭い破片になって、今、あいつ自身の眼前に突きつけられている。
『また、迷惑をかけている』。その思考がさらにあいつを追い詰め、過呼吸を加速させていく。
「……っ……、はぁ……、……っ……!!」
激しく咳き込みながら、冬弥の身体が前のめりに折れる。
視界を塞いだ指の隙間から、ぼろぼろと涙がこぼれ、床の埃を濡らしていく。
(……触れちゃダメだ。でも、このままじゃあいつ、壊れる……!)
彰人は、伸ばしかけた手を一度宙で止め、拳を握りしめた。
今の冬弥にとって、彰人の存在は「救い」であると同時に、もっとも自分を裁く「鏡」になってしまっている。
近づけば近づくほど、冬弥は「自分がいちゃいけない」と自分を追い詰める。
「……冬弥。……いいから、オレのことは一回忘れろ」
彰人は、わざと少しだけ声を落とし、あいつの隣に座り込んだ。
触れはしない。だけど、逃げもしない。
「迷惑だなんて、一度も思ったことねえ。……お前が今、何を見て、何に怯えてるか分かんねえけど……。それは全部、今、オレがここに置いていかせてやるから」
冬弥の荒い呼吸だけが、冷たい空気の中で激しく火花を散らしている。
あいつは目を塞いだまま、自分の内側の地獄と、必死に、孤独に戦い続けていた。
「いや、だ……ッ…。…おれは…ッ……おれは、…あきとのとなりに…っ……たちたくない…ッ、!!」
「…………っ!」
その言葉が、さっきの「出会わなければよかった」よりも深く、鋭く、オレの胸を貫いた。
「隣に、立ちたくない」
あいつが、目を塞いだまま、声を振り絞って叫んだ。
それは拒絶じゃない。あいつにとって、オレの隣という場所が、もう「誇り」じゃなく、自分を焼き尽くす「地獄」になっちまったんだ。
オレの光が強ければ強いほど、あいつは自分の影の濃さに耐えられなくなってる。
「……はぁ、っ……はぁ……ッ!!」
過呼吸がひどくなる。
冬弥は、自分の存在そのものがオレを汚していると信じ込んで、必死にオレを遠ざけようとしている。
「隣に立ちたくない」なんて、あいつが一番言いたくなかったはずの言葉を、自分にトドメを刺すために、あいつは叫んでるんだ。
「……分かった。分かったから、……もう言うな、冬弥」
オレは、無理に近づこうとするのをやめた。
今、隣に立とうとすればするほど、あいつは壊れる。
あいつが今求めているのは、オレという「眩しすぎる現実」からの逃げ場なんだ。
オレはゆっくりと立ち上がり、数歩、あいつから離れた。
背中を向けて、割れた窓の外を見つめる。
「……隣に立ちたくないなら、今はそれでいい。……お前の後ろでも、もっとずっと離れた場所からでもいい。……オレは、お前の視界から消えてやるよ」
拳を血が滲むほど握りしめて、震える声を必死に抑える。
「でもな、冬弥。……お前が自分をどれだけ『ダメだ』って思っても、オレが『お前じゃなきゃダメだ』って思ってる事実は、……死んでも変わらねえんだよ」
部屋の中に、冬弥の苦しげな呼吸と、ガタガタと震える音が響き続ける。
目を塞ぎ、光を拒絶し、自分という檻に閉じこもった相棒。
オレは、もう一度だけ振り返らずに言った。
「……落ち着くまで、ここにいてやる。……声はかけねえ。触りもしねえ。……だから、一人で全部抱えて、……勝手に消えることだけは、すんなよ」
「っ…げほ……ッ……、はぁ…ッ……はぁ……っ…ぅ…ッ……」
(……っ、……、……ッ)
冬弥が、必死に首を振った。
何も言わない。だけど、その拒絶の激しさが、今のあいつにとってオレと同じ空気を吸うことさえも「罰」になっていることを物語っていた。
同じ場所に居たくない。
あいつのその意思が、震える背中から痛いほど伝わってくる。
「……っ、……、……分かったよ」
オレは、その場から離れる決意をした。
今、オレがここに居続けることは、あいつの呼吸を止めることにしかならねえ。
あいつを救いたくてここまで来たのに、今のオレはあいつにとって、最も避けるべき毒でしかないんだ。
「……行くよ。……お前の言う通りにする」
一歩、出口に向かって足を踏み出す。
一歩進むごとに、背後で聞こえる冬弥の苦しげな「はぁ……っ、はぁ……」という呼吸が、少しずつ遠ざかっていく。
(……ごめんな、冬弥。……結局、オレはお前に何もしてやれねえ……)
扉の外に出て、重い鉄の扉をゆっくりと閉めた。
ガチャン、という冷たい音が、二人の世界を完全に遮断する。
オレは扉に背中を預けて、そのままずるずると床にへたり込んだ。
壁一枚隔てた向こう側で、あいつはまだ、一人で地獄と戦っている。
行かなきゃいけない。でも、居ちゃいけない。
オレは、自分の顔を両手で覆った。
あいつを一人にした。あいつが一番辛い時に、あいつを暗闇に置き去りにした。
それが正解だと分かっていても、胸が張り裂けそうで、叫び出したい衝動を必死に抑え込む。
「……冬弥…………、……っ」
扉の向こうの呼吸音が、少しでも静かになるのを待つ。
たとえ隣に立つことを拒まれても、たとえ同じ景色を見ることを許されなくても。
オレは、この扉一枚を隔てた場所から、あいつが再び立ち上がるのを、ただ祈ることしかできなかった。
「っ……ふ…ッ…ぅ……げほ…ッ、……はぁ…っ…はぁ……っ」
扉の向こう側で、荒れ狂っていた呼吸が、少しずつ……本当に少しずつ、形を取り戻していくのが分かった。
「……っ……ふ、……ぅ……」
まだ熱を含んだ喘ぎや、苦しげな咳き込みは聞こえる。だけど、さっきまでの、魂が削れるような激しいパニックの音じゃない。
(……落ち着いてきた、のか……?)
皮肉なもんだ。
オレが側にいない方が、あいつは正気を取り戻せる。
オレという「正解」が視界から消えて、ようやくあいつは、自分の中のぐちゃぐちゃな感情と向き合う余裕ができたんだろう。
扉に預けた背中越しに、冬弥の気配を感じようと神経を研ぎ澄ます。
コンクリートを這うような、微かな衣擦れの音。
あいつはまだ、そこにいる。
目を塞いで、一人で、冷たい床の上で、嵐が過ぎ去るのを待っているんだ。
(……冬弥。お前、今……何考えてる)
「隣に立ちたくない」
あいつが振り絞ったあの言葉が、今も耳の奥でリフレインしている。
それは、あいつがオレを拒絶した言葉じゃなくて、あいつが自分自身に下した、あまりにも残酷な「判決」だった。
オレは、静まり返った廊下で、自分の膝を強く抱え込んだ。
扉の向こうでは、冬弥が。
扉のこちら側では、オレが。
たった一枚の鉄の板を隔てて、二人はバラバラに、だけど同じだけの地獄を味わっている。
「…………」
冬弥の呼吸が、さらに静かになる。
もう、パニックの面影はない。
代わりに、そこにあるのは……深海のように静かで、何もかもを諦めたような、重苦しい沈黙だった。
オレは、扉に後頭部を預けて、暗い天井を見上げた。
今、中に入れば、あいつはまた震え出すかもしれない。
かと言って、このままあいつを一人で帰らせるなんて、そんなことできるわけねえ。
(……もう少しだ。もう少しだけ、こうしててやるから……)
「……。」
扉の向こう側が、完全に静まり返った。
あれほど激しかった呼吸音も、衣擦れの音も、今はもう何も聞こえない。
ただ、廃ビルを通り抜ける風の音だけが、耳障りなほど鮮明に響いている。
(……落ち着いたのか? それとも……)
嫌な予感が胸をよぎる。
あいつは「隣に立ちたくない」と言った。オレを遠ざけた。
それは、あいつが一人で、自分を終わらせるための準備を整えたってことなんじゃないのか。
「……っ」
オレはたまらず、静かに立ち上がった。
心臓が嫌な速さで打っている。
ゆっくりと、扉のノブに手をかけた。音を立てないように、慎重に、数センチだけ隙間を作る。
隙間から差し込む光の先に、冬弥がいた。
あいつは、床に座り込んだまま、ぐったりと壁に背を預けていた。
目は塞いでいない。だけど、その瞳はどこを見ているのか分からないほど虚ろで、頬には乾きかけの涙の跡が白く残っている。
パニックは収まったんだろう。
だけど、今のあいつを包んでいるのは、生気を感じさせない「無」だ。
魂をどこかに置き忘れてきたみたいに、ただ、そこにあるだけの身体。
「……。」
冬弥は、扉が開いたことにも気づいていないのか、あるいは気づいていてもどうでもいいと思っているのか、指先一つ動かさない。
窓から差し込む朝日の光が、あいつの影を床に長く引き伸ばしている。
オレは、その場から動けなかった。
声をかければ、またあいつを壊してしまう。
だけど、このまま黙って見ていることも、もう限界だった。
あいつが、ゆっくりと瞬きをした。
その睫毛が微かに揺れるのを見て、オレは知らずに止めていた息を吐き出す。
(……生きてる。……まだ、そこにいる……)
それだけでいいはずなのに、その虚ろな姿を見ていると、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「……、」
(……もう、笑ってくれないんだな)
扉の隙間から見える冬弥の横顔には、感情の欠片も残っていない。
かつては、オレがくだらねえ冗談を言えば、あいつは少しだけ困ったように、でも嬉しそうに、柔らかく目を細めて笑ってくれた。
あの練習帰り。アイスを食いながら歩いた夕暮れ。ステージに上がる直前、拳を合わせた瞬間の、あの信頼に満ちた笑み。
そのすべてが、もう、この世から消えてしまったみたいだ。
オレがあいつを壊した。
オレがあいつの笑顔を、あいつ自身の絶望という名の闇で塗り潰した。
あいつは今、笑い方を忘れたんじゃない。
「彰人の隣で笑う資格なんてない」と、自分自身にそう言い聞かせて、笑顔を封じ込めてしまったんだ。
(……クソッ、……ッ!!)
視界がまた、熱いもので歪みそうになる。
あいつを救いたい。またあいつと一緒に笑いたい。
そんな、さっきまで当たり前だと思っていた未来が、今はもう手の届かない、遠い銀河の向こう側の話のように感じる。
冬弥は、窓の外の空をじっと見つめている。
その瞳には、もうオレとの夢も、歌への情熱も映っていない。
ただ、自分が消えてなくなる日を待っているような、冷たい静寂だけがある。
オレは、扉のノブを握る手に、これ以上ないほど力を込めた。
(……笑わせる。……どんなに時間がかかっても。……たとえ、お前に一生恨まれたとしても……!)
