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篠崎の携帯に、ファミリーシェルターの店長から電話がかかってきたのは、夕方の18時を回った頃だった。
急な間取り変更のプランを作り直し、客宅に届けた篠崎はアウディに乗り込んでから、その着信にかけ直した。
『すみません、お忙しいところ…』
「いえいえ。牧村君はどうでしたか」
言うと、店長は息をつきながら言った。
『軽い脳震盪と、右足首の捻挫だけでした』
こちらも長い安堵のため息が漏れる。
「よかったですね」
『先ほど意識が戻り、自分がどんなに上手な落ち方をしたか、大笑いしながら病院で熱弁しましてね。いやあ、お恥ずかしい限りです』
「はは。何よりです」
調子のいい顔が予想でき、篠崎は片目を細めて笑った。
『セゾンさんの、なんだっけな。彼にも伝えてもらえますか?』
「ああ、新谷ですか?」
『はい。何度も心配して電話をくれたので』
ピクリと眉が動く。
「わかりました」
『それでは、すみませんでした』
店長からの電話が切れても、篠崎はそのディスプレイを見つめていた。
(……おいおい)
自分の懐の狭さに呆れかえる。
(知り合いが屋根から落ちて救急車で運ばれたんだ。心配するのは当たり前だろうが…)
自分を諭す。
それでも心のわだかまりが消えない。
新谷の流した涙が脳裏から消えない。
「くそ……」
ため息をつきながら、新谷に電話すべく携帯電話を再度視線まで上げると、
【鈴原夏希様】
「今度は何だよ……」
篠崎はため息をつきながら、通話ボタンを押した。
◆◆◆◆◆
由樹は事務所の壁時計を見つめた。
18時。もうすぐ定時だ。
定時になったら、身支度を済ませてホテルに向かうことになっている。客宅に訪問している篠崎は展示場に戻らずに直接向かうと言っていた。
「牧村さんは大丈夫だったかな」
せっかく篠崎が祝ってくれようとしているのに、頭の中は牧村のことで一杯だった。
『今日は日曜日だから!アプローチチャンスだろ!仕事もバシッとこなしてからな!』
あの言葉で浮き立った心に、ちゃんと仕事への闘志が戻った。
今日、アプローチが成功したのは半分は牧村のおかげなのだ。
『いいじゃん。楽しんで来いよ!』
牧村の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「…………」
溢れ出してきそうな涙を拭おうとしたとき、携帯電話が鳴った。
篠崎からだ。
『新谷か?』
こちらが言う前に篠崎が叫んだ。ひどく慌てている。
『客宅でトラブルだ。先にホテルに向かっててくれ』
「あ、はい。それは大丈夫ですが…」
『あとあれだ、牧村!大丈夫だったって。病室で大笑いしてるって』
その言葉に思わず息を吐いた。
「よかった……!」
『……ああ。心配すんな』
少し間があった後、篠崎は掠れた声で言った。
「じゃあ、俺、向かってますね!」
途端に元気を取り戻した由樹は立ち上がった。
『じゃあな』
篠崎の電話は切れた。
篠崎の客に起きたトラブルについては聞くのを忘れてしまったが、忙しそうなのにかけ直したら迷惑だろう。
由樹は鞄を持つと、再度安堵のため息をついてから、鞄に荷物を詰め始めた。
◇◇◇◇◇
由樹は待ち合わせ場所のホテルのラウンジのソファに腰かけた。
時刻は18時50分。
予約は19時だと言っていたので、10分前だ。
篠崎の姿はない。
携帯電話を見つめるが、着信もメールも入っていない。
「大丈夫かな」
携帯電話から視線を上げて、軽く息をつく。
日曜日のラウンジは受付に向かう家族連れ、待ち合わせる人々でごった返していた。
普段平日しかプライベートがないといっても過言ではない新谷にとって、人に溢れたその光景は新鮮だった。
何組かのカップルや家族が、レストランに吸い込まれていく。
