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クリスマスイブの夜、父が来ても〈今日くらいは奥さんといてあげなよ〉と追い出すつもりでいたら、夫婦でやってきたから追い出すわけにはいかなくなった。夫婦ともになぜか正装。養父母だけでなく、父の秘書兼SP的な社員も一人なぜか同行してきた。彼は黒のスーツ姿。外見通り父の黒子的な存在なのだろう。
養父母夫妻には実子がいない。子どもがいらなかったわけではなく、子どもがほしかったができなかったそうだ。子どもができなかった理由は聞いていない。
ダイニングの食卓には実母の夏海が腕によりをかけたクリスマス料理が並んでいる。今夜、たいていの家庭の食卓に並ぶのはローストチキンなんだろうが、お金に余裕のあるわが家の食卓にあるのは七面鳥の丸焼き。十人分くらいありそうな大きなそれが食卓の真ん中にででんと鎮座している。
僕がダイニングの椅子に座るなり、養父母は床に膝をついて僕の足もとで土下座した。何がなんだか分からなかったが、僕が知らないだけで何かとんでもなくよくない事態が進行中であることだけは理解できた。
「歩夢、すまない。養子にしたおまえを甘やかす気はなかったが、おれの後継ぎとして入社させたことで嫌な思いだけはさせないようにしようとこれでも気を配ってきたつもりだった」
父は今まで何十人に土下座させてきた一方、自分自身は土下座どころか頭を下げたこともほとんどないはずだ。そんな父が土下座してまで僕に詫びて、お願いすることとはいったい何だろう?
「小木歌歩のことは忘れてくれ。あの女との見合いをおまえに勧めたおれの浅はかさを恥じている。やはりあらかじめ身辺調査はしておくべきだった」
「彼女の身内に犯罪者でもいたんですか。もしそれが父さんの後継者になる身として問題だというなら僕との養子縁組を解消して下さい。僕は会社を辞めてどこか遠くで歌歩さんと二人で生きていきます」
「歩夢ならそう言うと思った。だから土下座して頭を下げている。歌歩はそこにいる夏海と同類の女だった。そんな女でも生みの親なら縁を切れないのも分かる。だが歌歩は赤の他人だ。おまえの仇は父親としておれが粛々として取ってやる」
突然自分の名を出されて、母は驚いたように父の顔を見て、そして恥じ入るようにうつむいた。
母と同類とは不倫していたということだろう。それも脅されてではなく自身の意思で。歌歩さんは独身で、僕と交際しているといっても婚約もまだ。彼女が不倫しているとしたら、つまり関係を持った相手が既婚者だということだ。
不倫相手との性の快楽に溺れる一方で不倫相手に操を立てて夫には自分の体を触らせず、金づるの役割しか求めない。母の不倫はそんな悪質なものだったが、歌歩さんも同じように僕を裏切っていたということ? とても信じられなかったが、父がここまで言い切るのだからそれは嘘ではないのだろう。もし彼女の不倫が事実であっても、僕と知り合う前の出来事ならば――
僕の淡い期待を父はいとも簡単に打ち砕いた。
「歩夢が思ったよりショックを受けてないように見えるのは歌歩の不倫が過去のことだと思ってるからか? 残念ながら現在の話だ。歌歩はおまえに残業で会えないと言い訳しながら、クリスマスイブの今夜も不倫相手たちと密会していたんだ。まあ、今さっき不倫相手の奥さんたちが不貞の現場に乗り込んで、これ以上の継続は事実上不可能になったがな」
父が言った〈不倫相手たち〉〈奥さんたち〉というのはそれぞれ〈不倫相手とほかの誰か〉〈奥さんとほかの誰か〉という意味だと受け取ったが、そのままの意味であったことをその後すぐに僕は知ることになる。
「父さん、分かったからもう土下座はやめて下さい。つまり今この瞬間彼女は修羅場の中にいるということなんですね?」
僕は自分で口にした〈修羅場〉という単語から、かつて母が不倫バレしたときの修羅場を他人事のように思い出していた。その頃は実父の清二とも同居していた。清二や兄妹の架や夢叶とともに夏海と不倫相手に対して無慈悲な制裁を実行したが、その手始めは母が見知らぬ男に襲われていると訴え不倫現場の自宅に警官たちを突入させたことだった。
僕に促されたからか、養父母は土下座をやめて立ち上がり、テーブルを挟んで僕と向かい合う形で並んで椅子に腰を下ろした。