オレは、ゆっくりと、でも確実に、扉を押し開けた。
あいつが望まなくても、あいつが拒絶しても、オレはもう、あいつを暗闇の中に置いていったりしない。
冬弥の視線が、ゆっくりとこちらへ動く。
その瞳と視線がぶつかった瞬間、オレは、逃げ出しそうになる心を必死に繋ぎ止めた。
「…っ……」
彰人が一歩踏み出したその瞬間、冬弥は弾かれたように自分の膝を抱え、顔を腕の中に深く埋めた。
外界との接触をすべて断ち切るような、痛々しい拒絶。
「見ないでくれ」「これ以上近づかないでくれ」という叫びが、声にならない叫びとなって、その背中から溢れ出している。
今の冬弥にとって、彰人の視線は、自分の「罪」を照らし出す何よりも鋭い刃なんだろう。
かつては一番の安らぎだったはずの存在が、今はあいつを追い詰める凶器に変わってしまった。
「…………」
彰人は、あいつの数歩手前で足を止めた。
これ以上近づけば、またあいつの呼吸が止まる。
だけど、離れれば、あいつはそのまま自分の殻の中で凍りついてしまう。
(……そんなに、自分を許せねえのかよ)
冬弥の震える肩を見ていると、胸が千切れる。
あいつは、彰人の笑顔を奪った自分を、誰よりも許していない。
だからこそ、自分自身が笑うことも、彰人の顔を見ることも、自分に禁じているんだ。
「……冬弥。……顔、上げなくていい」
彰人は、その場に静かに腰を下ろした。
あいつを無理に暴こうとはせず、ただ、同じ目線の高さで。
「……お前が、自分のこと……嫌いで嫌いで、どうしようもねえのは分かった。……お前がオレの顔を見て、苦しくなるのも……全部、オレのせいだ」
冬弥の腕の中からは、微かな、掠れた吐息だけが聞こえる。
「でもな。……お前が自分を許せなくても、……オレは、お前を許さないなんて一度も思ったことねえんだよ」
彰人は、自分の手のひらを見つめた。
この手で、もう一度あいつと拳を合わせる日が来るのか。
この手で、あいつの背中を叩いて、最高のステージへ向かう日が、また来るのか。
「……一生、顔を見たくないって言うなら、それでもいい。……でも、オレはここにいるぞ。……お前が、……もう一度だけ、オレの名前を呼んでくれるまで、ずっとだ」
静寂。
廃ビルの隙間から差し込む光が、少しずつ動いていく。
冬弥は顔を埋めたまま、ただ、彰人の声が染み込んでいくのを耐えるように、じっと震え続けていた。
「……、」
沈黙だけが、二人を包んでいた。
冬弥は腕に顔を埋めたまま、ピクリとも動かない。
彰人がどんなに言葉を尽くしても、どんなに魂を削って呼びかけても、今はただ、その言葉が冬弥という深い淵に吸い込まれて消えていく。
(……ああ、そうか。……今は、言葉すら邪魔なんだな)
彰人は、あいつの呼吸の音だけに耳を澄ませた。
激しいパニックは去った。だけど、代わりに訪れたこの沈黙は、あいつが自分の心を完全に閉ざし、一人で「無」になろうとしている証拠だ。
下手に言葉を重ねれば、それはあいつにとって、自分を責めるための材料にしかならない。
「彰人はこんなに思ってくれているのに、自分は……」という、出口のない自責のループ。
彰人は、無理に沈黙を破ろうとするのをやめた。
あいつの隣に座り直すと、背中を壁に預け、冬弥と同じように足を投げ出す。
触れず、語らず。
ただ、冷たいコンクリートの感触を共有しながら、同じ時間を過ごす。
窓から見える空が、少しずつ色を変えていく。
埃の舞う廃ビルの中、時折、建物の軋む音が聞こえるだけで、二人の間には、世界に二人しかいないような、ひどく静かで、痛烈な孤独が横たわっていた。
(……どれだけ時間がかかってもいい)
彰人は、隣で丸まっている相棒の気配を、ただじっと感じていた。
今は、これでいい。
あいつが「自分を許す」日が、今日じゃなくても、明日じゃなくても。
この沈黙に耐えきれなくなって、あいつが自らその顔を上げるその瞬間まで、オレはここを動かない。
冬弥の指先が、ほんの少しだけ、自分の服を握りしめたような気がした。
窓から差し込む光が、オレンジ色から深い藍色へ、そして冷たい月光へと移り変わり、やがて白々とした夜明けの光が、また埃っぽい床を照らし始めた。
丸一日。
冬弥は一度も顔を上げず、腕の中に自分を閉じ込めたまま、まるで呼吸をすることさえ忘れたような静寂を保ち続けていた。
彰人もまた、一度もその場を離れなかった。喉の渇きも、身体の節々の痛みも、隣で震えを押し殺している相棒の苦しみに比べれば、取るに足らないものだった。
「…………」
彰人は、赤く充血した目で、ぼんやりと夜明けの景色を眺めていた。
一睡もしていない頭はひどく重いが、感覚だけは研ぎ澄まされている。
隣にいる冬弥の気配が、昨日よりもずっと「希薄」になっている気がして、それが怖かった。
ただそこに座っているだけなのに、今にも煙のように消えてしまいそうな、危うい均衡。
(……冬弥。お前、まだそこにいるよな)
何度も心の中で問いかける。
あいつは動かない。何も言わない。
だけど、時折、微かに聞こえる衣擦れの音だけが、あいつがまだこの世界に繋ぎ止められている唯一の証拠だった。
彰人は、ガサガサになった喉を震わせ、精一杯の、掠れた声を絞り出した。
「……朝だぞ、冬弥」
その声は、静まり返った廃ビルの中に、頼りなく溶けていく。
冬弥は、相変わらず腕に顔を埋めたままだ。
だが、朝日があいつの指先を照らした瞬間、ほんの、ほんの少しだけ、握りしめていた拳の力が抜けたのを彰人は見逃さなかった。
(……限界だろ、お前も)
何も食べず、何も飲まず、ただ自分を責め続けるだけの地獄の夜。
彰人は、あえてあいつに触れようとはせず、ただ、昨日と同じ場所に、同じ熱量で居続けた。
「……腹、減らねえか。……オレは、死ぬほど減った」
わざと、なんてことない日常のような口調で、独り言のように呟く。
あいつを「罪人」にしないために。
あいつが、この最悪な夜の続きではなく、新しい「今日」を始められるように。
「……、」
(……無視か。まあ、そうだよな)
オレの問いかけは、空っぽの廃ビルに虚しく吸い込まれていった。
冬弥は、腕の中に顔を埋めたまま、ピクリとも動かねえ。まるで、音や光、外の世界から届くすべての刺激を拒絶して、自分だけの深い闇に潜り込もうとしているみたいだ。
丸一日。
一睡もせず、ただ隣に居続けた。
こいつの気配が少しでも揺れるたびに、オレの心臓は跳ねて、また沈む。
「朝だぞ」なんて、なんでもねえ言葉をかけるだけでも、喉の奥がヒリヒリと焼けるように痛む。
(……本当は、お前が一番キツいはずだよな。逃げ出したいのは、お前の方なんだよな……)
オレは、重い身体を引きずるようにして、ゆっくりと立ち上がった。
膝が笑って、視界がチカチカする。
それでも、こいつをこのまま、この冷たい空気の中に置き去りにはできねえ。
「……何か、飲み物買ってくる。お前の好きなやつ、選んでくるから」
返事がないのは分かってる。
でも、言わねえわけにはいかなかった。
「また戻ってくる」って、それだけは、何があってもこいつに伝えておかなきゃいけねえ。
「……すぐ戻る。どこにも行くなよ」
オレは、一歩ずつ出口へ向かって歩き出した。
埃っぽい廊下に出る寸前、どうしても気になって、もう一度だけ振り返る。
朝日が、うずくまる冬弥の背中を、残酷なほど真っ白に照らしていた。
昨日からずっと変わらない、その孤独なシルエット。
一瞬、こいつがこのまま消えてなくなっちまうんじゃねえかっていう、得体の知れない恐怖が背筋を走る。
(……消えさせねえよ。絶対だ)
オレは奥歯を噛み締めて、部屋を後にした。
廃ビルの錆びついた階段を下りながら、オレは、自分がこれから何をするべきなのか、必死に頭を回転させ続けた。
自販機で買ってきた冷たいペットボトルを握りしめて、オレは戻ってきた。
扉を開ける瞬間、心臓が嫌な鳴り方をした。もし、あいつがいなくなっていたら。もし、このまま二度と会えなくなったら。そんな考えが頭をよぎる。
だけど、冬弥はそこにいた。
昨日から一歩も動いていないんじゃないかって思うくらい、全く同じ場所で、同じように膝を抱えて顔を埋めている。
(……いた。……逃げなかったのか)
一瞬、安堵が胸をかすめた。だけど、すぐにその感情は苦い後悔に変わる。
こいつは、逃げなかったんじゃない。逃げられなかったんだ。
オレが「ここにいろ」なんて、また自分勝手な指示を出したから。
こいつは昔から、クソがつくほど律儀だった。
自分の心がどれだけ悲鳴を上げていても、オレが言ったことを守ろうとして、こうして自分を殺してまでそこに居続けてしまう。
(……ごめんな、冬弥。オレ、またお前を縛ったんだな……)
オレは足音を殺して、あいつの隣に座り込んだ。
買ってきた飲み物の、結露した冷たさが手のひらに伝わる。
「……これ、置いておくぞ」
ペットボトルを、あいつの膝の近くにそっと置く。
コト、と小さな音が部屋に響く。
冬弥は反応しない。
だけど、その指先が、ほんの少しだけピクッと震えた。
拒絶なのか、それとも、極限状態の身体が上げた悲鳴なのか。
「……悪かった。『ここにいろ』なんて言って。……お前、本当は……オレのいないどこかへ、行きたかったんだよな」
オレは、窓から差し込む朝日の光を見つめた。
空はこんなに明るいのに、オレたちの周りだけ、時間が止まって淀んでいるみたいだ。
「……無理に飲めとは言わねえ。でも、倒れられたら困る。……お前が死んだら、オレ、本当に一人になっちまうんだよ」
掠れた声で、独り言みたいに呟く。
冬弥は顔を埋めたまま、ただじっと、そこに在り続けていた。
「……、」
(……動かねえ、か……)
置いたペットボトルの横で、冬弥は石像みたいに固まったままだ。
差し出した飲み物にも、オレの声にも、何一つ反応がない。
ただ、あまりにも静かすぎて、あいつが呼吸をしているのかさえ不安になる。
さっきまであんなに激しかった過呼吸の揺り戻しなのか、今はただ、生命の灯火を最小限にして、この苦痛が過ぎ去るのを耐え忍んでいるようにしか見えなかった。
オレは、自分の膝を抱え直した。
正直、オレの身体も限界だ。一晩中コンクリートの上に座り込んでたせいで、節々がガチガチに固まって、頭の芯がずっと熱い。
でも、そんなことはどうでもよかった。
(……追い詰めてんのは、オレなんだよな)
「ここにいろ」って言えば、あいつは苦しくても居続ける。
「食え」って言えば、あいつは吐き気がしても飲み込もうとする。
今の冬弥にとって、オレの言葉は「相棒の願い」じゃなくて、自分を縛り付ける「鎖」にしかなってねえ。
オレは、ゆっくりと目を閉じた。
あいつを監視するみたいにじっと見つめるのも、今はやめようと思った。
見られている、という意識さえも、今のあいつには重荷だろうから。
「……冬弥。オレ、ちょっとだけ寝るわ。……一晩中お前の背中見てたから、目がチカチカすんだよ」
嘘だ。寝られるわけねえ。
だけど、オレが意識を逸らせば、あいつは少しだけ呼吸が楽になるんじゃねえかって、そう思った。
「……起きるまで、……お前の好きなようにしてろよ。……逃げたきゃ、逃げてもいいし。……そのままそこにいたきゃ、いればいい」
オレは壁に頭を預けて、深く、長く息を吐き出した。
視界を暗闇に沈めると、耳の奥で、冬弥の微かな、本当に微かな衣擦れの音だけが、絶望的なほど鮮明に聞こえてきた。
(……っ、……少しは、マシになったのか……?)
目を閉じた暗闇の中で、全神経を耳に集中させる。
さっきまであいつを縛り付けていた、張り詰めたような、刺すような空気の震えが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「……」
衣擦れの音さえしない。
冬弥が何か行動を起こしたわけじゃない。
ただ、あいつを包み込んでいたあの「今すぐ消えてしまいたい」という剥き出しの殺気にも似た絶望が、今は少しだけ凪いで、深い深い静寂へと変わっている。
(……気のせいであってほしい、なんて。……オレ、バカじゃねえのか)
本当なら、あいつが楽になってるなら喜ぶべきところだ。
なのに、今のこの「楽そう」な空気が、どこか……何もかもを諦めて、手放しちまった後の静けさのように感じて、胸の奥がざわつく。
オレが寝たフリをしたことで、あいつはようやく「彰人の期待に応えなきゃいけない自分」を休ませることができているのかもしれない。
皮肉なもんだな。オレが目を開けている限り、あいつは休めねえんだ。
(……いい。そのまま、何も考えずに休め、冬弥……)
暗闇の中で、オレはあいつの気配を追い続ける。
あいつが今、何を思っているのかは分からない。
腕の中に顔を埋めたまま、どんな地獄を見ているのかも。
だけど、その静かな呼吸の音が聞こえるだけで、オレはまだ、なんとかここに踏みとどまっていられる。
窓から差し込む朝日の暖かさが、まぶたの裏側を薄く赤く染めていく。
(……このまま、ずっと、……こうしてられたらいいのに……)
そんな、叶うはずもない子供じみた願望が、一瞬だけ頭をよぎった。
「……、」
(……寝ねえのかよ、お前)
瞼の裏がじりじりと熱い。
寝たフリをして数十分、あるいは数時間。
隣からは、冬弥が体勢を変えた気配も、眠りに落ちて呼吸が深くなった気配も、これっぽっちもしねえ。
あいつは、昨日から一睡もしていないはずだ。
パニックで体力を使い果たし、限界なんてとっくに超えてるはずなのに。
それなのに、あいつは頑なに「あの体勢」のまま、自分を腕の中に閉じ込め続けている。
(……なんでだよ。そこまでして、自分を許したくねえのか……?)
それとも、オレが隣にいるからか。
オレが起きているかもしれない、という疑念が、あいつの神経を尖らせたままにしてるのか。
もしそうなら、オレの存在そのものが、あいつの身体を壊し続けてることになる。
(……クソッ……!)
じっとしていられなくなって、オレはゆっくりと目を開けた。
光が突き刺さる。
ぼやけた視界の先に、相変わらず丸まったままの冬弥の背中がある。
「…………冬弥」
もう一度、あいつの名前を呼ぶ。
その肩は、朝日を浴びて白く光っているのに、どこか氷のように冷たそうだ。
「……寝ろよ、もう。……オレはどこにも行かねえし、お前を責めるようなことも言わねえ。……だから、少しは自分を休ませてやれよ……」
オレの声は、自分でも驚くほど掠れて、情けなく響いた。
あいつを救いたくて、あいつの隣にいたくて、ここまで来た。
だけど、今、オレの目の前にいる冬弥は、オレが知っている「青柳冬弥」の抜け殻みたいで。
「……頼むから。……お前が壊れるのを見てんのは、……もう、限界なんだよ……」
オレは、震える手を伸ばした。
触れたらまたパニックになるかもしれない。
拒絶されるかもしれない。
それでも、このままあいつを「無」の中に置いておくことは、どうしてもできなかった。
(……っ、……、……そうか)
冬弥がゆっくりと、その場に横たわった。
まるですべての力が抜けてしまったみたいに、冷たい床に身体を預けて。
あいつのその姿は、「休む」というよりは、ただ「生きたまま動くことをやめた」という風に見えて、オレの胸はさらに締め付けられた。
(……もう、あんな風には話せねえのか)
「今日の練習、どうする?」とか、「あの新曲のフレーズ、もっとこうしようぜ」とか。
つい数日前まで当たり前だった、なんてことない会話。
今の冬弥にそんな言葉をかけようとしても、あいつはそれを「相棒としての命令」か「完璧であれというプレッシャー」に変換して、また自分を責める材料にするんだろう。
オレが何かを言えば、あいつを縛る。
オレが黙っていれば、あいつは闇に沈む。
(……クソッ、どうすりゃいいんだよ……!)
