由樹は牧村が言っている意味が分からなかった。
「今……なんて?」
『だから。篠崎さんが今、女と一緒に歩いてた。金髪の派手な女。篠崎さんは赤ん坊をおんぶしてた』
耳から滑り落ちそうになる携帯電話を、慌てて両手で支えた。
「……そう、ですか」
『お前の見解は?』
「鈴原さんは……」
『誰それ』
「あ、そのお客さんは……」
『はあ?客なの?……うん、それで?』
「床暖房の不具合で帰ることが出来ず、郊外のホテルに泊まっているはずで、えっと……何かトラブルがあって迎えに行ったのかと」
『迎えに行ったとしてなんでこんなとこ歩いてんだよ』
「………」
『ここ、病院と飲み屋とホテルしかねえぞ?!』
牧村の声はなぜか怒っているように聞こえた。
「……ホテル……」
『お前への説明は』
「客宅でトラブルがあったって」
『それで』
「後で説明するから、待ってろって」
『………』
電話の向こうで舌打ちが聞こえる。
そうだ。
篠崎は待ってろと言ったのだ。
ちゃんと説明すると言ったのだ。
それを聞かないと―――。
何もわからない。
「………牧村さん」
『あ?』
「無事でよかったです」
『……俺のことなんかどうでもいいんだよ』
「よくない」
『…………』
「俺、牧村さんが目を開けないとき、どうしようかと……」
突然目から涙が出てきた。
「………っ。………っ!」
突然嗚咽し始めた由樹に電話口の牧村はため息をついた。
『そんで。お前はそこで一人、篠崎さんの連絡を待ってんの?』
「………は、………いっ……」
牧村は音が割れるほどのため息をついた。
『………一緒に待っててやるから。場所、教えろ』
◆◆◆◆
◆◆◆
◆◆
熱さでクラクラする。
冷たいシーツの感触が肌に気持ちいい。
風邪をぶり返して、また熱が出てしまったのだろうか。
いや、違う。
頭が重い。目が回る。
咽喉が乾いた。
まずい。
物凄く酔っ払っている。
こんなに酔うのはいつ以来だろう。
そう。
篠崎が一緒だと、
あまり飲ませてもらえないから――。
「……おい、しっかりしろよ」
優しい声が響く。
苦しかった首元のボタンが外されて楽になる。
暑かったスーツの上着が脱がされる。
今日はなんでこんなに酒を飲むのを許してくれたんだろう。
いつもは止めるのに。
そうか。
誕生日だからか。
今日は誕生日。
篠崎が祝ってくれたんだった。
ホテルでディナー的な。
スイートホームで宿泊的な……。
……本当に、
祝って――くれた?
「……新谷」
支部で一番偉い秋山は、自分のことを新谷君と呼ぶ。
もう一緒に仕事をして3年になる渡辺も、自分のことをいまだに新谷君と呼ぶ。
自分のことを新谷と呼ぶのは、よく考えれば篠崎だけだ。
『おいおい。俺のこと、忘れてなーい?』
―――あ。忘れてた。紫雨さんもだ。
身体を丸めながら、フフフと笑う。
その動きに合わせてスラックスが脱がされる。
火照った太腿に、シーツがこすれて気持ちいい。
「新谷」
低い声が響く。
それに応えるように仰向けになると、自分の上に乗る身体に手を伸ばす。
相手のワイシャツに指を滑らせる。
煙草の匂い。
それに病院の消毒のような匂いが混じる。
『ここ、病院と飲み屋と、ホテルしかねえぞ?』
誰かの声が響く。
「そうか。病院だ…」
―――病院に行ってたんですね、篠崎さん。
『………そんなわけないだろ!』
先程まで一緒に飲んでた男が否定する。
『もし万一、客の子供の具合が悪くなったからって、駆けつける営業がいるか?断るだろう!普通!』
そうだよな。
『それともそこまで公私の区別がつけられない男なのか?篠崎さんつー人は!』
違う。違うはずだ。
『現実から逃げんな!あの男は……お前を………』
裏切ったんだ。
瞳を開ける。
その瞳から涙が零れ落ちる。
「新谷……」
その顔を見下ろしていたのは―――。
牧村だった。
1時間前――――。
本当に迎えに来てくれた牧村と合流し、篠崎から連絡が入るまでと約束して、パーキングの近くの居酒屋に入った。
