テラーノベル
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真冬の昼下がり、黒煙が町のあちこちから立ち昇っている。キールは軽機関銃を手にしたまま、数十メートル先の曲がり角に停車している乗用車を震えながら見つめていた。
車の運転席の窓が下へスライドして開き、30代ぐらいのインテリ風の男が引きつった顔で何か叫んでいる。助手席に座っている同じ年頃の女は両手で顔を覆って怯えていた。
キールがためらいながら足を前に踏み出し、それに気づいた車の中の男がさらに声を張り上げた。
ウクライナ語を解さないキールには男が何と言っているのかは分からなかった。だが服装と車の型から考えて軍人とは思えない。自分は民間人だ、撃つなと言っているのだろうと推測は出来た。
キールが銃口を下げようとすると、右足すれすれの地面に自動小銃の弾丸が1発背後から飛んで来た。キールが上半身をねじって後ろを見ると、白系ロシア人の上官がタバコをくわえたまま自動小銃の銃口をキールの背中に向けているのが見えた。
「何をぐずぐずしている? ツングースの猿は引き金も満足に引けんのか?」
上官は口汚いロシア語で急かす。キールは顔を歪めて答えた。
「隊長殿、あれは民間人だと思います。武器も持っていないようで……」
隊長は大声でキールの言葉を遮った。
「我々の部隊がここにいる事を知られてはならんのだ。それともお前が先に行くか、墓場へ?」
隊長がさらに自動小銃を1発撃ち、キールの体を弾丸がかすめる。キールは半狂乱になって体を前に向け、ウクライナ人のカップルの車に銃口を向けて軽機関銃の引き金を絞った。
弾丸の奔流が車体を貫いた。車体の左側のドアと窓に無数の穴が開き、中の男と女が絶叫を上げてシートに倒れ伏すのが見えた。
隊長は咥えたばこのまま車に近づき、前と後ろのドアを開け放った。前の座席には血まみれになった男女が折り重なるようにシートにもたれていた。
後部座席のドアを開けた隊長は、にやりと笑って言った。
「おや、もう一人隠れていやがったか。おい、新米、お手柄だぞ」
キールがきょとんとして穴だらけの後部座席のドアに近づくと、シートの上に仰向けに転がっている5歳ぐらいの男の子の姿が見えた。
子ども用の防寒着は穴だらけになっていて、その奥からまだ真っ赤な鮮血が床にぼたぼたと流れ落ちていた。
キールはその場に立ち尽くし、全身をガタガタと震わせた。それは寒さのせいだけではなかった。男の子の目は生きていた時と同じように開いたままで、その視線はまっすぐキールを見つめているように見えた。
言葉を失い立ちつくすキールの肩を隊長が手でポンと叩いて気軽な口調で言う。
「ようし、よくやった。ガキとは言え生き残っていたら、我々の存在を敵に知らせたかもしれん。俺が中隊長に行っておいてやろう。ここの制圧が終わったら、おまえには休暇をくれてやる」
隊長がその場を立ち去った後も、キールはその場所に立ったまま、車の後部座席の男の子の死体から目を離せずにいた。
男の子の目がまっすぐ自分を見ているように思えて、キールは泣きそうな声で叫んだ。
「違う! 知らなかったんだ! こんなつもりは……ウワアアアア!」
キールが次の瞬間に目にしたのは、暗がりの中に浮かぶ安っぽいアパートの天井から下がった蛍光灯の常夜灯だった。
布団を跳ねのけて上半身を起こしたキールはロシア語でわめき続けた。
「違う! 君を殺すつもりはなかった! 俺は、俺は……」
同じ布団に寝ていた若い女が飛び起きてキールの肩を抱く。
「キール、落ち着いて! また夢見たのね」
「優子……」
キールは我に返り、小さな子どもの様に優子と呼んだ女性に正面から抱きついた。涙を流しながら日本語で繰り返す。
「俺はやりたくなかった。隊長の命令だったんだ。無理やりやらされたんだ。俺のせいじゃない。俺のせいじゃない、俺のせいじゃ……」
優子はキールの頭を胸元に抱きしめて、赤ん坊をあやすように優しくささやく。
「分かってるよ、キールは悪くない。安心して、ここは日本よ、東京よ」
ようやく落ち着いてわめくのをやめ、荒い呼吸を繰り返していたキールがふと、窓に目をやった。そしてつぶやく。
「電車の音がする。今何時だい?」
寝巻替わりのスウェット姿の優子は枕もとのスマホの時刻表示を見て首を傾げた。
「3時過ぎだよ、夜中の。こんな時間に電車走ってるわけないけど」
優子が窓のカーテンを開け外をのぞく。遠くに高層ビル群が見える窓の外の夜空には何も見えない。
キールも優子も気づいていなかった。部屋の隅にある優子の化粧ボックスの鏡に窓の外の夜空が映っている。
夜空には何もない。だが、鏡の中の夜空には、深紅の豪華列車のような電車が映っていた。その電車は宙を飛んでいた。
11月の初旬、東京23区では朝晩はもう肌寒いと感じる頃、宮下は久々の休暇を取って、伊豆大島を訪れていた。
大島空港を出てタクシーで墓地へ向かった。まだ半袖でちょうどよく感じる島の風に吹かれながら、カットソーのシャツ、チノパンにスニーカーというラフな服装の宮下は、迷路のように小さな墓石が並んだ墓地を迷う事もなく進んで行った。
墓地のやや隅にある墓石の前でしゃがみ込み、背負っていたリュックから線香の束と小さな菊の花束を取り出し、墓前に供えた。
手を合わせて回想にふけっていると、足音が近づいて来た。
「やっぱりあなただったのね、宮下さん」
宮下が顔を上げると、60ぐらいの上品そうな婦人が穏やかな笑みを顔に浮かべて宮下を見下ろしていた。
宮下は飛び上がるように立ち上がり、深々と一礼した。
「ご無沙汰しております、斎藤さんの奥様」
斎藤と呼ばれた老婦人は墓石に方に視線を向け、うれしそうな口調で言った。
「毎年命日の頃になると、誰かがお線香とお花を供えている様子だったから、もしかしてとは思っていたけれど。もう何年も前なのに、あなたも律儀ねえ」
「申し訳ありません。のうのうと顔を出せる身ではないとは分かっていますが」
「あらあら、自分の事をそんな風に言うもんじゃないわよ。あなたの事を恨んでなんていませんよ、私は。あの人も喜んでいるでしょう。毎年毎年、最後にお世話したキャリアの方にお参りに来てもらえるんだから」
斎藤も墓石の前にしゃがんで手を合わせた。そして立ち上がり、宮下に言った。
「家に寄ってらっしゃいな。お茶ぐらいはご馳走させてちょうだい。ここから歩いてちょっとの所だから」
斎藤はそう言って宮下について来るように促し、ゆっくりと先に立って歩き始めた。
墓地のはずれから20分ほど歩いた先に、こじんまりとした一軒家があった。八畳二間の南に面した部屋に通され、斎藤が二人分のお茶と四角い菓子を乗せた盆を運んで来た。
「さあ、遠慮しないで食べてちょうだい。あなた、これ好きだったでしょ?」
様々な漢字が描かれているその四角い菓子を見て、宮下が顔をほころばせた。
「牛乳煎餅(せんべい)ですね。懐かしい」
「あの人も好物でしたものね」
菓子を一口食べてお茶を飲み、宮下はおそるおそる斎藤に訊いた。
「あの、今もこの島にお住まいなんですか?」
斎藤は湯飲みを両手で握ってこくんとうなずいた。
「あの人の退職金と保険金でこの家を買ってね、ここで残りの人生を過ごす事にしたのよ。東京本土の若い人にとっては退屈な田舎でしょうけど、私のような年寄りがのんびりと余生を過ごすには、とてもいい所だしね」
お茶を一口飲み干した斎藤が宮下に訊いた。
「宮下さんは今本庁勤めですか?」
「はい、本庁で刑事になりました。階級は警部補です」
「まあ、さすがキャリアねえ。あなたが研修でここの駐在所に来た時の、主人のはしゃぎっぷりを見せてあげたかったわ。将来のエリートさんの指導を自分が任されたと言って、子どもみたいに自慢してた」
「今でも申し訳なく思っています。そのご主人を、私が不甲斐ないばかりに、あんな最期に……」
「いえねえ、宮下さん。不謹慎な言い草に聞こえるでしょうけど。あの人はあれで幸せだったと思うわよ」
「は? それはどういう?」