オレもあいつに倣うように、少しだけ距離を置いて横になった。
ゴツゴツとしたコンクリートの感触が、直接身体に響く。
横向きになりながら、冬弥の背中を見つめる。
指示をしなきゃ動けねえほどに、あいつの心はバラバラになってる。
でも、指示をすればするほど、あいつから「自由」を奪って、オレという檻に閉じ込めてしまう。
「…………」
冬弥は目を開けているのか、それとも閉じているのかも分からない。
ただ、その背中が規則正しく、でも浅く上下しているのを見て、オレは静かに目を閉じた。
(……今は、指示でもなんでもいい。……お前が、生きてここにいてくれるなら。……たとえ嫌われても、オレが一生お前を縛り付ける鎖になったとしても……)
それは最悪なエゴだって分かってる。
でも、そうでもしなきゃ、今にも消えてしまいそうなあいつを繋ぎ止めておく方法が、オレにはもう、一つも思い浮かばなかった。
(……寝ろ、冬弥。……何も考えなくていいから。……今は、ただの石ころにでもなったつもりで……)
朝の光が、昨日よりもずっと容赦なく、廃ビルの中を白く塗り潰していく。
埃が光の粒になって空中に舞い、冷え切ったコンクリートの床をじわじわと照らしていく。そんな無機質な光景の中で、横たわったままの冬弥は、まるで背景の一部になってしまったかのように静かだった。
(……朝になっちまった。)
オレは重い身体を起こし、バキバキに固まった背骨を無理やり伸ばした。
目の前には、相変わらず背中を向けたままの冬弥がいる。
寝ているのか、起きているのか……それとも、ただ意識のスイッチを切って、時間が過ぎるのをやり過ごしているだけなのか。
(……何も、変わってねえ。)
絶望的なまでの静止。
オレが「食え」と言えば食い、「寝ろ」と言えば横になる。だけどそこには、あいつ自身の意志なんて1ミリも残っていないように見えた。
オレの言葉は、もうあいつに届く「声」じゃない。
あいつを縛り、形を固定するための「命令」だ。
かつて対等に笑い合っていた相棒に、オレは、今やそんな呪いみたいなものしか投げかけられなくなっている。
「…………冬弥。」
名前を呼ぶ。その響きさえ、今のこの空気の中ではひどく不自然で、暴力的にすら感じる。
「……行くぞ。」
何を、とは言わなかった。
どこへ、とも言えなかった。
ただ、ここにこれ以上居続けたら、二人とも光の見えない深海へ沈んでいくだけだという恐怖があった。
オレは立ち上がり、冬弥の前に立った。
あいつは反応しない。だけど、オレが動くのを待っている。
次の「指示」が下されるのを、ただじっと、人形のように待っているんだ。
(……笑えなくていい。話せなくていい。……それでも、お前をここに置いていくなんて選択肢、オレにはねえんだよ。)
オレは、感情を殺して、あえて突き放すような冷たいトーンを絞り出した。
「立て。……帰るぞ。」
「……っ、」
咄嗟に手が動いた。けど、触れようとした指先が空を切る。
尻餅をついた冬弥は、まるですべての骨が抜けてしまったみたいに、力なく床にへたり込んでいた。
一晩中、あんな無理な体勢で、一睡もせずに自分を削り続けてたんだ。
体力が残ってるはずがねえ。
……それ以上に、こいつの「心」が、もう自分の身体を支えることを拒否してるみたいに見えて、胸が締め付けられる。
「……悪い。無理させた。」
オレは、あいつの前に片膝をついた。
冬弥は、床を見つめたまま動かない。
倒れたショックでまたパニックになるんじゃないかって身構えたけど、あいつはただ、力なく項垂れているだけだった。
拒絶する元気さえ、もう残ってねえのか。
「……いいから、座ってろ。今すぐ動けなんて言わねえ。」
オレは、あいつが少しでも呼吸を整えられるように、その場に留まった。
本当なら、すぐにでも抱き上げて連れて帰りたい。
でも、今の冬弥にとって、オレに触れられることは「救い」じゃなくて「侵食」なんだろう。
視界の端で、冬弥の指先が、冷たいコンクリートを弱々しく掻くのが見えた。
立ち上がろうとしているのか、それとも、何かに縋ろうとしているのか。
「……冬弥。……ゆっくりでいい。……お前が自分の足で立てるまで、オレはここで待ってるから。」
指示じゃない。命令でもない。
ただの「わがまま」として、オレはそこに居座ることにした。
あいつが自分の意志で、一ミリでも前を向ける瞬間を信じるなんて、今の状況じゃ綺麗事すぎるって分かってる。
それでも、オレが諦めたら、冬弥は本当にどこか遠いところへ行ってしまう気がした。
ハッとして、伸ばしかけた手を止めた。
冬弥の指先が、小刻みに、それでいて激しく震えている。
床を掻こうとしているのか、それとも自分の震えを抑えようとしているのか……。その震えを見ているだけで、オレの心臓は雑巾みたいに絞られる。
(……まただ。またオレのせいで、こいつを追い詰めた)
喉まで出かかった「ごめん」という言葉を、奥歯で噛み潰した。
今の冬弥にとって、オレの謝罪なんて、何の救いにもならねえ。
むしろ「謝らせてしまっている」という事実が、あいつの首をさらに絞めるだけだ。
「……っ」
オレは、震えるあいつの手から視線を逸らした。
見ていることさえ、今は暴力になりかねない。
あいつが必死に自分を保とうとしているその「プライド」の残骸を、オレが憐れみで汚しちゃいけないんだ。
「……無理に立とうとしなくていい。……今は、ただ座ってろ」
努めて冷静に、感情を押し殺した声で言った。
温かすぎず、冷たすぎず。
あいつが「命令」として受け取って、思考を停止できるくらいの、平坦な声。
「……お前が、……お前が落ち着くまで、オレはあっち見てるから」
オレは立ち上がり、冬弥に背を向けた。
あいつの視界から、オレという「プレッシャー」を消してやるために。
窓の外、白く霞んだ街並みをじっと見つめる。
背後から、衣擦れの音が微かに聞こえる。
冬弥が、自分の震える手を押さえ込もうとしているのか、それとも顔を覆っているのか。
見えないからこそ、その音の一つ一つが耳の奥に突き刺さる。
(……冬弥。お前、今……どんな顔してんだよ)
振り返りたい。抱きしめて、「大丈夫だ」って、嘘でもいいから言ってやりたい。
でも、今のオレにできるのは、こうして背中を向けて、あいつが一人で呼吸を整えるための「空白」を作ってやることだけだった。
沈黙が、さらに深く、重く降り積もる。
背後から聞こえるのは、ただ一定の、それでいてどこか頼りない冬弥の呼吸音だけ。
オレは窓の外の白んだ景色を見つめたまま、一歩も動けずにいた。
(……、……っ)
振り返れば、そこにはまだ、打ちひしがれた相棒がいる。
オレが「帰るぞ」と言えば、あいつはまた無理をして、震える足で立ち上がろうとするだろう。
オレが「大丈夫だ」と言えば、あいつは「大丈夫じゃない自分」をさらに責めるだろう。
何を選択しても、正解が見えない。
かつては背中を預け合って、言葉なんてなくても通じ合えていたはずなのに。
今は、この数歩の距離が、地平線の彼方みたいに遠く感じる。
「…………」
冬弥の気配が、微かに揺れた。
衣擦れの音。
あいつが床に力なく投げ出していた手を、ゆっくりと、自分の胸元かどこかへ引き寄せたような、そんな小さな変化。
オレは拳を握りしめた。
爪が掌に食い込んで痛い。でも、その痛みだけが、今この現実を繋ぎ止めている唯一の感覚だった。
(……冬弥。お前、今……何を消そうとしてるんだよ)
自分自身か。それとも、オレと一緒に見たあの景色の記憶か。
どちらにせよ、あいつの孤独は、もうオレの手の届かない深淵まで堕ちてしまっている。
オレはゆっくりと、あいつに背を向けたまま、静かにその場に座り直した。
立ち上がって歩き出すには、まだ、二人の時間は止まったままだった。
「……急がなくていい。……お前が動けるようになるまで、オレはここで、……こうしてる」
窓から差し込む光が、ゆっくりと移動していく。
埃の舞う静かな部屋で、オレたちはただ、互いの存在を確認し合うことさえ拒むように、静止し続けていた。
背後から、カタカタと微かにコンクリートを叩くような音が聞こえる。
冬弥が自分の震えを抑えきれずに、床や体に指先が当たっている音だ。
(……まだ、止まんねえのかよ)
オレは前を向いたまま、奥歯を噛み締めた。
丸一日以上経って、パニックのピークは過ぎたはずなのに、こいつの体はまだ「恐怖」を覚えている。オレという存在が近くにいるだけで、本能が警鐘を鳴らし続けてるみたいで、情けなくて涙が出そうになる。
「…………」
振り返って抱きしめれば、この震えは止まるのか?
それとも、余計にひどくなって、こいつを壊しちまうのか?
正解が分からなくて、伸ばしかけた右手が空中で行き場をなくす。
オレは結局、その手を自分の膝に叩きつけた。
「……冬弥。……そんなに、怖いか」
ポツリと、独り言みたいに零れた。
責めてるわけじゃねえ。ただ、お前をそこまで追い詰めた自分の無力さが、どうしようもなく突き刺さるんだ。
「……怖くてもいい。……震えててもいいから。……頼むから、一人で消えることだけは、考えるなよ」
オレは、ゆっくりと立ち上がった。
あいつに直接触れないように、でも、いつでも支えられる距離まで、一歩だけ近づく。
「……帰るぞ。歩けねえなら、……担いででも連れて帰る。……お前の意志なんて関係ねえ。これは、オレの勝手な命令だ」
あえて、あいつが思考を放棄して従えるように、突き放すような言い方を選んだ。
優しくすれば、あいつはまた自分を責める。
なら、オレが悪役になって、無理やりにでもこの場所から連れ出すしかない。
ガクガクと小刻みに震える膝を、冬弥は必死に叩くようにして、どうにか立ち上がった。
壁に背を預け、薄氷の上に立っているような危ういバランス。今にもその場に崩れ落ちそうなのに、オレの「命令」に従おうと、虚ろな目で前を見据えている。
(……っ、そんな足で、行けるわけねえだろ)
この廃ビルの階段は急で、手すりも錆びついている。
今の冬弥が一歩でも踏み出せば、そのまま真っ逆さまに転げ落ちるのが目に見えていた。
「……待て。止まれ」
オレは、あいつの数歩前で立ち止まった。
近づきすぎればまた呼吸が乱れる。でも、離れすぎればあいつは倒れる。
そのギリギリの距離で、オレはあいつの前に背中を向けた。
「……乗れ」
短く、低い声で言った。
振り返らず、ただあいつが飛び乗ってきやすいように、少し腰を落とす。
「……階段、危ねえ。お前のその足じゃ、一歩目で死ぬぞ」
冬弥は何も言わない。
背後で、あいつが迷っているような、あるいは絶望しているような、重苦しい沈黙が続く。
オレに背負われることは、あいつにとって「無力な自分」を突きつけられる、最悪の屈辱かもしれない。
「……聞こえなかったか。命令だ。……さっさと捕まれ。……それとも、ここでまた倒れて、オレを困らせたいのか?」
わざと嫌な言い方をした。
優しさを、今は毒だと思って受け取れないあいつには、これくらいの方が「仕方なく」動ける理由になると思ったから。
背中に、微かな、本当に羽のように軽い重みが伝わってきた。
震える細い腕が、おずおずとオレの首に回される。
あいつの体温が、驚くほど冷たくて、胸の奥がギュッと締め付けられた。
「……よし。……しっかり掴まってろよ」
オレは冬弥の腿をがっしりと掴み、ゆっくりと立ち上がった。
「っ……。」
背中で、あいつが小さく、本当に小さく息を呑む音がした。
一歩、また一歩。
錆びついた階段を、一歩ずつ踏みしめる。
背中から伝わってくる冬弥の体温は、凍えそうなほど低いのに、回された腕だけが微かに熱を帯びて震えている。
「…………」
オレは何も言わねえ。
ここで「重くないぞ」とか「大丈夫だ」なんて言えば、あいつはまた、自分の不甲斐なさを責めて消えたくなっちまうだろうから。
ただ、一歩ずつ、確実に地面へと近づくことだけを考えた。
カン、カン……と、鉄の階段を降りる音が、静まり返ったビルの中に虚しく響く。
その音が、まるでカウントダウンみたいに聞こえて、胸の奥がざわついた。
この階段を下りきって、外の光の中に飛び出した時、こいつはまた「相棒」に戻れるのか。それとも、さらに遠くへ行ってしまうのか。
(……っ、……冷てえな、お前)
首筋に触れる冬弥の吐息は、浅くて、ひどく心許ない。
背中に預けられたあいつの重みは、オレが知っている「青柳冬弥」よりもずっと軽くて、今にも指の間から零れ落ちてしまいそうだった。
「……あと、半分だ」
短く告げる。
冬弥は、オレの肩に顔を埋めたまま、ピクリとも動かない。
ただ、回された腕の力が、ほんの、ほんの少しだけ強まったような気がした。
それは、拒絶でも命令への服従でもなく、ただ「落ちたくない」という、生き物としての本能的な縋りのように思えて。
(……離さねえよ。絶対、……離さねえ)
オレは、腿を掴む手にさらに力を込めた。
出口から差し込む光が、少しずつ、オレたちの足元を照らし始める。
鉄の階段を一段ずつ、軋む音を立てながら下りていく。
背中に感じる冬弥の重みは、記憶にあるあいつよりもずっと頼りなくて、まるで中身が空っぽになっちまったみたいに軽い。
一歩踏み出すたびに、オレの肩に預けられたあいつの額が、微かに揺れる。
首筋に触れるあいつの指先は、まだ小刻みに震えたままだ。
(……っ、……、……)
言葉が出てこねえ。
何を言っても、この静寂を壊して、あいつをまた追い詰めてしまう気がして。
オレはただ、一段、また一段と、確実に地面へと近づくことだけに集中した。
カツン、と最後の一段を踏みしめた時、開け放たれた入り口から外の空気が流れ込んできた。
排気ガスの匂いと、朝の冷たい湿り気。
昨日から閉じこもっていた廃ビルの、埃っぽくて死んだような空気とは違う、生臭い「現実」の匂いだ。
「…………」
外の光が視界に飛び込んできた瞬間、背中の冬弥がビクッと身体を強張らせた。
あいつにとっては、この明るささえも自分を晒し者にする凶器に感じているのかもしれない。
オレの肩に、さらに深く顔を埋めて、外の世界から逃げるように丸くなる。
(……怖えよな。……こんな明るいところ、今は歩きたくねえよな)
オレは立ち止まらず、そのまま一歩、外へ踏み出した。
アスファルトの上に落ちる、二人の重なった影。
一つになっちまったみたいなその影を、オレは眩しさに目を細めながら見つめた。
「……送る。……お前の部屋までだ」
低く、有無を言わせない声で告げる。
冬弥は何も答えない。ただ、オレの首に回された腕が、拒絶するように震えながらも、離れることができずにギュッと服の生地を掴んでいた。
街の騒音、遠くで聞こえる車の走行音、誰かの話し声。
昨日までの廃ビルの静寂が嘘みたいに、外の世界は無神経に動き続けていた。
背負っている冬弥が、その音を聞くたびにビクッと肩を跳ねさせるのが伝わってくる。あいつにとって、この「日常」は今、自分を裁くための巨大な檻みたいなもんなんだろう。
