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結界魔法という、空間の理を切り取る高度な技術。
その初めての構築と維持によって、佐藤健司の脳と精神は限界まで酷使されていた。
数分間、半径一メートルの絶対領域を維持しただけで、健司はリビングのフローリングに大の字になってへたり込んでいた。
全身が鉛のように重く、額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。
(よし。今日の訓練はこれで終わりだろ。さっさとシャワー浴びて寝よう……)
健司が重い瞼を閉じかけた、その時だった。
『立て、猿』
脳内で、魔導書が冷酷に告げた。
健司は、天井を見つめたまま虚ろに答えた。
「……は?」
『まだ、空中浮遊が残っているぞ』
健司の顔が、ヒクッと引きつった。
「……鬼か、お前は……」
『貴様が自分で“両方じゃダメなのか”と欲張ったのだろうが』
「言ったけどさ……結界の処理が、あんなに疲れるとは思わなかったんだよ……」
健司は恨み言を漏らしながらも、よろよろと身体を起こした。
『甘えるな。空を飛びたいのだろう?』
魔導書のその一言には、抗いがたい引力があった。
空を飛ぶ。
重力から逃れる。
地面に縛られない。
先日の子鬼親分との乱戦で、横から湧く雑魚に何度も足止めされた健司にとって、三次元的な機動力は絶対に手に入れたい手札だった。
その響きだけで、疲労困憊の身体にわずかな熱が戻ってくる。
「……さて、空中浮遊だが」
健司は、重い足を引きずってリビングの中心に立った。
「こっちは、結界よりは単純なんだろ? イメージとしては分かるよ。ヘリウムガスを入れた風船みたいに、身体が軽くなるイメージでいいんだよな?」
『まずはそこからだ。やってみろ』
健司は目を閉じ、意識を集中させた。
自分の身体が、中身のない風船のように軽くなっていくイメージ。
足元から重さが抜け、膝、腰、肩から、地球に引っ張られる重力が薄れていく。
パラレル・ゲーマー
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パラレル・ゲーマー
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身体がフワフワと浮き上がるような錯覚。
(いける気がする)
健司は、その場で軽くジャンプした。
ふわり。
いつもより、ほんの僅かだけ長く空中に滞在した気がした。
だが、すぐに容赦のない現実の法則が彼を床へと引き戻す。
ドンッ。
「……ぐっ」
着地の衝撃が、疲労の溜まった足腰にズンと響いた。
もう一度。
さらに自分の重さが消え去るイメージを強く念じる。
ジャンプ。
ふわり。
ドンッ。
また床に戻る。
三度、四度と繰り返す。
滞空時間は確かにコンマ数秒伸びている気がする。
だが、これは浮遊ではない。
ただの少し滞空時間の長い「ジャンプ」だ。
「……キツイな、これ……」
健司は肩で息をしながら膝に手をついた。
『キツイか?』
「ああ。めちゃくちゃキツイ。頭の中では身体が軽くなってる気がするんだけど、地球に引っ張られてる感覚が全然消えない。どうしても地面を意識しちゃう」
『ならば、良い』
「何が良いんだよ。失敗してるだろ」
『“身体を軽くする”というアプローチのイメージでは、お前の脳に染みついた重力の常識を越えられないことが分かったからだ』
魔導書は淡々と告げる。
『失敗は、次の正解を導き出すための重要な情報だ』
「……で、どうするんだ?」
『猿。イメージを変えろ』
魔導書が、新たなアプローチを提示する。
『お前のイメージは、“幽体離脱”だ』
「……幽体離脱?」
健司は怪訝な顔をした。
