テラーノベル
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『また、バーに連れて行ってやるよ』『今日、泊まりに来いよ』
先輩から距離を取ったのに、彼は頻回に話しかけてきた。明らかな下心のある言葉ばかりを並べて。
そう言われる度に私は身震いを起こし、心が冷えていった。
何度も、あの日のことを言おうとした。だけど怖くて。彼の目が、彼の声が、彼の腕が。
全てが、私を縛り付けてくる。
だから、この小山も来れなくなって。肩まであった髪を靡かないほどに切り落として。男女境目が曖昧な服を選んで。学食で一人ご飯とか全然平気だったのに、人目が怖くてあのコンビニに逃げ。全てを忘れようと、別の場所で写真を撮ろうとフィルターを覗くと、彼が隣にいるのではないかと指先がガタガタと震えて。だから、写真すら諦めるしかなかった。
子供の頃に抱いた夢を叶えよう。そんな思いで就職したけど、先輩や同僚はカジュアルなファッションでオシャレ。それに比べて私は、上下黒のスーツ。
ズボンだったら、今時の服装でも着られるじゃない?
何度自分にそう言い聞かせても、女性らしい格好をすることが怖い。せっかく買っても、外に着て出歩くことが怖い。
人が怖くて、何を考えているのか分からくて、信じられなくて。私は会社でも、居場所を作ることが出来なかった。
仕事だけは私の味方。それだけあれば良い。そう思っていた。
だけど忌まわしい過去は、私の腕を掴んで離さなかった。
時折悪夢に魘されて、誕生日の季節が近付くと漠然とした不安が襲ってきて怖くなる。一人で生きていくと決めたのに、誰も信じないと決めたのに。私は誰かを求めている。
先輩を好きにならなかったら。
付き合わなかったら。
お酒を断れたら。
彼のアパートに行かなかったら。
なんとか拒否出来たら。
そんな後悔が、私の中で反芻する。
二十歳の誕生日。私の人生は壊された。
……違う。私が勝手に壊しただけ。そんな過去を引きずって人を遠ざけた、私が。
「顔、上げろよ」
強く閉じていた目を開き、顔を上げる。すると目の前に、小さな光が舞っていた。
「……ホタルが、空を飛んでいる」
「仲間であるお前に見せつけているのかもしれないな。次はお前が飛ぶ番だって」
「飛べないよ……。私なんか」
他責思考の、私なんか。
「こうゆう仕事してると、会うんだよ。お前のような女。そして口を揃えて言う。隙があった自分が悪かった……って。そんなわけ、ねーだろ?」
「……え?」
「いいか? 自制の効かない野郎なんか、男じゃなくただのノミだ。そんなのに噛まれて、痛いと泣くのか? 自分のせいだと嘆くのか? バカバカしいだろ? さっさと薬塗って治しちまえよ!」
ぶっきらぼうで、優しさなんて見えないのに。
私に手を差し伸べてくれる、温かなものだった。
「……飛べるかな?」
「飛べるに決まってんだろ? 蛍は強いから、飛べる」
私の瞳を真っ直ぐに見つめ、力強く返してくれる。
『え? いやいや、付き合ってたんだよね?』
『アパート行ったんでしょ?』
『文句言うなら、付き合わなかったら良いじゃん?』
『っていうか。確か、二十歳だよね? 未成年じゃあるまいし』
普段関わりがなかった、写真サークルの女性先輩達。大学で一人でベンチに座っていた私の元に来て、彼を避ける理由を聞いてきた。彼に聞いてきてほしいと、頼まれたらしい。
付き合いのことを勝手に言ってはいけない。
分かっていたけど、あの時の私は抑えられなくて。抑えきれなかった気持ちを、辛さを、ただ感情のまま話して。その時、返された言葉だった。
──私が、悪かったんだ。
五年間、心に氷の刃となって刺さっていた。
だから、髪を伸ばせなくなった。女性らしい服を着れなくなった。
「隙のあるお前が悪い」と、否定されるのが怖くて。
だから、髪を伸ばせなくなった。女性らしい服を着れなくなった。
隙のあるお前が悪いと、否定されるのが怖くて。
あの日のことは勿論苦しいけど、その後に告げられたことの方が苦しかったのかもしれない。
味方だと信じていた同性に思い切って打ち明けて、笑って否定されたことの方が。
だけど今、ようやく消え去ってくれた。彼の温もりによって。
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