「…………」
オレはあえて人通りの多い大通りを避け、薄暗い路地裏を選んで歩いた。
湿ったコンクリートの匂いと、建物の隙間から漏れるわずかな光。ここなら、誰もあいつを見ない。誰もあいつを責めない。
一歩、また一歩。
アスファルトを踏みしめるたびに、オレの肩に預けられた冬弥の額が、ぐいっと押し付けられる。
(……、……っ)
首筋に、熱いものが落ちた。
一つ、また一つ。
冷え切っていたあいつの体温とは対照的な、焼けるような熱さ。
冬弥は声を上げない。嗚咽すら漏らさない。
ただ、静かに、堰を切ったように涙だけがオレのシャツを濡らしていく。
その熱さが、あいつが昨日からずっと、腕の中に閉じ込めて殺し続けてきた「感情」そのもののように思えて、オレは唇を血が出るほど噛み締めた。
「……、……」
何か言わなきゃいけない。
でも、今のオレがかける言葉は、全部あいつを傷つける。
「泣くな」なんて言えるわけねえ。「大丈夫だ」なんて嘘はつけねえ。
オレはただ、背中の重みを落とさないように、腿を掴む手に力を込めることしかできなかった。
あいつの涙が、オレの肌に染み込んで、心臓まで届きそうな気がした。
(……いいよ、冬弥。……全部、ここに置いてけ)
路地裏の湿った空気を切り裂くように、オレは黙々と歩き続けた。
あいつの部屋に着くまで、この熱い涙を、全部受け止めてやるつもりで。
冬弥の泣き声は聞こえない。ただ、背中に押し付けられた額の熱さと、首筋を伝う涙のあとだけが、あいつがまだ「生きて」感情を流していることを教えてくれる。
路地裏の湿った空気の中、オレの足音だけが虚しく響く。
あいつを背負ったまま、ようやく見慣れたマンションの前に着いた。
いつもなら、ここで「じゃあな」って拳を合わせて別れるはずの場所。なのに、今のオレたちには、そんな当たり前の動作さえ、遠い前世の出来事みたいに感じる。
(……、……っ)
エレベーターの鏡に映った自分たちの姿が、ひどく惨めで、それでいて離れられない共依存の塊みたいに見えて、オレは思わず目を逸らした。
冬弥は、鏡を見る余裕さえないのか、オレの肩に顔を埋めたまま、ただ震えを押し殺している。
チーン、という無機質な音が廊下に響く。
あいつの部屋の前。
オレは一度だけ深呼吸をして、空いている手で冬弥のポケットを探った。
「……鍵、出すぞ」
断りを入れるが、返事はない。
指先に触れた金属の冷たさが、今の二人の距離を象徴しているみたいだった。
ガチャリ、と重い音がしてドアが開く。
一歩足を踏み入れた瞬間、冬弥の部屋特有の、清潔で、どこか寂しい匂いが鼻を突いた。
カーテンの閉まった薄暗い部屋。
オレはあいつをベッドの淵に、壊れ物を扱うみたいにゆっくりと下ろした。
「…………」
背中から離れた瞬間、冬弥の体がふらりと揺れる。
あいつは力なくシーツの上に崩れ落ち、また、あの「膝を抱えて顔を埋める」姿勢に戻ろうとした。
(……待てよ。……また、一人で閉じこもるつもりか)
オレは、その肩を掴みそうになって、寸前で止めた。
部屋に二人きり。
外の喧騒が遮断されたこの静寂が、逆に、あいつの孤独を際立たせている。
「……冬弥。……水、持ってくる」
あえて背中を向け、キッチンへ向かった。
蛇口から出る水の音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。
グラスを手に取ったオレの指先も、気づけば、あいつと同じように微かに震えていた。
コップに水を注いで振り返った瞬間、視界から冬弥の姿が消えていた。
「……っ」
一瞬、心臓が跳ねた。だけどすぐに、部屋の隅……クローゼットの脇の、一番暗い隙間にうずくまっているあいつを見つけた。
ベッドの上じゃダメなんだ。柔らかい場所じゃ、自分を甘やかしているみたいで耐えられねえんだろうな。
冬弥は、まるで見つかってはいけない汚れ物みたいに、冷たいフローリングに直接座り込んで、またあの「殻」に閉じこもっていた。
両手で顔を覆い、壁に頭を預けて。
(……そんなに、自分を追い詰めなきゃ気が済まねえのかよ)
オレは、手に持ったコップを床に置いた。
あいつのすぐ側まで歩み寄る。だけど、その数歩手前で、また足が止まる。
近づけば近づくほど、冬弥の呼吸が浅くなっていくのが分かるから。
「…………」
部屋の中は、カーテンを閉め切っているせいで昼間なのに薄暗い。
その暗がりの中で、冬弥の白い指先だけが、自分の髪を掻き毟るようにして震えている。
「……そこ、冷てえだろ。……せめて、椅子か何かに……」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
そんな「配慮」さえ、今のこいつには、自分を断罪するための刃になる。
オレが優しくすればするほど、冬弥は「こんなに優しい彰人を裏切った自分」を殺したくなるんだ。
オレは、あいつの正面……少し離れた床に、そのままどさりと腰を下ろした。
目線を合わせるわけじゃない。ただ、あいつと同じ冷たい床の感触を共有する。
「……飲みたくなったら、飲めよ。……ここに置いておくから」
コップを少しだけあいつの方へ押しやる。
カツン、と小さな音が響いた。
冬弥は微動だにしない。
ただ、その肩が、激しい感情を押し殺すように、ひどく歪なリズムで揺れ続けていた。
視界も、音も、オレの声も。
冬弥は今、この世界に存在するあらゆる「自分以外のもの」を拒絶するように、固く、固く閉じこもった。
自分の腕で耳を塞ぎ、膝の間に顔を深く沈める。
その姿は、まるでこの部屋の隅にある闇に同化して、消えてしまいたいと願っているみたいだ。
(……そこまで、……追い詰めたか)
オレがここにいることさえ、今はあいつにとっての「ノイズ」でしかない。
オレが呼吸をする音、衣擦れの音、差し出した水の音……そのすべてが、冬弥の繊細すぎる神経を逆撫でして、自分を責める刃に変わっちまってる。
「…………」
オレは、かけようとした言葉を喉の奥に押し戻した。
下手に「大丈夫だ」なんて言えば、その言葉があいつの耳を塞いでいる腕を、無理やりこじ開けるような暴力になる気がしたから。
薄暗い部屋の中で、オレはただ、冬弥の正面に座り続けた。
冷たいフローリングの感触が、ズボン越しにじんじんと伝わってくる。
あいつが今感じている寒さ、硬さ、痛み……その欠片だけでも共有できれば、なんて、そんなのただの自己満足に過ぎねえって分かってる。
(……いいよ、冬弥。……聞こえなくていい。見えなくていい。)
オレは、あいつを直視するのをやめて、ぼんやりと天井の角を見つめた。
あいつが自分の世界の中に閉じこもって、嵐が過ぎ去るのを待っているなら、オレはその外側で、ただの「動かない物体」としてそこにいようと思った。
「……」
部屋の中に、冬弥の浅い、でも必死に繋ぎ止められている呼吸の音だけが、かすかに、絶え絶えに響いている。
(……っ、……くそっ)
視界が歪んで、床に置いたコップの輪郭がぼやけていく。
あいつの耳を塞ぐ腕、丸まった背中、絶望的な沈黙……それを見ているだけで、胸の奥が焼けつくように痛い。
ほんの少し前までは、一緒に笑ってたんだ。
あいつの少しズレた天然な発言にオレが突っ込んで、あいつが申し訳なさそうに、でも嬉しそうに微笑んで。
「今日の練習、最高だったな」って、拳を合わせて、当たり前のように明日を信じてた。
なのに、どうしてこんなことになっちまった。
(……ごめん。……ごめんな、冬弥……)
喉の奥が熱くなって、呼吸をするたびに鋭い痛みが走る。
いじめなんて、しなくてよかったんだ。
あいつをこんな風に、光も音も拒絶するような暗がりに追い込む必要なんて、どこにもなかった。
ただ隣で、同じ熱量で、歌い続けていればよかっただけなのに。
「…………っ、……」
声を出さないように、必死に唇を噛み締める。
だけど、溢れ出した涙は止められなくて、冷たいフローリングの上にポツリ、ポツリと染みを作っていく。
今の冬弥には、オレの泣き声さえも「罪悪感」という刃になって突き刺さるだろう。
相棒を泣かせている自分、という呪い。
だから、悟られないように、ただ静かに、鼻の奥をツンとさせながら、オレも膝を抱えて顔を伏せた。
(……一緒に、歌いたかっただけなんだよ。……ただ、それだけだったのに……)
暗闇の中で、二人の震える呼吸だけが重なり合う。
かつてステージの上で響き合わせたハーモニーは、今はもう、この狭くて冷たい部屋の隅で、互いの痛みを削り合う音に変わってしまっていた。
(……っ)
床に落ちる涙の音に気づいたのか、冬弥の腕が、ほんの少しだけ緩んだ。
膝の間に埋められていた顔が、ゆっくりと、恐る恐る持ち上がる。
ぐちゃぐちゃになった視界の端で、あいつの瞳が、暗がりの中で微かに光った。
その目は、かつてステージで前を見据えていた強い光を失って、今はただ、道に迷った子供のように、あるいは傷ついた獣のように、怯えながらオレを捉えている。
「…………、…………っ」
冬弥は、何も言わなかった。
ただ、オレが肩を震わせて泣いているその姿を、信じられないものを見るような目で見つめている。
あいつを壊したのはオレなのに、そのオレが泣いているなんて、冬弥にしてみれば滑稽で、自分を責める材料でしかないはずなのに。
オレは、慌てて腕で目元を拭った。
見せたくなかった。こんな無様な姿、あいつをさらに苦しめるだけだって分かってたから。
「……わり、……なんでもねえ」
鼻をすすって、掠れた声で無理やり絞り出した。
冬弥は、まだ耳に手を添えたまま、剥き出しの感情を向けられたことに困惑しているみたいだ。
その震える指先が、自分の耳元から離れて、力なく膝の上に落ちる。
(……冬弥……)
二人の間に、重苦しい、でもさっきまでの拒絶とは違う「熱」を帯びた空気が流れる。
あいつはまだ、何も許してねえ。
何も癒えてねえ。
でも、その目は、たしかに今のオレを「相棒」としてじゃなく、ただ一人の「人間」として見つめ返していた。
「……冬弥。……腹、減ってねえか」
これ以上、この重すぎる空気に耐えられなくて、オレはあえて、これっぽっちも似合わない「日常」の言葉を、投げ出した。
(……っ、…あ…違うんだ、冬弥……。)
俯いたあいつの肩が、さっきより激しく波打っている。
やり場を失ったその手が、シーツを、あるいは自分の腕を、壊れそうなほど強く掴んで震えている。
その絶望に染まった横顔を見ただけで分かった。
あいつは今、オレの涙を「自分のせい」だと思い込んでる。
「また彰人を傷つけた」「自分のせいで彰人が泣いている」……。
そうやって、無限に続く自責のループの中に、自分を叩き落としてるんだ。
「……冬弥、……聞け」
オレは床に手をついて、少しだけあいつに身を乗り出した。
でも、近づきすぎないように、あいつのパーソナルスペースを侵さないギリギリのところで止まる。
「……今の涙は、お前のせいじゃねえ。……全部、オレの勝手だ。……オレが、不甲斐なくて、……情けなくて、……勝手に出ただけだ」
嘘じゃねえ。
あいつをこんな風に追い詰めるまで気づけなかった、自分への怒りと情けなさが溢れただけなんだ。
なのに、冬弥は自分を呪う材料にしてしまう。
オレの感情さえも、こいつにとっては自分を裁くための証拠品にしかならねえのか。
「……自分を責めるな。……頼むから、これ以上、……自分をいじめるな」
掠れた声で、懇願するように言った。
冬弥の震える手が、さらに強く自分の腕に食い込む。
指先が真っ白になるほど、あいつは自分を罰しようとしていた。
「…………冬弥。……こっち見ろ。……嫌なら、見なくていい。……でも、オレの言葉だけ、……一瞬でいいから、疑わずに聞いてくれ」
オレは、ぐちゃぐちゃになった顔を拭いもせず、ただ真っ直ぐに、俯いているあいつの頭頂部を見つめた。
(……、……っ)
冬弥が、ゆっくりと、本当にゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から覗くその瞳は、赤く縁取られていて、絶望と困惑がぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
オレの泣き顔を見て、あいつは何を思っているんだろう。
「相棒を泣かせた自分」を、また奥底で裁いているんだろうか。
それとも、この期に及んでまだ隣にいようとするオレの身勝手さに、呆れているんだろうか。
「…………冬弥」
オレは、床についた手を少しだけ、あいつの震える手の方へ滑らせた。
触れる勇気なんてねえ。ただ、いつでも支えられる距離にいたい。
「……お前が今、何を考えてるか、なんとなく分かるよ。……『自分のせいで彰人が泣いた』とか、『また苦しめた』とか、そうやって自分をボコボコに叩いてんだろ」
冬弥の肩が、びくりと跳ねる。図星なんだろうな。
あいつは、いつだって自分を一番後回しにして、周りの痛みを自分の罪にして背負い込む。
「……勝手に泣いたのは、オレだ。お前のせいじゃねえ。……オレが、……お前の隣にいたいくせに、お前をこんなに傷つけた自分が、情けなくて、腹が立って、……それで、……出ただけだ」
オレは、溢れそうになる次の涙を、鼻をすすって無理やり押し戻した。
ここでまた泣いたら、あいつをさらに追い詰めるだけだ。
「……頼むから、……オレの涙まで、お前の罪に加算すんなよ。……それは、オレのプライドが許さねえんだ」
あえて、少しだけぶっきらぼうに言った。
冬弥は、潤んだ瞳でじっとオレを見つめている。
その震える指先が、床の上で少しだけ、オレの手の方へ動いたような気がした。
(……っ、……嘘だろ)
でも…また、冬弥が深く膝の間に顔を埋めた。
さっきよりも激しく、拒絶するように、自分を丸めて。
その震えが床を通じてオレの指先にまで伝わってくる。
「……冬弥?」
声をかけた。だけど、その一言さえもが失敗だったとすぐに気づく。
あいつの背中が、ビクンと跳ねた。
オレが「大丈夫か」とか「腹減った」とか、そんな当たり前の日常を差し出そうとするたびに、冬弥はそれを「聖人君子のような彰人の慈悲」だと受け取って、そんなオレを裏切った自分をさらに深く刺し続けてる。
(……何をやっても、裏目に出るのかよ)
オレが泣けば、あいつは「彰人を泣かせた」と自分を責める。
オレが前を向こうとすれば、あいつは「彰人に無理をさせている」と自分を呪う。
オレが謝れば、あいつは「謝らせるようなことをした自分」を死なせたくなる。
あいつの思考の回路が、全部「自分を罰する」方向へ焼き切れてる。
オレがここにいること自体が、冬弥にとっての特大の罰に変わっちまってるんだ。
(……日常なんて、もうねえんだな。……どこにも)
絶望が、冷たい水みたいに心臓を満たしていく。
かつてあいつを救ったはずのこの声も、この手も、今はただの凶器だ。
一緒に歌おう、なんて、どの口が言える?
