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優しそうな垂れた目に対して、意志の強そうな眉が不調和な魅力を醸し出している。何となく義母に似ているとユカリは思った。華奢な体と対比的に豊かな鳶色の捻じれた髪を両の肩にかけていた。黄昏の残滓を残す夜空のような紺の長衣をゆったりと着ているが、袖口や裾を革の留め具できっちりと押さえつけている。これといって装飾品は身につけていないが、若葉色に染め上げられた木綿の大きな鞄に群青色の石飾りがついている。鞄の肩ひもを両手で握り、親し気な微笑みを浮かべていた。
「はい。えっと」とどぎまぎしながらユカリは答えた。「初めまして、です」
グリュエーが耳元で茶化す。「青銅像じゃないから上手く喋れないんだね。頑張って」
「私、格別に清らかな娘ね。はい、よろしく。はい、握手」とネドマリアは挨拶し、半ば無理やりユカリは握手させられる。「良いの良いの、座ってて。私も座る、隣にね。お邪魔します。貴女の名前は? 聞いてもいい? たぶんだけど迷子でしょ? 大人っぽいけど子供、だよね?」と言ってネドマリアはユカリを上から下までつぶさに観察した。
気圧されながらもユカリは答える。「ユカリと申します。ネドマリアさん。はい。迷子です。子供です」と言い切ってからユカリはむず痒い恥ずかしさがこみ上げた。
「ユカリ? 変わってるけど素敵なお名前ね。この街は初めて? そうじゃないかと思ったんだけど」
ユカリは照れ臭くなり、言い訳でもするように、「ありがとうございます。あの、こんなに大きな街に来るのは初めてで、慣れてなくて」と言って余計に恥ずかしくなった。
ネドマリアはその溌剌とした物言いと裏腹に上品な笑みを浮かべる。
「関係ないって、大きさなんて。でも初心者にはそうね。ちょっと大変だよね。この街はほんのちょっとだけ特殊だから。時には、そう、竜や巨人まで飲み込んでしまう、なんて冗談が飛び交うくらいだもの」
物騒なたとえ話にユカリは少しぎこちない笑みを浮かべる。
「あの、はい。呪いですよね。数多の魔法使いたちがかけてきたっていう呪いが蓄積しているとか」
「ああ、それは知ってたんだ」と言ってネドマリアは何か宝物でも見つけたかのようにユカリの瞳を覗き込む。「それはそうよね。それを知らない人間なんて、この街にはまずいない。つまり、この街に迷い込む人間なんて、そうはいない。ユカリ、良かったら案内しようか。どこかに行きたかったんだよね?」
「ありがとうございます」と言ってから迷う。自分はどこへ行くべきなのか。「えっと、そうですね。どこか、というか。はい、まずは迷わないようにしたいんですけど」
「それだけ聞けば十二分だよ。それが一番大事なことだからね、この街では。最初の境界がそれなんだよね、初心者とそれ以外を区切る、ね。迷わないようにならないと、上手く迷うこともできないってものだから。さて、ずばり。笑いを絶やさないことね」
ネドマリアは両の人差し指で自分の顔を指し示す。そこには控えめだが輝かしい微笑みがある。
確かにパディアもそのようなことを言っていた、とユカリは思い出す。
「笑い。それってどういう……」と言いながらもユカリはつられて、少し引きつったような微笑みを浮かべた。
ネドマリアは勢いよく長椅子から立ち上がり、にっこりと笑みを浮かべて応える。「うん。そうだね。とりあえずついてきて、散策しながら教えてあげよう」そう言ってネドマリアは歩いて行ってしまおうとした。
「待って、あの、ネドマリアさん」とユカリはネドマリアを呼び止める。「その、えっと、どうして良くしてくれるんですか?」
少しばかり本音をごまかして言う。よく知らない人間と親しくするのは簡単なことではない。親し気な人ほど身構えてしまうものだ。要するにユカリはまだネドマリアを信頼していなかった。そうでなくても大きな都市ほど危険があるという話は、今までの短い人生の中でも何度か聞いたものだ。話には聞いていたものだ。
ネドマリアは立ち止まり、紺色の長衣を翻してくるりと回り、ユカリと向き直る。「まあ、何というか……」ネドマリアは見えない蝶を目で追うように少し考え、微笑む。「趣味と実益を兼ねて、かな。まあ、安心してよ。人通りの少ないところに連れ込んだりしないからさ。さあ、行こう。この街の名物、奢っちゃうよ」
多少の疑念を抱きながらもユカリは歩いていくネドマリアを追いかける。
「名物? 美味しいものですか? それともやっぱり不思議なものですか?」
「美味しい上に不思議なものだよ。あと楽しい、もあるね。はまっちゃうかも」