『そうだ。お前は今、結界の訓練で疲労困憊だ。身体は重い。足は痛い。腰もだるい。頭も重い。そのひどく重い肉体そのものを軽くしようとするから、脳の認識に無理が生じる』
「じゃあ、どうするんだよ」
『その辛い身体を、そこに置いていけ』
「……怖いこと言うなよ」
『物理法則に縛られない幽霊なら、空中に浮ける。なぜなら、肉体という重りがないからだ。お前も同じだ。重い肉体は床に置いたまま、純粋な意識の塊だけがふわりと抜け出す。……そう考えろ』
オカルトじみた説明だったが、今の疲労しきった健司の身体には、そのイメージが妙にスッと腑に落ちた。
身体を軽くするのではない。
身体を捨てるのだ。
重さから逃れる。
意識だけになる。
「……横になっていいか? 立ってると、どうしても足の裏で床を踏ん張る感覚が抜けきらない」
『よかろう。幽体離脱だ。横になれ』
健司は、リビングのフローリングに再び大の字になった。
床の冷たさが、熱を持った背中に心地よい。
目を閉じる。
自分の身体の重さを、あえて強く意識する。
足の疲労。
腰の痛み。
腕の張り。
頭の奥の鈍い重さ。
全身にまとわりつく圧倒的な倦怠感。
健司は、その全てを客観的に認識した。
これが、今の自分の肉体。
重く、不自由な器だ。
そして、その肉体の内側に、もう一人の自分がいると想像する。
光の塊のような、純粋な認識だけの自分。
その光の塊が、重い身体からゆっくりと抜け出していく。
重いコートを脱ぎ捨てるように。
古い殻から抜け出すように。
肉体は床に残したまま、意識だけが上へ、上へと離れていく。
呼吸が深くなる。
身体の重さが遠ざかる。
自分では、物理的な変化は分からない。
ただ、気分が恐ろしく軽い。
その時。
『……おっ』
魔導書が、小さな声を漏らした。
「おっ、って何だよ」
目を閉じたまま健司が尋ねる。
『今、貴様の身体、床から数ミリ浮いているぞ』
「マジか!」
健司は思わず目を開けた。
『マジだ。今の感覚を絶対に忘れるな。肉体を捨て、意識だけで浮く感覚だ』
健司は興奮した。
ついに浮いた。
たった数ミリでも、自分は今、完全に重力を振り切り、地面から離れているのだ。
『では、次だ』
「もう次かよ」
『その浮いた状態のまま、ゆっくりと立ち上がれ』
「立ち上がる?」
健司は戸惑った。
だが、数ミリ浮けたことで、彼の中に妙な万能感が生まれていた。
(いける)
健司は、床に寝そべった状態から、腹筋に力を入れて上体を起こそうとした。
普段、朝ベッドから起き上がる時と全く同じ動作。
その意識が、引き金になった。
ストン。
健司の背中が、無情にもフローリングの床に落ちた。
浮遊感が完全に消え去り、全身にいつもの鉛のような重力が戻ってくる。
「……あれ? 落ちたぞ?」
『だろうな』
魔導書が呆れたように言う。
「何でだよ!」
『立ち上がろうとした瞬間、貴様の脳は無意識のうちに“地面を足で踏みしめる”という動作を選んだ。結果、貴様は自ら重力と地面の支配下に戻ることを選択したのだ』
「……立つって動作が、地面ありきの常識に結びついてるからか」
『そうだ。“浮いている”のに“立つ”。この完全に矛盾した状態を、脳内で同時に成立させなければならん』
「難しすぎるだろ、そんなの」
『難しい。身体を起こす、立つ、歩く。人間が当たり前に行うその全ての動作に、地面の常識が骨の髄まで染みついている。空中浮遊とは、単に空を飛ぶことではない。その重力の常識を脳から削り落とす訓練でもある』
健司は深く唸った。
「これ、理屈だけでどうにかするのは厳しいな」
『その通りだ。これは認識の理屈を超えた、絶対的な“感覚”だ』
魔導書が、一つの提案をしてきた。
『猿。気分転換と、実地訓練を兼ねて、明日は出かけるぞ』
「出かける?」
『貴様のその貧弱な三半規管に、“浮遊感”という感覚を直接物理的に叩き込んでやる』
「……嫌な予感しかしないんだけど」
『遊園地だ』
「遊園地?」