日常の会話一つつなげられねえのに、音楽なんて、そんな高尚なもん届くわけねえ。
「…………」
オレは、差し出そうとした手をゆっくりと引いた。
近づくことも、離れることも、声をかけることも、黙っていることも。
すべてが間違いで、すべてが冬弥を壊していく。
(……どうすればいい。……どうすれば、お前をそこから出せるんだよ)
オレは、床に座り込んだまま、ただ呆然と、丸まった冬弥の背中を見つめることしかできなかった。
あいつの孤独の深淵に、オレの光はもう、一筋も届かない。
沈黙が、重く、粘りつくように部屋を満たしていく。
冬弥の震えは止まらない。膝に顔を埋めたまま、あいつは自分の内側にある「怪物」と戦っているみたいだ。オレが何かを言えば、その怪物はさらに巨大になって、冬弥を飲み込んでしまう。
(……、……っ)
オレは、ゆっくりと、音を立てないように立ち上がった。
あいつをこのまま一人にするのは、死ぬほど怖い。でも、オレがここに居続けることは、冬弥にとって「鏡」を見せられ続けているのと同じなんだ。
「お前をこんなに傷つけた、最低な相棒」という鏡を。
「……冬弥」
名前を呼ぶ。あいつの肩が微かに跳ねる。
これ以上、言葉を重ねるのはやめよう。
どんなに綺麗な言葉も、今のあいつには泥をかけられたようにしか感じられないだろうから。
「……水、そこに置いとくから。……気が向いたら、一口でもいいから飲めよ」
オレは、床に置いたコップを、あいつの手が届くか届かないかの微妙な距離に置き直した。
それから、震える足を叱咤して、出口の方へと歩き出す。
(……、……)
ドアノブに手をかけたとき、一度だけ振り返った。
部屋の隅、暗がりに溶け込みそうなほど小さくなって震えている、かつての相棒。
あいつの孤独は、もうオレの手には負えないところまで来ているのかもしれない。
「……また、来る。……明日でも、明後日でも。……お前が『来るな』って、……声に出して言うまでは」
返事なんて期待してねえ。
オレは、静かにドアを閉めた。
カチリ、と鍵が閉まるような幻聴が聞こえた気がした。
廊下に出た瞬間、肺の中の空気を全部吐き出す。
壁に背を預けて、ズルズルとへたり込んだ。
(……どうすればいい。……どうすれば、またあいつと……笑い合えるんだよ……)
冷たい廊下で、オレは一人、顔を覆った。
昨日、あのドアを閉めてから一睡もできなかった。
目を閉じれば、暗がりにうずくまって震える冬弥の背中が焼き付いて離れねえ。
(……っ、……ふぅ)
震える手で鍵を開け、静かに部屋に入る。
空気は昨日よりさらに淀んでいて、カーテンの隙間から差し込む西日が、埃を白く浮き上がらせていた。
「…………」
絶句した。
冬弥は、昨日オレが置いていった場所に、そのままいた。
体勢一つ変えず、置いたままのコップの水も、一滴すら減っていない。
まるで時間がそこだけ止まって、あいつという存在がゆっくりと削り取られているみたいだ。
「……冬弥」
声をかけても、反応はない。
あいつの孤独の殻は、昨日よりもさらに厚く、硬くなっている。
オレが近づけば、またあいつは自分を責めるだろう。
オレが喋れば、あいつはまたその言葉を呪いに変えるだろう。
でも、もう「逃げる」のはやめだ。
綺麗事も、遠慮も、全部いらねえ。
オレは、冬弥の目の前……今度は距離を置かず、膝が触れ合うくらいの場所に、どさりと座り込んだ。
「……冬弥。……聞け」
あいつの肩がビクッと跳ねる。顔を上げようとはしない。
それでも、オレは言葉を止めなかった。
「……お前が何を思って、どれだけ自分を汚いと思ってるか、オレには全部は分かんねえよ。……でもな、一つだけ言わせろ」
喉の奥が熱くなる。視界がまた滲みそうになるのを、気合でこらえた。
「……オレは、お前と一緒に歌いたいんだよ。……いじめなんて、そんな下らねえことしなくて済む場所で、……ただ、お前と背中合わせて、最高の景色が見たい。……それだけなんだよ」
冬弥の手が、ぎゅっと自分の腕を強く掴んだ。
「……お前が自分を許せなくてもいい。……死にたくなるくらい自分が嫌いでもいい。……でも、オレはお前が必要なんだ。……冬弥がいないステージなんて、オレには何の価値もねえんだよ」
一言、一言。
自分の心臓を削り出すみたいに、言葉を叩きつける。
あいつが自分を不幸の塊だと思っているなら、その不幸ごと、オレが引きずり回してでも光の中に連れてってやる。
「……生きてろよ。……生きて、……また、隣で笑ってくれ。……それ以外、何もいらねえ。……ごめんも、ありがとうも、……全部いらねえから……!」
オレは、震える冬弥の両肩を、がっしりと掴んだ。
拒絶される恐怖よりも、ここで手を離したら二度と会えなくなる恐怖の方が勝っていた。
「……冬弥……っ!」
掴んだ肩から、冬弥の絶望的な震えがダイレクトに伝わってくる。
骨が浮き出るほど細くなったその肩は、オレが力を込めたら簡単に砕けてしまいそうなくらい脆い。
「…………っ、……」
冬弥はまだ顔を上げない。膝に額を押し付けたまま、喉の奥でヒュッ、ヒュッと、短く苦しげな呼吸を繰り返している。
オレの言葉が、あいつの中に溜まった澱みを無理やりかき回しているんだ。
「……冬弥、逃げるな」
震える声を、必死に低く、強く保つ。
肩を掴む手に力を込めた。痛いかもしれない。でも、こうしてないと、あいつがそのまま霧みたいに消えてしまいそうで怖かった。
「……お前が自分を『周りを不幸にする存在』だと思ってんなら、勝手に思ってろ。……でもな、オレは不幸じゃねえよ。お前と出会って、歌って、……あんな最高の景色が見れたんだ。……それを『不幸』なんて言葉で汚させねえ」
冬弥の指先が、シーツを……いや、オレのズボンの裾を、弱々しく、でも縋るようにギュッと握りしめた。
「……生きてていいんだよ。……誰が許さなくても、オレが許す。……お前が自分のこと大嫌いでも、オレがお前を信じてる。……だから、……もう一人で死ぬことばっか考えるな……っ!」
オレは、そのまま冬弥を、膝を抱えた状態のまま無理やり引き寄せて、力一杯抱きしめた。
あいつの体が、驚くほど冷たい。
血が通っていないんじゃないかって思うくらい冷え切ったその体に、オレの体温を全部移すつもりで、腕に力を込める。
「……戻ってこい、冬弥。……お前の居場所は、暗い部屋の隅じゃねえ。……オレの隣だろ……!」
抱きしめられた冬弥の身体から、一瞬、力が抜けた。
それから、堰を切ったような激しい震えが、オレの胸の中に伝わってきた。
「ッ…はぁ…っ……はぁっ…ぅ…、…う……ひゅ…ッ…ひゅ……っ…」
(……っ、……冬弥!!)
抱きしめた腕の中で、冬弥がもがくように身体を丸め、床に転がった。
まるでオレの言葉さえも、あいつの鼓膜を焼き切る猛毒か何かに聞こえているみたいだ。
両手でこれ以上ないくらい強く耳を塞ぎ、髪を掻き毟るように指を食い込ませている。
ぐしゃぐしゃになった前髪の間から見える横顔は、青ざめて、脂汗が浮いて……呼吸が、完全におかしくなっていた。
「……っ、……は、……ひゅ……っ……!」
(……過呼吸……!)
あいつの肺が、必死に空気を求めて激しく波打っているのに、実際には一向に酸素が届いていない。
絶望が深すぎて、身体が「生きること」を拒絶し始めてるんだ。
「冬弥! 落ち着け! ……オレを見ろ、冬弥!!」
オレは床に膝をつき、パニックで暴れそうになるあいつの身体を、上から押さえつけるように抱え直した。
耳を塞いでいるその手を無理やり引き剥がしたい。でも、そんなことをすれば余計に追い詰める。
「……いいか、吸うんじゃねえ! ゆっくり、……ゆっくり吐け! オレに合わせろ!」
オレは自分の胸に、あいつの震える後頭部を押し当てた。
オレの心臓の音を聴かせ、オレの呼吸のリズムを叩き込む。
「……っ、……ふぅーー……、……はぁーー……」
わざと大きく、ゆっくりと息を吐いて見せる。
冬弥の指先が、オレの腕を、肉に食い込むほどの力で掻き毟った。
痛い。でも、その痛みが「お前はまだここにいる」っていう唯一の証拠だった。
(……死なせない。絶対、死なせねえぞ……!)
「……冬弥、……大丈夫だ。……お前がどんなに自分を嫌いでも、オレがここにいる。……離さねえ。……一生、離してやんねえから……!」
薄暗い部屋の中で、オレの必死の呼びかけと、冬弥の喘ぐような呼吸音だけが、ひどく歪に重なり合っていた。
「ッひゅ…っ……げほッ、…げほ……っ…。…はぁッ…ひゅ……」
(……っ、……!)
