テラーノベル
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夜のオフィスは、すでに業務を終えたあとの静けさに沈んでいた。
天井の照明は間引かれ、ガラス張りの窓の向こうでは、街の灯りだけが瞬いている。
幸人は執務机の前に一人で座っていた。
ネクタイを外し、シャツの第一ボタンを開けているものの、姿勢だけは崩れていない。
デスクの上に置かれたスマートフォンが短く震えた。
表示された名前を確認し、幸人は通話をつなぐ。
「……はい」
『一恵です』
「どうでしたか」
いつも通り、幸人の声からは感情が読み取れない。
一恵は少し間を置いてから答えた。
『数日間拝見しましたが……私は、今の奥様を“悪い母親”だとは思えません』
幸人の視線が、わずかに動いた。
「……そうですか」
『乃亜様は、明らかに奥様へ心を開き始めています。今日など、絵本を読んでもらいながら笑顔まで見せていらっしゃいました』
幸人は何も答えなかった。
『奥様も、乃亜様を大切にしようとなさっています。少なくとも私には、そう見えます』
しばらく沈黙が続いた。
やがて幸人が、静かに息を吐いた。
「人は……そんなに簡単には変わりません」
『幸人様』
「今まであの子を放ってきた人間が、数日で突然“母親”になるとは、私には思えない」
声を荒げることはなかった。
けれど、その言葉には頑なな拒絶が滲んでいる。
「後悔しているのかもしれない。あるいは、何か別の理由があるのかもしれない。ですが、どちらにせよ……今だけを見て、信用するつもりはありません」
一恵は少しの間、黙っていた。
『……承知しました』
「引き続き、見ていてください」
『かしこまりました』
通話が切れる。
幸人はスマートフォンを机へ伏せたものの、すぐには仕事へ戻らなかった。
『乃亜様は、明らかに奥様へ心を開き始めています』
一恵の言葉が、耳の奥に残っている。
これまでの果穂を思えば、到底信じられない話だった。
信じるつもりもない。
もう誰にも期待しないと、とうに決めていたはずだった。
それでも幸人はしばらく書類へ手を伸ばせず、暗い窓に映る自分の姿を見つめていた。
***
その夜、乃亜を寝かしつけた詩乃がそっとリビングへ戻ると、部屋の中央に人影があった。
足を止め、目を凝らす。
幸人だった。
いつ帰ってきたのだろう。
照明を落とした室内で、廊下から差し込む光だけが彼の輪郭を薄く縁取っている。
「乃亜は?」
「今、寝ました」
「そうですか」
短いやり取りのあと、沈黙が落ちる。
けれど幸人はその場を離れようとせず、じっと詩乃を見つめていた。
「……一恵さんから、何か聞きましたか?」
耐えきれず詩乃が尋ねると、幸人はゆっくりと歩み寄ってきた。
「聞きました」
一歩、また一歩と距離が縮まり、詩乃は思わず後ずさる。
やがて背中が壁へ触れた。
それ以上下がれなくなった詩乃のすぐ前で、幸人が足を止める。
「随分と、乃亜に心を砕いているようですね」
丁寧で、感情の起伏のない声だった。
それがかえって、何を考えているのか分からなくて怖い。
「それは……」
「食事を用意して、病院へ連れていって、遊び相手までしているそうですね」
「乃亜はまだ三歳です。それくらい、当たり前のことで……」
「あなたは、その“当たり前”ができなかったはずですが」
詩乃は言葉を失った。
返す言葉がない。
自分がしたことではないとしても、幸人が見ているのは“楠木果穂”なのだから。
幸人はそんな詩乃の表情を確かめるように、さらに顔を近づけた。
「まるで――人が変わったかのようだ」
心臓が、大きく跳ねた。
(……まさか)
知られたのだろうか。
自分が果穂ではないことを。
一瞬、本気でそう思ってしまうほど、その言葉は核心を突いていた。
詩乃が息を呑むと、幸人の目がわずかに細められる。
「あなたは一体――何を企んでいるんですか」
「何も……企んでなんか……」
「では、どうして突然変わったんです?」
答えられない。
本当のことなど、言えるはずがない。
私は果穂ではありません。
あなたが結婚するはずだった楠木詩乃です。
そんな話をしたところで、信じてもらえるはずがない。それどころか、乃亜から引き離されるかもしれないと思うと、詩乃はますます口を開けなくなった。
沈黙する詩乃を、幸人は探るように見つめている。
やがて片手が上がり、詩乃の顔の横で壁につかれた。
逃げ道を塞ぐような格好になり、二人の距離がさらに近づく。
思わず息を呑んだ。
真正面にある幸人の顔は、顔合わせの日に見た時と変わらず整っている。けれど、あの日自分へ向けてくれたわずかな柔らかさは、今はどこにもない。
あるのは、疑いと警戒。
それでも、その瞳の奥には、目の前で起きている変化の理由を知りたいという色が確かに滲んでいた。
詩乃は視線を逸らさなかった。
幸人はまだ、自分を信じていない。
当然だと思う。
彼が知っている果穂は、それだけのことをしてきたのだから。
けれど、今すぐ真実を明かすこともできない。
互いの呼吸が分かるほど近い距離で、二人はしばらく無言のまま見つめ合った。
やがて幸人が、低い声でもう一度問いかける。
「……あなたは、本当に誰なんですか?」
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すっこ
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碧星_Aoi
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コメント
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「あなたは本当に誰なんですか」——もう、このラストの問いかけだけで心臓がぎゅっとなりました。壁際に追い詰められて、逃げ場のない距離で、息が詰まるような問答。幸人が“変わった”変化に戸惑いながらも、どうしてもその理由を知りたいと滲ませる瞳の描写が、すごく印象的でした。詩乃が真実を言えずに黙り込む気持ち、痛いほど伝わってきます……。また一歩、物語が深まって、次が待ち遠しいです!