「あの人の警察官としての唯一の自慢話を覚えてる? これの」
斎藤は右手の親指と人差し指を伸ばして見せた。宮下は大きくうなずいて答えた。
「はい、よく覚えています。任官以来一度も拳銃を使った事がない、それが自慢だと。地域住民との日ごろからの協力で任地の治安を守ってきたのだとおっしゃってました」
斎藤は遠くに視線を向けて懐かしそうに言った。
「手柄にも出世にも縁がない、田舎の駐在所ばかりに勤務して来た、巡査部長止まりの人生だったけど、あの人にはそれが合っていたのでしょうね。あなたがここに研修に来た次の年に、定年退職だった事はご存じだった?」
「はい、聞いてました。一度も拳銃を使う事無く警察官人生を全うできそうだと」
「あの頃のあの人は見ちゃいられなかったわよ。時々カレンダーを見つめては暗い顔でため息をついててね。仕事一筋で何の趣味もなかった人でしたからねえ。定年退官した後は腑抜けのようになってしまうんじゃないかと心配でしょうがなかった。殉職という形で警察官のまま死ねたのだから、むしろ幸せな亡くなり方だったんじゃないかと、私は思ってるのよ」
その時宮下のスマホが鳴った。宮下は斎藤に「失礼」と言って、部屋の隅へ行き通話ボタンをクリックする。公安機動捜査隊の隊長からだった。
「はい、明日朝一番で、ですか? 大丈夫だと思います。今日中に本土に戻ります」
宮下は斎藤の前に正座して頭を下げた。
「申し訳ありません。明日朝一番で職場に出頭しなければならなくなりまして。午後の便で発ちます」
「あらあら、ゆっくりしていって欲しかったけど、お仕事じゃ仕方ないわね。調布空港行きでいいのかしら?」
宮下がスマホでチケットを手配しながらうなずいた。斎藤は古めかしい黒電話の受話器を取りながら言った。
「じゃあタクシーを呼ぶわ」
すぐにタクシーが斎藤の家の前にやって来た。車に乗り込む宮下に斎藤が後ろから声をかけた。
「宮下さん、あの人の事を気に病んではだめよ。あの人の分まで、立派な刑事さんになってちょうだい」
宮下はもう一度斎藤に頭を下げ、タクシーに乗って空港に向かった。
翌朝、いつもの地味な色合いのパンツスーツにローファーの革靴といういで立ちの宮下は、隊長室に出頭した。
隊長は宮下をガラスで仕切られた小部屋へ通し、机の上のリモコンを操作した。部屋を取り囲む透明なガラスの壁がすっと色を変え、外部の視線から遮断した。
隊長は一枚の写真を、机に向かい合って座った宮下の手元に滑らせた。宮下が写真を手に取り、そこに映っている男の顔を見つめる。隊長が小声で言う。
「西新宿に潜伏しているロシア人の密入国者だ。その男をマークしろ」
「ロシア人ですか? アジア系のようですね」
「極東地域の少数民族のようだ。見た目では日本人と見分けがつかない。名前はキール・フォーキン。ロシア軍の脱走兵でもある。今この女の元に身を寄せている」
隊長がもう一枚、隠し撮りらしい写真を滑らせた。受け取った宮下が見ると、20代らしい日本人女性が映っていた。
「その女は木下優子。こちらは日本人だ。職業はキャバクラ嬢」
宮下が眉をひそめて隊長に訊いた。
「そこまで分かっているなら、何故拘束しないんですか?」
「ここからは渡研の仲間にもしゃべるな。そのキールという男はICCに告発されている」
「ICC……国際刑事裁判所ですか?」
「ウクライナ侵攻が始まった直後、首都の近郊でロシア兵による民間人の虐殺が起きた事は知っているな?」
「はい、撤退した後に多くの民間人の死体が見つかった件ですね?」
「ウクライナ政府はその虐殺に直接関わったとされるロシア兵全員をICCに告発した。キールはその手配中のロシア兵の一人だ」
「でしたら外事課の管轄では? 密入国なら入国管理局の捜査対象でもあるはずですが」
「もちろん、外事第1課が既に動いている。入管にも連絡済みだ。問題はキールがどうやって日本に密入国出来たのか、という点だ。上層部は組織的な密入国のルートがあるのではないかと危惧している。もしそうだとすれば、国際テロリストグループのネットワークが絡んでいる可能性がある」
「だから公安機動捜査隊にも協力しろ。そういう事ですか?」
「そうだ、密入国のルートなどは外事が捜査する。おまえはキールの行動を追跡しろ」
「私の役目は何です? 取り押さえる事ですか?」
「逆だ。本人たちに気づかれないように尾行して、護衛しろ」
「護衛ですか?」
「国際テロリストのネットワークに捜査が及べば、キールを口封じのために殺しにかかるかもしれん。奴を泳がせている間、キールと同棲している女の身を守れ。それが今回のおまえの任務だ」
外事1課の担当者と落ち合うのはその日の夕刻だという事だったので、宮下はスマホで行きつけの美容院の空き具合をチェックした。幸い午前中は空きがあったので、すぐに予約し、忙しさにかまけて切っていなかった髪を整える事にした。
なじみの美容師に担当してもらい、椅子に座る。女性の美容師は宮下の髪を櫛でとかしながら、ため息交じりに言った。
「相変わらず艶々(つやつや)した、いい髪質ですねえ。ねえ、お客さん、伸ばす気ありません? すごい素敵なロングヘアになると思うんですよねえ」
宮下はかすかに苦笑して答えた。
「いやほら、前にも言ったけど、あたしの仕事、ガテン系なのよ。あまり長いと仕事に差し支えあってね」
「もったいないなあ。そうですか? じゃあ、いつも通り、肩の上あたりで切り揃えて、でいいですね?」
美容院を出て、しばらく研究室に顔を出せない事を告げるために渡研へ向かった。
部屋に入ると真っすぐに渡の机に行き、数日研究室には来られないかもしれないと告げた。渡はうなずきながら言った。
「そうか、本職の方の都合じゃ仕方ないな。ま、今のところ変わった事件は起きていないから、こっちの事は気にしなくていいよ」
振り返って他のメンバーの方を見て、宮下は筒井の服装がいつもと違う事に気づいた。
いつもは色合いはそこそこ華やかではあれ、パンツスーツを着ている筒井が、その日だけは明るいベージュ色のタイトスカートのスーツを着ていた。足元はきらきら光る、ヒールが高い濃いピンク色のパンプスだった。
「あれ、筒井さん。今日はおしゃれな服装ね」
そう言われた筒井は照れ笑いしながら椅子から立ち上がって、くるりと回って見せた。
「あはは、似合ってますかねえ? 今日の午前中は、会社で就活生の説明会に出て来て。それでこの格好で。馬子にも衣裳とか言わないで下さいよう」
「そんな事言わないよ。仕事着でも女らしさは大事だもんね」
「宮下さんこそ、たまにはスカートにしたらどうです? 宮下さんスタイルいいから、タイトスカートにハイヒール絶対に似合うと思うけどなあ」
「あはは、ま、警察官っていつ何があるか分からないからね。おしゃれは当分先の話ね」
夕方5時前、宮下は外事第1課の中年の男性刑事と新宿歌舞伎町で落ち合った。路地に入り、お互いに背中を向けた状態で小声でやり取りする。
「公安機動捜査隊の宮下です。キールの尾行を交代します」
「夜明けの5時まで頼む。それまでには交代要員を行かせる。対象の顔は知っているな?」
「はい、女の方の顔も」
「そろそろ木下優子がキャバクラに出勤する。キールが送って来て、その後どこかへ寄らないか、見張ってくれ。来た、あれだ」
ネオンがまぶしく瞬き始めた通りに、キールと優子が入って来た。アウトドア仕様のジャケットにジーンズ姿のキールが、露出の多そうなドレスの上に秋物のコートを羽織った優子に寄り添うように歩いて行く。
優子がビルの中に入って行き、キールが手を振って見送った後、元の道を逆向きに歩いて行った。宮下はバッグから茶髪の長い髪のウィッグを取り出し、頭にかぶった。遠くから姿を見られても、髪形を変えてしまえば気づかれるリスクは低くなる。
そのままキールの後を追う。キールは途中でラーメン屋に立ち寄った。宮下は店を探しているふりをして、ラーメン屋の中のキールの言動に耳を澄ました。
多少たどたどしい発音ではあったが、キールは普通に日本語で注文し、不審な様子は見せなかった。
「日本語は達者なのね。どこかで習ったのか?」
