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「ヒッ! 雅輝、そろそろっ、はうっ! いい加減にしたらどうだっ?」
橋本が気を失ったときよりも速度は遅いが、自分がハンドルを操作している普段の運転よりも、当然早いスピードで宮本がコーナーに突入するので、必然的に重力がぐわっと躰にかかる。
何とも言えないそれに耐えながら、舌を噛まないように宮本に話しかけるのは、正直なところ至難の技と言えよう。
「いや、あともう一往復やる」
(ヒルクライムしている最中に、どうしてそれが言えるんだ!? 頂上を上りきったあとは、そのまま下って、まっすぐお家に帰ろうぜ)
「くううっ! 仕事で疲れてるだろ。それこそ集中力がいきなり切れたら、絶対にヤバいって。ふぐっ!」
ぎゅっと握りしめているアシストグリップから、左手がまったく放せない。両足に力を入れても別方向からすぐに重力がかかるので、対応するだけでもヘトヘトである。
「絶対に集中力は切れない。というか切らさない!」
シャーベット状になった路面を、インプのステアリングを握りしめた宮本が、2時間も運転を続けていた。合間に休憩を挟んでも、タブレットを使って、走行した感想を道なりに打ち込んだりと、集中力をずっと切らすことなく、バケットシートに居座っている状態だった。
それがここのところほぼ毎日、互いの仕事が終わってから開始されるため、終わるのが午前3時ちょっと前になる。ゆえに橋本はそのまま宮本をアパートに送り届けて解散しているせいで、イチャイチャすることができない。
相思相愛になってまだ日が浅いが、ヤルことヤってる間柄なのに、橋本と顔を突き合わせたら、宮本は車の話を楽しそうにする。嬉しげな表情の宮本を橋本はうまく誘えず、まったくイチャイチャできていないのが、なんというか――。
(大事なことなので二度訴えた! だって、絶対に大事なことだろ!)
しかも睡眠時間が4時間弱な上に、毎晩宮本のクレイジーな運転に付き合ってるせいで、橋本の躰がそれを受けつけない。気持ちとしては、イチャイチャしたいのにだ。
結局は誘いたい思いを隠して、宮本を送り届けた後、自宅マンションに到着するなり、バタンキューでベッドに倒れ込む毎日を送っていた。
それもこれも榊の恋人に、宮本の運転を体験させてほしいと、頼まれてしまったことが発端だった。
この話を聞いた宮本が、開口一番に告げたことといえば。
「そういうことなら安全面を考慮しなきゃいけないから、まずは履き替えた新品のスタッドレスタイヤの表面を剥いて、雪道にしっかり対応させなきゃですね。それをするには――」
顎に手を当てるなり、遠くに目をやった宮本の思考が、橋本としては怖くて読みたくなかった。話しかけるのを躊躇うくらいに、目の前にある顔が思いつめた状態になっていただけじゃなく、先に言われたセリフで、自分もそれに付き合わなきゃならないことが予想できたから。
「あ、あのな雅輝、他にもちょっとだけ問題があるんだ」
「問題? インプに何かあるんですか?」
車のことだけを純粋に考えていた宮本に、橋本はそれを真っ先に否定した。榊の事情を伝えるべく、丁寧に話を続ける。
「恭介とおまえの出逢いを、俺らが一番最初に顔を突き合わせたときにしてほしくて。俺の気持ちをおまえが告白したことを、恭介が恋人に隠している関係でさ、そこんところをなしにしたいんだ」
「えっと、キョウスケさんにはじめて逢ったのは、俺が陽さんに叱られたときに、たまたま傍にいたということにしておけばいいってことですね。わかりました」
「運転も大事だけど、このことについても、すげぇデリケートな問題だろ。頼むから、余計な情報を口走るなよ」
念を押したのは、このときだけにした。橋本としては、宮本に運転だけ集中してほしかったのと、何か不測の事態があれば、自分が進んでフォローすればいいと考えた。
だからこそ、安全運転することだけに集中している宮本に対して、横から雑念を入れないようにしなければと「シたいんだ」のひとことが、ずっと言えなかったのである。