『観覧車に乗って、自分の視界が地面から高く離れていく感覚を覚えろ。そして、ジェットコースターで、落下の瞬間に内臓がフワリと浮き上がる無重力の感覚を覚えろ。経験として刻まれた強烈な感覚は、魔法のイメージを固定するための最高の素材になる』
「魔法の修行で遊園地って、意味分かんないな……」
健司は頭を掻いた。
遊園地など、もう何年も行っていない。
普通ならただ遊ぶだけの場所だ。
だが、今の健司にとっては、浮遊感を身体に叩き込むための過酷な訓練場になるというのだ。
「……まあ、いいか。絶叫マシンは嫌いじゃないし」
『決まりだな』
翌日。
健司は、富士山が見えることで有名な、大規模な絶叫系遊園地のゲート前に立っていた。
平日にもかかわらず、学生のグループやカップル、家族連れで賑わっている。
健司は、予知者Kとしての無用な身バレやトラブルを避けるため、キャップを深く被り、マスクをつけて変装気味にしていた。
『猿。何をキョロキョロしている。貴様は遊びに来たのではない。修行に来たのだぞ』
魔導書が脳内で小言を言う。
「入場料払ってフリーパス買ってる時点で、半分くらい遊びだろ」
『黙れ。まずは観覧車だ』
健司は観覧車の列に並び、一人でゴンドラに乗り込んだ。
扉が閉まり、ゆっくりと地上から離れていく。
『いいか、猿。真下を見るな。遠くを見ろ』
「高所恐怖症じゃないから平気だけど」
『恐怖の話をしているのではない。視点の“変化”を覚えろ。景色が下へ流れていくのではない。お前の視点が、自らの力で上へ上がっていくのだと認識しろ』
健司は遠くを見た。
遊園地の全景が少しずつ広がり、歩いている人々が豆粒のように小さくなっていく。
建物の屋根の構造が見え、遠くの山並みが視界に入ってくる。
空が、圧倒的に広くなる。
観覧車が頂点に近づくにつれ、健司の視界は、地上に立っている時とは全く違う世界を捉えていた。
自分の位置が変わるだけで、世界の見え方が根本から変わる。
『その感覚だ。地面を這いずり回る猿の視点から、上空からすべてを見下ろす視点へ移る感覚を、脳に焼き付けろ』
「……悪くないな」
健司は素直に呟いた。
『いずれ、己の力だけでこの高さへ行くのだ』
健司は、澄んだ空を見上げた。
自分の力で、この高さまで浮かび上がる未来を想像する。
胸の奥が、静かに熱くなった。
観覧車を降りた後、健司は本命の修行場へと向かった。
遊園地の目玉である、巨大なジェットコースター。
高低差が異常に大きく、圧倒的なスピードと落下で有名な鉄骨の怪物だ。
『あれに乗るぞ』
「いきなりメインディッシュか」
『観覧車は上昇感と視点の変化。こちらは落下時の完全な浮遊感だ。特に最初の急降下、その重力が剥がれ落ちる瞬間を絶対に逃すな』
健司は長蛇の列に並んだ。
待ち時間は退屈だったが、健司は意識を鋭く保っていた。
これは遊びではない。
魔法を習得するための、感覚のインプット作業なのだ。
やがて順番が来る。
座席に座り、安全バーで身体がガッチリと固定される。
車両がガシャン、ガシャンという機械音を立てながら、ゆっくりと急勾配を登り始めた。
高度が上がる。
風が強くなる。
視界が極限まで開ける。
『来るぞ、猿』
頂点。
一瞬の、無音の静寂。
次の瞬間、視界が真っ逆さまに落ちる急降下。
健司の身体が、シートから強烈に浮き上がるような感覚に襲われた。
内臓がふわりと持ち上がり、身体の重さが、一瞬だけ完全に世界から消え去る。
重力が抜ける。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
健司は、腹の底から絶叫した。
だが、それは純粋な恐怖だけではない。
健司の意識は、その極限状態の中で恐ろしく研ぎ澄まされていた。
この感覚。
腹の底が浮き上がる感じ。
重い身体が置いていかれる感じ。
自分を縛り付けていた重さが消える、究極の一瞬。
(これかッ!)