宮下は近くの路地に身を潜め、キールが出て来るのを待った。30分ほどして、食事を終えたキールが店から出て来た。
キールはそのまま、のんびりした足取りで歩きながら、二人が暮らしているアパートの方へ向かって行く。宮下は100メートルほど離れた後方から、キールを尾行した。
やがてアパートに到着し、キールは二階の部屋に入って行った。宮下はその部屋のドアが見える場所に陣取り、電柱に背中をもたせかけて監視し続けた。
その夜キールは一切部屋から出ず、午前1時ごろにタクシーで優子が戻って来た。優子が部屋のドアを閉めると、もう何も動きは無かった。
めっきり冷たくなった夜風に吹かれながら、宮下はじっとアパートのドアを見つめ続けた。
午前5時少し前、外事1課の別の刑事が宮下の側へやって来た。宮下は小声で手短に報告をすると、始発電車に乗るべく、近くの駅に向かって歩き去った。
翌日、宮下が午後4時に外事1課の刑事と交代すると、朝からずっと自室から出なかったというキールと優子が連れ立ってアパートから出かけて行った。
優子は仕事が休みの日のようで、デニムのスカートにカーディガンというラフな格好。キールはややいかつい、作業着のような上着とジーンズといういで立ちだった。
宮下はスーツの上に秋物の薄手のコートを羽織って数十メートル離れた後方から後をつけた。
二人はまっすぐ繁華街へ入って行き、スーパーマーケットをいくつも回ってインスタント食品などを買い込んだ。キールが背負っている武骨な造りのリュックに品物を詰め込み、さらに笑顔で時折会話を交わしながら、のんびりと歩いて行った。
やがて買い物が終わったらしく、二人はファミリーレストランに入って行った。宮下は物陰でコートを脱ぎ、リバーシブルのそれをくるりと裏返した。
紺色のコートが裏返されてエンジ色になり、それを羽織り直して伊達眼鏡をかけ、宮下は二人に少し遅れて同じファミレスに入った。
ちょうど二人が向かい合って座っている席のすぐ横に大きな衝立があり、その向こう側の席が空いていた。宮下はその席に座り、テーブルの上のタブレットでドリンクバーの注文を入れた。
ドリンクバーに行く間に店内全体を見渡し、特に警戒すべき人物が客の中にいない事を確かめ、飲み物のカップを持って席に戻る。
キールと優子はビールのジョッキとチキンの唐揚げをはさんで、楽しそうに話していた。宮下はスマホにイヤホンを差し込んで音楽を聴いているふりをしながら、スマホの背に張り付けた小型集音マイクのスイッチを入れた。
衝立の向こうの二人の会話が、明瞭な音質でイヤホンを通して聞こえて来た。
優子の声がした。
「どう? 日本での生活もう慣れた?」
キールが流暢な日本語で答えた。発音がところどころたどたどしいが、日常会話には不自由しない様子だ。
「うん、なんとかね。ただ家に入る時に靴を脱ぐのを、まだ時々忘れそうになるよ。にぎやかだし、何でも売ってるし、夜でも安心して道を歩けるし、ほんとにいい国だね、日本は」
「それにしてもあの時はびっくりしたよ。突然電話がかかって来て、今北海道にいるって言われた時は」
「ははは、驚いたよね。でも日本で頼れるのは優子しか知らなかったし」
「けど、よく海を渡れたね。ロシアから日本まで」
「海岸の警戒任務中に軍のモーター付きのゴムボートを見つけたんだ。ほっぽり出してあったボートだから、そのまま乗って逃げた」
「何日ぐらいかかったの? 日本に着くまで」
「あはは、たった1時間足らずだったよ。クナシルから北海道のシベツという町まで、20キロぐらいしか離れてないんだ」
「クナシルってどこ?」
キールは優子のスマホで地図アプリを表示してもらい、画面を指でスクロールした。
「これね。この島の南端からボートで出て、こっちに来た」
「ええと、これクナシリって読むのかな、日本語だと。ああ、なんか聞いた事ある。北方領土とかいう島だ。へえ、ロシアと日本ってこんなに近かったんだ」
「前にここを泳いで日本に逃げた奴いる。そう聞いた事あるよ」
「泳いで? マジ?」
二人の会話を聞きながら、宮下は心の中でつぶやいた。
「今まで知らなかったという事は、木下優子は密入国のネットワークとは無関係のようね」
キールと優子の会話は続く。店内が空いているのと、ビールの酔いが回り始めたせいか、二人は屈託なく際どい事も話し始めた。キールが上機嫌で言った。
「何度来ても日本はいい所だ。あのお祭り、ええと、何て言ったっけ。アニメとマンガのバザールみたいなあれ」
「コミケでしょ? もう3年前だね、あそこで知り合ったの。今でも日本のアニメ見てる?」
「いや、今のロシアでは日本のテレビ番組は放送禁止扱いになってる。懐かしいな。コミケを見るために4回日本に来て、そのうち3回は優子と一緒に見て回った」
「じゃあこれからは日本でアニメ見放題だよ。あ、だったらビデオデッキ買っとくか」
「僕も働くよ。いつまでも優子にだけ働いてもらうわけにはいかない」
「でもパスポートもビザも無いんでしょ? どうやって仕事見つけるの?」
「田舎のロシア人、特に僕みたいなアジア系の少数民族は悪知恵が働くんだよ。そうしないとロシアでは生きていけないから。どこの国にも、裏のルートはある」
「軍を脱走して来たんなら見つかったら危ないんじゃない?」
「うん、だから表のロシア人には頼れない」
「無理しなくていいよ。当分はあたしが稼げるしさ」
「いつか結婚する相手に、全部押し付けられない。ロシアの男だからね、僕も」
「うん、ふふふ、そう?」
優子のうれしそうな声を聞きながら、宮下は腑に落ちた様子で心の中でつぶやいた。
「なるほど、この二人、そういう関係だったか」
キールと優子はビールを飲み終えてパスタで腹ごしらえをし、店を出て行った。宮下も遅れて店を出て、二人を見失わないように後を追った。
二人は肩を寄せ合って歩き、原宿の路地裏へ入って行った。いかにも古ぼけた外観の雑居ビルの入り口わきに地下へ下りる階段があり、そこを降りて行く。
宮下は辺りの様子をスマホのカメラで撮影し、GPSの位置情報を記録して、自分もそっとコンクリートがむき出しの階段を降りて行った。
地下には10坪ほどのこじんまりとした空間があり、その3分の2ほどを占める薄いベニヤ板で囲まれた店舗のような物があった。
黒い垂れ幕で仕切られただけの入り口から、キールと優子が中に入って行くのが見えた。宮下が入り口を外からのぞくと、「占い」と手書きで書かれた札がぶら下がっていた。
宮下は入り口の脇に待合用のベンチがある事に気づき、コートをまた裏返して紺色に変え、二人が出て来た時に視界に入らない位置に腰かけて待った。
キールと優子が奥にもう一枚さがっている黒い垂れ幕をくぐると、奥に机があり、真っ黒なフード付きの外套に身をくるんだ老婆がいた。
手の込んだ装飾の、しかしなんとも悪趣味な形の机の上には大きな水晶玉と、タロットカードなどの占いの道具が並んでいる。目深にフードを降ろしているせいで、老婆の顔は口元しか見えない。まるで西洋のお伽噺の出て来る魔女のような恰好だった。
優子が不安そうにキールに訊いた。
「ねえ、ほんとにここ? なんか気味悪い」
キールが優子の肩をやさしく叩きながら答えた。
「心配いらない。ロシアでも同じようなとこで占ってもらった。だから、日本に来ることが出来たんだ」
老婆が軽い笑いを含んだ声で優子に言った。
「気味は悪いだろうが、よく当たる占いだよ、お嬢さん」
優子は口を手で覆って身をすくませた。
「あ、聞こえてた? あはは、ごめん、おねえさん」
「気にしちゃいないよ。さあ、そこにお座りな。占ってあげよう」
占い師の机の前に二つパイプ椅子があり、二人は老婆と向かい合う格好で腰をかけた。老婆が大げさな動きで水晶玉の上で手を細かく動かしながら訊いた。
「さて、何を占って欲しいのかね?」
キールが少しためらった後、意を決したように言った。
「この子とずっとここで幸せに暮らしたい。どうやったらそれが出来るか、それ、教えて欲しい」
