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「ゆり……」
「なあに?」
それは、自分でも驚くほど優しい声だった。
麗は母が好きだった。酷い男を一途に思い続け、娘より自分を棄てた男を愛していた人。
馬鹿で愚かで学がなくて貧乏でも、それでも、麗は母が好きだった。
優しくて、脆くて、麗が守ってあげなきゃいけなかった。
お手当てがもらえなくなり、水商売の仕事を増やし、夜遅くまで帰ってこない母を、起きている間中、テレビを見て待っていた。
疲れて帰ってきた母を抱き締めてあげたかったから。
そう、麗は母が好きだった。
だから、麗は父の手を握った。
母の代わりに。
多分、母は父の最期の瞬間、手を握りたいと願っただろうから。
「ゆり」
「はい、ここにいますよ」
この手を握ったのは何年振りだろうか。昔は、骨と皮だけで構成されてはいなかった。大きな手だった。
まだ、母と自分の立場を知らなかったころ、父は月に何度かやって来て、麗のために子供服を沢山持ってきてくれる自慢の存在だった。
仕事が忙しくてなかなか会えないと聞かされていたけれど、社長さんをやっている、いつもパリッとしたスーツを着た、カッコいい父。
お洒落をさせてもらい、小さなレストランに連れていってもらった帰り、幸せそうに笑う母と優しい目をした父にそれぞれの手を握って持ち上げてもらい、宙に浮くのが、嬉しくて、楽しくて、何度も、何度もねだった。
(ずっと、恨んで生きてきたと思ってたけど、好きだった時期もそう言えばあった)
父は社長の器じゃなかった。
本当は、実業家で忙しかった母親に振り向いて欲しくて、ずっと見ていて欲しくて、社長の座が欲しかっただけなのだろう。
もし、普通の家庭に産まれていたら、普通にサラリーマンをしていた。
そして、己より優秀で血筋が良くて美しい、凡庸な自分を卑屈にさせる継母のような人ではなく、馬鹿だけど己を愛してくれる麗の母のような人と結婚していたんだろう。
多分、父は救われたかったのだ。自分の存在を肯定して欲しかった。
偉大な母親と、世間知らずだが、何でもすぐにこなせるようになる妻、そしてその賢すぎる上の娘に釣り合わない自分の現実から逃れたかった。
だから、己を盲目的に愛してくれる頭の悪い愛人と頭の悪い下の娘を必要としていた。
(それなのに、そうだ、そうだった、父の訪れが途絶えたのは私が己の家庭がおかしいことに気付いてしまったから)
近所に住む、口さがのない小学校の同級生に、普段家に父親がいないことをからかわれた日。
麗は泣きながら、母の元を訪れた父に聞いた。何故いつも一緒にいてくれないのかと。
それが、母が棄てられる切っ掛けだったのだと、今ならわかる。
父を現実に帰してしまったのだ。
何も知らず、疑問を持たない頭の悪い娘のままでいてあげられなかった。
「れい」
名前を呼ばれ、麗は驚いた。
もう、父は母の幻を見続けて逝くのだろうと思っていたから。
愛するべきだった人ではなく、求めていた愛をくれた人の幻に浸るのだと。
「……うん」
「麗……ちゃんと、愛してやらなくて、ごめん。お前が生まれたときも、麗音が生まれたときも、ちゃんと愛そうと思ったはずだったのに」
思うだけじゃ、駄目だったね、とは口に出さなかった。
「うん」
許すとは言えない。きっと、一生言えない。
ただ、麗を社長に据えたのは、贖罪のためだったのではと思った。
かつて自分が母親に愛を乞うた時のように。
麗はぎゅっと手を強く握った。