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誰もいなくなったオフィスで、奈緒子は一人、受注伝票と発注表をキーボードの左右に分けてディスプレイに目を走らせていた。

時崎が辞めることは頭に入れて仕事をしてきたが、ある日突然長井が来なくなることは計算外だった。

時崎に新しい仕事は回せない。

だが、長井の穴埋めをやっているうちに、新しい仕事を営業がどんどん取ってくる。

とても業務時間内には仕事が終わらなかった。


「……お疲れ様です」

その声に驚いて振り返る。

時崎がスーツの上着を突っ掛けて立っていた。

壁時計を見上げると、22時を過ぎている。

「こんな時間に、忘れ物?」

言うと時崎は笑いながら「ええ、まあ」と言って隣の席に座った。

「おかげさまで、来週から有給貰うことになりまして」

奈緒子は視線をディスプレイに戻しながら、

「ああ、ギリ半年たったから有給が発生するのね。10日間だっけ?」

言うと、

「……白々しいですね」

椅子を回しながらこちらに垂直に向き直った時崎が、奈緒子のデスクに長い腕を置く。

「奈緒子さんが課長に言ったんでしょう。辞める人間がヘラヘラとオフィスにいると士気が下がるので、彼に有給取得させてくださいって」

(……課長め。こんなときでも自分は悪者になりたくないのか)

呆れながらキーボードの上で踊らせていた手を離し、時崎に視線を向ける。

「……何か不満でもあるの?あなただって、もうやめる会社で働きたくなんかないでしょう?

有給貰えてラッキーじゃない。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いなんてないけど」

昨日までの爽やかな笑顔はどこに消えたのか、男の目は顔に入れたただの切れ目のように、感情がなかった。


二人きりのオフィス。

自分より30cmも背が高い男。

へたしたら体重も30kgくらい重いかもしれない。

壁時計の秒針と、ドライ設定にしてあるエアコンの電子音だけが響く。

時崎が動いた途端に、オフィスチェアがギシっと派手な音を立て、奈緒子はびくっと身を竦めた。

「……何、ビビってんですか」

時崎は笑うと、発注書の山を自分のデスクに置いた。

「……ちょっと、何してんの?」

パソコンを起動させている男を睨む。

「今月末まではここの社員なんで」

言いながら、発注書にチェックを入れていく。

「山磨病院の手指消毒アルコール、食品添加物用って書いてありますけど、これって品薄だった時の代用品のままですよね。

今はもう納品も安定して入ってくるので、通常の消毒アルコールに戻して大丈夫じゃないですか?明日、聞いときますね」

奈緒子の答えを待たずに、それをディスプレイにテープで貼ると、他の発注を次々に打ち込んでいく。

「どういうつもり?今更私に恩売ったって何もなんないわよ」

奈緒子は時崎の感情の読み取れない顔を見上げた。

「もちろん下心はありますよ」

その言葉に眉をひそめた奈緒子を時崎は楽しそうに見下ろした。


「この仕事が片付いたら、一杯付き合ってもらいます」






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