「ほほほ、若いってのはいいねえ。いいとも、では、おまえさん、この水晶玉をじっと見つめなさい。精神を集中するんだ」
キールがじっと水晶玉を見つめている間、占い師の老婆はジャラジャラと音を立てて様々な色の小さなねじ曲がった棒を机の上でかき回した。
やがて老婆はキールに仰々しい口調で告げた。
「踏切へ行きなさい」
「踏切?」
キールの代わりに優子が戸惑った声で訊き返した。老婆はやや声のトーンを落として告げた。
「夜中の2時頃がいいだろう。近くに電車の踏切があったら、そこへ行ってみるといい。あんたたちの将来に関わるヒントが見つかるだろう」
キールと優子は首を傾げながらも、占い料二人分で5千円を老婆に払って、椅子から立ち上がった。
一枚目の垂れ幕を抜けた所で、キールが小さくうめき声を上げた。
「ボージェ・モイ(なんだこりゃ)! 蜘蛛の巣か? 髪の毛に引っかかった」
キールの頭頂付近に白く細い糸が絡みついていた。ちょうど目の前に、全身が映る高さの姿見の鏡があった。
キールは身をかがめて鏡をのぞき込み、頭の上を手で払った。優子も横に並んで自分の姿を確かめた。
「あたしには付いてないみたい。キール、大丈夫、全部取れてるみたい」
そして二人は一緒に鏡に背を向けて、入り口の垂れ幕をくぐった。
鏡の中から優子の姿だけが消えた。キールが立ち去った後の鏡面の中に、彼の姿がそのまま残っていた。ぴたりと静止したままの、キールの立ち姿が鏡の中で消えずに、映り続けていた。
キールと優子が垂れ幕から外へ出て来たので、宮下はとっさに背を向け、スマホをいじっているふりをした。
二人は優子のスマホの画面を一緒に見ながら何かを小声で話していた。不意に宮下の肩を誰かが後ろから叩いた。ビクッとして振り返った宮下の視界に、あの占い師の老婆が見えた。
「待っていたんだろう? 今夜はもう店じまいにしようと思っていたとこだ。あんたで最後にしよう、お入りなさいな」
まだすぐ近くにキールと優子がいる。二人を見失うリスクと、ここで二人に自分の存在を気づかれるリスクを量りにかけ、宮下は老婆について行く方を決断した。
二枚の垂れ幕をくぐって机の前の椅子に宮下が腰を下ろす。老婆は自分の椅子に座って水晶玉に手をかざした。
「さて、何を占って欲しいのかね?」
老婆がそう声をかけ、宮下はさすがに言葉に詰まった。
「ええと、そうですね。何にしようかな」
「ふむ」
老婆は水晶玉を見つめながら、低い声で言った。
「あんた、何か後悔を抱えているね。心の奥深くに、何か忘れる事のできない後悔の念が見える」
「え? な、何を?」
「これでもプロの占い師なのでねえ。そうだね、特に何かする必要はないだろう。ただ、近いうちに大きなチャンスがやって来るかもしれない」
「チャンス?」
「そうだよ。そのチャンスに出会ったら、迷わない事だね。これが今のあんたに出来る、最大の助言だ」
宮下は軽くため息をつき、上着の内ポケットから財布を取り出した。
「そうね、参考になったわ。料金はいくらですか?」
占い料2千5百円を老婆に渡し、宮下は急いで入り口に向かった。一枚目の垂れ幕をくぐった所で小さく悲鳴を上げた。
「きゃ、何これ? 蜘蛛の巣?」
ちょうど真横に大きな鏡があったので、髪についた白い糸を払い落とした。足早に外へ向かう。
宮下が立ち去った後、鏡の中に彼女の立ち姿が映ったまま残っていた。宮下はその事に気づかなかった。
宮下が占いスペースから出ると、キールと優子の姿はもう地下の階にはなかった。宮下は階段を駆け上がり、地上に出て辺りを見回す。
通りの遠くに見覚えのある二人連れの背中が見えた。周りの注意を引かないように小走りでその方向に向かう。
キールと優子は原宿駅に入って行った。宮下も後を追って改札をくぐった。二人は新宿行きの電車に乗り、宮下も隣の車両に駆け込んだ。
山手線の電車だったので、わずか2駅で二人は新宿駅で下車した。人ごみの陰に隠れて宮下が尾行を続けると、二人は優子の自宅へ向かって歩いているようだった。
二人がアパートに戻るのを見届けて、宮下は近くの建物の陰に潜んで部屋のドアを見張った。
真夜中を過ぎた頃、動きがあった。キールと優子がアパートから出て、人気のない夜道をどこかに向かって歩いて行く。宮下も後を追う。人気がないため、普段より距離を長めに取った。
やがて二人の行く先に私鉄の踏切が見えて来た。昼間は人でごった返しているであろう一帯は、深夜とあって他の人影は全くなかった。
二人の視界を遮る物があまり無いため、宮下は100メートル以上離れた後方からキールと優子の様子をうかがった。
突然、優子の甲高い悲鳴が暗い夜道に響いた。宮下は、キールが襲撃された可能性をとっさに判断して、もう身を隠す事もせず、優子の側へ全速力で駆け寄った。
「どうかしましたか?」
宮下は優子の方に手をかけ、大声で問いかけた。優子は両手を顔にあてて震える声で答えた。
「彼が、彼がいなくなった」
「連れ去られたとか? どういう状況でしたか?」
「それが……」
優子は踏切の縁の辺りを指差して言った。
「消えたの。姿が消えたの、突然、あっと言う間に」
宮下の耳にガタゴトという列車の走行音が聞こえて来た。宮下が腕時計を見ると時刻は午前2時前。とっくに全ての路線の終電がで終わった頃のはずで、踏切の遮断機も下りていないし、警報機も鳴っていない。
「電車が走っている? こんな時間に?」
宮下が優子の横を離れて踏切に近づいた。電車の気配は全く無いのに、音だけは聞こえて来る。
見回す宮下の視界に丸いカーブミラーが入った。その鏡面の中に、深紅の車体の列車が長く伸びているのが見えた。
宮下が反対側を見ても、そこに列車の姿はない。カーブミラーの鏡面に移っている列車の位置から考えると、その列車は夜空を飛んでいる事になる。
自分の目を疑いながら宮下が思わず半歩後ろに下がった。その瞬間、宮下の姿もまた優子の視界から、一瞬で消えた。
小さく悲鳴を上げて立ち尽くす優子は、カーブミラーの鏡面の中に移る列車には全く気づいていなかった。
これは夢だと宮下には分かっていた。分かった上でその光景に身を任せた。
宮下は明るい光沢のあるグレイのスカートスーツに身を包み、長く伸ばしたロングヘアを風になびかせ、先の細いハイヒールの靴を履いて、制服姿で自転車を押しながら歩いている斎藤巡査長のすぐ後ろを歩いていた。
「宮下さん、私には一つだけ自慢する事があるんですよ。これに関してですがね」
白髪の目立つ髪を短く刈り込んだ斎藤巡査長は、腰の拳銃のホルダーを掌でポンポンと叩いて見せた。
「いえ、武勇伝なんかじゃありませんよ。警察官になってからもう40年以上になりますが、私はただの1回もこれを撃った事がないんです。それが自慢なんておかしいですかね?」
夢の中の斎藤巡査長は笑顔で語り続ける。
「こういう田舎じゃ事件なんてそうそう起こらない事もありますがね、警察官が拳銃を使う機会が無いってのは、いい事なんですよ。地域住民と常日頃からコミュニケーションを密にしてトラブルを事前に防ぐ。それがひいては犯罪の予防、抑止につながる。何かあっても親身になって説得すれば、相手も分かってくれるはずですし、実際今までずっとそうだった」
斎藤巡査長は照れ笑いをしながら言葉を続ける。
「まあ、東京本土のような都会じゃあ、そうも言ってられないのかもしれませんがねえ。今朝連絡があったように、こんな田舎の島にテロの容疑者が逃げ込んで来た可能性なんて事が起きますからなあ。明日で研修が終わって本庁に戻ったら、がんばって下さいよ。あなたのような本庁のエリートさんを実地指導できたなんて、私にとっては一生の自慢話にできますからねえ、あははは」
少し離れた場所でパーンという音が響き渡る。警察官である宮下と斎藤巡査長は瞬時にそれが銃声である事を悟る。
「宮下さん、先に行きます」
斎藤巡査長が自転車に飛び乗り、走り出す。宮下も走って後を追う。長い髪の先が道に張り出した木の枝に引っかかって距離が開いた。
なんとか髪をほどいて後を追うが、タイトスカートにヒールの高い靴では全力疾走ができない。