ネドマリアと共に一見奇妙なところのない広い街路を行く。しかしネドマリアはユカリに対して奇妙な指示を出してきて、それを忠実に守る必要があった。この敷石は踏んではいけない。この境界は左足を先に超えて。はい、ここで一回転。はい、やり直し。
周りを歩くワーズメーズの市民たちの中にそういう風に歩いている者はいない。人々は行き先にさえ注意を払うことはなく、時に前も見ずに考え事をしながら、時に誰かと夢中で談笑しながら無目的的に歩いている、ようにユカリには見える。
二人はやがて、多くの軒を連ねる歩廊式の市場にやってきた。どちらかといえば、結果的に市場を形成した商店や工房の群れという様相だ。建物が建物に寄りかかり、隙間に屋台が住み着いている。商品は多様だが、どれもこの街で生まれたものだ。古の草原に吹く風のように馨しい書籍。ある呪われた島に潜む族の言葉を話す絨毯。神に見初められし舞い手銀の足のように踊り狂う焼き飯。
不思議なものだけではない。繊細な模様が刺繍された長靴が陳列され、純粋な硝子細工や冴え冴えしい貴金属が店先に飾られ、指物師の優美な職人芸が披露される。薔薇や柑橘系の馨しい石鹸や甘ったるい煙草が遠い異国から漂う。
ネドマリアに案内された店の看板には複雑で壮麗な、多種多様の果実の絵が描いてある。つまり果物屋だ。他の店に比べると立派な店構えで、その場で食べられるように椅子や机がしつらえてある。しかし商品台に山と置かれた色とりどりの果物は、どれ一つとしてユカリが見たことのないものだった。桃も林檎も葡萄もない。
紫の果実はあるが、幾重もの皮に包まれている。他にも黄色の王冠みたいな果実や、青く硬質な輝きの果実。赤い布のような果実に緑の綿にしか見えない果実。それらの果実が色ごとに仕分けされて山積みになっている。芳醇な香りは混ざり合い、店の周囲にまで広がっている。
幾人かの若者が果物を食べながら幸せそうに談笑している。ユカリにとってはとても不思議な果物だが、この街の人々にとっては慣れたものらしい。
「どれでも好きなやつ選んでいいよ。全部美味しいからね」とネドマリアは言った。
「えっと、どうしよう。どれが、どういう味なんですか? そもそもどういう名前の果物なんですか? そもそも果物なんですか?」と店主の、壮年でふくよかな女性に尋ねる。店主は快く一つ一つの果物の解説を始めようとした。
しかしネドマリアがすかさず口を挟んだ。「駄目駄目。詳しく説明しちゃ駄目だよ、おばさん。それにユカリ、こういうのは自分で悩んで迷って決めてこそ。心配しなくてもどれも美味しいんだからさ」
そう言われても選ぶための判断材料が見た目だけなので、ユカリは大いに悩んだ。ネドマリア自身もどれにするか迷っていた。
「紫かな。いい香り」とグリュエーは言った。
正直なところ全て食べたいとユカリは思ったが口には出さない。お金はあるが不躾なことだ。悩みに悩んで、最終的には直感で緑の綿の果実を買ってもらう。
ネドマリアは椅子には座らず、そのまま店を出たので、ユカリも歩きながら食べた。
緑の綿の果実はめくるめくような不思議な味だった。綿はこの果物の皮のようで、食べることが出来た。中にあった果肉の弾力は自分に歯が生えていることに喜びを感じさせ、迸るような果汁の甘味が頭の奥にまで浸透した。さらにはその豊かな香りにまで虜になり、吸い込んだ空気を吐き出すことさえ惜しく感じさせる。また果肉を噛んだ時と舐めた時では感じる味が違うものだから、一体どのように食べるのが最も美味しいのか試行錯誤を繰り返すことになった。噛むたびに味わうたびに飲み込むたびに新たな喜びが胸の裡から湧き上がってくる。
実のところこの不思議な緑の綿の果実の正体は林檎だった。大地と風に生育を任されたものではなく、人の魔法でもって栽培されたものだ。妖精を追い出した湿地に植えた林檎の樹を、夏の雷雨の水だけで栽培し、冬の内に捉えて置いた北風をこき使って樹に吹かせ続けることでこの果実が生る。
「ユカリは何で綿林檎にしたの?」とネドマリアは青い果実に噛みつきながら言った。
「林檎!? 綿林檎、なるほど。そうですね。綺麗な緑で、とても甘い香りがして、美味しそうだな、と。でも何が決め手だったかというと分からないです。直感ですね」
ネドマリアの買った青い果実も一口貰う。爽やかな酸味の心地よい味だった。
「果汁が垂れてるよ」と言ってネドマリアはユカリの口の端を袖で拭ってしまう。「少しは緊張もほぐれたみたいだね」
「すみません」ユカリは口の中に入っていた綿林檎を飲み込んで答える。「緊張、ですか? そうですね。見知らぬ人とこうやって……あ、すみません」
「違う違う。私が話しかける前、とんでもなく思いつめた顔してたよ。それで独り言を話していたものだから私心配しちゃってね。子供は笑顔が一番」