「そうだ。歌歩が残業続きでなかなか会えないとおまえが愚痴をこぼしたのを聞いておかしいと思った。今わが社ではワークライフバランスを重視する観点からすべての部署において時間外勤務ゼロ運動を実施している。歌歩の働く経理課がそんなに激務だという報告を受けたことはない。まして新入社員で、まだ仕事に慣れてない歌歩に連日長時間の残業を命じることなど、労務管理の上でもあってはならない。秘書に指示して経理課の様子を観察させたところ、定時退勤日でなくても夜七時には全員帰宅して執務室は真っ暗になっているということだった。それからすぐに興信所に依頼して、歌歩の退勤後の動向を調査させた。歩夢を傷つける事態にならないことを願ったが、調査結果は深海の底のように真っ黒だった。歌歩は退勤後、週に二、三回男と会って食事してそのあとは男の契約したマンションに二人で入っていった。しかも歌歩の男は一人ではなかった。歩夢とはまだ婚約もしていないからほかに男がいてもそれだけでは不倫にはならないが、どちらの男も既婚者だったから結局歌歩のしていたことはただの不貞行為だった。男は二人とも職場の上司。職場不倫というやつだ。マンションにはたまに三人で入ることもあった。今夜もそう。クリスマスイブの夜ということで気分が盛り上がったのだろう。今日は世間では聖夜だが、三人にとっては漢字違いの性夜だった」
うまいことを言ったつもりなのか、父は腹を立てながらも得意顔。僕は荒唐無稽なお伽話を聞かされているような白けた気分になっていた。
「まあ信じられないわな。論より証拠。佐々木」
父の秘書らしき黒服の男は佐々木という名前らしい。彼は慣れたようにスマホとテレビのリモコンで何かの設定を始めた。
今までダイニングにあるテレビの画面にはクリスマスらしいシリアスな恋愛映画が映っていた(もちろん誰も見ていなかった)が、佐々木さんはリモコンを操作して画面を切り替えた。ライブカメラによりどこかから生中継されているらしい。
広く洒落たリビングの床に三人の全裸の男女が土下座している。カメラは彼らの正面から撮影されているが、三人とも顔を床につけているから誰かは分からない。三人の前にカメラに背中を向けた二人の年配の女性が仁王立ちしている。カメラから見て左側二人が男性。一番右側で土下座しているのが全身真っ白な肌をしたポニーテールの女性。これが歌歩さん? 確かに髪型と色白なところは彼女に似ているが――
戦意喪失の不倫カップル(三人だからカップルとは言わないか)に対して、怒りのサレ妻たちはここから一気に畳み掛けた。話から奥さんたちが元社員だったことが分かった。
「クリスマスイブに家族をほったらかして不倫? こんな家賃の高そうなマンションまで勝手に契約して!」
「私たちが社員だったのはもう何十年も昔のこと、当時も妻子持ちの男の不倫相手になって〈社内妻〉なんて呼ばれてた馬鹿女が何人かいたけど、まさか自分の亭主がそんな女を囲うようになるとは思わなかった。まあ亭主はいいや。帰ってからじっくり問い詰めるから。それより小木歌歩さんだっけ? 新入社員でまだ22歳? うちの人はあなたの二回りも年上なんだけど。隣の部長さんなんてさらに一回り上。あなた何考えてるの? あらかじめこの部屋に隠しカメラを仕掛けておいて、あなたたちの不貞行為をさっきまでじっくり見させてもらってたんだけどさ、自分の父親くらいの年齢の、しかも二人の男を相手に自分から積極的に求めて楽しんでたよね? 知らなかったよ。今は社内妻どころか社内風俗嬢までいるなんてね。そんなにセックスが好きなら、退職してそういう仕事に就けばいいんじゃないの? あなたがうちの旦那たちとのセックスで快楽に溺れてる姿を見るまではさ、あなたはきっと哀れな被害者で鬼畜な上司たちに無理やり脅されていいようにおもちゃにされてるに違いないって思い込んでた。亭主たちにどう償わせようかとそのことで頭がいっぱいで憂鬱だった。今はもうあなたのことは加害者としか見ていない。そのうち自宅に弁護士からのお手紙が届いて慰謝料が請求されるから覚悟しときなさい!」