やっと宮下が追い付いた時、斎藤巡査長は拳銃を持った若い男の前に立ちふさがり、右手を前にまっすぐ伸ばして説得を試みていた。
「君はまだ若いんだろう。その物騒な物を地面に置きなさい。悪いようにはならんから、さあ」
男が銃口を下に向けた。斎藤巡査長が左手を腰の拳銃ホルダーから離したのを見計らって、男は拳銃の銃口を素早く上げた。斎藤巡査長に狙いをつける。
宮下は上着の下のホルダーから拳銃を引き抜き、男に向かって銃口を向けて引き金を引く。だが、靴のヒールが地面のくぼみにはまり込んで体勢が崩れた。
宮下が放った銃弾は大きく男の体から逸れた。男が撃った銃弾が斎藤巡査長の左胸を直撃した。
後ろ向きに倒れる斎藤巡査長を横目に見ながら、宮下は体勢を立て直して2発目を発砲した。その銃弾は教科書通りに相手の右肩甲骨の辺りに命中し、男は拳銃を取り落としてその場にうずくまった。
宮下は斎藤巡査長の体に駆け寄る。心臓の上から鮮血が噴き出しており、斎藤巡査長は目を閉じてピクリとも動かない。
夢の中で宮下は叫んだ。
「あたしがもっと早く到着していれば! あたしが初弾を外さなかったら! 女らしさにこだわって、あんな格好をしていなかったら!」
「お客様。失礼いたします、お客様」
宮下の意識にそう声が聞こえて来た。目を開くと、豪華なホテルのロビーのような場所にいた。
ふかふかしたソファの感触を背に感じながら体を起こすと、目の前に鉄道の車掌とおぼしき制服を着た細身の中年の男の姿があった。
車掌は笑顔を浮かべて丁寧に宮下に向かって一礼して言った。
「お休みのところを申し訳ございません。乗車券を拝見させていただけますでしょうか?」
「乗車券?」
宮下が立ち上がって周りを見渡すと、細長い長方形の空間だった。両側の壁に沿って、豪華な装飾を施したソファが並んでいる。奥にはバーのカウンターがあった。
「これは列車の中? あの、あたしは乗車券とかは持ってないはずですけど」
スーツの上着のポケットに手を入れると、何かが指に当たった。引っ張り出してみると、トランプほどの大きさの厚い紙が出て来た。表面には「777」と数字が描いてある。
車掌はにっこり笑って手を差し出した。
「はい、それでございます。拝見してよろしいですか?」
訳が分からぬまま宮下はその紙を車掌に手渡した。車掌は腰のポケットから小さなペンチのような物を取り出した。
車掌は紙の裏を見てうなずいた。
「宮下怜子(れいこ)様、ですね。はい、ご予約はうけたまわっております」
そして車掌はそのペンチにような道具で紙の端に小さな切込みを入れた。宮下が古いドラマなどでしか見た事がない、改札ハサミという物らしかった。
車掌は丁寧な手つきで宮下に切符らしき紙を返した。宮下は頭をさすりながら訊いた。
「ここはどこなの? というより何?」
「時空特急777(トリプルセブン)の5号車、ラウンジカーでございます。そこの君、ご注文をお尋ねして」
中世のヨーロッパのメイド風の服を着た女がメニューを抱えて宮下の側へやって来た。その顔は真っ白な仮面ですっぽり覆われている。
「カクテルなどいかがですか? ワインも各種取り揃えております」
そういう車掌に宮下は弱々しく首を振る。
「あたしはお酒はダメで」
「では紅茶などいかがでしょう? 今なら特上のアールグレイが入荷しております」
「いいわ、それでお願い」
「かしこまりました」
仮面のメイドが銀色のトレイに紅茶のポットとカップを乗せて運んで来た。宮下がソファに腰を沈めると、横に小さなカートを寄せてその上に置く。カップに紅茶を注ぐと、仮面のメイドはバーカウンターの方に去って行った。
紅茶を一口呑み込んだ宮下は、車掌に訊いてみた。
「他の乗客はどこ?」
車掌はうやうやしく腰を折って答えた。
「本日のお客様は2名様だけでございます」
宮下はハッとした表情で言う。
「もう一人の乗客は……ひょっとしてキールというロシア人?」
「左様でございます。お知り合いですか?」
「まあ、ちょっとね。彼はどこにいるの?」
「キール様はさきほど展望車に行かれました。10号車の方、つまり最後尾の車両ですね」
「彼と会って話ができるかしら?」
「それはお客様同士がよろしければ。では、展望車にご案内いたしましょう」
車掌が右手を横に伸ばして宮下を促す。宮下はソファから立ち上がり、車掌の後に続いて列車の中を歩いた。
個室の並ぶ社内を抜けて最後尾の車両に入った。窓に向かって背の高いソファが並んでおり、その一つにキールが座っていた。服装は宮下が見失った時のままだ。
背もたれに体を深々ともたせかけて窓の外を見ているキールの横へ行き、宮下はさりげなく声をかけた。
「ちょっと失礼しますね。あなたはどこでこの列車に乗ったんですか?」
キールはぼんやりした顔で宮下に視線を向けて、少し微笑みながら言った。
「気がついたらここにいたんだ。どうやって乗ったのか、覚えていない」
宮下は窓の外の景色を見て、思わず息を呑んだ。三つの太いフレームに囲まれて、天井まで届く大きな窓が開いていた。
そのフレームに区切られた窓のスペースごとに、全く違った景色が見えていた。
一つのスペースには、昼間の広々とした草原の光景。別のスペースには大都会の夜景。別のスペースにはまた違う景色。キールが面白そうに言う。
「楽しい景色でしょう? いつまで見ていても飽きない」
宮下は窓ガラスの内側に手を触れて見た。
「スクリーンなの?」
宮下は車掌に詰め寄るように訊いた。
「この外はどうなっているの?」
「でしたら展望デッキに出てみられますか? あそこのドアから外へ出られます」
車掌が指差した先には、重厚そうなドアがあった。宮下がうなずくと、車掌はドアを開けてくれた。
「どうぞ、こちらでございます」
そこは車体からはみ出した細い床になっていた。金色に塗られた細いパイプのような構造が天井から斜めに前に伸びていた。宮下は最近テレビの旅番組で見た「瑞風(みずかぜ)」という西日本の豪華列車の事を思い出した。この列車の外見はその豪華寝台列車に似ていた。
列車の外の景色を見た宮下はまた息を呑んだ。空一面に四角く切り取られた様々な街や森や海沿いの景色が飛び交っている。
「これは何なの? なぜ列車が空を飛んでるのよ?」
宮下の問いに車掌はさも当然という口調で答えた。
「時空特急でございますから」
「時空特急って何?」
「その名の通り、時間と空間を超えて走る特別列車でございます。本日のお客様お二人は、特別に選ばれた乗客としてここへ招待されたのです」
その時、車両内のどこかのスピーカーから雑音交じりのアナウンスが聞こえて来た。
「乗客の皆さまにお知らせいたします。当列車はまもなく第1の停車地に到着いたします。乗務員は下車するお客様のご案内の準備にかかって下さい」
それを聞いた車掌がキールの横に立って深々と頭を下げた。
「キール様、あなた様の一時下車駅でございます。ご案内いたします」
「え? 僕はそこで降りるのかい?」
怪訝そうな声でキールがそう尋ねた。次の瞬間、辺りが真っ暗になり、車掌とキール、それに宮下はすっと下に落ちて行くような、高速エレベーターの下りの箱の中にいるような感覚に襲われた。
不意に光が戻り、3人は銀白色の壁に囲まれた広い四角い空間にいた。驚いて周りを見回す宮下とキール。
壁の一面が急に透明になり、向こう側の景色が見えた。そこは雪が積もった都市の一角だった。幹線道路の交差点で、道沿いに西洋風の石造りの古風な建物が見えた。
キールが青ざめて目を見張った。宮下は町の様子が尋常でない事に気づいた。道端の数か所に爆発の跡らしい穴が開いていて、遠くのビルの近くからは黒煙が立ち上っている。
道路わきに何かの看板が見えた。それはアルファベットではなく独特の形の文字で書かれていた。宮下は読めはしなかったが、それがスラブ民族圏で使われる、キリル文字という物だという事だけは何となく分かった。
車掌がキールに向かって腰を深く負ってお辞儀をしながら告げた。
「ではお客様、行ってらっしゃいませ」
キールの体が磁石に吸い寄せられるかのように透明な壁へ宙を滑って行った。そのままキールの体は壁をすり抜けて向こう側に入って行く。