昨夜と変わらず、今夜も粘るように宮本は走り込み、最後のダウンヒルをした後は橋本が運転を変わって、インプのハンドルを握っていた。ここのところの疲れがわかっているので、宮本の自宅に向かうまでは話しかけずに、そっとしておく。
気遣う橋本の隣で、宮本は助手席に深く座り、今日の走りを見直すためにタブレットの操作をしながら、難しい表情を作り込む。
(笑った顔もいいけど、滅多に見られないこの顔も、結構いいものだな――)
眠そうにしている目を時折擦りながら、唇を尖らせたまま、眉根を寄せる宮本の面持ちを、橋本は横目で何度もチラチラ眺めた。自分が座っているバケットシートから、宮本の温もりを感じて、尚更胸が熱くなる。
恭介以外の男を、こんなに好きになるなんて思ってもいなかった。宮本に翻弄されればされる分だけ、心が思いっきり乱されて、いつもの自分じゃいられなくなる。
今だって、言いたいことも告げずに、見つめるだけで終わらせている行動は、自分らしくないものだった。
それでもこういうふうに言葉を交わさず、ふたりきりの時間を黙って共有するのも悪くないことに、最近ふと気がついた。
一緒にいるだけで癒される存在――とても愛おしいと思わせる宮本の存在の大きさを感じて、橋本は恋をしていることを実感する。
「あのね、陽さん」
あと2分ほどで、宮本が住んでるアパートに到着するタイミングで、不意に話しかけられた。
「なんだ?」
「今日も仕事ですよね。体調……大丈夫かと思って」
「確かに疲れは溜まっているが、空き時間を作って、こっそり昼寝してるから心配するな。それに、おまえだって同じだろ? 大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です。今日は午後からの出勤だから昼まで寝られますし、4日間留守にするんで走り込みも休める関係で、少しは疲れがとれるかと」
(4日もこっちにいないのか――)
「それって、長距離運転する仕事なんだろ? 気を抜くなよな」
「わかりました、気をつけます。だから陽さん……」
ここのところ毎晩逢っていたせいで、間違いなく宮本ロスになるだろうなと、橋本は考えついてしまった。
「なんだよ?」
橋本の中に募りはじめた寂しさが、声色になって表れる。
「疲れてるのがわかってるけど、陽さんを抱きたい」
「つっ!」
「時間が許されるのなら、本当は毎晩抱きたかったんです。だけどそれをしちゃうとほら、お互い仕事に支障をきたすでしょ。だからずっと、我慢してたんだけど――」
宮本が自分と同じ気持ちでいたことが嬉しくて、橋本は返事をせずに、喜びをぐっと噛みしめた。
「今夜はどうしても、我慢できそうにないです。できることなら、こうして傍にいたい」
シフトレバーに置いてる橋本の左手に、宮本の大きな右手が優しく重ねられた。包み込む温かさをじわりと感じて、今すぐにでも身を委ねたくなる。
「陽さんをこのまま帰したくない。仕事があるのはわかってるけど」
言いながら太い親指が、橋本の手首を撫で擦る。肌の上をなぞるようなその動きだけで、橋本は息が乱れそうになった。
「雅輝、運転中だぞ。そういうのやめてくれ」
「陽さん、俺のワガママ、きいてもらえませんか?」
最後のダメ出しとばかりに、重ねていた手を使って、意味深に手首の上を行き来させる。
「おい……そんなことまでして誘うなよ」
「だって陽さん、ずっとシたそうな顔してるくせに痩せ我慢して、毎晩俺を送ってたくせに」
「くっ!」
事実を突きつけた、宮本の焦れた声が耳に残った。
「さっきだって物欲しそうに、俺の顔をチラチラ見てましたよね。すごく我慢してるでしょ?」
「それは――その……」
「陽さんの手首、すごく熱くなってる。激しく擦ったわけじゃないのに」
隠しきれない躰の変化を知られ、橋本は恥ずかしさのあまりに、口を引き結ぶ。しかも答えを急かすように、宮本のアパートが目の前に迫っていた。
「なにもしないで、このまま帰っちゃうんですか?」
熱くなった橋本の左手から、宮本がすっと手を引く。愛しい人の温もりを逃さぬようにその手を掴みたかったが、運転中なのでそれができない。だから――。
「帰るわけねぇだろ。クソガキの我儘をきかなきゃいけないんだし」