冬弥の喉から、ひきつったような激しい咳き込みが漏れる。
空気を吸い込もうとして、それがうまく肺に入らず、代わりに身体が拒絶反応を起こして跳ねている。
「……っ、……冬弥、大丈夫だ。……ゆっくり、……ゆっくり吐け」
オレはあいつの背中を、壊れ物をさするように、でも力強くさすり続けた。
髪をぐしゃぐしゃに掻き毟るその手を、無理に引き剥がすことはしねえ。ただ、あいつの身体がこれ以上バラバラに壊れちまわないように、背中から、腕から、オレの体温を必死に叩き込む。
「……げほっ、……、……っ」
咳き込むたびに、冬弥の細い身体が大きく波打つ。
その拍子に、耳を塞いでいた指先が、力なく床を掻いた。
酸欠のせいか、あいつの顔色は青白いのを通り越して、透けるように白くなっている。
(……死なせねえ。……絶対、……ここで終わらせたりしねえ)
オレは何も言わず、ただ、あいつの荒れ狂う呼吸が少しでも落ち着くのを待った。
言葉なんて、今はただのノイズだ。
ただの「熱」として、ここに居続ける。
冬弥の指先が、床のフローリングをぎり、と軋ませる。
あいつの中で、死にたい自分と、それでも止まらない心臓が、残酷なほど激しくぶつかり合っているのが分かった。
「…………」
オレは、あいつのぐちゃぐちゃになった頭を、片手で包み込むようにして自分の胸に引き寄せた。
耳を塞がなくてもいいように。
外の音が、これ以上あいつを傷つけないように。
「…ッはぁ…はぁ…っ」
(……っ、……、……)
言葉はもう、出なかった。
ただ、冬弥の肺が必死に空気を求め、吐き出そうともがくその音だけが、静まり返った部屋に生々しく響いている。
オレの胸に押し付けられたあいつの頭が、呼吸のたびに激しく揺れる。
ぐしゃぐしゃになった髪の下で、冬弥がどれだけ絶望的な顔をしているのか、見なくてもわかった。
指先が、床のフローリングを必死に掻き毟り、爪が剥がれそうなほど強く、何かに抗うように動いている。
「…………」
オレは、ただあいつの背中を、手のひら全体で強く押し当てた。
さするんじゃねえ。ただ、「ここにいろ」と念じるように、体重をかけてその震えを抑え込む。
(……吸え。……吐け。……止まるな……!)
冬弥の喉から、ひきつったような、乾いた音が漏れる。
その音が、あいつの限界を告げているようで、オレの心臓も握りつぶされそうに痛い。
部屋の隅、暗がりに沈んだままの二人の影。
西日が沈みかけ、影が長く伸びて、冬弥の身体を飲み込もうとしている。
オレは、その影に負けないように、あいつの冷え切った身体をさらに強く、腕の中に閉じ込めた。
冬弥の呼吸が、ほんの、ほんの少しだけ、深く、重くなっていく。
パニックの絶頂を通り過ぎて、身体がただの「疲労」と「欠乏」に支配され始めている。
あいつの手が、床を掻くのをやめて、力なく投げ出された。
(……、……っ)
冬弥の身体から、急激に力が抜けた。
あれほど硬く、拒絶するように強張っていた筋肉が、糸が切れたみたいに弛緩していく。
耳を塞いでいた腕が、力なく床に滑り落ちた。
髪に指を食い込ませていた手も、今はただ、指先をわずかに震わせるだけで動かない。
「……冬弥?」
声をかけたが、返事はない。
あいつの頭が、オレの肩にぐったりと預けられる。
さっきまでの狂ったような呼吸が、今は浅く、か細いものに変わっていた。
過呼吸の限界を超えて、身体が強制的にシャットダウンしようとしてるんだ。
(……っ、……、……)
オレは、その重みをしっかりと受け止めた。
昨日背負った時よりも、さらに頼りなく感じる。
まるで、魂だけがどこか遠くへ逃げ出して、殻だけがここに残されたみたいで。
「……、……」
オレは、あいつを床に寝かせようとして、思い直した。
今、この腕を離したら、冬弥はまたあの深い闇の底へ独りで落ちていっちまう気がして。
だから、座り込んだまま、あいつの身体を自分の胸の中に抱え込み続けた。
部屋の隅、西日が消えかかり、暗闇が二人を包み込んでいく。
オレのシャツは、冬弥の涙と脂汗でぐしょぐしょに濡れて、冷たくなっている。
それでも、その冷たささえも、あいつが今「生きている」証拠だと思えば、手放せなかった。
(……寝ろ、冬弥。……全部、忘れていいから。……今は、ただ……)
オレは、あいつのぐちゃぐちゃになった髪を、そっと、一度だけ撫でた。
その指先に触れる髪の感触が、泣きたくなるほど愛おしくて、苦しかった。
カーテンの隙間から、容赦のない朝の光が差し込んできた。
腕の中で、冬弥は泥のように眠っている。浅い呼吸を繰り返しながら、時折、何かに怯えるように指先を震わせる。
(……、……っ)
体の節々が痛む。一晩中、床に座ったままあいつを抱えていたんだから当然だ。
オレは、痺れた足に力を込めて、冬弥の体をゆっくりとベッドの方へ横たわらせた。昨日とは違う、抵抗のない重みが、逆にあいつの限界を物語っている。
(……なんか、食わせねえと)
フラつく足取りでキッチンに向かった。
せめて温かいもんでも……そう思って冷蔵庫を開けたが、中は空っぽだ。棚をひっくり返しても、出てきたのは数箱のカロリーメイトだけ。
「…………」
それしかない。
あいつが、音楽に、勉強に、そして自分を追い詰めるためだけに費やしてきた時間の残骸みたいで、胸の奥がキリキリと痛んだ。
(……これじゃ、ダメなんだよ)
命令でも、強制でもいい。
今のこいつに必要なのは、効率的な栄養補給なんかじゃねえ。
生きてる実感の湧くような、温かくて、不格好な「飯」だ。
オレは一度、玄関の方を振り返った。
冬弥はまだ、死んだように眠っている。
(……待ってろ)
財布を掴んで、ドアを静かに閉める。
近くのコンビニか、早朝からやってるスーパーへ。
卵と、米と、適当な野菜。
あいつが、また「相棒」として前を向くための、最初の一口を作るために。
「…っ……」
バタン、と小さくドアが閉まる音が、静まり返った部屋に響いた。
「……っ、……、……」
冬弥は、重い瞼をゆっくりと押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたはずの自分の部屋の天井。だけど、昨日の絶望の続きなのか、それとも新しい地獄の始まりなのか、感覚がひどく曖昧だ。
全身が鉛のように重い。
指先一つ動かすのにも、途方もないエネルギーが必要だった。
頬に触れるシーツが、自分の涙と汗で少し冷たくなっている。
(……彰、人……)
掠れた思考の中で、あいつの名前を呼ぶ。
昨日、壊れそうなほど強く抱きしめてくれた熱。
耳を塞いでも突き刺さってきた、あの必死な叫び。
それが夢だったのか、それとも現実だったのか、確かめるのが怖くて、冬弥は視線だけを泳がせた。
「…………」
部屋には、誰もいない。
だけど、床の上には昨日彰人が置いていったコップが、そのままの場所に置いてある。
そして、キッチンの方から、微かに、本当に微かに……誰かがいた気配だけが、残り香のように漂っていた。
(……行っちゃった、のか……)
胸の奥が、ヒヤリとする。
「もういい」と見捨てられたのか、それとも、あんな無様な姿を見せた自分に愛想を尽かしたのか。
自分を責める思考の癖が、また頭をもたげようとした、その時。
ガチャ、と。
玄関の鍵が開く音がした。
ビニール袋が擦れるガサガサという音。
それから、少し急いだような足音が近づいてくる。
「……お、起きたか」
ドアの隙間から、少し息を切らした彰人が顔を出した。
手には、コンビニの袋。中には卵のパックや、レトルトじゃない米の袋が見える。
冬弥は、何も言えなかった。
ただ、朝日を背負って立っているその姿が眩しくて、また視界がじわじわと滲んでいくのを止められなかった。
「……よお。意外と早く目覚めたな」
なるべく明るい声を意識して、買ってきた袋をキッチンの調理台に置く。
振り返ると、ベッドの上で冬弥がぼうぜんとこっちを見ていた。その瞳が、また迷子になった子供みたいに揺れている。
(……ああ、クソ。またやってんな、お前)
冬弥の顔を見ればわかる。
「自分のために、また彰人が動いてる」「自分のせいで、彰人が金も時間も使ってる」……。
そんな、呪いみたいな思考がぐるぐるとあいつの頭の中を駆け巡って、自分を責めてるんだろ。
あいつの「優しさ」は、時々、自分を殺すためのナイフになる。
オレが何かをするたびに、冬弥はそのナイフを自分の胸に深く突き立てていく。
「…………」
オレはあえて、あいつの顔を直視せずに、袋から卵と米を取り出した。
冷たい水道の音を響かせて、米を研ぎ始める。
「……冬弥。お前、今また『申し訳ない』とか思ってんだろ」
トントン、とリズム良く……とはいかねえけど、慣れない手つきでネギを切り始めた。
「……勘違いすんなよ。これ、全部オレのためだからな。……お前が倒れたら、オレが練習できねえ。お前が飯食わねえと、オレが落ち着いて寝れねえんだよ」
包丁を持つ手が少し震える。
本当は、今すぐ駆け寄って、またその震える肩を抱きしめてやりたい。
でも、今の冬弥には「特別」な優しさじゃなく、無理やりにでも「当たり前の日常」を突きつける必要があるんだ。
「……お前に金や時間を使うのが、オレにとって『損』だと思ってんなら、それはオレをバカにしてるのと一緒だ。……オレは、オレがやりたいからここにいるんだよ」
鍋に火をかける。
パチパチと音が鳴り、少しずつ部屋の空気が温まっていく。
「……だから、黙って食え。……美味いかどうかは保証しねえけどな」
冬弥の方を、チラリと見た。
あいつの頬を、一筋の涙が伝って、シーツに吸い込まれていくのが見えた。
湯気が、静かな部屋に白く立ち上がる。
不格好に切ったネギと、少し煮込みすぎた卵。
見た目は最高とは言えねえけど、キッチンに漂う出汁の匂いは、昨日までのあの冷え切った空気とは明らかに違っていた。
「…………ほら」
オレは、熱い茶碗を片手に持って、ベッドの脇に座り込んだ。
冬弥は、まるで逃げ場を失ったみたいに、布団を握りしめて身体を縮めている。
その目は、差し出された雑炊を……いや、それを作ったオレの手を、恐る恐る見つめていた。
(……、……っ。また、そんな顔すんなよ)
「……熱いうちに食え。一口だけでいい。……これ、残されたらオレが凹むんだよ。せっかくネギまで刻んだんだからな」
あえて、少しだけおどけて言った。
冬弥の唇が、かすかに震える。
「……、……あき、と……」
消え入りそうな声。
でも、昨日の絶望に塗りつぶされた声じゃねえ。
そこには、オレの存在を、その熱を、必死に確認しようとする響きがあった。
「……いいから。ほら、口開けろ」
スプーンですくって、ふーふーと息を吹きかける。
自分でも何やってんだって思う。ガラじゃねえ。
でも、今の冬弥には、こうして強制的にでも「生きてる実感」を流し込んでやらなきゃいけねえんだ。
冬弥の瞳に、溜まっていた涙がまた一粒、溢れて落ちた。
それでも、あいつはゆっくりと、震える唇を開こうとしている。
「……っ、……、……」
あいつの喉が、微かに動いた。
オレの「身勝手」を受け入れようとしてくれている。
自分を殺すナイフを、ほんの少しだけ、床に置こうとしてくれている。
(……いいんだ、冬弥。……それでいい)
オレは、震える手を悟られないように、慎重に、優しく、最初の一口をあいつの口元へ運んだ。
「っ……」
(……っ、……そうだよな)
差し出したスプーンが、虚しく空を切る。
冬弥は顔を背け、布団を握りしめたまま、また自分の殻に閉じこもろうとしていた。
拒絶。
それはオレへの嫌悪じゃねえ。「こんなに良くしてもらう資格なんて、自分にはない」っていう、あいつの歪んだ自尊心が叫んでる拒絶だ。
「…………冬弥」
オレは、熱を持った茶碗を一度、サイドテーブルに置いた。
カチャリ、と軽い音が、静まり返った部屋に重く響く。
「……いい加減にしろよ。……何がそんなに怖いんだ? オレの飯を食うのがか? それとも……オレに優しくされることで、自分の罪が消えちまうのが怖いのか?」
少し、声を荒らげてしまった。
冬弥の肩が、びくりと跳ねる。
分かってる。責めちゃいけねえ。あいつは今、心臓の皮が剥がれたみたいに敏感になってるんだ。
でも、このままじゃ……このままじゃ、こいつは本当に、自分で自分を食い尽くして消えちまう。
「……お前が何をしても、どれだけ自分を汚いと思っても、オレがここにいる事実は変わんねえんだよ。……拒絶して、遠ざけて、……それでオレが『はい、そうですか』って帰るとでも思ってんのか?」
オレは、ベッドの縁に手をかけ、背を向けた冬弥にじりじりと詰め寄った。
「……甘えろよ、冬弥。……一回くらい、……『助けてくれ』って、……『腹減った』って、……情けねえ声出して、オレに縋ってみろよ!」
胸の奥が、熱い鉄を飲まされたみたいに焼ける。
あいつの孤独の壁を、言葉のハンマーでぶち壊したかった。
傷つけたっていい。泣かせたっていい。
ただ、その閉ざされた扉を、内側から開けさせたかった。
「…………っ、……」
冬弥の後ろ姿が、激しく震え出す。
泣いているのか、怒っているのか、それとも……。
「……食え。……一口だ。……一口食ったら、もう何も言わねえから」
オレは、もう一度スプーンを手に取った。
今度は、あいつの視界に無理やり割り込むように、その顔の前に突き出す。
(……食った)
震える唇で、冬弥がスプーンの端を僅かに食んだ。
ほんの一口、六分の一にも満たない量。だけど、その飲み込む嚥下の動きが、オレには何よりも重い「生への返答」に見えた。
「…………っ」
冬弥は顔を背けたままだが、吐き出しはしなかった。
熱い雑炊が喉を通る感覚。それが、死にかけていたあいつの輪郭を、この世界に繋ぎ止めていく。
「……おう。……それでいい」
オレは、震えそうになる手を隠すようにスプーンを引いた。
無理強いはしねえ。でも、その一口分の熱が、あいつの氷河のような絶望を、ほんの、ほんの少しだけ溶かしてくれたと信じたかった。
「……味、しねえか。……次は、もうちょっと上手く作る」
部屋を支配していた静寂が、呼吸の音と一緒に、少しずつ和らいでいく。
(……、……っ)
冬弥は、何も言わなかった。
ただ、一口だけ飲み込んだその熱が、あいつの喉の奥をゆっくりと通っていく。
背を向けたまま、小刻みに震えるその背中が、今はさっきまでの「拒絶」じゃなく、何かを必死に堪えているような……そんな震えに見えた。
「…………」
オレは、無理に次の一口を運ぶのをやめた。
今の冬弥にとって、その「六分の一」は、きっとフルマラソンを走り切るのと同じくらい、莫大なエネルギーを使ったはずだから。
「……おう。……今は、それで十分だ」
スプーンを茶碗に戻し、サイドテーブルに置く。
カチャリ、という音が、さっきよりも少しだけ柔らかく響いた気がした。
「……残りは、ここに置いとく。……冷めたら、また温め直してやるから。……気が向いたら、……自分のタイミングでいいから、手を伸ばせ」
オレはゆっくりと立ち上がり、強張った身体をほぐすように一息ついた。
冬弥はまだ、布団を握りしめたまま動かない。
だけど、あいつの指先が、ほんの少しだけ……本当にわずかだけど、力が抜けて、シーツの上で柔らかくなった。
「……少し、……寝ろ。……オレは、あっちのソファにいるから」
あいつを独りにしない。
でも、あいつを追い詰めない。
そのギリギリの距離感を、今は守りたかった。
「……おやすみ、冬弥。……また、後でな」
オレは部屋の明かりを少し落として、静かに、でも確かな足音を立てて、隣の部屋へと向かった。
あいつが、自分のペースで「息」ができるように。
ソファで浅い眠りに落ちかけていたオレの耳に、隣の部屋からガタッと嫌な音が届いた。
何かが硬い床に当たって、引きずるような音。
(……っ、冬弥!?)