ユカリは思い返す。そんなにも思いつめていただろうか、と。噴水の前でグリュエーと話していた時のことだ。ユーアが見つからなくて、どうしようか、と悩んでいた時のことだ。ネドマリアはユーアを初めて見かけた時の自分と同じようなことを考えてくれたのだ。
「すみません。ありがとうございます。何だか心許ない気持ちでした。どこかへ流れて行ってしまいそうな」
「分かるよお、分かる。一筋縄ではいかないんだよ、迷うっていうのはね。自分はどこに行けばいいのか、自分はどこにいるのか。とにかく大事なのはさ、くつろぐような気持ちだからさ。そうすると自然に笑うことが出来るからね」
ユカリは気まずそうに尋ねる。
「あの、そもそもその笑いっていうのは?」
一体笑うことがどう作用するのかユカリは分からなかったし、知りたかった。
「あ」と言ってネドマリアはしまったという顔をする。「まだ言ってなかったね。えっと、この街にありとあらゆる迷いの呪いがかかっていることは知ってるね?」
ユカリは頷く。もう何度も聞いた。
「逆に決して迷わずに済む魔法もこの街にかかっているんだよ。強力な代物でねえ、そっちは。他の迷いの呪いが束になっても敵わない。おそらく魔導書だろうとされている。魔導書、知ってる? 知ってるよね。ただし、この街が出来て以来、それはまだ発見されていない。発見されてはいないが、この街全体にその力が行使されているし、この街に住む誰もがその存在されるとされる仮説の魔導書を利用しているってわけだね」
「つまり、あるかどうか分からないけど、魔導書でもなければ説明できない魔法があるのは確かで、それをみんなで利用している、ってことですか?」
「然り。呑み込みが早いね」
それがこの街の二つの魔導書の内の一つだ。
「それが笑うことなんですね。笑うっていうのは笑顔ですか、笑い声ですか?」
「後者だよ。ただ言葉の上で笑うだけでは駄目なんだよね。アハハとかウフフとかエヘヘとか、どんな笑い方でも良いし、何なら楽し気なお喋りでもいいくらい。でも楽しい気持ちや嬉しい気持ちから発露したものでないといけない」
「つまり笑い声が呪文ということですか? そして表情は関係ない。ただし笑うに相応しい喜びの感情を伴っていなくてはいけない」
「その通り。別にぶすっとした表情でも構わない。心が笑っていればね」
「なるほど」と言ってユカリはまだ残っている綿林檎を見下ろす。「とても美味しいですし、とても嬉しかったですけど、こういう風に人為的に喜びを引き起こしても良いんですね」
「うん。楽しい気持ちなんて油断するといつの間にか消えてたりするからね。その為にこの街でよく使われる手段の一つが食事なんだよ。あとは冗談を言い合ったりね」
「なるほど。あれ? でも、じゃあ果物屋さんに向かっていた時のあの色々な指示は何ですか?」
この橋を渡るときは背筋を伸ばして、とか。この舗装路では人と目を合わせてはいけない、とか。てっきりそれこそが呪いを回避する手段なのかとユカリは思っていた。
「ああ、あれは迷いの呪いを避けて歩いていたんだよ、出来る限り」
ユカリの思っていた通りだったが、今となっては疑問にしかならず、「え?」とユカリは首をかしげる。「でも笑うことで、笑うだけで迷わない魔法が行使されて、迷いの呪いを除けることができるんですよね?」
「そうだよ。でもさ」と言ってネドマリアはユカリの手を掴み走り出す、心底楽しそうに笑いながら。
風景が一息にはるか後方へと飛んで行き、気が付くと二人が出会った広場に戻っていた。一瞬のことだ。明らかに行った時よりも短い道のりで帰ってきた。
「これがこの街のどこかにあるとされる迷わずの魔法の魔導書の力。つまらないと思わない? 不思議な最短距離で目的地にたどり着いてしまうんだよ、おそらくこの魔法は、街にかけられた迷いの呪いさえ利用するんだね。散策も何もないじゃない」
「これはこれで面白いと思いますけど。そういえば、散策でしたね」とユカリは思い出す。広場を出る前にそのようなことをネドマリアが言っていた。「目的地にすぐにたどりついても仕方ないわけですか」
ネドマリアは微笑みと共に答える。「そういうこと。歩くことに意味がある。迷うことに意味を見出す。目的地と現在地の間の道には沢山の面白いものや楽しいものがあるんだから。蔑ろにはしたくないんだよ、それらとの出会いを。さあ、次の段階へ進もうか」
「次の段階? 他にも何かあるんですか?」
ネドマリアは秘密めいた目配せをして答える。「だって、いつでも美味しい魔法の果実があるわけじゃないでしょ? 勘所を教えてあげるよ、楽しい気持ちを持続させる、ね」