宮下は駆け出してキールの後を追おうとしたが、目に見えない壁のような感触に阻まれて向こう側には行けなかった。
壁の向こう側は氷点下の気温の冷たい風が吹いているはずだが、空気の流れも冷気も宮下のいる側には一切伝わって来ない。
壁の向こう側の空間に放り出されたキールの服装が変わっていた。ロシア軍の戦闘服を着て、頭にはヘルメットを被り、両手には軽機関銃を抱えていた。
キールは自分の格好を見下ろしながら、驚愕の表情を隠しもできずに立ち尽くしていた。
宮下が壁の向こう側のキールに向かって叫んだ。
「キール! 気をつけて!」
だがキールには壁の向こう側の宮下の声は全く届いていないようだった。呆然と立ち尽くすキールの足元に、火花を上げて銃弾が地面をえぐった。
「何をぐずぐずしている? ツングースの猿は引き金も満足に引けんのか?」
キールの背後に、自動小銃を構えた白系ロシア人の上官が、口にタバコをくわえたまま半分笑いながら立っている。
キールが振り返ると、交差点の手前で一台の乗用車が停まっていて、運転席のガラスを下げた隙間から男がウクライナ語で何かを必死に叫んでいる。ロシア人の上官がキールに向かって怒鳴る。
「さっさと奴らを撃て」
キールがぶるぶると首を振ると、ロシア人の上官がキールの脇腹をかすめる軌道でもう一発自動小銃の弾丸を放つ。そしてキールに怒鳴る。
「それともお前が先に行くか? 墓場へ」
全身を痙攣する様に震わせながらキールが乗用車に向き直った時、辺り一帯に轟く大きな咆哮が聞こえた。
チュウバなどの低音の管楽器の怨霊を何百倍にも増幅したような声が響き渡り、キールの前方に停まっていた乗用車の天井に何かが叩きつけられた。
それは真っ赤な長い毛がびっしり生えた、太いホースの様に見えた。窓から顔を出していた車中の男の頭ががくっと下がった。
砲撃のような大きな足音が続いて響き、巨大な太い脚が乗用車を真上から踏みつぶす。複数の短い悲鳴が聞こえ、そして途切れ、車はぺしゃんこになった。
車体の上に、体高20メートルはある巨大な動物が立ちはだかり、ヴワオーという方向を上げた。
全身が長い真っ赤な毛に覆われた像のような体躯。二つの牙がU字型に長く伸び、鋭く尖った先は天を向いていた。
透明な壁の向こう側でその光景を見ていた宮下がつぶやいた。
「あれはマンモス?」
巨大な赤い獣は、くるりと背を向け、地面を揺るがしながら去って行く。キールは口元を震わせながら上官にロシア語で尋ねた。
「隊長、今の怪物は何です?」
上官は不思議そうな様子を一切見せず、さも当然の事のように答えた。
「さあな、俺も知らん。だが邪魔者を始末したところから考えると、我が軍の秘密兵器か何かだろう」
上官はキールに近づき、自動小銃の銃口をキールの胸に突き付けて言い放った。
「人を撃ち殺す経験を積ませてやろうと思ったが、先を越されたようだな。これでおまえは半人前のままだ。当分休暇はないと思え」
そう言い捨てて上官は、短くなったタバコをぷっと地面に吐き捨て、背を向けて去って行った。
呆然とした顔でその場に立ち尽くすキールの体が、再び宙を滑るようにして透明な壁のこちら側、宮下たちのいる側に戻って来た。
壁をすり抜けたキールの服装は元に戻っていた。手にしていた機関銃も消えている。
次の瞬間、辺りがまた真っ暗になり、宮下の視界も闇に閉ざされた。
闇はすぐに晴れた。宮下が目を開くと、キール、車掌とともに、あの列車のラウンジカーの床に立っていた。
「今のは何だ? 僕に何をした?」
キールが立ったまま車掌を詰問する。車掌は穏やかな微笑を顔に浮かべたまま、深々とお辞儀をして答えた。
「これで、あのウクライナ人の親子を殺したのは、お客様ではなくなりました。あの親子は、あの怪獣に踏みつぶされて死んだのです。お客様のせいではなくなったのですよ」
「何を言ってるんだ?」
車掌は相変わらず、笑みを浮かべながら丁寧な言葉づかいで言う。
「お客様、心の中の何か、こう、つかえのような物が消えた感覚はございませんか?」
キールは右の掌を左胸の上にあてて、しばらくぼんやりと宙を見つめた。
「言われてみれば、そんな気が……」
車掌は満面の笑みを顔に浮かべて語気を強めてキールに言った。
「お客様は、後悔という、心の苦しみから解放されたのでございます。おめでとうございます」
不意にキールと宮下の四方から4人の女性の声が響き渡った。
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
いつの間に現れたのか、顔全体を真っ白い仮面で覆ったメイド服姿の女たちの姿があった。車掌はキールに言う。
「お祝いの飲み物をサービスさせていただきます。何かお飲みになりたい物はございますか?」
キールは焦点の合っていない目を宙に向けて、うわ言のように言った。
「ウォッカだ。ウォッカをくれ」
4人のメイド服の女の一人が抑揚のない声で訊いた。
「銘柄は何にいたしましょう?」
「カウフマンはあるのか?」
「スーパープレミアムウォッカでございますか?」
「そうだ。一生に一度でいいから飲んでみたいと思っていた」
「もちろん、ございます。何かおつまみはいかがですか?」
「キャビアをくれ。最高のグレードのやつを」
「かしこまりました。では、あちらのカウンター席へどうぞ」
キールがふらふらとして足取りでバーのカウンターへ歩いて行く。宮下はそれを横目で見ながら、車掌に尋ねた。
「さっきのあれは何? 彼に何をしたの?」
車掌は相変わらず微笑みを浮かべたまま、一礼して答えた。
「あの方の過去が書き換わったのでございます。今後あのお客様は、過去の行いを後悔する未来から解放され、苦しむ事はなくなりました。これが時空特急777(トリプルセブン)の選ばれし乗客となられた方々だけが受けられる、特別なサービスなのでございます」
宮下が混乱した頭を抱えたままラウンジカーのソファ席に腰を下ろしていると、また車内放送のアナウンスが聞こえて来た。
「お客様におしらせします。当列車は次の停車駅に到着いたします」
今夜の乗客が、キールと自分の二人だけだと言われた事を思いだした宮下が、ソファから飛び上がるように立ち上がると、再び辺りが暗闇に包まれ、次の瞬間、宮下は車掌とともに、さっきと同じ銀白色の壁に囲まれた四角い空間にいた。
壁の一面が透明になり、向こう側の景色が見えた。それは宮下には見覚えのある景色だった。伊豆大島の市街地だった。
宮下の体が宙を横に滑って壁を通り抜けた。秋深い季節にしては暖かい風が宮下の全身を包んだ。かすかに潮の香りがする、島の空気だ。
「宮下さん、先に行きます」
それはまがう事無く、斎藤巡査長の声だった。自転車にまたがって、遠ざかって行く斎藤の背中を見つめながら宮下も走り出そうとした。
宮下は体に何か違和感を感じて自分の格好を見下ろした。さっきまでのパンツスーツではなかった。
明るいグレイのスーツ、下はタイトスカート。靴は先が細いハイヒール。あわてて頭に手をやると、髪は肩甲骨の近くまで長く伸びたロング。
宮下は必死で走った。だが、その服装では全力疾走はできない。ようやく斎藤に追いついた時、彼は拳銃を持った若い男と対峙していた。
宮下は拳銃を抜き、足元を何度も見つめた。靴のヒールがはまり込んでしまいそうな地面の穴を避けて両足を踏ん張る。
だが斎藤と相手の男が奇妙な悲鳴を上げた。二人の上から大きな影が舞い降りて来て、鋭い爪を持った足が若い男の体を踏み倒す。
それは巨大なフクロウに見えた。体高10メートルの巨体には、赤、青、緑、黄色のインコのような極彩色の羽が生えている。
そのくちばしは異様に細長く切っ先はナイフのように鋭く尖っていた。若い男を長く伸びた足で踏みつけ気絶させた怪鳥は、茫然と立ち尽くしている斎藤巡査長の左胸を、そのくちばしの先で一突きした。
斎藤の胸から血が噴き出し、その体が後ろ向きに倒れた。宮下が斎藤に駆け寄る。彼は既に絶命していた。
空のどこかから、あの車掌の声が響いて来た。