「社内不倫はコンプライアンス上の問題があるから社内でも処分されるでしょうね。それより何より同居してるあなたの親御さんがこれを知れば、泣き出すか気絶してしまうんじゃないかしら? あなた一人娘なんですってね。あなたは自分がしてきたことをごまかさないでご両親に打ち明けることができる? そうそう。あなたには今おつきあいしている真面目な男性社員もいるそうね。あなたの本当の顔を知らずに結婚してしまう、なんてことにならなくて本当によかった。もしかしたらこれからあなたは仕事もお金も家族も恋人も、すべてを失うことになるかもしれない。でもそうなっても自業自得。くれぐれも私たちを逆恨みしたりしないでね」
「ちなみに、私も部長の奥さんも離婚するから慰謝料は高額になるよ。分割払いになるんだろうけど、もし支払いが滞ったりしたら、即座に示談書のコピーをその時点でのあなたの職場や、恋人や夫がいればその人にも送りつけるからね。文句は言わせない。小木歌歩さん、それでいいですね? 返事は?」
返事を促されたのは彼女だが、その問いかけに反応したのは浮気夫二人だった。二人はがばっと顔を上げて、口々に叫びだした。歌歩さんは相変わらず顔を床に押しつけたまま。
「離婚? 君がほしいと言っていたバッグもジュエリーもなんでも買ってあげるから、それで勘弁してくれないか?」
「馬鹿だなあ。このまま一緒に生活する方がいい生活できるのに。離婚して二、三百万の慰謝料もらったって、たかが知れてるだろう?」
馬鹿だなあと言った男は、いつか僕が歌歩さんと話してるとき邪魔するように近づいてきた経理課長の宮路修だった。宮田大夢によく似た、この上ない嫌悪感を僕に与える男。あのとき感じた言い知れない嫌な予感は最悪な形で的中した。
課長の奥さんがもう一人の奥さんを〈部長の奥さん〉と呼んでいた。確かにもう一人の、なんでもほしいものを買ってあげると懇願していた男は経理課長の上司の総務部長だった。歌歩さんの所属する経理課も僕の所属する総務課も総務部の傘下にあるから、総務部長は僕の上司でもあるわけだ。総務部長の名は田代一樹。この男とは勤務していてもめったに接点はないとはいえ、一応上司ではあるから顔も名前ももとから知っていた。たまに見かけたときは父に負けない威厳を感じたものだが、全裸で土下座している今の姿はひたすら滑稽で惨めでしかない。
この人の訓示をオンラインで聞いたことがある。
「企業人である前に人格者であれ」
自信満々にそう語っていた。とんだ人格者もあったものだ。テーブルに足を乗せるなと子どもたちに注意していた母の夏海が、そのテーブルの上で不倫相手とセックスしていたのを思い出した。不倫してる人間というのはみんな馬鹿なのだろうか。いやきっと馬鹿だからいっときの快楽と引き換えに人生を捨てられるのだろう。
経理課長夫人が文字通り腹を抱えて大笑いした。
「このまま一緒に生活する方がいい生活できるって、これから会社を懲戒免職になって退職金も棒に振る男が何を寝言言ってるの?」
「社内不倫くらいで懲戒免職? 非常識すぎてお話にならないな」
「私に言わせれば不倫が非常識なんだけど」
「歌歩とはただの遊びだ。愛してるのはおまえだけだ」
「今さら愛してるなんて言わないで! 私とはずっとレスだったよね。もうおまえのことは子どもの母親としか見れないと言って」
「宮路さんのうちも? うちもそうでした。うちの人は年を取って性欲がなくなったって言ってたんですよ。そりゃあ、ふだんから二十歳そこそこの子を抱いていれば、五十代の女なんて触る気にもなれないでしょうよ」
総務部長夫人がそう打ち明けるのを聞いて、経理課長夫人はさらに激高した。
「あなたたちはどれだけ私たちを傷つければ気が済むの? 最後にあなたが私に触れたのはもう十年以上前。私から誘っても、疲れてるって背を向けられて終わり。そのとき私がどれだけ惨めな気持ちだったか。それなのにあなたは外で自分の娘と同年代の若い女とやりたい放題。絶対に許せない!」
「違うんだ。おれもおまえとのレスは気にしていた。つまりこれはレス解消に向けた練習だったんだ」
「練習? じゃあ仕方ないわね。――なんて言うわけないでしょ。あなた何を考えてるの!」
耳が腐るとか、同じ空気を吸いたくないとか、口々に叫びながら奥さんたち二人は呆れ顔で修羅場から退場していった。残された浮気夫たちの顔に焦りの色はない。ほとぼりが冷めればそれぞれの配偶者を言いくるめることができるはずだと自信を持っているのだろう。
