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「ガンッ!!」
焼けるような痛みが、頭から全身へ走った。視界が赤く染まり、世界がぐらりと歪む。
「……おい! しっかりしろ!」
遠くから、誰かの声がする。
(……私の25年って、一体何だったんだろ)
その思いだけが、冷たく心の底へ沈んでいった。
***
二十日連続勤務。睡眠時間は、平均三時間。ブラック不動産会社で、上司の罵声と営業ノルマに追われる毎日だった。頑張れば、いつか報われる。そう信じていたはずなのに。
ようやく仕事を終え、帰宅した深夜。ガチャリ、と鍵を開けた途端、鼻を刺したのは安っぽい香水の匂いだった。玄関には、見覚えのない派手なハイヒール。
(……え?)
嫌な予感に引き寄せられるように、リビングを覗く。そこにいたのは――見知らぬ女と、三年付き合って同棲していた彼氏。最悪の光景だった。
「……お前が仕事ばっかりで、全然相手してくれないからだろ」
気まずそうに視線を逸らしながら、彼はそう言った。謝罪の言葉は、一つもない。ただの責任転嫁の言い訳だった。不思議と、そこまで怒りは湧かなかった。たぶん、疲れすぎていたのだと思う。
何も言わずに扉を閉めた。行くあてもなく、気がつけば足は職場へ向かっていた。
(……終わってるな、私)
それでも、ここしか居場所がなかった。
「……とりあえず、仕事しよ」
そう言い聞かせて、階段を上る。まだ確認していない図面も、処理していない契約書も山ほど残っている。その途中で、足を踏み外した。
「あ――」
身体がふわりと宙に浮く。やばい、と思った時にはもう遅かった。
「危ないっ――!」
視界の端で、誰かの手がこちらに伸びてくる。けれど、その指先はわずかに届かない。
そして、今。踊り場に倒れたまま、意識が急速に遠のいていく。光が遠ざかり、音が消える。それが、人生最後の一幕だった。
***
「ちょっと、これどういうことよ!?」
次に目を開けたとき、私は大理石の洗面台の前に立っていた。場所は、きらびやかな化粧室。鏡の中にいたのは――私であって、私ではない女だった。
艶やかに波打つダークブラウンの髪。人を惑わすような、蠱惑的な紫の瞳。そして、ドレスの胸元の装飾が悲鳴を上げそうなほど、非現実的なまでに華やかな曲線美。
「……誰よ、このSS級美女は」
思わず、自分の頬をつねった。
「……痛っ」
夢じゃない。
「……バイオレッタ・ウィステリア……?」
名前が、自然と口からこぼれた。この顔。この名前。この世界観。間違いない。前世で寝る間も惜しんでやり込んだ乙女ゲーム『デス・ラバーズ』――通称『無理ゲー』の世界だ。
そして私は、その中でも最悪の役どころを引き当てていた。
「……悪役令嬢なんて、嘘でしょ!?」
原作のバイオレッタは、第二王子レオンに惹かれていた。
それなのに、家が決めた婚約者は、戦争の英雄――“野獣公爵”アレク・ベルシュタイン。彼を野蛮だと軽蔑していた。
そんな彼女が妬んだのは、レオンだけでなくアレクの心まで動かしてしまうヒロイン・フローラ。
嫌がらせを繰り返し、最後には毒殺未遂まで起こす。その罪を魔法学院の卒業パーティーで暴かれ、裁判の末、処刑。
(前世で階段から落ちて死んだばかりなのに、また人生終了コースなんて冗談じゃないわ!)
ふと洗面台に視線を落とす。そこには、見覚えのある羽飾りの仮面が置かれていた。嫌な予感が、背筋を駆け抜ける。
(……待って。もしかして今日って、フローラのドレスにワインをぶちまけて破滅ルートへ突入する、運命の日!?)
「はあ……最悪!」
でも、まだ間に合う。前世、仕事で擦り切れた心を何度も救ってくれたのは、画面の中で健気に笑うヒロイン・フローラだった。
彼女は、私の不動の最推しだ。だからこそ、第二王子レオンと結ばれる王道ハッピーエンドを掴んでほしい。
けれど――このゲームが『無理ゲー』と呼ばれる最大の理由が、そこにある。選択肢を一つでも間違えれば、野獣公爵のヤバすぎる執着フラグが立つ。
そうなれば彼はフローラを強引に囲い込み、レオンとのハッピーエンドは消滅。そして私は、悪役令嬢として処刑エンド一直線。つまり、私と推しの未来がまとめて詰む。
(絶対に、そんな絶望ルートは阻止してやるわ!)
