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「ちょっと前から見てたんだけど、 具合悪いよね、その子。」
その男の声は、優しく、しかし有無を言わせぬ響きがあった。
誰だ。砂鉄は、反射的にチョモの体をギュッと抱きしめる。まるで、獲物を狙う猛獣から子を守るかのように。知らない人間に、しかもこんな夜中に、突然声をかけられるという事態に、砂鉄の体中に恐怖が走った。固唾を呑む。よく見ると、その男の背後には、一人は小柄で、もう一人は長身の男の人影があった。
島を出てから、砂鉄はまともに人間と会話をしていない。仕事先やネカフェの受付以外では、ほとんど人と関わることもなく生きてきた。そんな自分にとって、突然話しかけてきた彼らは、何を企んでいるか分からない、未知の存在だった。ましてや、派手な見た目をしている。警戒心は最大限に高まった。
(チョモを抱えたまま、ここから逃げきれるか……?)
砂鉄の頭の中には、その考えしかなかった。チョモの熱い体を抱きしめながら、逃走経路を必死に模索する。
「え、声かけるの…」
長身な方が、困惑したような声で呟くのが聞こえた。あぁ、三人結託して話しかけた訳じゃないんだな、と砂鉄は察した。普通に考えたら、東京のこんな夜中の路地裏で、見ず知らずの人間が地面にうずくまっていても、声をかける人など、そうはいないだろう。小柄な男は、少し離れたところで、ただ静かにこちらを見つめている。
声をかけてきた男が、一歩、また一歩と近づいてくる。
「急に話しかけてごめんね。ちょっと大変そうだったから話しかけたんだけど、大丈夫?」
男の声は、さらに優しくなった。彼の言葉は、まるで砂鉄の警戒心を解こうとしているかのように聞こえた。
しかし、砂鉄は、どうすればいいか分からなかった。この状況で、誰を信じればいいのか。近づいてきた男を睨む。混乱と疲労が、彼の思考を鈍らせた。
「その子、熱ありそうだよね、」
思わず腕の中のチョモの顔を見る。先ほどまで泣いていたはずが、いつの間にか泣きやんでいた。しかし、苦しそうに目を閉じていて息が荒い。状況を飲み込んではいないだろう。
自分だけで判断するしかない。
その時、派手髪の男が放った言葉は、砂鉄の予想をはるかに超えるものだった。
「体調悪いなら、病院か家、送ってくよ」
砂鉄は、思わず息を飲んだ。
その提案は、あまりにも唐突で、そしてあまりにも純粋だった。本当に自分たちを助けたいという、ただそれだけの気持ちが込められているかのようだった。
しかし、砂鉄の警戒心は、それで解けることはない。むしろ、目の前の男の、あまりに突拍子のない申し出に、さらに疑念が深まる。見知らぬ他人にここまでするなんて、普通に考えておかしい。誘拐か、何か別の目的か…。怖い。どうすれば。
「えっ…」
その時、後ろで小柄の男が、素で驚いたような声を上げた。彼の表情には、「そこまでやるのか」という戸惑いがはっきりと見て取れる。
「涼ちゃん、それはちょっと…」
長身な男も、少し遠慮気味に派手髪の男に話しかける。
「えぇ……でも……」
男は、二人の言葉に、困ったように、砂鉄たちと仲間の二人を交互に見る。
砂鉄は、彼らの視線から逃れるように、目を伏せた。
「いや、大丈夫なんで」
その声は、冷たく、まるで氷のように響いた。しかしそれは彼の精一杯の防御だった。
「えぇ!? ほんとに!?」
砂鉄の冷たい返答にもかかわらず、派手髪の男は、驚いたような声を上げた。その声は、まるで本気で心配しているように聞こえた。
「……ごめん。知らない人に話しかけられたら、怖いよね」
男は、そこで一度、口を閉じた。
もしかしたら本当に病院に連れて行ってくれるかもしれない、という期待が、ほんのわずかだけ胸をよぎった。
しかし、それ以上に、突然の親切に対する疑惑の念の方がはるかに強い。なぜ、見ず知らずの自分たちに、ここまで親切にしようとするのか。理由が分からない。何か裏があるのではないか。そんな疑念が、砂鉄の頭の中を渦巻く。