歌歩さんに婚約間近の交際相手がいることを二人の男が知っていたかどうかは定かではないが、少なくとも歌歩さんは分かっていて不倫していたわけで、僕はこれ以上はないと思えるくらい最悪な形で恋人の女性に裏切られた。もしかすると恋人だと思っていたのは僕だけで、彼女はそれとは違う存在として僕を見ていたのかもしれない。
今まで僕はこの非現実的な状況をどこか他人事のような気分で眺めていた。最愛の女性がほかの男に寝盗られたという現実を脳が受け入れられなかったのだと思う。
でも今、歌歩さんは妻とセックスするための練習台に過ぎなかったという経理課長の発言を聞いて、初めて僕の両目から涙がこぼれ落ちた。
もちろん、歌歩さんとの行為が妻とする前の練習台だったというのはとっさに出た下手な言い逃れだろう。その発言が僕より歌歩さんを傷つけるものだった、ということも理解できないわけじゃない。
とはいえ、僕とはまだやっとキスを交わしたばかりだった歌歩さんが、僕の父親世代の男たちに日常的に性欲解消の道具扱いされていたという非情な現実を覆い隠すすべを失って、僕の精神はこのときついに崩壊した。
「佐々木、歩夢を撮って向こうに見せてやれ」
父がそう言うと佐々木さんは僕の正面に回り込み、涙腺が崩壊した僕の動画撮影を開始した。
「父さん、やめてよ。何を考えてるの?」
ほどなく向こうのリビングのテレビの画面にみっともない僕の泣き顔が映し出されたのが見えた。
「誰だ?」と田代総務部長。
「歌歩が見合いして交際している相手で、総務課主任の佐野歩夢です」と宮路経理課長。
突然僕の名前が出てきて驚いたのか、歌歩さんは弾かれたようにこのとき初めて顔を上げた。別人ならいいのにという僕のかすかな希望は打ち砕かれ、夢に見るくらい心に焼きついている彼女の顔だった。呆然とした表情。憔悴しきっているせいか、胸を隠すことも忘れている。きれいな体だなと思った。上司二人にさんざん汚された体だなんてとても信じられない。恋人として彼女の裸を見たいと思うこともあったが、こんな形でそれが実現するとは夢にも思わなかった。
浮気が僕にバレたと知った彼女は僕の泣き顔を見ても、開き直るでも僕を馬鹿にするでもなかった。顔を横に向けてテレビ画面の僕の姿を認めるや、ごめんなさいと叫んでまた顔を床に押しつけた。
宮路課長は歌歩さんに僕という交際相手がいることをやはり知っていた。正式な交際相手がいる女に手を出すことに対して、宮路課長と田代部長に何の罪悪感もなかったことは今までの言動で明らかだ。かえって二人で間抜けな寝盗られ男の僕を馬鹿にして笑っていたのかもしれない。
ただ、さっきの歌歩さんの反応を見る限りは、宮田大夢と夏海のケースとは違い、歌歩さんまで不倫相手たちと一緒になって何も知らなかった僕を笑っていたわけではないと信じたい。
サレ妻たちが退場して、もうそうする必要はないとばかりに不倫上司たちは立ち上がり床に散らかったそれぞれの衣服を着込み、やれやれと言わんばかりにリビング中央のソファーに腰を下ろした。相変わらず裸で土下座を続ける歌歩さんを一瞥して、田代部長はテレビ画面の僕に語りかけた。
「そうか。今回の黒幕は君か」
と言われたとき、なんのことか分からなかった。
「僕らだって家庭を壊すつもりはない。バレないように遊んでいたんだ。実際、妻は僕の浮気にずっと気づいていなかった。君が知って僕たちの妻にそれを伝えて、興信所の職員まで使って今日浮気現場に乗り込ませたということか。君自身が乗り込んでこなかったのは、君と小木君がまだ婚約もしておらず小木君を制裁する資格がないからだろう?」
それをしたのは全部養父の守だ。間抜けな僕はあなたたちの奥さんたちと同様に、恋人の裏切りなんて一度も疑わなかった。離婚を叫ぶ面倒な妻たちがいなくなり、不倫上司二人は余裕綽々の表情。
「佐野君、この状況でそれを言っても説得力に欠けるかもしれないが、それでもこれだけは言わせてほしい。君の恋人の小木君は決して軽い女ではないし、浮気性なわけでもない。実際、彼女が生まれて初めて体を許した相手は宮路課長だった。宮路君、間違いないね?」