健司は心の中で叫んだ。
『そうだ、猿! その感覚だ! 忘れるな! 重さが消えるその瞬間を、脳髄に深く刻み込め!』
コースターは、その後も猛スピードで上昇と下降を繰り返す。
浮く。
落ちる。
強力なGで押し付けられる。
そしてまた、浮く。
健司は、一回乗り終えただけでぐったりと疲弊していた。
だが、その目は強烈な光を放って輝いていた。
「……もう一回だ」
『当然だ』
健司は、それから何度も何度も絶叫マシンに乗り続けた。
最初は普通に恐怖で絶叫していた。
だが、二回目は純粋な浮遊感に意識を集中させた。
三回目は、落下直前の身体の構えと筋肉の弛緩を観察した。
四回目は、内臓が浮く瞬間に、昨夜の「幽体離脱」のイメージを完璧に重ね合わせた。
周囲の客からは、一人で無言のまま絶叫マシンに乗り続け、落下時に真顔で宙を見つめている健司は、明らかに「少しヤバい人」に見えていただろう。
しかし、健司は他人の視線など全く気にしなかった。
閉園の蛍の光が流れる時間まで、観覧車とジェットコースターを中心に、浮く、落ちる、上がるという重力からの解放の感覚を、身体の隅々にまで徹底的に叩き込んだ。
夜。
健司は自室の六畳一間へ帰ってきた。
体力は完全に限界を迎えている。
足は棒のようで、喉は絶叫のしすぎで枯れていた。
だが、精神は妙に昂り、冴え渡っていた。
玄関で靴を脱ぎ捨て、リビングへ直行する。
そのまま、昨日と同じようにフローリングの床に大の字になった。
昨日と同じ姿勢。
だが、内側にある認識は全く違う。
脳裏には、ジェットコースターの落下の瞬間が、鮮明な映像と体感として焼き付いている。
無重力。
腹の底が浮く感覚。
身体の重さが完全に消え去る一瞬。
そこに、幽体離脱のイメージを重ね合わせる。
重い疲労した身体を、床に置き去りにする。
意識だけが、光の塊となって上へ浮上していく。
今度は、確かな「感覚」の裏付けがある。
遊園地で物理的に体験した、身体が浮くという強烈な実感。
それが、ただの想像だったイメージに、強固な骨組みを与える。
健司の身体が、ふわりと浮いた。
最初は数センチ。
次に十センチ。
さらに二十センチ。
健司は、ゆっくりと目を開けた。
床が、少しだけ下にある。
本当に、自分の身体が空中に浮いている。
「……できた」
健司が呟く。
『上出来だ、猿』
魔導書が短く褒めた。
健司は、意識を上へと向ける。
ゆっくりと身体が上昇していく。
天井に頭がぶつかりそうになり、慌てて下降をイメージする。
身体がゆっくりと下がる。
また上昇。
また下降。
健司は、呼吸を整えながら、浮遊のベクトル制御の感覚を身体に馴染ませていく。
次に、水平移動を試す。
自分の身体が、空中の見えないレールの上を前へ滑るイメージ。
リビングの端から端へ。
最初はバランスを崩し、ふらついて壁にぶつかりそうになった。
だが、何度も試すうちに、身体が空中をスススッと滑るようにスムーズに移動し始めた。
健司は、空中で声を出して笑った。
「……いける。これ、いけるぞ!」
『調子に乗って壁に頭をぶつけるなよ』
「分かってるって」
言った直後、制御を誤ってコツンと肩を壁にぶつけた。
『分かっていないではないか』
「うるせえ」
それでも、健司は確かに空中にいる。
床に一切足をつかず、部屋の空間を三次元的に移動できている。
上昇、下降、水平移動。
まだ動きは荒いが、空中機動の基礎は完全に成立していた。
健司はしばらく、部屋の中を嬉々として浮遊し続けていた。
子供のように純粋に楽しい。
床に縛られない。
壁や家具などの障害物を、上から軽々と避けられる。
視点が変わるだけで、見慣れた六畳一間が全く別の空間のように感じられる。
だが、魔導書が冷や水を浴びせるように声をかけた。
『いつまでも蠅のように飛び回っているだけでは芸がないぞ、猿』
「蠅って言うなよ。今の俺は、鳥だろ」