砂鉄は、もう一度腕の中のチョモの顔を見た。チョモは、砂鉄の胸に顔を埋めるようにして、目を閉じ、辛そうに肩で息をしている。
今、チョモを守れるのは自分しかいない。
砂鉄は、今後が大きく左右するであろう決断に対する、責任の重圧を感じた。
こんな正体も目的も分からない人間について行くより、ネカフェに帰った方がいい。病院には行きたかったが、ドラッグストアで薬を買えば大丈夫。ついていって何をされるか分からないことの方が怖い。信じて裏切られる方が嫌だ。
「あの、ほんとに大丈夫……」
砂鉄が、改めて彼らの申し出を断ろうと、顔を上げたその時だった。
「ごほっ! ごほっ! ゲホッ……!」
サッとその場の視線がチョモに集まる。ずっと夜の冷たい外にいて、警官から逃れるために無理に動き回ったせいだろうか。彼の体は、咳き込むたびに大きく震え、呼吸はさらに荒くなる。その咳は、さっきまでよりも、ずっと苦しそうで、見るに堪えないものだった。汗も先ほどより出ている。明らかに体調が悪化していることが分かった。
路地裏に、重い沈黙が流れる。
どうする……どうすれば……。
砂鉄の頭の中で、焦りの声がこだまする。先ほどまでの考えが白紙に戻った。目の前の三人を信用すべきなのか。それとも、このまま一人で、チョモを抱えて帰るのか。チョモの苦しそうな咳が、砂鉄の決断を急かすように響き渡っていた。
「……俺が、その子をおんぶするから」
派手髪の男は、一歩前に踏み出し、しゃがみこんで砂鉄と目線を合わせる。はっと顔を上げて男を見る。ここにきて初めてしっかりと顔を見た。その表情は、穏やかで、なんというか、こちらがやりづらくなる顔だった。
「一緒に病院まで行こう。ね?」
その言葉は、まるで魔法のように響いた。
砂鉄の耳に届いた途端、疲労とストレスで限界を迎えていた砂鉄の心が、まるで堰を切ったように崩れ落ちた。自分でも信じられないほど、この男の言葉には、不思議な説得力があった。
(この人は、大丈夫だ……)
砂鉄は、なぜかそう直感した。根拠はない。だが、彼の真っ直ぐな眼差しと、チョモを案じる優しい声が、砂鉄の中に残っていた最後の警戒心を溶かしていった。
それにもう、逃げ惑う体力も、疑い続ける気力もなかった。
「……分かりました。ありがとうございます。」
その声は、掠れていたが、はっきりとそう告げた。その言葉は、疲労困憊の末の降伏であり、同時に、最後の望みでもあった。
男は、砂鉄の返事を聞くと、ふわりと顔を綻ばせた。なぜそんな喜ぶような顔をするのか。色々と理由が分からないことは多い。しかしその笑顔は、夜の路地裏に、一筋の光が差し込んだかのようだった。
「あ! 名前、まだ言ってなかったね! 俺、藤澤涼架、涼ちゃんって呼んで!」
彼は、明るい声で自己紹介した。そして、後ろに立つ二人を指差す。
「あっちの身長低い方は元貴で、高い方は若井!」
「誰が身長低い方だよ!」
藤澤の言葉に、大森が、すぐさまツッコミを入れた。その声は、どこか楽しげだ。
「君は大丈夫? 体調悪くない?」
今度は、若井が、砂鉄の方を見て尋ねてきた。砂鉄は、自分が体調を崩していることを心配されているのだと気づき、小さく頷く。
突然、状況が目まぐるしく動き始めたことに、驚きを隠せない。ついさっきまで、警官から逃げ、チョモと喧嘩をしていたはずだ。それが今、見ず知らずの三人に囲まれ、病院へ行く手助けを申し出られている。現実感が薄い。
だが、藤澤の背中に、ゆっくりと体を預けているチョモの様子を見ると、その不安は少しだけ和らいでいった。
書き始めた当初の想像より、多くの人に見て頂いて驚いています!!それだけ真相を好きな人がたくさんいるんだなぁ、と実感しています。
原作や映画では、チョモの闇がかなりフォーカスされていましたが、砂鉄も同じくらい傷つけられた子なんですよね…
いいねやコメント、ありがとうございます!不定期更新ですが、また見に来てくれると嬉しいです!!