橋本はぶっきらぼうにしれっと告げて、アパートの駐車場にインプを停車させた。辺りが暗闇に包まれているため、頬が熱くなっていることがバレていないことに、内心ほっとする。
「陽さん、ありがと!」
エンジンを切るなり宮本が顔を寄せて、橋本の頬にキスを落とす。一瞬触れただけなのに、妙に唇の感触が肌に残ったせいで、思わずその部分を人差し指で突っついてみた。
「何してるんですか。そんな可愛いことして、俺を誘わないでくださいよ」
「違っ、そんなんじゃ――」
誘ったつもりなんかまったくなかったのに、バケットシートごと抱きしめられた躰は、シートベルト以上に絞めつけられ――噛みつくようなキスが、橋本の言葉を奪った。
待ち焦がれた温もりを放したくなくて、宮本の躰を両腕でぎゅっと抱きしめる。
「陽さん、大好き……俺の願いをきいてくれてありがと♡」
ひとしきりキスをした後に、お礼を言った宮本を、橋本は顎を引きながら上目遣いで見つめた。自分を見る面持ちは、好きだという気持ちが満ち溢れていることが、暗がりでも不思議と伝わる。それを感じた瞬間、胸が軋むように痛んだ。
(愛される喜びを感じているのに、胸が痛くなるなんて変だな。幸せを感じるほどに、不安になってしまうことと、同様の原理なのかもしれない)
「雅輝……」
同じように好きだと伝えたいのに、それを口にすると、なんだか安っぽい言葉になってしまう気がして、素直に告げることができなかった。だからこそ『愛してる』なんていうのは、もっとハードルが高くなるため、絶対に言えない。
どうしようもなく好きなのに――。
「陽さん……」
「おまえの我儘は、なんでも叶えてやるさ。死ねと言われれば、喉を掻っ切って死んでやる」
橋本の言葉を待ちわびる宮本に告げたセリフは、精一杯の格好良さを表したものにしてみた。
「なんですか、それ」
微笑みながら告げた橋本の言葉を聞いた途端に、宮本の顔が一気に曇ったものになる。
「俺が陽さんに、そんなことを言うわけないのに、何を言ってるんですか。せいぜい長生きして、俺のワガママをずーっと叶えてくださいね」
「年上の俺に長生きをねだるだけでも、相当な我儘なのに、それをずっと叶えさせるなんて、雅輝はすげぇ我儘野郎だな」
宮本は文句を言った橋本の両頬を包み込むなり、おでこにちゅっとキスをする。
「俺は陽さんの隣にずっといたい。嫌われることがわかっても、どんどんワガママを言って、傍にい続けちゃうかもしれないけど」
「おまえを嫌うなんて、そんなのありえないぞ」
唇にキスをされると思ったのに、おでこにそれをされたことについて、ちょっとだけ驚いた。意表を突いた宮本は、ちょっとだけ唇を尖らせながら、橋本の顔を見つめる。
「死ぬなんて縁起でもないことなんですから、もう言わないでください」
「ぉ、おう。悪かったな」
「お願い、ひとりにしないでください……。陽さんがいなくなったら、生きていけない」
鼻にかかったぎこちない宮本の喋り方で、自分がやらかしたことを思い知った。もう一度謝ろうと口を開きかけた橋本を、宮本は更にぎゅっと抱きしめる。
息が止まるほどに強く抱きしめられた躰は、拘束される苦しさよりも、なんとも言えない切なさを感じた。だからこそ同じくらいの強さで、微妙に震える宮本を抱きしめ返す。
「俺も同じ気持ちでいる。安心しろ」
過去の恋愛で深く傷ついた宮本の心を、丸ごと包み込めるような強さが欲しいと、橋本は改めて思った。
「陽さん、大好き」
首元に顔を埋めてすんすん匂いを嗅ぐ宮本の躰を抱き直して、黙ったまま後頭部を撫でてやる。躰にかかってくる重さをひしひしと感じながら、助けを求めるように縋りつかせる原因を考えた。
自分の愛情表現が足りないせいなのか、はたまた不安にさせる言動をしているのか。同時に宮本を安心させる術も考えたのに、なにも思いつかなかった。黙ったまま頭を撫でるなんて、子どもにもできることなのに――。
(好きな奴をこんなふうに弱らせちまうなんて、どう考えても恋人失格だろ。このままでいたらきっと間違いなく、俺たちは駄目になる)
大事だから大切にしすぎて、物を失くしてしまうことのある橋本。そのせいで宮本の扱いと、自分の無力さを痛感させられた場面になった。