「おや、君はどこかで会ったことがあるかな?」
握手を終え、一条専務は私をじろりと見た。
「こちらは七瀬で、現在私の秘書をしております。以前は御社で働いていました」
社長は一条専務をまっすぐに見据えた。
「うちで働いていたのか?」
一条専務は意外そうな顔をして私を見る。すると黒木部長が小声で何か彼に囁いた。
「ははは。そうか。あの七瀬さんか」
一条専務は私を思い出したのか、ニヤニヤと笑った。
私は俯いて祈るような気持ちで目を閉じた。もし彼がここでこの前の黒木部長のように、社長や会社に迷惑をかける様な事を言われたら私は二度と立ち直れない。
すると突然桐生社長は話を切り出した。
「今丁度葉月社長と、これからの事業展開のお話をしていたところだったんです」
「そうなんです。実は桐生社長とも先ほどお話ししたんですが、コスト削減など視野に入れてどこかと共同で開発出来ないかと模索してるところなんです」
葉月社長は、先ほど社長に話していた内容を一条専務と黒木さんに話した。すると一条専務はそのビジネスに興味を示し、嬉しそうに葉月社長の肩をぽんぽんと叩いた。
「そうですか。いや、実は葉月社長の会社の技術はとても素晴らしいと社内でも話題になっていてね。丁度今そのお話をしに来たところです。どうですか、一度ゆっくりと詳細をお話しませんか?一緒に飲みながらでも」
すると何を思ったのか、桐生社長は突然ククッと低く笑った。
「葉月社長、私だったら仕事を一緒にする前に、まずはその会社の事を調べますね」
「えっ……?」
葉月社長は驚いて社長を見た。
「葉月社長の会社は、今度の国際エキスポにも参加されているクリーンなイメージのある会社だ。その会社が、横領した金でまだ未成年かも知れない若い女性と淫らな行為をしている役員や社員を抱えている会社と事業提携しているなんてわかったら大変だ。それこそ会社のイメージがガタ落ちだ。最悪国際エキスポの参加取り消しだって考えられる」
「一体何の事を言ってるんだ?」
一条専務は少し困惑気味に社長を見た。
「黒木さん、一条専務、あなた方は最近接待と称して高級クラブや風俗店で随分と好き勝手にやっていらっしゃいますね。それに大金を払っているからと随分と乱暴な事をされているとか?しかもお二人でここ最近かなりの大金をご散財だ。一体何処からそのような金を?」
「何の言いがかりだ。失礼にも程があるぞ!」
一条専務と黒木部長は顔を真っ赤にしながら社長を睨みつけた。私達の周りには一条専務の剣幕を聞きつけて、次第に人が集まってくる。社長はそんな二人をものともせず話を続けた。
「実は最近高嶺コーポレーションの取引先が、何故か請求額が合わず水増しして払わされているのではと言う噂を聞きました。しかも会社はこれだけじゃない。他にも数社ある。これは正式に御社の社長に相談と調査を依頼していると聞いたので、そのうち黒木さんとあなたの部署、それに一条専務にも調査が入るのでは?」
それを聞くと一条専務と黒木部長は真っ青になった。
「な、何だって?またそんな出まかせを……!」
「出まかせなんかじゃありません。俺の情報網を甘く見てもらっちゃ困る。桐生グループにはありとあらゆる繋がりがあちこちにある。少し調べればすぐにわかる事だ。嘘だと思うなら早速会社に帰ってみるがいい」
この話を聞いていた周りの人は、皆驚いて一条専務と黒木部長を見た。彼らはそんな周りの人を一瞥すると社長を睨みつけた。
「こんなデマをこんな所で言うとはな。桐生グループの将来も落ちたもんだな」
そう悔し紛れに言うと二人とも足早に会場を後にした。
「桐生社長、本当ですか?……何と言うか教えて頂き有難うございました」
葉月社長は社長が落とした爆弾発言に唖然としている。もちろん葉月社長だけではない。私を含め周りで聞いていた他の会社の人達もだ。
「お役に立てて良かったです。葉月社長は我が社にとって大切なお客様です。以前から高嶺コーポレーションには色々と悪い噂があったので調べていたのです」
「いやいや、流石桐生さんですね。こちらこそ今後ともよろしくお願いします」
葉月社長は社長に何度もお礼を言うと去って行った。
「じゃあ、ここでの用事も済んだ事だし俺たちも行くか」
社長はそう言うと私の手を引いた。
──えっ……? もしかしてこの為にこのレセプションに出席したの……?
私は会場を一緒に去りながら隣を歩く社長を見上げた。
本来出張には今日の昼の便で発つ予定だったのに、急遽このパーティーに参加したいからと飛行機を夜の便に変更したのだ。
わざわざ予定を変更してまで出席するなら余程大切な用事なのかと思っていたのに、もしかすると黒木部長と一条専務の事をこの場で公にする為に出席したのかもしれない。それももしかしたら私の為に……。
「よく頑張ったな」
ホテルのロビーへと向かいながら、社長は優しく私の肩を抱いた。なぜだか泣きたい気持ちになり必死に涙を堪えた。彼を好きだという気持ちがとめどなく溢れてくる。
自分の気持ちが抑えられなくなり、感謝の気持ちも込めて精一杯の笑みを浮かべた。
「社長のお陰です。ありがとうございます」
優しいダークブラウンの瞳が戸惑ったように揺れて、しばらく私を見つめた後、苦しげに目を逸らした。
「これから出張だけど、俺がいなくて寂しい?」
社長は冗談めいたように私に尋ねた。ここ最近、平日も週末もほぼ毎日一緒に過ごした。たったの十日間だが彼と会えないと思うととても寂しい。
「はい。……寂しいです」
私は思わず思っている事をそのまま口にした。
でもしばらく経っても彼は何も言わない。言い方を間違ったかと思い、焦って訂正しようとしていると、社長はいきなり私を人気のない通路に引きずり込んだ。
「蒼、ごめん……。もう我慢できないかも……」
そう言うと同時に彼は身を屈めると、ゆっくりと私の顔に近づいて唇を重ねた。
初めてのキスは様子を伺うように、彼は何度も私の唇に優しく軽く吸い付いてくる。一瞬驚いて体がこわばったものの、次第にリラックスして目を閉じ彼に身を預ける。すると社長は両手で私の顔を包み込むと長く深くキスをした。
彼の舌が私の唇の隙間から潜り込んできて、何度も角度を変えながらキスをしては私の舌を絡め取ろうと深く執拗に追いかけてくる。心臓が破裂しそうなほど早鐘をうち、酸欠にもなっているのか徐々に意識も白濁してくる。
次第に力が抜けて崩れ落ちそうになる私を社長は強く抱き寄せると、まるで永遠の別れを惜しむかのように甘く切ないキスをした。
「……すぐ帰ってくる」
唇を離した彼は感情の高ぶった掠れた声で私に囁いた。
「蒼に話したい事がある。帰ったら一度ゆっくり話をしないか?」
私は乱れた息を何とか整えながらコクコクと頷いた。
社長はこの後空港へ直行するのでホテルを出ると私を一人タクシーに乗せた。
「……気をつけて帰れよ」
「はい。……社長もお気を付けて……」
タクシーが私を乗せて走り出す。
振り返って、ホテルのエントランスでずっと佇んでいる彼を、見えなくなるまでずっと見つめ続けた。
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