中で待っているボーイが丁寧にお辞儀をし、席に案内している。
「…………」
大衆レストランや、焼き鳥居酒屋とはわけが違う。
自分たちがレストランに入ったら……。
あのボーイはどう思うのだろうか。
年頃の男が2人で、ホテルでディナー。
はたから見て不自然であることこの上ない。
篠崎はそういう視線は平気なのだろうか。
もし少しでも無理をさせているならーーー。
由樹は視線を下げ、アキスミンスターのカーペットを見下ろした。
(別に俺は、一緒にいられるだけで十分なのにな……)
目を細める。
本当に一緒にいられるだけで夢みたいなのに。
片思いをしていた時庭での日々を思い出す。
『俺に襲われても…辞めるなよ?』
『馬鹿な奴だな。俺は別に気にしてねぇのに』
思えば初めのころは全く相手にされていなかった。
『お前、俺のこと、好きか?』
『新谷、お前はかわいいよ。見てて応援してやりたくなるし、危険な奴らや、無駄なストレスから守ってやりたくもなる』
『でも、それだけだ』
『俺は、お前に可愛い後輩以上の感情を抱くことはない』
「…………」
思わず視線を上げる。
あの頃から、篠崎の心は本当に変わったのだろうか。
ほんの少し、ほんの少しだけ、その“かわいさ”が大きくなったというだけではないのだろうか。
そしてその“ほんの少し”が、「付き合ってもいい」「一緒に住んでもいい」というラインを、ほんの僅かにはみ出しただけではないのだろうか。
いつかその愛情が薄れた時、またラインの内側に想いが小さくなってしまった時、篠崎と由樹はどうなるのだろう。
不幸にも、いや、幸いにして、というべきだろうか。
自分たちに、婚姻という名の縛りはない。
子供というかすがいも生まれることはない。
そのときに自分は、ただ単なる“同情”という感情だけで、彼を縛り付けたくない。
もし、その時は――――。
彼を解き放つ。
彼が本当に望む幸せを、手に入れてほしい。
でもそれまでは……。
一時でも離れずに一緒にいたい。
もし、彼と離れる日が来た時に、
こうして思い出せる瞬間が、少しでも多くなるように。
◇◇◇◇◇
由樹は腕時計を見つめた。
時刻は20時を回ろうとしていた。
ここまで過ぎてしまったら、予約はキャンセルになってしまっているかもしれない。
由樹は携帯電話を見下ろした。
連絡はない。
篠崎に何かあったのだろうか。
客宅のトラブル?
何だろう。
どうしたんだろう。
電話したくなる気持ちを抑える。
電話できる状態だったら、きっととっくにしている。
今はきっとそれも無理な状況なのだ。
ディナーなど、別によかった。
誕生日なんてどうでもよかった。
自分の愛する人の身に、何もなければ―――。
(……何も、なければいいけど……)
由樹は眉間に皺を寄せながら、携帯電話を見つめ続けた。
◇◇◇◇◇
篠崎から電話がかかってきたのは、21時前だった。
『新谷、悪い。本当に、ごめんな?』
篠崎の声はひどく疲れているように聞こえた。
「俺は大丈夫なんですけど、何があったんですか?」
『それが……』
『あー』
「………!!」
新谷は携帯電話を握りしめたまま、目を見開いた。
聞いたことのある声だった。
『悪い。そっちに着いたらちゃんと説明するから』
「……あ、はい」
『そのまま待っててくれ』
電話はぷつんと切れた。
ツーツーツーツー
「………………」
それは、
鈴原夏希の娘、葵の声だった。
ラウンジにいる気にもなれなくて、由樹はコインパーキングに停めたままの自分の車に座っていた。
携帯電話を見下ろすが、あれから着信もメールもない。
子供の声なんてどれも同じに聞こえる。
赤ん坊であればなおさらだ。
しかし……
しかしあの声は、確かに葵のものに聞こえた。
葵と一緒にいるということは、当然あの女性も一緒にいる。
客宅でトラブル?