『まだ羽虫だ。……次だ。浮いた状態を維持したまま、結界を張れ』
健司は、空中で眉をひそめた。
「……同時に?」
『そうだ。空中浮遊と結界。二つの魔法の並列処理だ』
健司は少し戸惑った。
空中浮遊は、繊細な重心と認識の感覚を保つ必要がある。
結界は、境界の維持と内外の判定という、重い制御負荷がかかる。
この二つを同時に並列で使う。
脳への負担がどれほどか、想像するだけでも恐ろしい。
しかし、今の健司には、浮遊を成功させた強烈な勢いと万能感があった。
「……まあ、やってみるか」
健司はリビングの中心、床から二メートルほどの高さでピタリと静止した。
『今回は球体ではなく、立方体でいい』
魔導書が指示を出す。
『球体よりも面が明確で、足場として認識しやすいからな。お前自身を中心とした、一辺二メートルの透明な箱をイメージしろ』
「立方体だな」
健司は意識を集中させた。
まず、空中浮遊の認識を強固に保つ。
身体を浮かせる感覚。
幽体離脱の軽さ。
遊園地で覚えた無重力感。
そのタスクを脳の片隅で維持し続ける。
次に、結界のイメージを構築する。
前後左右、上下。
六つの面。
一辺二メートルの透明な箱。
自分を中心とした空間を、自らの領域として世界から切り取る。
健司の脳が、ギリギリと悲鳴を上げるような感覚を覚える。
だが、強引に押し切る。
「――我が領域は、神聖にして不可侵! 内なる力を増幅し、外なる災厄を退けよ! ――結ッ!」
空間が揺れる。
一瞬、空中に透明な立方体の輪郭が見えたような気がした。
結界が成立する。
健司の周囲に、明確な自分の領域が立ち上がった。
「よし、できた!」
健司が喜んだ、その瞬間。
結界の構築に脳のリソースを割きすぎたせいで、空中浮遊の認識が完全に崩れた。
身体が、急激に元の重さを取り戻す。
浮遊の制御が途切れる。
「うわっ、落ちる!」
二メートル下には、硬いフローリングの床。
健司は咄嗟に身を固め、着地の衝撃に備えた。
だが。
衝撃は来なかった。
トン。
足の裏が、空中で『何か固いもの』に触れた。
床ではない。
健司は恐る恐る目を開いた。
自分は、空中にいる。
床から一メートルほどの高さ。
そして足元には、何もない空気が広がっているだけだ。
だが、確かに足の裏には、硬い感触がある。
「……は?」
健司は、足で軽くその見えない何かを踏みつけてみた。
コン、コン。
そこに、確かな床がある。
見えない床。
それは、自分がたった今作り出した、立方体結界の『底面』だった。
健司は、ゆっくりと事態を理解した。
「……足場が、ある」
『そうだ。気づいたか、猿』
魔導書が、静かに、だが確かな誇りを持って言った。
「結界の上に、乗れる……?」
『正確には、結界の底面を、お前自身が“足場”として認識したのだ。お前が空間を切り取り、内と外を分ける絶対的な境界を作った以上、その境界面には物理的な抵抗が発生する。ならば、当然乗れる』
「すげえ……」
健司は、自分の足元にある見えない足場を踏みしめた。
『俺が、なぜ貴様に“結界魔法”と“空中浮遊”の二択を提示したか分かるか?』
「……防御と機動力が、両方必要だったからじゃないのか?」
『それもある。だが、あの質問の答えは、最初から“二つ”あったのだ』
「二つ?」
『空中での機動力を得る方法は、自らを軽くする“空中浮遊”だけではない。己の領域である“結界”を展開し、それを足場として空を移動することもできるのだ』
魔導書の言葉に、健司は息を呑んだ。
空中浮遊。
自分自身を浮力で浮かせる、直接的な機動方法。
結界足場。
空中に物理的な足場を作り出す、間接的な機動方法。
二つとも、地面の重力に縛られないための、アプローチの異なる「答え」なのだ。
『貴様は、どちらか一方を選ぶことをしなかった。強欲に両方を選んだ。だから、両方の答えが手に入ったのだ』
「……そういうことか」