「間違いないです。社内妻にする女は入社まもないうぶな女だけと決めてますが、それでも処女なんてほとんどいません。歌歩にとって初めての相手だったおれは特別な男だったんでしょうけど、おれにとっても歌歩ほど男の征服欲を満たしてくれる女はいないわけで、勤務中と同様に従順でおれの言うことをなんでも聞いてくれる歌歩とのセックスはおれにとっても特別なものでした」
「よけいなことは言わなくていい。僕はただ、できれば小木君と別れないでほしいと佐野君にお願いしたいだけなんだ。小木君が僕らとの情事を自分から積極的に求めて楽しんでいたとか、セックスの快楽に溺れていたとか、そのような発言がさっき宮路君の奥さんからあったが、それはうぶな彼女が遊び慣れた僕らに抗えず言いなりになった結果そうなっただけだ。経験の少ないうぶな女ほど、一旦性の喜びを知れば身も心もそれを与える男の思い通りになるもので、彼女もそうだった。とはいえ貞操観念が壊れたわけではないから、彼女は決して僕ら以外の男と関係を持とうとはしなかった。彼女が君と見合いして婚約間近だったことは知っている。彼女と君の見合いは僕がお膳立てしたものではなかったが、渡りに船であったし彼女の幸せを願う父親のような気持ちで僕は君たちの交際を応援していた。もちろん君たちの婚約が成立したら僕らはおとなしく身を引くつもりだった。僕らは今までだって社内妻とした女性社員と別れるときは、必ず将来有望な男性社員を紹介して結婚まで後押ししてきた。彼女たちは結婚後は退社して専業主婦となり、みな良妻賢母として幸せな結婚生活を送っている。僕らは彼女たちの亭主たちの出世も後押ししてきた。中には僕の後押しで支店長になった者もいる。佐野君、もし君が今回の件を小木君の結婚前の過去の出来事の一つと割り切り、彼女を許し彼女と結婚して幸せにしてくれるなら、僕らはできる限りのことを君にすると約束する。彼女は僕らと別れたあとは決して君を裏切らないだろう。どうか彼女との交際を継続してもらえないだろうか」
深く頭を下げた田代部長を見て、なんて身勝手な男なんだろうと呆れた。〈過去の出来事の一つと割り切り〉と言っていたが、僕だって歌歩さんが僕と出会う前に恋の一つや二つは経験してきたのだろうとは漠然と考えていた。まさか入社後まで守り続けた処女を既婚上司の宮路なんかに捧げていたなんて夢にも思わなかった。
ただこんなものは恋ではない。遊び慣れた男が経験の少ないうぶな女に目をつけて、言いなりにして性欲解消のおもちゃとして利用しただけだ。後腐れがないように別れる際に部下の男をあてがい、せめてもの償いとして何も知らずに自分たちのお古を押しつけられた男の出世を後押しする。そんなことが社内で長年の慣習のように行われていたことに驚くと同時に、悪い上司たちに目をつけられて社内妻とされていた歌歩さんを哀れに思った。
田代部長の話を聞いているうちにあっけに取られて、いつしか涙も止まっていた。沈黙する僕を見てもう一息で言いくるめられると思ったのか、田代部長はさらに僕の説得を試みる。
こんな斜め上なかばい方をされて歌歩さんもうれしいはずはないが、彼女は相変わらず裸でじっと土下座したまま。表情はうかがえない。全裸で土下座し続ける彼女の背中を宮路課長が隣からいやらしい目つきで見下ろしているのがこの上なく不快だった。
「僕らの関係は小木君が佐野君と婚約するまでの割り切った関係だった。僕らに体は許しても、小木君が愛していた相手は間違いなく君だった。社内妻とはそういうものだ。社内妻と聞けば貞操観念に欠けた仕事のできない女性社員がなるものだと思ったかもしれないが、決してそんなことはない。このことは本当は誰かに漏らしてはならないことになっているが、特別に君に教えてあげよう。実はわが社の社長の夫人も結婚前は当時の上司の社内妻だった。彼女は入社当時から優秀な女性だったが、飲み会で酔いつぶれたときお持ち帰りされたのをきっかけに直属の課長の社内妻になった。その課長はひどい男で彼女は三度も堕胎を余儀なくされた。彼女に飽きた男は部下をあてがって彼女を捨てた。そのとき何も知らずに社内妻をあてがわれた部下こそ現在の社長だった。結婚後何年経っても子どもができなくて夫婦で検査を受けた結果、過去の度重なる無理な堕胎がたたって妻はほぼ妊娠できない体になっていることが分かった。