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「なに心配するな。儀装結婚を餌に私を付け狙う保守派共を炙り出し、一気に内政不安を取り除く。いくら改革派と雖《いえど》もこんな身勝手は許されんからな、それと同時に私の息が掛かる事で貴様にも不用意に手出し出来なくなる。正に一石二鳥ではないか」
イスラー教に於いて男性教徒は、同教徒の女性、若しくはカルマ教やルダヤ教などの、イスラー教と共通の神を信仰する啓典《けいてん》の民であれば結婚することが許された。
アハル・アル=キターブ《啓典の民》とは、
ルダヤ教、カルマ神教、イスラー教は、同一神を信仰している宗教で、ルダヤ教では「ハウェ」カルマ神教では「カルマ神」イスラー教では「アーラ」と呼ばれている。
しかし、宗教の解釈や信仰内容には差異が生じ、カルマ教では神の子を崇める偶像崇拝に対し、ルダヤ教とイスラー教ではこれらを禁じている。そして元は同じ神を信仰するこの者達を啓典《けいてん》の民《たみ》と呼ぶようになった。
一方、イスラー教徒の女性は、同教徒の男性のみを結婚相手とする事を厳格に定められた。また、異宗教間の結婚については、イスラー教徒の信仰に影響を与える可能性がある場合は、啓典の民との婚姻でも、相手方がイスラー教に改宗する事を求められる場合もあった。
「然し閣下、聊《いささ》か強行過ぎるのではないでしょうか? 大事に成り兼ね無いかと…… 」
ガチャリと徐に義手がその決意と硬さを同時に示す……
「心配するな。騒ぎに成らねばこちらが困る。私もすっかり失念していたが、抑々、貴様の祖国は現在、カルマ神教への改宗を余儀なくされ、新たなケルト教会がその多くを占めているだろう? それならば貴様は啓典の民と言う事になるではないか。現在のケルト教会はカルマ神教の一派なのだから」
ケルト教会とは、古代ケルト地域におけるカルマ教への布教と発展を目指した教会で、エリン島《アイルランド》内に於いて独自のカルマ教文化を発展させた。
カルマ教皇庁のような中央集権的な機構が存在せず、各地の修道院や司教区を中心に、先住のケルト文化とカルマ教との共存信仰を作り上げ、西方教会と東方正教会とはまた違う聖地や聖人、奇跡などの伝承や儀式を持つ独自の宗教的発展を遂げた。
「啓典の民ならば厳しい制約や審議もなく宣誓文《シャハーダ》を居眠りしながら唱えてもイスラー教徒に改宗出来る。ククク、全く面白くなりそうだな。最悪暴動が起きるようであれば貴様には転宗して貰うだけだがな。その時には諦めて我が夫と成るが良い」
「はぁ、私の身の振り方は心配しておりませんが、其れこそ噂が走れば、アッバス朝のシア派も此処ぞとばかりに動き出すかと…… 私はそれが心配です」
アッバス朝とは、イスラー教シア派のカリフ《指導者》を中心に君主制を敷き成立した王朝であり、特に宗教的権威が大きかった。一方セルジュ朝は、トゥルコ系遊牧民族のセルジュ族が創設し伝統的な部族制度を取り入れつつ、中央集権的な王朝であった。
現在セルジュ族はアッバス朝のカリフ《指導者》に忠誠を誓い支配下には入ってはいるが、内部の政治的混乱や外部からの侵攻によりアッバス朝が弱体化。セルジュ族はこれに乗じてアッバス朝の支配からの独立を虎視眈眈《こしたんたん》と狙っていた。
「流石に我が国の内政事情に詳しいな。そうだな敵は多方面に渡る、僑軍孤進《きょうぐんこしん》だな。どこを辿ろうとも茨の道となる。然し何を今更恐れる? 貴様は全て覚悟のうえで飛び込んで来たのであろう? 敵は多い程、この血を滾《たぎ》らせてくれるものだ。」
現状、神聖カルマ帝国の脅威に始まり、セルジュ朝の国内に於ける権力争い。そしてアッバス朝からの乖離《かいり》と沈黙を貫く東方正教会…… これだけでも多過ぎる程の不安要素を抱えていた。
「参謀会議《シューラー》を行う。砦内のモスク《礼拝堂》に幹部と有識者を早急に集めよ」
女騎士は幕の向こう側に待機しているであろう部下に大きく声を投げると、直ぐ様席を立ちグランドに促した。
「さて、これからだ、行くぞ」
