アパートは夜になると、まるで息を潜めるように静まり返る。
壁の隙間は、薄暗い割れ目の奥で微かに揺れ、呼吸のような音を響かせる。
カサ……カサ……
青年はもう、壁の音を無視できなくなっていた。
手を伸ばすと、ひんやりとした感触が指先に伝わる。恐怖を覚えながらも、引き寄せられるように手を奥へ進めてしまう自分がいる。
「来て……」
囁きは耳元で直接語りかける。悠真の声、前住人の声、そして見えない何者かの声が重なり、青年の心を支配する。
恐怖と安堵が同時に押し寄せ、理性は揺らぐ。
廊下の外では、美咲がふと足を止める。
彼女の目には、薄暗い廊下の壁の割れ目が、かすかに呼吸しているかのように見えた。
「……まだ、彼らは戻ってこない」
美咲はつぶやき、無言で通り過ぎる。触れれば自分も吸い込まれると、本能的に理解していたのだ。
山本管理人は、廊下の影から全てを見守る。
「隙間は、必要な者を引き寄せる……逃れることはできない」
その声には冷たい確信が宿っていた。
青年はついに壁の奥に全身を押し込む。
視界は暗く、奥には過去の住人たちの影が揺れ、囁きが重なり合う。
「……ずっと、ここにいる」
その瞬間、アパート全体が静まり返り、外の世界の音は完全に消えた。
隙間は今日も確かに生きている――そして、新しい視線を静かに、しかし確実に待ち続けていた。
悠真も、青年も、前住人も、すべてが見られ続け、決して逃れることはできない。
カサ……カサ……
壁の奥で、永遠に呼吸しながら。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!