泣いて謝るだけの妻と呆然となって会社に行く気力も失った夫の代わりに復讐に立ち上がったのは夫の実父である先代社長だった。激怒した先代社長は当時はまだ建設業界と暴力団に繋がりが残っていた時代だったから彼らにすべてを委ねて血も涙もない復讐を執行した。夫人の上司だった男はそれからまもなく失踪した。おそらく殺されたのだろうが、いまだに死体も見つかっていない。上司の家族もヤクザたちに財産を食い潰された挙げ句、一家離散となった。三人いた上司の子どもたちは全員施設に引き取られたと聞いた。意外だったのはどれだけ先代社長が強硬に離婚を主張しても、現社長が首を縦に振らなかったことだな。結局現社長夫妻は子宝に恵まれなかったから、現在わが社には社長の後継者がいない。わが社に入社させた私の息子はただの親馬鹿でそう思うのではなくほかの誰と比較しても優秀で、将来わが社の看板を背負うのにふさわしい人材だと私は自信を持って断言できる。佐野君、ぜひ君に私の息子の右腕になってもらいたい。将来社長となる私の息子の右腕となれば、君の出世もほしいままだ。小木君と結婚して幸せな家庭を作り、僕の息子の右腕として望み通りの出世を遂げる。素晴らしい未来だとは思わないか。僕に小木君だけでなく君の人生の後押しもさせてもらえないだろうか」
僕の人生の話などどうでもよかった。養父母に子どもが授からなかった理由をこんな形で知ることになって僕はひたすら困惑していた。父の顔を見るのが怖かったが、思い切って見てみた。養母は悄然と肩を震わせていたが、その隣で父は――笑っていた。本当に怒ったとき笑顔になる人間もいる。父はそういう人種だった。笑いながら人を惨殺することのできる快楽殺人犯の笑顔のような父の笑顔を見て、僕は戦慄した。
さて、田代部長はただの不倫相手でしかなかった歌歩さんやその交際相手の僕の幸せのために少なからぬ手助けをしてくれるそうだ。誰が僕らの幸せを壊したと思ってるのだろう? あしながおじさんにでもなったつもりなのだろうか? あしながおじさんは手助けした孤児の少女に体を差し出せなんて要求はしなかったはずだ!
怒りの濁流に飲まれて言葉を失った僕の代わりに反論したのは、田代部長たちによって社内妻にされていた歌歩さん本人だった。彼女はふたたび顔を上げてソファーに座る田代部長を見上げるように反論を始めた。今度も体を隠すことを忘れている。僕は美しい胸の膨らみに気を取られることなく、彼女の一言一句を聞き逃すまいと集中して聞いた。
「部長、もうやめてください。私が部長や課長の言いなりになったのは間違いでした。初めから間違いだと分かっていたんです。仕事でミスをするたびに同じ課の先輩に責められて、助けてくれる課長にすがるようになり、課長の誘いを断りきれず、よくないと頭では分かっていたのに不倫するようになってしまいました。職場で先輩に長い時間きつい言葉で叱責されるのもつらかったけど、課長の奥さんに申し訳ない気持ちが消えなくて不倫するのはもっとつらかった。そのうちいやいや不倫するのがつらいなら不倫を積極的に楽しめばいいんだと思うようになり、開き直った私は課長の求めにすべて応じるようになり、課長の指示で部長にも抱かれるようになり、ときには同時に二人から抱かれるようにもなりました。そんな自分自身を汚らしいと嫌悪しながら、私は不倫の快楽に溺れていきました。不倫に溺れている汚らしい身でありながら、それを隠して歩夢さんと見合いして交際してもらえることになりました。バレなければ誰も傷つかないと課長に言われて、馬鹿な私はなるほどと思いました。思えば私は昔からそうでした。現実逃避した先にあるものも結局つらい現実でしかないと頭では分かっていても、嫌なことがあるとその場しのぎに逃げようとして、もっと事態を悪化させる。全部間違っていたんです。私は目先の苦しみから逃れるために心を捨ててしまいましたが、歩夢さん、あなたはどうか心を捨てないでください。悪い夢を見ていたと思って、私のことは忘れてください。私はどうかしていました。ずっと裏切っていて本当にごめんなさい!」
今まで悄然と土下座していただけだった彼女が初めて激しい感情を露わにして号泣した。