そこでありとあらゆる可能性を思い浮かべては、牧村にことごとく否定されていった。
飲んでいたアルコールの酔いも相まって、病み上がりの不調も重なって、由樹は判断力と、篠崎に対しての信頼を、由樹に対して悪意の欠片もない牧村によって、どんどん剥がされていった。
「篠崎さん。鈴原さんに、“結婚したい”って言ってたらしいんすよ…?」
由樹はテーブルに肘をつき、目を覆いながら言った。
「言わないすよね。思ってなきゃ」
由樹の指の間から、涙が零れ落ちるのを見ながら、牧村はその手を引き剥がし、おしぼりを押し付けた。
「だからノンケなんて信じんなっつうんだよ…!」
由樹はそのおしぼりで熱くなった目を冷やしながら、肩で一度大きな呼吸をした。
「あいつらにとってはお遊びなんだ。その気はなくても、悪気はなくても、お遊びでしかないんだよ。
振り返れば、自分には女と結婚する未来だって、自分のガキを設ける可能性だってあんのを、ずっと背後に意識しながら、安心しながら、男にキスして、男に挿れてんだ」
牧村は吐き捨てるように言った。
「いつでも女に逃げられる。だから大胆になれる。好きだと愛してると簡単に口にできる。
あいつらの言葉なんて、態度なんて、全部表面だけなんだ」
「そんなこと……」
「ないか?篠崎つうのは、お前とのこと、本当に真剣に考えてるか?甘やかして好きだの愛してるだのほざいて、お姫様扱いして、自己満足してるだけなんじゃないのか?」
「甘やかしては、くれるけど……」
「ほらな。所詮おままごとだ。はなからお前のことを対等なパートナーだなんて見ていない」
「…………」
「若くて可愛い今のうちだけだ。おままごとも、お姫様ごっこも。お前がおっさんになってまで、篠崎がそんな扱いを続けてくれると思うか?」
「…………」
想像できない。由樹は俯いた。
「あの人、何歳?」
「33…」
「じゃあ、まだまだ需要ある。わかるだろ?あと2、3年遊んだってあの人は引く手あまた。いくらでもいい女を選りすぐりできる。綺麗で若い女を抱き、その中から、賢く献身的な女を選べる。
そん時にボロボロになって捨てられるのは、セゾン君、お前なんだぞ」
「………」
「俺は、お前とのデートを蹴ってまで、お前にちゃんとした説明も無しに、女と会っていたことに、納得できる理由は存在しないと思っている。
そりゃあ、言い訳するだろうよ?口がうまいからな、営業なんて。それも木造メーカートップのセゾンの店長だ。抜群にうまい言い訳で、お前は言いくるめられる。なぜなら」
牧村はテーブルから身を乗り出し、由樹を睨み上げた。
「惚れてるのはお前の方だからだ。お前だけだからだ」
「………」
「惚れてない相手になんて、何とでもいえる。そういう相手の方が、口はまわり舌は動くもんだ。お前も営業ならわかるだろ」
牧村の鋭い目が、由樹の泣きはらした瞳を刺す。
ダメだ。
論破できない。
論破するほどの経験もなければ、自信もない。
2人でテーブルの上に置きっぱなしの由樹の携帯電話を見つめた。
連絡は来ない。
「これが現実だ」
由樹の目からまた涙があふれ出る。
自分のおしぼりは先ほど由樹に渡してしまったため、牧村は仕方なく、その涙を手で拭った。
溜まらなくなり、由樹がその手を握りしめる。
片手で。
次は両手で。
その手を抱きしめるように、肩を震わせて泣いた。
「……………」
その手の甲に、関節に合わせて切り傷が続いている。
屋根から落ちた時に傷ついたのだろうか。
あんな高いところから落ちたのに。
無事でよかった。
由樹は思わず、その傷口に唇を寄せた。
真っ赤に染まった箇所に舌を這わせた。
「……いいんだな?」
牧村は由樹の携帯電話を自分のポケットに入れた。
「行くぞ」
由樹の両手を握り返したまま、牧村は立ち上がった。
「どこに……?」
牧村は答えないまま、出口に向かって歩き出した。
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