「お客様、おめでとうございます。これで、そちらの先輩警官が亡くなられたのは、お客様のせいではなくなりました。その方は、その怪鳥に殺されたのでございます」
巨大なフクロウは宮下に背を向けて悠然と歩き去ろうとしていた。宮下は手にした拳銃をその背中に向け、立て続けに引き金を絞った。
無意識に胸の奥からほとばしって来た言葉を叫びながら、宮下は拳銃を撃ち続けた。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなあああ!」
全弾を撃ち尽くし、拳銃のスライドが後ろに下がったまま止まった。そして宮下が見ている空間そのものに大きなヒビが入り、ガラスに描いた絵が崩れ落ちるように、世界が崩壊した。
ハアハアと荒い息を吐きながら、宮下が目を開けると、あの列車のラウンジカーの床に立っていた。体の上を掌で触ると、元のパンツスーツの服装に戻っていた。髪の長さも元に戻っている。
車掌が宮下の前に立ち、笑みを浮かべてはいたが、困惑した表情と口調で言った。
「いかがなさいました? 何か私どものサービスに、お気に召さない点がございましたか?」
宮下は拳銃を右手にぶら下げたまま、荒い息の下で怒りを込めて答えた。
「あたしはこんな事は望んでない! あの事件も、あたしの人生の一部なんだ。大切な一部なんだ。勝手に変えるな、消すな!」
車掌は真剣な表情になり、小さくうなずくと、手を腹の前で合わせ、腰を90度に折って深々と一礼した。
「左様でございましたか。それは誠に失礼いたしました。私どもの手配に、何か手違いがあったようですね」
「これからあたしをどうするつもり?」
「元の場所へお送りいたします。私どもの提供するサービスは、あくまでお客様がそう望まれる場合にのみ有効なのでございます。お客様の意思に反して無理強いするような事はいたしません」
また周囲が暗闇に閉ざされた。上から舞台のスポットライトのような光の柱が数本立ち、車掌と仮面のメイド服の女たちが数人、その光に包まれて宮下の前に立った。
車掌がまた穏やかな笑みを浮かべた顔で、うやうやしい口調で宮下に言った。
「この度は時空特急777(トリプルセブン)へのご乗車、誠にありがとうございました。もし今後お気持ちが変わられる事がございましたら、いつでもおいで下さい。我ら乗務員一同……」
車掌が深々とお辞儀をし、メイド服の女たちがスカートの裾を両手でつまんで持ち上げ、体を低くする。
「その日が来るのを、心よりお待ちしております」
車掌たちを浮かび上がらせている光が一斉に消え、辺りは漆黒の暗闇に包まれた。
宮下は上下左右の感覚がなくなり、意識がすうっと遠のいて行くのを感じていた。
次に宮下が意識を取り戻した時、そこは警察病院の病室だった。様子を見に来た公安機動捜査隊の隊長から、昨夜路上で倒れているところを発見され、救急車で搬送されたのだと聞かされた。
宮下は、幻覚だったかもしれないと前置きした上で、あの空飛ぶ列車の中での体験を報告した。
一部始終を聞き終わった隊長は、宮下が歩けるのを確認すると、一緒に来るように命じた。
病院の廊下を少し歩くと、別の個室の病室の前に着いた。隊長が扉を開けて中を見るように宮下に言った。
ベッドの上に半身を起こしていたのはキールだった。宮下がドアの隙間からのぞくと、キールは穏やかな顔つきで、宙を見つめているように見えた。隊長が宮下に耳打ちした。
「誰が何を話しかけても、一切反応がない。体にはどこも異常がないが、精神が何かおかしい。強いて言えば、魂が抜けている、そんな感じだ」
「おだやかそうに見えますが」
「そうだな、幸せそうと言った方がより適切かもしれん。だが、人間として生きていると言えるのかどうか」
二人がキールの病室から離れ、元の場所へ歩いて行く途中、コンビニの袋を抱えた若い女性とすれ違った。
それは優子だった。だが、彼女は宮下の顔を覚えていないようで、二人が廊下の隅に寄って道を開けてやると、ちょこんとお辞儀をしてキールの病室へ向かって行った。
宮下が隊長に尋ねた。
「彼はこれからどうなるのですか? 密入国者には変わりありませんが」
「ロシア軍からの脱走者という点を考慮して、人道的な配慮から特別に滞在許可が降りそうだという話だ。それに」
隊長は小さくなった優子の後ろ姿を小さな動作で指差して続けた。
「身元引受人になってくれそうな、日本国籍の人物もいる事だしな」
宮下は念のため健康状態の検査を受けたが特に異常はなく、その日のうちに退院した。翌朝、公安機動捜査隊の部屋へ出向くと、隊長から別室に来るよう言われた。
宮下が隊長と向かい合って座ると、隊長はリモコンを操作し、透明なガラス張りの壁の色を変えた。外からは二人の姿は見えなくなった。
「さて、昨日の話だが、いくつか問題点がある」
隊長は、宮下の拳銃とあの時彼女が着ていた上着の入ったビニール袋を机の上に置いた。
「確かに弾丸は全弾発射されていた。おまえの服からは硝煙反応も検出された。そしてこれだ」
隊長は机の上のノートパソコンの画面を宮下に向け、やや暗い画面の動画を再生して見せた。
そこには新宿区内の踏切が映っていて、まずキールが、そして宮下が、宙に呑まれるように姿を消す様子が映っていた。
隊長が珍しくためらいがちな口調で宮下に言った。
「偶然防犯カメラに写っていた。おまえの報告とはここまでは一致する。おまえたちが姿を消して、付近の路上で別々に発見されるまでの時間は、およそ10分間。そしてその間、銃の発砲音が聞こえたなどという騒ぎは全く報告されていない」
「そんな馬鹿な!」
宮下は思わず叫んだ。
「数時間、少なくとも1時間は経っていたはずです」
「おまえは俺が、キールは国際刑事裁判所の手配リストに載っている、そう言ったと報告したな? だが、奴はICCに手配などされていない」
「どういう意味ですか?」
「奴がウクライナ侵攻初期に首都攻略部隊にいた事は事実だ。だが、奴が民間人を殺害してICCに告発されたという事実は存在しない。もちろん、国際刑事警察機構にも照会済みだ」
「ハッカーが記録を書き換えたとか?」
「それは不可能だ。ICPO、ICC、さらにはウクライナ軍やウクライナ政府の記録を全て同時に書き換えるなど、どんな凄腕のハッカーでも出来るはずがない。何よりも」
隊長は人差し指で自分の頭を差して言った。
「俺の記憶を改ざんするのは、人間業では不可能のはずだ」
「あの、おっしゃっている意味がよく分かりませんが」
隊長は色が付いたガラスの壁を指差した。
「壁がこの状態になっている時に、この部屋で交わした全ての会話は録音、録画されている。それは知っているな?」
宮下がうなずき、隊長は言葉を続けた。
「その録画を確認した。もちろん第三者立ち合いの下でだ。俺はおまえに、密入国ネットワークの捜査のためにキールを見張れとは命じた。だが、奴がウクライナの首都近郊で、民間人を殺害した容疑で国際刑事裁判所に告発されたという内容の会話は交わしていない。そしてそんな事実も無い事は、さっき言った通り確認済みだ」
言葉を失い呆然と机の表面に視線を落とした宮下に、隊長は1枚の書類を差し出した。
「明日、そこで診断を受けて来い」
それは国立病院の精神科の受診表だった。宮下は手に取りながら言う。
「私が精神的に問題がある、そうお考えですか?」
隊長は腕組みをして天井を見上げながら答えた。
「正直、以前の俺ならそう判断しただろうな。だが、おまえをあの渡研という組織に出向させて以降、少し考えが変わった」
隊長は宮下に向き直って言葉を続けた。
「渡研がこれまで扱って来た案件を見て、この世には魔法としか思えない科学技術がある事を知った。それに現代の科学ではまだ説明できない現象が存在するのかもしれないともな。だが規則は規則だ。その指定の病院で精神科の診断を受けて来い。おまえの今の様子なら、明後日の午後には、問題なし、職務遂行に支障なしという診断書が出るはずだ。その翌日の朝一番で、診断書を持って俺の所に出頭しろ。その時点で正式に職務復帰を命じる」