鈴原夏希は郊外のホテルに宿泊中のはずだ。
沸々と沸き上がってくる感情を振り払うように頭を左右に振る。
半年前からのディナーの予約を無駄にして―――。
祝ってくれるはずだった誕生日に―――。
自分に嘘をついてまで―――。
夏希と一緒にいるはずがない。
「!!」
携帯電話が鳴った。
しかし表示されたそれは、
知らない携帯番号だった。
◆◆◆◆◆
牧村元也は、町外れの総合病院から出ると、ごった返すタクシー乗り場の人々を見て、ため息をついた。
面会が21時までであるため、病室を出てきた見舞い客たちが、一斉にタクシー乗り場に並びだしたらしい。
自分の車は八尾首展示場にあるため、帰りの足がない。
店長は迎えに行くと言っていたが、こんなところで甘えるのも恥ずかしい。タクシーで八尾首ハウジングプラザに行ってから事務所に顔を出すことにした。
いつ乗れるともわからない列に並ぶ気にもなれず、町中までタクシーを拾うべく歩き出した。
ズキズキと捻挫した右足が傷む。
「革靴じゃなくてよかったな…」
大き目に作られた長靴のおかげで、包帯を巻かれた足でも歩くことが出来た。
少しびっこを引きながら町へ出る。
落ちた直後のことは覚えていないが、落ちた瞬間のことなら覚えている。
頭を守るために一回転しながら落下した。
そのおかげで脳震盪くらいで済んだ。
もし本当に頭から落下していたら、間違いなく死んでいただろう。
そう思うと身震いをしてしまう。
「……ふっ。これでアプローチの時、融雪機能の素晴らしさを説明する言葉に魂がこもるぜ」
前向きに考えながら、角を曲がる。
と――――。
「は?」
思わず物陰に隠れた。
「あれは――」
セゾンエスペースの店長、篠崎が歩いている。
その背には赤ん坊がおんぶされている。
隣を歩く女性。若くて金髪。えらく派手だ。
彼女が篠崎を笑顔で見上げる。
篠崎も笑顔でその顔を見下ろす。
(おいおいおいおい!)
牧村は思わず口を開けた。
(……お前今日、セゾン君とデートなんじゃねぇの?)
2人は仲睦まじく歩いていく。
女性の方が、赤ん坊の顔を覗き込む。
篠崎もそれに合わせて振り返る。
寝ているその顔を2人で見つめ、またその視線は合わさる。
一言、二言交わすと、角を曲がってしまった。
「セゾン君……」
思わず携帯電話を取り出す。
(いや……)
すぐさましまう。
(教えてどうする!教えてどうなる……!)
でも―――。
(篠崎。やっぱりあの男も、しょせんはノンケのお遊びだったってことだな……)
牧村は目を細めた。
「…………」
もう一度、今度はゆっくりと携帯電話を取り出す。
「あ」
(俺、セゾン君の番号知らねえや…)
目の前を白いものが上から下に通過した。
また雪が降り出した夜空を見上げ、牧村は息を吐いた。
「……これも運命か。神様が“やめろ”って言ってんだな」
呟きながら笑う。
所詮は他人の恋愛だ。
新谷と篠崎の問題だ。
自分が何かをする必要もなければ、彼らにそうされる筋合いもない。
思えば今まで、新谷と電話番号を交換する機会などいくらでもあった。
それでも自分たちが交換してこなかったということは、そう言うことだ。
今この瞬間に、新谷に連絡しないように。
そういう運命だったんだ。
この先新谷が傷つくような未来が待っていたら。そのときは酒にでも誘って、慰めてやればいい。
自嘲的に笑いながらスラックスのポケットに手を入れた。
「…………」
指先に何かが当たる。
取り出してみる。
名刺入れだった。
「…………」
牧村はそれを視線の高さまで上げた。
外ポケットに3枚の名刺が入っている。
そのうちの1枚を抜き出した。
【SEZON ESPACE 新谷 由樹】
「……これが、運命か……?」
牧村はそれを数秒見下ろしたが、再び携帯電話を取り出すと、そこに書かれている番号を押した。