『空中浮遊は自由だ。少ない制御負荷で、空間を滑るように縦横無尽に移動できる。だが、流動的で姿勢は不安定になりやすい。強い斬撃を放つための踏み込みや、精密な動作をする時の起点となる足場としては、弱い』
健司は頷いた。
さっき部屋を飛んでいても、ふらつきは確かにあった。
『一方、結界による足場は、構築と維持の負荷が重い。だが、一度作れば絶対に安定する。そこはお前の領域の一部だ。しっかりと足を置き、力強く踏み込み、渾身の斬撃を放つための、確固たる足場になる』
健司の脳内に、鮮烈な戦闘のイメージが湧き上がる。
空中に立つ。
足元の見えない結界を強く蹴る。
空中で鋭く角度を変える。
何もない空中で踏み込み、遠距離斬撃『斬』を撃つ。
あるいは、空中から死角を突いて急降下し、接触斬撃を叩き込む。
これは、ただフワフワと飛ぶだけの浮遊よりも、遥かに実戦的で攻撃的な機動だ。
『そして、だ』
魔導書がさらに告げる。
『ただの“足場”が必要なだけなら、わざわざ全身を覆うような重い立方体の結界を作る必要はない』
「……あ」
『そうだ。ただ、自分の足元に“一枚の板”を作ればいい。機能は、“上に乗れる”という一点のみに極限まで絞る。そうすれば、脳への制御負荷は劇的に下がる』
健司は、目から鱗が落ちる思いだった。
結界は、自分を守る領域を作る魔法だと思っていた。
だが、用途を一点に絞れば、それは足元の見えない板にもなる。
自分の領域の、床だけを作る。
乗るためだけの結界。
健司は、一度展開していた立方体の結界を解いた。
再びふわりと、不安定な空中浮遊の状態に戻る。
今度は、自分の足元だけを強烈に意識する。
自分の足の少し下。
一辺一メートルほどの、透明な板。
厚さはほとんどない。
機能はただ一つ。
自分の体重を完全に支えること。
「――結ッ!」
短い言霊による宣言。
足元に、淡い光の板の輪郭が一瞬だけ現れ、すぐに空間に溶け込んで見えなくなる。
だが、健司の足裏には、アスファルトのような確かな抵抗があった。
健司は、空中に浮かんだまま、ゆっくりと自分の体重をその見えない板に乗せていく。
ぐらつかない。
完全に安定している。
「……すげえ。これなら、いける」
健司は、次の足場を作る。
少し前方、少し上の空間に、もう一枚の板状の結界。
そこへ、右足を踏み出す。
一歩。
空中に、確かな足場ができる。
さらにもう一枚。
二歩目。
三歩目。
健司は、何もない空間に作られた見えない階段を上るように、空中を歩いた。
次に、空中浮遊の滑るような移動と組み合わせる。
ふわりと横へ移動し、急停止したい場所、踏み込みたい場所だけに結界足場を作る。
浮遊で移動。
足場を作る。
強く踏む。
方向転換。
また浮遊。
また足場。
部屋の中で、健司の動きが一気に三次元的で立体的なものに変わった。
床から完全に離れ、空中に自分の足場を瞬時に作り出し、そこを蹴って高速で移動する。
健司は、思わず声を上げて笑った。
「……これ、めちゃくちゃ面白いな!」
『調子に乗るな。天井に頭をぶつけるぞ』
「大丈夫だって!」
言った直後、勢い余って天井近くまで上がりすぎ、頭をゴツンとぶつけた。
「痛っ」
『だから言っただろうが』
「でも、できた」
健司は、空中にしっかりと立っていた。
足元には不可視の結界足場。
身体は空中浮遊の制御によって軽く保たれている。
前後左右への自在な移動。
上下への素早い移動。
足場を蹴っての鋭い方向転換。
この六畳一間の狭い部屋の中で、健司の『空中機動』の基礎が、完全に成立した瞬間だった。
健司はもう、地面という二次元の平面だけに縛られていない。
床は、もはや唯一の足場ではない。
空中という広大な空間のどこにでも、自在に自分の足場を作れるのだ。
『ふん。ようやく、這いずり回る猿から、少しだけ鳥に近づいたか』
魔導書が、静かに評価を下す。
「鳥か。やっと猿卒業か?」