「おい、歌歩! あんなに楽しんでいたくせに、今さら被害者ぶるんじゃない。なんなら今ここで佐野におまえがおれたちとした行為を撮影した動画を見てもらおうじゃないか。全部見るためには朝までかかりそうだがな」
「やめなさい!」
下衆なことを言い出した宮路課長を、田代部長夫人が一喝した。帰宅したと思われた夫人二人がまたリビングに入ってきた。
「私たちがいたら本心を言わないだろうと思って、いなくなったふりをして部屋の外からあなたたちの会話をずっと聞いてました。自分の下の世話をさせた女を何も知らない部下の男に押しつける。そんなひどいことをずっとやっていたみたいね。社内妻になった女はみんな幸せな結婚生活を送ってる? それなら自分も社内妻だった女と結婚すればよかったじゃない。人にはお古の女を押しつけるくせに、自分が人のお古を押しつけられるのは嫌なんでしょ。勝手なものよね。そんなあなたと結婚して私は全然幸せじゃない。それから、彼女の幸せを願う父親のような気持ちって何? あなたは自分の娘で性欲を処理する変態だったの?」
宮路課長夫人はうずくまって嗚咽する全裸の歌歩さんの隣に腰を下ろし、自分の着ていたコートを冷え切っているであろう彼女の背中にそっと掛けた。
「あなたのことを社内売春婦だなんてひどいことを言ってしまってごめんなさい。やっぱりあなたは被害者だった。上司が部下のミスをフォローするのは当たり前なの。あなたをしつこくいじめた先輩社員っていうのも、実は主人とグルだったんじゃないかしら? それは上司が部下の若い女を落とすための常套手段の一つなの。私が社員だった昔にもそうやって部下の女を落として飽きるまで不倫していたクズ上司が何人もいた――」
宮路夫人は夫をにらみつけた。視線で人を殺せるならそれが実現できそうな、憎しみのこもった視線だった。
「あなた、歌歩さんを撮影した動画とやらを全部差し出しなさい! そして心から謝って慰謝料もこの人に支払いなさい!」
宮路は肩をすくめて、投げやりに言葉を吐き捨てた。
「分かった。離婚して慰謝料がほしいとおまえも言ってたな。離婚もするし、慰謝料も歌歩にもおまえにも払ってやる」
すべてを知られて、宮路はもう取り繕うことをやめた。本性を丸出しにして逆襲に転じた。
「その代わり、離婚するならおまえの実家が家を建て替えるときと家業がうまくいってないときに貸してやった合計五千万円を即座に回収させてもらうからな。こんなこともあろうかと借用書を公正証書にしといて正解だったぜ。知ってるか? 公正証書ってのは裁判所の判決と同等の効力を持つんだぜ。それを根拠に預金や不動産の差し押さえだって何だってできてしまうんだ」
「あなたという人は!」
「若い女をベッドの上でひいひい泣かせるのも楽しいが、馬鹿な女に身のほどを教えて絶望させるのも一興だな。おまえの両親もかわいそうに。年取ってから愚かな娘のせいで家も会社も失うんだから」
宮路は次に嘲笑の矛先を歌歩さんと僕に向けた。
「歌歩、部長の気持ちは素直に受けといた方がいいぞ。おまえが今回の縁談を断り、ほかに男を作ろうとしても、何かの間違いでおまえの恥ずかしい動画がその男のもとに届くということもあるかもしれないしな。それから、佐野、おまえもそうだ。入社三年で主任昇進はたいしたものだが、平社員には変わりない。人事課も傘下に収める総務部長を敵に回すことがどういうことか、分からないおまえでもあるまい。おまえの上司の総務課長はおれの後輩だ。おまえの返事次第ではおまえも歌歩のように職場内のいじめで心を病むことになるぞ」
「あなたは鬼だ」
「鬼? 鬼でけっこう。小さな幸せに一喜一憂するつまらない人間として生きるより、そんなやつらを食い物にして金にも女にも不自由しない鬼として生きる方がずっと楽しいからな。それにおまえは本当の鬼を知らないだろう? おれが鬼だとしても所詮小物の鬼だ。まだ人を殺したことはないからな。現社長は本物の鬼だぞ。あの人の弟の清二さんもわが社の社員だったんだが、十年前、弟嫁さんの不倫が発覚してな。自分の奥さんが過去の不倫のせいで不妊になったこともあって、社長はほかの何より不倫を憎んでいた。社長はおろおろするばかりの清二さんに代わって徹底的に復讐して、弟嫁の不倫相手の一族が経営する会社を倒産させ、一族を借金漬けにした挙げ句、不倫相手の男とその両親を自殺に追い込んだ。清二さんは不倫した妻と離婚したが、それから五年後、何があったか知らないが、社長の逆鱗に触れて絶縁されて会社からも追い出された。身内の敵を無慈悲に制裁し、その身内でさえ気に入らなければ簡単に放り出せる。先代社長は恐ろしい人だったが、現社長も今ではそれ以上の鬼になった。敵にしてはいけない人間とはああいう人を言うんだろうな」