跳ね起きる。心臓が嫌なリズムで跳ねた。
「飯でも食う気になったのか」なんて、そんな楽観的な予想は一瞬で消し飛ぶ。あいつのあの絶望しきった顔が脳裏にこびりついて離れねえからだ。
「……おい、冬弥! どうした!?」
返事はない。
慌ててドアを開けると、そこにはベッドから這い出した冬弥が、ふらつく足取りで机の引き出しに手をかけていた。
「…………、……っ」
冬弥の手には、銀色に光る無機質な塊。
カッター。
カチ、カチ、と静かな部屋に、刃を押し出す不吉な音が響く。
「……、……よせ」
声が震えた。
あいつの瞳は、もうどこも見ていねえ。
ただ、自分の存在をこの世から消し去ること……「彰人の邪魔をしない唯一の方法」として、それだけを真っ直ぐに見つめている。
「……冬弥! 離せ、それを!!」
オレはなりふり構わず、冬弥の細い手首を掴みにかかった。
あいつは、驚くほど強い力でそれを拒もうとする。
「彰人のために、死ななきゃいけない」っていう、狂った使命感があいつを突き動かしているみたいだ。
「……、……っ……はぁ、……っ……!」
冬弥の喉から、言葉にならない悲鳴が漏れる。
もみ合う中で、カッターの刃が冬弥の指先に、あるいはオレの腕に触れそうになる。
「……バカ野郎!! 何考えてんだお前は!!」
オレは、冬弥を床に押し倒すようにして、その手首をガッチリと固めた。
あいつの顔が、すぐ目の前にある。
涙でぐしゃぐしゃになった、あまりにも悲しい、相棒の顔。
「……これがお前の『答え』かよ……!? オレが、……お前に、こんなことさせるために、ここまで来たと思ってんのか……っ!!」
オレは、冬弥の手から無理やりカッターをもぎ取ると、それを部屋の隅へと投げ飛ばした。
金属音が、虚しく響く。
投げ飛ばしたカッターが壁に当たって、虚しい音を立てて床に転がった。
「…………っ、……」
冬弥の手首を掴んだまま、オレの指先が、ガタガタと止まらない。
怒鳴りつける気力さえ、一瞬で真っ白に吹き飛んだ。
目の前にいる冬弥は、ただ呆然と、カッターの消えた方を見つめている。
その瞳には、恐怖も、後悔も、何もない。
ただ「失敗した」という淡々とした絶望と……「彰人の邪魔をしたくない」という、狂ったほど真っ直ぐな、あいつなりの「正解」だけが宿っていた。
(……本気、だったのかよ)
冗談じゃねえ。
気を引くためでも、自暴自棄になっただけでもねえ。
こいつは、本気で……オレがいない隙を狙って、自分を消そうとした。
オレが「幸せになるため」に、自分という不純物を取り除こうとした。
「…………嘘だろ、冬弥」
掴んでいた手首から、力が抜けていく。
代わりに、胸の奥が、冷たい氷の塊を飲み込んだみたいに凍りついた。
オレが昨日から必死に叫んだ言葉も。
寝ずに抱きしめた体温も。
慣れない手つきで作った、あの六分の一しか食えなかった雑炊も。
全部、こいつにとっては「重荷」でしかなかったのか?
オレが手を伸ばせば伸ばすほど、こいつは「死ななきゃいけない理由」を積み上げてたのかよ。
「……は、はは……っ」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
視界が、急激に歪む。
冬弥を救おうとしてた手が、実はあいつを一番深い崖っぷちまで追い詰めてたんだとしたら。
「……オレのせい、か。……オレが、お前を……ここまで追い込んだのか……?」
冬弥の顔が、滲んでよく見えねえ。
あいつを壊さないように、慎重に、大切に扱ってきたつもりだった。
だけど、オレの存在そのものが、冬弥にとっては「猛毒」だったんだ。
オレは、床に座り込んだまま、力なく頭を垂れた。
掴んでいた冬弥の手が、シーツの上に力なく落ちる。
「…………ごめん。……ごめんな、冬弥」
声を出すのが、やっとだった。
あいつを救いたくて堪らなかったはずの声が、今は自分を責める刃になって、オレ自身の心臓をズタズタに切り裂いていた。
「…ぁ……」(……っ、……まただ)
冬弥の肩が、さっきまでとは違う質の、もっと激しく、もっと絶望的な色を帯びて震え出した。
あいつの瞳が泳いで、焦点が合わなくなっていく。
唇が白くなって、パクパクと酸素を求めているのに、音にならない。
(……謝らせた。……彰人に、……こんな顔をさせて、……謝らせた……!)
冬弥の頭の中に響いている「声」が、痛いほど伝わってきて、オレは自分の愚かさに吐き気がした。
良かれと思って、必死になって、あいつのために動けば動くほど、冬弥は「彰人を振り回している自分」に耐えられなくなっていく。
謝罪なんて、今のあいつにはトドメの毒薬でしかなかったんだ。
「……っ、……、……ぁ……」
冬弥が、また自分の喉をかき毟るように、胸元をぎゅっと掴んだ。
呼吸が浅くなっていく。
昨日、あんなに苦しんで、やっと少しだけ落ち着いたはずなのに。
オレの「ごめん」っていう一言が、あいつをまた地獄の底まで叩き落とした。
「…………」
オレは、床に座り込んだまま、動けなかった。
手を伸ばせば、また「彰人に気を遣わせた」と自分を責めるだろう。
声をかければ、また「彰人を困らせた」と自分を呪うだろう。
(……救えねえのかよ。……オレじゃ、お前を……救ってやれねえのかよ……!)
床に置いた自分の拳が、血が滲むほど強く握り締められる。
あいつのために死にもの狂いで走ってきた道が、全部、冬弥を追い詰めるための袋小路に繋がってたなんて、そんな残酷なことがあっていいのか。
冬弥は、膝の間に顔を埋め、今度は声を押し殺して、ひっ、ひっ、と、掠れた嗚咽を漏らし始めた。
その小さな背中が、あまりにも、あまりにも独りぼっちで。
「…………っ、……」
オレは、静かに、音を立てないように立ち上がった。
今、ここにオレという「被害者」がいること自体が、冬弥を刺し続けている。
「……ごめん、なさい……。…ごめんなさい……彰人のこと、ずっと…ずっと苦しめてばっかでごめんなさい……。…ごめんなさい…ッ……。」
(……っ、……やめろ)
冬弥の口から溢れ出したのは、謝罪の言葉だった。
一言、一言が、血を吐くような重苦しさで。
自分の存在そのものがオレを傷つけていると、そう信じ切った絶望の声。
「……ごめん、なさい……。……ごめんなさい……っ」
膝を抱えて、さらに小さくなって。
あいつは今、この世界で一番いちゃいけない場所に自分が立っていると、そう思って震えてる。
オレが昨日から必死に伝えてきた「一緒にいたい」という言葉さえ、あいつの頭の中では「彰人に無理をさせている」という罪悪感に変換されちまった。
「…………」
オレは、床に膝をついたまま、震える冬弥の頭を……そのぐしゃぐしゃの髪を、力一杯、鷲掴みにするように引き寄せた。
優しく撫でる余裕なんて、もうねえ。
「……謝んな。……謝るなよ、冬弥……!」
至近距離で、あいつの瞳を無理やり覗き込む。
涙で真っ赤になった、絶望の色に染まったその瞳を。
「……お前が謝るたびに、オレの心臓がどれだけ削れるか分かってんのか。……お前は『彰人を苦しめてる』って言うけどな……! オレを一番苦しめてんのは、お前のその『ごめんなさい』だよ!!」
冬弥が、息を呑んで固まる。
オレは、掴んだ髪を離さず、額をあいつの額にぶつけるようにして押し当てた。
「……苦しいよ。……お前が死にたがってんのを見るのは、死ぬほど苦しい。……でもな、それ以上に、お前がいない世界で笑ってる自分を想像する方が、百万倍苦しいんだよ!!」
震える声が、狭い部屋に響き渡る。
あいつが自分を呪うなら、オレはその呪いごと、全部飲み込んでやる。
「……お前が汚いっていうなら、オレも一緒に汚れてやる。……お前が周りを不幸にするっていうなら、その不幸にオレも巻き込めよ! ……勝手に一人で片付けようとすんな! ……相棒だろ、……オレたちは……っ!!」
冬弥の目から、大粒の涙が、ボロボロとオレの手の甲にこぼれ落ちた。
「ごめんなさい」が、喉の奥で詰まって、掠れた嗚咽に変わる。
「……生きてろ。……苦しくてもいい、……地獄でもいいから、……オレの隣で息してろ。……謝る暇があるなら、……オレの名前を呼べよ……冬弥……!」
オレは、そのままあいつを壊す勢いで、強く、強く抱きしめた。
もう二度と、カッターなんて持たせない。
もう二度と、自分を消したいなんて思わせない。
たとえ、それがオレの「エゴ」だとしても、絶対に離さねえ。
「っ……。」
(……っ、………)
腕の中で、冬弥の身体が強張ったままだ。
「ごめんなさい」という呪文のような謝罪は止まった。だけど、その代わりに、あいつの呼吸はどんどん浅く、鋭くなっていく。
冬弥の思考が、まだギリギリのところで揺れているのがわかる。
オレの温もりを受け入れていいのか。それとも、やっぱり自分を消すべきなのか。
あいつの心の中にある「怪物」が、まだ必死に冬弥を闇の方へ引きずり込もうとしてるんだ。
「……冬弥」
オレは、抱きしめる力を緩めなかった。
あいつが迷うなら、その迷いごと力ずくでこっち側に繋ぎ止めておくしかない。
「……選べ。……死んで、オレを一生後悔させて、……一人で地獄に行くか。……それとも、……みっともなくても、情けなくてもいいから、……オレと一緒に泥水すすってでも生きるか」
残酷な問いかけなのは分かってる。
でも、今の冬弥には「どっちでもいいよ」なんて優しい言葉は届かねえ。
逃げ場を全部塞いで、真っ向からぶつかるしかねえんだ。
「……オレは、後者しか認めねえ。……お前がどっちを選ぼうとしても、オレは、……お前の腕を掴んで、離さねえからな」
冬弥の指先が、オレの背中のシャツを、クシャリと握りしめた。
迷って、迷って、……それでも、あいつの身体が、微かにオレの方へ体重を預けてきた。
「…………っ、……」
冬弥の喉から、押し殺したような、掠れた音が漏れる。
それは「ごめんなさい」じゃなかった。
言葉になる前の、ただの、……生きたいと願う悲鳴みたいな音だった。
(……来い、冬弥。……こっちへ来い)
オレは、あいつの後頭部を大きな手で包み込み、自分の肩に深く沈めさせた。
「……どっちも…えらびたくない…ッ……」
「…………っ、……は?」
冬弥の口から漏れたのは、「生きたい」でも「死にたい」でもなかった。
どっちを選んでも、オレを壊してしまう。
どっちを選んでも、オレに消えない傷を負わせてしまう。
あいつは、この土壇場に来てまで、自分の痛みじゃなく、オレの「損得」を計算して絶望してやがる。
その優しすぎる、呪いのような思考回路に、脳を直接殴られたような衝撃が走った。
「…………なんだよ、それ……」
掴んでいた冬弥の髪から、指先が滑り落ちる。
あいつを救いたくて、あいつを引き戻したくて、昨日からずっと叫び続けてきた。
だけど、オレが「相棒」として手を伸ばせば伸ばすほど、冬弥は『彰人を苦しめる材料』を自分の中に積み上げて、身動きが取れなくなっていくんだ。
オレの存在が、こいつを救う光じゃなくて、こいつを追い詰める檻になってたのかよ。
「……あは、……そっか。……そういうことかよ……」
視界が、急激に暗くなる。
涙で滲んでいた視界が、ただ真っ暗に……光の届かない、冬弥が見ているのと同じ真っ黒な景色に染まっていく。
(……救えねえんだな。……オレじゃ、ダメなんだな)
どんなに言葉を尽くしても、どんなに体温を分け合っても、この「優しすぎる怪物」は自分を罰することをやめない。
オレがここにいる限り、冬弥はオレを守るために、自分を殺し続ける。
「…………冬弥」
オレの瞳から、光が消える。
涙が頬を伝って落ちるが、そこに熱はもうなかった。
絶望が、限界を超えて、虚無に変わっていく。
「……お前が、そこまでオレのことを思って……死ぬことも、生きることも選べないくらい……オレが邪魔なんだな」
冬弥の肩を抱いていた腕が、力なく床に落ちた。
あいつを壊さないように、大切に守ろうとしていた心が、ガラガラと崩れ落ちていく。
「……じゃあ、……オレはどうすればいい? ……消えればいいのか? ……オレが死ねば、……お前は、もう自分を責めなくて済むのか?」
真っ黒に濁った瞳で、冬弥を見つめる。
そこにはもう、いつもの彰人の熱さはどこにもなかった。
ただ、相棒の絶望に感染し、共に心中しようとする、壊れた人間の顔があった。
「……え…?……ぁ…ち、…ちが……ッ…」
「……そうだよな。……お前がどっちも選べねえのは、オレがいるからだもんな」
オレの声は、自分でも驚くほど冷え切って、平坦だった。
熱がない。怒りもない。ただ、真っ黒な闇が脳内を支配して、すべての思考を「解決」という名の破滅へ導いていく。
床に転がった、さっき投げ飛ばしたカッター。
それを、ゆっくりと、迷いなく手に取った。
冬弥が驚愕に目を見開き、喉を震わせているのが視界の端に入るが、もう今のオレには「相棒の声」として届かねえ。
(……お前が自分を傷つけるのが、オレのせいなら。……オレがいなくなれば、お前はもう自分を責めなくて済むんだろ?)