健司がニヤリと笑う。
『まだ猿だ。不格好な羽ばたき方を覚えただけの、羽根の生えた猿にすぎん』
「相変わらず厳しいな」
『だが、上出来だ』
健司は一瞬黙った。
魔導書が、皮肉を交えずに素直に褒めるのは極めて珍しい。
「……今、褒めた?」
『聞き間違いだ』
「いや、絶対に褒めただろ」
『黙れ、猿』
健司は声を立てて笑った。
健司は、空中の見えない足場の上で静止しながら考えた。
先日の、あの子鬼親分との戦闘を思い出す。
もし、あの時にこの力があれば。
子鬼親分へ向かって、地上の障害物を掻き分けながら真っ直ぐ走る必要はなかった。
横から来る子鬼の群れを、上空から飛び越えられた。
危機に陥った初心者の前に、空から急降下して割り込めた。
梓の斥力盾と合わせれば、完全に立体的な防御と攻撃のフォーメーションが組める。
遠距離斬撃『斬』も、空中の安定した足場から放てば、死角からの射線を作り出し、軌道を自在に変えられるかもしれない。
「これ、かなり戦い方が変わるな」
『当然だ。地面という平面に縛られた猿と、空中のどこにでも足場を作れる猿では、戦術の選択肢が根本から違う』
魔導書の言葉が、静かに響く。
『魔法とは、現実という不自由な檻に対する“選択肢”を増やす技術でもあるのだ』
健司はしばらくの間、部屋の中を自由に空中移動し続けた。
空中浮遊で滑る。
結界足場で急停止する。
足場を強く蹴る。
また浮く。
自分の身体が、三次元の空間に完全に解放されていく感覚。
楽しい。
純粋に楽しかった。
まるで子供の頃、補助輪なしで初めて自転車に乗れた時のような、あの万能感。
自分の世界が一気に広がる感覚。
健司は気づいた。
これは、ただ移動が便利になるだけの能力ではない。
今まで「床の上」だけだった自分の戦場が、「空間全体」へと広がったのだ。
この狭い部屋全体が、三次元の遊び場になったように。
いずれ、異界という広大な空間全体が、自分の完全な戦場になるかもしれない。
深夜。
健司は、ようやく結界を解いて床に降り立った。
身体は酷使の限界を迎え、立っているのもやっとの状態だ。
だが、その目は強烈な光を放って輝いていた。
「……望むところだな」
健司が、汗を拭いながら低く呟いた。
『何がだ』
「本当の訓練は、これからなんだろ?」
『分かっているならいい。空中浮遊を覚えた程度で調子に乗るな。次は、飛びながら斬る。飛びながら未来を予知する。飛びながら別の結界を張る。……複数の魔法の高度な並列処理。それが完全に息をするようにできて、初めて実戦の入り口だ』
「やること多すぎるだろ……」
『嬉しそうだぞ、猿』
「まあな」
健司は疲労で顔を歪めながらも、確かに笑っていた。
空中浮遊。
結界足場。
重力に対する、二つの答え。
彼はついに、地面だけが自分の立つ場所ではないという真実を知ったのだ。
猿は、まだ空を自在に駆ける鳥にはなっていない。
けれど、その足元にはもう、地面だけではない。
何もない空中に、自分で作り出した見えない足場が確かにある。
その先には、まだ見ぬ高さがある。
まだ見ぬ速度がある。
そして、まだ見ぬ次元の戦い方がある。
佐藤健司は、その夜、初めて三次元の空を自分のものにしたのだった。
コメント
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おつかれさま〜!第38話読んだよ!😭✨ 健司が空中浮遊と結界足場、両方の答えを手に入れる回、めっちゃ熱かった…!最初は「幽体離脱」みたいなイメージでふわっと浮く感じ、ジェットコースターで体感ごと叩き込む修行スタイル、最高すぎるでしょ。遊園地が修行場になるの、健司っぽくて好き! 最後に「地面だけじゃない」って気づくシーン、鳥肌立った…!空中に足場作って三次元戦闘する未来、めっちゃ楽しみだよ!魔導書が「上出来だ」って褒めたのも、地味にグッときた…🥺💕