アレク。あんたは本来、フローラとレオンが結ばれるための当て馬なのよ。処刑フラグも、最推しの幸せを脅かすバッドエンドも――。
ゲームガチ勢の知識をフル活用して、全力で叩き折ってやるわ!
今、私が生き残るためにやるべきことは三つ。
一、ヒロインのフローラに絶対に嫌がらせをしない。(するわけないでしょ!)
二、今夜、アレクとフローラを出会わせない。
三、何が何でもアレクと婚約破棄して、処刑エンドを回避する!
「よし、作戦開始よ」
化粧室を出た私は、ドレスの裾を翻してパーティー会場へ向かった。
シャンデリアの下、着飾った貴族たちが談笑している。会場全体を見回してみたけれど、今のところアレクやフローラらしき人物の姿は見当たらない。
私は通りかかった給仕の手から、赤ワインのグラスを受け取った。そして、そのまま一気に喉へ流し込む。
(……まじでやってらんないわよ! シラフでフラグ管理なんかできるかっての!)
アルコールが、じわじわと恐怖心を麻痺させていく。その時だった。
「……飲み過ぎだ」
低く、落ち着いた声。
「はあっ……?」
(誰よ。うっさいわね、ほっといてよ)
振り返ると、相手が誰なのかすぐにわかった。そこに立っていたのは――夜の闇そのものを纏ったような男だった。
全身黒ずくめの軍服姿。見上げるほどの体躯は、ただそこにいるだけで周囲を圧倒している。野獣公爵、アレク・ベルシュタイン。
「戦場の狂犬よ……」
「目を合わせたら殺されそうだわ……」
周囲の令嬢たちが、怯えたようにひそひそと囁き合う。
(てか、これ仮面舞踏会よね? なんで軍服なの? これじゃバレバレじゃない!)
仮面から覗く鋭い視線が、まっすぐに私を射抜いていた。
(……目つき怖すぎなんですけど!?)
正直、今すぐ逃げ出したい。けれど、今夜アレクとフローラが出会ってしまったら、その瞬間に処刑へのカウントダウンが始まる。
とはいえ、私に戦場の英雄を止める腕力なんてない。
殴り倒して縄でぐるぐる巻きにして、今夜だけじっとさせるなんて100パーセント不可能。正攻法が無理なら、裏の手を使うしかない。
そこまで考えた時――。赤ワインにどっぷり溶けた脳みそが、とんでもない答えを弾き出した。
(……そうよ。倒せないなら、落とせばいいのよ!)
ふと、会場の壁に配置された大きな鏡が目に留まる。そこには、バイオレッタの整った横顔と、誰もが目を奪われる極上ボディが映っていた。
それによくよく考えれば、アレクはレオンに次ぐイケメン攻略対象だ。今は仮面で分かりにくいけれど、顔だけなら文句のつけようがない。前世で私を裏切った浮気クソ野郎の元カレと比べたら、天と地ほどの差がある。
(処刑回避のため。最推しのハピエンのため。しかも相手は超絶イケメン……)
(……一夜なら、なし寄りの……いや、大アリじゃない!?)
この国の貴族社会は、女性の慎みを重んじる。結婚前に夜を過ごすなど、たとえ婚約者同士であってもご法度。自分から婚約者を誘惑するような女など、厳格な公爵家には相応しくない。つまり、婚約破棄できるはず。
社交界からどれだけ白い目で見られようが、処刑されるよりは100億倍マシである。
一瞬だけ、正気が戻りかけた。
(……いや、冷静に考えたら最低の作戦では?)
でも、死んだら元も子もない。それに推しの幸せあってこその、我が人生よ!
「ふうー……」
大きく息を吐き、覚悟を決める。そして――まっすぐに彼へ歩み寄った。
普通の令嬢なら、彼の放つ殺気で足がすくんで一歩も動けないだろう。
けれど今の私は、死にたてホヤホヤの転生直後。ワインを一気飲み済み。
しかも、最推しの未来がこの両肩に懸かっている。正気でいられるはずがなかった。
アレクの目の前まで進み出る。至近距離から顔を見上げ、命知らずにもほどがあるセリフを盛大にぶちかました。
「なんて大きなテディベアちゃんなのかしら!」
「――――っっ!?」
琥珀色の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「な……っ!」
《……テ、テディベア……!? この俺のことが……テディベアだと……!?》