カチ、カチ、と。
静かな部屋に、刃を押し出す音が響く。
冬弥が持っていた時よりも、ずっと長く、鋭く引き出された銀色の刃。
「……、……、……」
冬弥が何かを叫ぼうとしている。
震える手が、オレの腕を掴もうと伸びてくる。
でも、オレはその手をあえて冷たく振り払い、自分の首筋に……一番熱い血が流れている場所に、その冷たい刃を押し当てた。
「…………これなら、……お前は、もう迷わなくていいもんな」
肌に触れる金属の冷たさが、心地いい。
グッと力を込めれば、すべてが終わる。
冬弥を苦しめている「彰人」という存在が消えれば、こいつは、やっと……。
オレの瞳は、涙を湛えながらも真っ黒に淀んでいた。
冬弥を救えなかった絶望が、自分自身を切り裂く刃に変わる。
「…………っ、……」
冬弥の絶叫が聞こえた気がした。
でも、オレの手首にはもう、迷いなんて微塵もなかった。
「…ッ嫌だ…待って彰人…、!!……お願いだから……っ…、!!」
「……っ、が……!?」
手首に伝わってきたのは、肉を切る感触じゃねえ。
もっと熱くて、生々しい……「拒絶」の感触だった。
「……っ、冬弥……! お前、何して……っ!」
見ると、冬弥が剥き出しの刃を、その細い指先で、力任せにギュッと握りしめていた。
銀色の刃が、あいつの手のひらに深く食い込み、そこからどろりと熱い赤が溢れ出して、オレの腕に、床に、ボタボタと滴り落ちる。
「…………あ……」
オレの瞳の奥、真っ黒に染まっていた景色に、その「赤」が鮮烈に飛び込んできた。
心臓が、耳の奥でうるさいほどドクンドクンと脈打ち始める。
冷え切っていた脳に、最悪な形で現実が引き戻された。
「……離せ! 冬弥、離せよ!! お前、手が……っ!!」
慌ててカッターから手を離そうとしたが、冬弥は狂ったような力でそれを離さない。
自分の指が、手のひらが、ズタズタに裂けているのも構わずに。
あんなに「どっちも選びたくない」と、消え入りそうな声で泣いていた奴が、オレを止めるためだけに、こんな……。
「……っ、……お願いだから……待って、彰人……っ!!」
冬弥の声が、部屋中に響き渡る。
自分のことじゃ、あんなに独りで、オレにバレないようにひっそりと消えようとしてたくせに。
オレのことになった途端、なりふり構わず、自分の身体が壊れるのも厭わずに叫んでる。
(……、……クソ……)
オレは、何てことさせちまったんだ。
あいつを救いたくて、あいつの隣にいたかったはずなのに。
結局、オレまであいつと同じ「自己犠牲」の地獄に飛び込んで、冬弥に一番見せちゃいけねえ傷を見せて……。
「……っ、分かった、分かったから……! もう何もしねえ! 離せ、冬弥!!」
オレは震える手で、刃を握りしめている冬弥の両手を、外側から優しく、でも必死に包み込んだ。
溢れ出る血が、オレの指の間からも溢れ出して、二人の手を赤く染め上げていく。
「……ごめん。……ごめん、冬弥……。……悪かった、オレが悪かったから……。……だから、もういい。……手を、開け……っ」
オレの目から、今度は濁っていない、熱い涙がボロボロと溢れ出した。
冬弥の手のひらから伝わる、脈打つような熱。
それは、あいつが今、間違いなくここで「生きてる」証拠で。
それを守るはずだった自分が、それを一番深く傷つけた。
「…本当に、もうやらない……ッ、?」
「……ああ。……約束する。二度と、絶対にやらねえ……っ」
オレは震える手で、冬弥の血まみれの手を包み込んだまま、何度も、何度も頷いた。
目の前で泣きじゃくる相棒の姿が、ボロボロに裂けたその手のひらが、オレの目を覚まさせた。
(……何が『救う』だ。……何が『相棒』だ……!)
結局、オレも冬弥と同じだった。
あいつを失うのが怖くて、あいつを救えない自分に絶望して、一番手っ取り早い「逃げ道」を選ぼうとした。
その結果が、これだ。
自分の命さえ投げ捨てようとした冬弥に、今度はオレの命を守らせるなんて……これ以上ないほど最低なことをしちまった。
「……悪い。……本当に、悪かった……。……怖かったよな、……ごめん、冬弥……」
オレは、血で赤く汚れるのも構わずに、冬弥を力いっぱい抱きしめた。
刃を握りしめていたあいつの指先が、まだ小さく痙攣している。
その震えが、あいつがどれだけの恐怖と、必死な思いでオレを止めたのかを物語っていて、胸が張り裂けそうだった。
「…………もう、絶対に離さない。……お前がどんなに自分を嫌いになっても、オレはお前を嫌いになんねえし、お前を置いて死んだりもしねえ。……だから、……だからもう、その手を開いてくれ……っ」
冬弥の手を、壊れ物を扱うように、ゆっくりと解いていく。
中から現れた、深く、生々しく裂けた傷跡。
そこから溢れる「赤」を直視して、オレは奥歯を噛み締めた。
(……この傷を、……一生背負ってやる。……お前がオレを救った証として、……オレが、お前を二度と追い詰めねえための、呪いとして)
オレは、部屋の隅にある救急箱を思い出し、冬弥を支えたまま、消え入りそうな声で、でも今度ははっきりと誓った。
「……手当、するぞ。……痛いだろうけど、……ちょっとだけ耐えろ」
「っ……、」
「…………っ」
冬弥は、何も言わなかった。
ただ、喉の奥で震えるような呼気を漏らしながら、血の滲んだ手でオレのシャツの裾を、ボロボロになった指先で必死に掴んできた。
その感触が、今のあいつの精一杯の「拒絶」の終わりで。
同時に、オレに対する「行かないでくれ」っていう、剥き出しの依存だった。
「…………ああ、ここにいる。……どこにも行かねえよ」
オレは震える手で救急箱を引き寄せ、ガーゼを手に取った。
消毒液が傷口に触れるたびに、冬弥の身体がビクリと大きく跳ねる。そのたびに、オレの心臓も同じように抉られるような痛みが走った。
(……ごめんな。……痛いよな、……クソ……っ)
あんなに真っ黒に染まってたオレの頭の中が、今は冬弥の手をどうやって治すか、どうやってあいつを温めるか……その「生かすための思考」だけで埋まっていく。
さっきまで死のうとしてた自分が、今はあいつの小さな傷一つに怯えて、必死に包帯を巻いている。
「…………よし、……これで、大丈夫だ」
不器用なりに、幾重にも巻かれた白い包帯。
そこには、あいつがオレの命を繋ぎ止めた証が刻まれている。
冬弥は、包帯が巻かれた自分の手を見つめたまま、やがて力尽きたようにオレの胸に頭を預けてきた。
「…………彰人……」
掠れた声。
「ごめんなさい」でも、「さようなら」でもない。
ただ、確認するように、オレの名前を呼んだ。
「……おう。……なんだよ、冬弥」
オレは、包帯越しにその手を優しく握り、反対の手であいつの背中をゆっくりと、一定のリズムで叩き続けた。
今度は、あいつを追い詰めるためじゃない。
「ここにいていいんだ」と、その心臓に直接教え込むために。
「…服……汚してごめん…。」
「…………っ」
その言葉を聞いた瞬間、視界がまたじわっと熱くなった。
「……バカか、お前は。……そんなもん、洗えば落ちるだろ。……それより、お前のその手の方が、よっぽど……っ」
喉の奥まで出かかった「取り返しがつかねえだろ」っていう言葉を、必死で飲み込む。今それを言ったら、またこいつは自分を責める。
オレは、血で汚れて赤黒くなった自分のシャツなんて見向きもせず、冬弥の頬に添えた手に力を込めた。
「……いいか、冬弥。服なんて何枚だって買い直してやる。……でも、お前は……お前だけは、代わりがいねえんだよ」
冬弥の瞳に、また涙が溜まっていく。
さっきまでの、自分を消そうとしていた無機質な瞳じゃない。オレを傷つけてしまったことを悔やむ、人間らしい、いつもの冬弥の瞳だ。
「……汚れたっていい。……お前の血だろうが、涙だろうが、全部オレが受け止めてやる。……だから、もう『ごめん』なんて言うな。……お前が今、生きてここにいて、オレの名前を呼んでくれた……それだけで、お釣りがくるくらいなんだよ」
オレは、包帯を巻いた冬弥の右手を、自分の胸の位置に持っていった。
ドクン、ドクンと、あいつが守ったオレの心臓の鼓動を、その手に直接伝える。
「……聞こえるか。……お前が止めてくれたおかげで、これ、動いてんだ。……ありがとな、冬弥」
今度は、本心からそう言えた。
あいつを救うはずが、結局、今回もオレが救われちまった。
「…彰人……。うん…、聞こえるよ…」
「……、……そうか。なら、もう大丈夫だな」
包帯越しに伝わる冬弥の手の震えが、少しずつ、少しずつ小さくなっていく。
あいつがオレの鼓動を、生きている証を、その手で確かめてくれている。
その事実だけで、さっきまで凍りついていたオレの心臓にも、ゆっくりと血が巡り始める感覚がした。
「……悪い。お前のこと散々責めたくせに、結局、オレまで……」
自嘲気味に笑って、あいつの冷え切った頬を親指でそっとなぞる。
涙の跡でガサガサになった肌。それでも、ちゃんと熱がある。
オレが守りたかった、たった一人の相棒の体温だ。
「……冬弥。今は、何も考えなくていい。……お前がオレを助けて、オレがお前を抱きしめてる。……今は、それだけで正解なんだよ」
オレは、そのまま冬弥を優しくベッドに横たわらせた。
あいつのシャツの裾を握っていた手は、まだ離そうとはしなかったけど、今度はそこに「拒絶」の力は入っていなかった。
「……少し、寝ろ。……オレはここにいる。お前が目覚めるまで、……いや、目覚めてからも、ずっとそばにいてやるからな」
オレはベッドの横に腰を下ろし、包帯が巻かれたあいつの手を、両手で包み込んだ。
自分のシャツにこびりついた赤い汚れが目に入ったが、不思議と嫌な気はしなかった。
これは、お前がオレを選んでくれた印だ。
「……おやすみ、冬弥。……明日は、もっとマシなもん作ってやるからな」
冬弥が重たげな瞼を閉じ、規則正しい寝息を立て始めるまで、オレはあいつの名前を何度も心の中で呼びながら、その手を握り続けた。
「…おやすみ、」
「……ああ。おやすみ、冬弥」
その声が届いたのか、冬弥の眉間の力がふっと抜けて、今度こそ深い眠りへと落ちていった。
オレはあいつの手を握ったまま、動かなくなった身体をベッドの横に預ける。
静まり返った部屋の中で、冬弥の穏やかな寝息と、自分自身の心臓が刻む音が、やけに大きく響いていた。
(……、……クソ。死ぬかと思ったわ)
極限の緊張が解けて、全身から力が抜けていく。
あいつが握りしめたカッターの刃。溢れ出した赤。
あの瞬間、冬弥が「自分の死」よりも「オレの生」を選んでくれたこと。
その重みを、オレは一生忘れないだろう。
(……もう、お前を一人で地獄に行かせたりしねえよ。たとえお前が自分を許せなくても、オレがお前を許し続けてやる。……何年かかっても、何度だってだ)
窓の外が、ほんの少しずつ、白み始めていた。
朝が来れば、またいつものように腹が減って、日常が始まる。
不格好な包帯を巻いた相棒の手を、オレはもう一度、強く、祈るように握りしめた。
「…………また明日な」
オレもゆっくりと目を閉じ、あいつの隣で、穏やかな眠りへと沈んでいった。
スクロール+完読お疲れ様です🍵
いいね多かったら続編書く
R18混ぜようかな…