「魔紋《まもん》? そりゃあんたの血に息衝《いきづ》く者の事だろ? あたしが言ってるのはあんたの精神に干渉している存在さね。自覚が無いって事は、厄介な存在かもしれないね、あんたにとって危険かもしれないけど、どうする? 口寄《くちよ》せしてみるかね? 」
口寄せとは、呪術及び宗教的職能者が霊魂を招き寄せ、自分の身体に憑依させ、その思いを自分の口を通して他人に伝える事。その行為自体を【神降ろし】とも云う。
神や精霊との直接交流によって託宣、予言、治病、祭儀などを行う呪術神意を世俗の人々に伝えることを役割とした。
時代や地域により異なるが、女性は「巫《ふ》」男性の場合は「覡《げき》」「祝《はふり》」と云った。神和《かんな》ぎの意。巫女《みこ》は巫覡《ふげき》とも云う。
呪具の外法箱《げほうばこ》と呼ばれる猿の頭蓋骨を入れた箱に寄りかかり、降霊を行ったとされる。口寄せは四つ存在し、誰の言葉を伝えるか、どんな存在を降ろすのかにより変化する。
死口《しにくち》=葬儀が終わった死者に対してのもの。
仏口《ほとけくち》=死者の言葉を伝えるもの。
生口《いきくち》=生者《せいじゃ》や葬儀の終わってない死者に対してのもの。
神口《かみくち》=神霊にお伺いを立てるもの。
「精神に干渉している者? 何なんだそれは? 」
老婆は呆れた様に香料や果物の香りをつけた水煙草《ニャルグレ》を吹かすと、溜息と混ぜ一気に煙を吐いて見せた。
「それが何なのか分からないから言ってるんよ、果たして生きてる者なのか死んだ者なのかそして…… 」
「そして? 」
「神と呼ばれる者なのか…… 」
―――神だと……
(また此処でその存在が出て来るか…… )
「あんた、何か最近心当たりはないのかね? 」
―――心当たり……
「先日…… 大切な人を一人失ってしまった」
「歿《ぼつ》年月日と名前と性別と歳を言いな、それと念のため利き腕もね」
俺は求められたエマの情報を伝えると老婆は更に続けた。
「それとこれは大変危険な降神術と呼ばれる物なんよ、何があっても驚くんじゃないよ、弱さを見せれば入り込まれ肉体を奪われちまう。恐怖を感じたら駄目だからね、それとこの事は他言してはならない。いいかい、約束しとくれよ? 」
口寄せに使用される呪具や呪文は地域や宗教、伝承によって異なる。
老婆は火鉢を用意すると炭に火を入れた。炎は口寄せに必要な力を集める事が出来るとされ、火の熱によって口寄せ師自身の体が浄化されるとされていた。
部屋の五方向に神符《しんぷ》と云う神の力が宿った紙の護符を張り付ける。口寄せの場所に張り付ける事により、神や霊を引き寄せる効果があると云う。
若しもの為に、魔除けや結界の役割と成る呪水《じゅすい》と呼ばれる聖い水で老婆の周りと俺の周りを囲むと、神楽具《かぐらぐ》と呼ばれる祭りでも使用される道具を用意し、外法箱を抱え呪文を唱える。神楽具には、櫛《くし》や笏《しゃく》などもあった。降霊術の際は呪具としての役割もあったとされる。
「いいかい、何回も出来るもんじゃないからね順に一気に行くよ。この砂時計で計るんさね、あたしの頭がガクンと落ちたら砂時計を落としな。砂が落ち切る迄に何か現れたら話をするんだ、砂が落ち切っても何も出てこなかったらこの葉の付いた枝で肩を払っておくれ」
「う、上手くいくのか? 」
「上手く行くも行かないも、あんたの度胸次第さね。いいかい怖がるんじゃないよ? エマって子に逢いたいんだろ? 」
「あぁ、逢いたい。お願いだ…… 頼む…… 」
「それと、あたし意外に憑依した者が現れたら絶対に呪水《じゅすい》の結界から出るんじゃないよ、名も名乗らないように。会話もそこそこにして砂が落ちるのを待つんだ。落ち切ったら枝で払うんよ? いいね? 」
「分かった…… 」
「最後にもう一つ。連れてってくれとか、ついて行くとか、逢いに行くとかは言ってはならんよ? 約束出来るね? 」
「あぁ大丈夫だ、頼む」
「そうかい、じゃあ始めるさね…… 」
闇の彼方に蠢くは、宿命を操る神か仏か、新たなる邂逅の導きは、何を求め、何を誘《いざな》い示すのか。潜む妖しき悪戯は、神秘の淵を覗き込み、ゆっくりと悲しき未来を指し示す。