宮下は書類をカバンに仕舞い、隊長に一礼して部屋を出た。
翌日、宮下は指定の病院へ出向き、午前中は精神科医のカウンセリングを受けた。今回の一連の出来事に関する直接の質問はなく、宮下は淡々と質問に答え続け、奇妙な模様の絵を見せられる、簡単な絵を描くなどの心理テストを受けた。
午後は脳波測定、MRA診断などの身体的な検査を受け、夕刻近くになって全てが終わり、翌日の午後3時に診断書を受け取りに来るよう指示されて、病院を後にした。
一日がかりの検査がやっと終わり、宮下は久しぶりに当てもなく、薄暗くなり始めた街中をのんびりと歩き回った。
ふと気が付いて、あの占い師の場所へ行ってみようと思い立ち、電車に飛び乗った。原宿駅で降りてスマホに記録してあったGPSの位置情報を頼りに路地に入って行った。
見覚えのある雑居ビルを見つけ、地下への階段を目指す。だが、宮下はそこで目を見張った。
ビルのメインエントランスの脇に地下へ下りる細い階段があるはずだった。だが、階段があるべき場所はコンクリートの床で覆われていた。
ちょうどビルから会社員らしき女性が出て来たので訪ねてみる。
「あの、すいません。地下への階段はどこですか?」
声をかけられた女性は、怪訝そうな顔で答えた。
「はい? このビルには地下はありませんけど」
「いつ無くなったんですか? この前来た時にはこの辺に地下への階段があったと思うんですけど」
「このビルが出来た時から地下なんてありませんよ。どこか他のビルと間違えてるんじゃないですか?」
「そ、そうですか。どうもお引止めしてすみません」
それから宮下は半分意地になって原宿の町の路地という路地をくまなく歩き回った。だが、あの占い師がいた地下スペースはどこにも見つからなかった。
それから山手線の電車に乗ったが、宮下自身は自分がどこに向かおうとしいぇいるのか、全く考えてもいなかった。
あちこち歩き回って時間が過ぎていたため、電車も夕方のラッシュを過ぎていて比較的空いていた。
ふと我に返り、電車を飛び降りると、そこは新橋駅だった。もうすっかり暗くなった空の下、また当てもなくぶらぶらと歩く。
何となく人が多い場所を避けたくなり、人気の少ない方へ歩いているうちに、高層ビルが立ち並ぶオフィス街に入り込んだ。建物の壁にある住所表示を見ると、潮留という比較的最近開発が進んだ地区だった。
もう夜の10時を過ぎているためか、オフィス街は人気がなく、まるで無人の街のように思えた。
さらにふらふらと歩い続けていると、小さな看板が路上に見えた。ビルの地下にあるバーの看板だった。
酒に弱い宮下はそのまま通り過ぎようとしたが、看板に「ノンアルコール各種取りそろえています」という一文を見つけ、入ってみる事にした。
宮下が入った時にはもう11時を回っていて、客は誰もいなかった。バーテンダー兼店主だろうか、初老の黒いベストと蝶ネクタイという格好の男性が注文を取り、宮下はカウンター席でノンアルコールのカクテルを注文した。
気分だけでも、深夜のバーでカクテルを楽しむという雰囲気を味わいながら、スマホでファッションサイトの画像をのぞいていた。
サイトの中の女性たちは、長い髪をなびかせ、様々な形のスカートとハイヒールの靴を見せていた。
宮下は思った。斎藤巡査長の殉職後、退職を考えた事もあった。もし警察官を辞めていれば、自分も今頃こんな最新流行のファッションを毎日とっかえひっかえする生活を堪能していたかもしれない。
だが、それはそれで後悔しただろうと、宮下はそうも思った。斎藤がテロリストに殺害された事がきっかけで、宮下はその後の人事異動で公安部門を希望し、今は対テロ部門所属の刑事になった。
その選択が正しかったのか、後悔はないのか? どんな職業の人間にもそういった迷いは付きまとうのだろう。おそらく一生の間。
不意にバーテンダーが声をかけて来た。
「畏れ入ります、お客様。ラストオーダーになりますが、いかがいたしましょうか?」
宮下は腕時計を見て、午前1時30分なのに気づいた。ノンアルコールカクテルを数杯飲んでいるうちに時間が過ぎていた。
宮下はメニューを一瞥して答えた。
「じゃあ、キールロワイヤルを」
それまで宮下がノンアルコールばかり注文していたため、バーテンダーは訊いた。
「シャンパンベースですので、アルコールが入りますが」
「いいの。最後に一杯ぐらい飲んで帰るわ。お酒に弱い体質がうらめしいわ」
「承知しました。まあ、世の中にはお酒で身を持ち崩す人もいますからね。物は考えようですよ。では、少々お待ちを」
縦に細長いフルートグラスに入った炭酸で泡立つカクテルを時間をたっぷりかけて少しずつ飲み終え、宮下は会計を済ませて席を立った。
バーテンダーは店の扉を開いてくれて、宮下の顔を見て言った。
「お客様、タクシーをお呼びしましょううか? お顔が赤いですよ」
宮下は手を頬にあて、体温が上がっているのを感じた。
「すぐに顔に出ちゃうのよね。でも大丈夫です」
「もう電車は全て終わっている時間ですし、もう深夜ですから冷えますよ。本当によろしいですか?」
「ええ、少し歩いていれば酔い覚ましにちょうどいいしね。近くのタクシー乗り場まで歩いて行くわ」
「そうですか。では、お気をつけて」
宮下が店の扉をくぐって地上への階段を上っていくと、バーテンダーの声がした。
「ありがとうございました。またのお越しを」
宮下が通りに出ると、もう完全に人通りは途絶えていた。まるで何かの記念碑のように、見上げるような高層ビルに囲まれた場所へ来た。
最新の高層ビルは外壁がほとんどガラス張りで、遠くの夜景の光がビルの外壁に反射して鈍くまたたいて見えた。
ふと宮下の耳に、レールの継ぎ目を車輪が通り過ぎる時の音が連続して聞こえて来た。
「電車? こんな時間に?」
宮下が視線を上げると、すぐ横の高層ビルの外壁にあの列車の深紅の車体が見えた。十両編成の長い列車の姿が、鏡のようになっているビルの外壁の表面を走っている。
宮下は振り返って反対側の空間に目を凝らした。そこには列車の姿は無く、鉄道の線路すら無い。
その深紅の車体の豪華寝台特急の姿はビルの外壁の鏡面の中を通り過ぎ、道の反対側にある別のビルの外壁のガラス窓の列にまた姿を現した。宮下の耳に、列車の警笛の音まで響いて来る。
寒いほどの夜の冷気の中で、宮下の額に汗がにじんだ。宮下は上着の外ポケットからハンカチを引っ張り出して汗をぬぐった。
ハンカチをポケットに仕舞う時、指先が何かに触れた。ポケットの中にトランプほどの大きさの紙が入っている。
それを引っ張り出すと、それは鉄道乗車券の形をしていた。片面には「777」と真っ赤な数字が描かれたいた。
ヒュッと音を立てて宮下は息を呑んだ。その時、複数の列車の警笛が一斉に聞こえて来た。
青ざめた顔の宮下が視線を上げて辺りを見渡す。鏡のようになっている周りのビルの外壁全てに、空飛ぶ列車の姿が映っていた。
深紅の車体の物だけではない。青、黄色、緑、その他さまざまな色の同じ形の空飛ぶ豪華列車が、ビルの外壁の鏡面の中を縦横無尽にすれ違い、交差し、走り回っている。
宮下は乗車券を目の前に掲げ、両手でしっかりとつかみ、そして真ん中から二つに引き裂いた。それを重ねてまた二つに引き裂き、その動作を繰り返した。
やがて乗車券は小さな紙きれの破片になり、一陣の風が吹いて来て、宮下の手から巻き上げられ宙に舞い、どこかへ吹き流されて行った。
周りのビルの壁面の鏡の中を駆け巡る列車を見回しながら、宮下はつぶやいた。
「乗るもんか。どんなに辛くて苦しい後悔でも、あたしの一部なんだ。墓場まで、いやあの世まで、背負って行ってやる。それが生き残った者の、せめてもの義務なんだ。乗るもんか!」
宮下はスーツの襟を指先で伸ばし、決然と正面を向いて歩き始めた。
ビルの外壁の鏡面の中で無数の時空特急列車が駆け巡る。その鏡面に囲まれた深夜の道を、宮下は背を伸ばし、顔を上げて歩いて行った。
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