あなたが〈本物の鬼〉と呼んだその人なら、今僕の向かいに座り腕組みをしてテレビ画面の中のあなたをにらみつけてるよ。そっちのテレビ画面には僕しか映ってないのだろうけどね。
と、そのとき父が動き、椅子に座る僕に寄り添うように立った。その位置なら向こうのテレビ画面にもしっかり映り込んでいるだろう。
「佐野社長!」
と叫んだのは宮路課長だった。田代部長はテレビ画面を見つめたままフリーズしている。
「田代、長年私の右腕として仕えてきたおまえなら私に歯向かった者たちの末路を知らないわけがないだろう? なぜ今回私に刃を向けた?」
「信じて下さい! 私は今まで社長に歯向かったことなどただの一度もありません!」
田代部長はカメラの前でふたたび土下座を始めた。さきほどの土下座と違ってなりふり構わぬ必死の表情。それを見て、宮路課長もすぐに田代の隣で同じ姿勢になった。二人とも歌歩さんと彼女に寄り添う宮路夫人の姿などまるで見えていない。
歌歩さんは相変わらずコートだけかけられた半裸の状態。まず上司たちとの不倫現場に奥さんたちに踏み込まれ、次に社内不倫を交際相手の僕に知られた上に、まさかの社長の登場。彼女の脳の処理能力をはるかに超える事態に直面し、どういう反応をしていいか分からず混乱しているようだ。
父は笑っていた。田代も宮路も殺すつもりなのだとこのとき知った。
「さっき宮路課長が言っていたとおり、私は不倫を、特に社内不倫を憎んでいる。それを知っていてこの振る舞い。私に歯向かっているとしか思えない。しかもおまえたちはよりによって私が息子の嫁にと考えた女子社員を、策略によって不倫関係に引きずり込み、それを息子に隠して二人を結婚させようとした」
「息子? 社長、あなたにご子息はなかったはずでは?」
「五年前、弟の清二と絶縁したとき、清二の実子の歩夢を養子とした。三年後に歩夢を課長に昇進させるときに私の後継者であることを大々的に公表するつもりだった。おまえたちのおかげでそのタイミングがずいぶん早まることになった」
「佐野歩夢が社長の後継者……?」
すでに田代と宮路の目はうつろだった。どんな制裁をされるかと考えて、目の前が真っ暗になったのだろう。
「宮路課長の後任は歩夢にする。田代の後任、つまり総務部長職は社長である私が兼務する。おまえたちのような不良社員を要職につけてしまった責任を私も取らねばならないだろうからな」
「後任? 私たちはクビということですか?」
「クビ? まさか私の手を煩わせるつもりではあるまいな。私が弟の清二と絶縁した理由を教えてやる。嫁に不倫されたあいつまで不毛な不倫に走ったからだ。おまえたちが言うとおり私は鬼なのだろう。身内相手でさえ冷酷に制裁できる私が、赤の他人のおまえたち相手に手加減するわけないことは理解できるな? 時間を三日やろう。そのあいだに自分の身の振り方を決めることだ」
「身の振り方?」
「おまえたちの土下座など一円の価値もない。まだ若い歩夢でさえ、私たちとの戦いに敗れた相手が土下座して許しを乞うてくるのを嫌というほど見せられてきたはずだ。今さら私たちはおまえたちの苦し紛れの土下座に心を動かされることはない。おまえたちがどうすることが会社にとってもっとも利益になるのか。その目的に合った行動をしろ。以上だ」
父の言うとおり、僕は今まで十人以上の人に土下座されてきた。その一つ一つはいちいち覚えていないが、一つだけ鮮明に覚えている土下座がある。
十年前、当時僕は十五歳、中学三年生だった。クラスメートに宮田有希という女子生徒がいた。有希は人望が厚く、推薦されて生徒会副会長を務めていた。また体格のよさを活かして中学の三年間バレーボールに打ち込み、初戦敗退ばかりの弱小校を県大会ベスト8の偉業を成し遂げるまでに変貌させる原動力となった。しかも宮田工務店という地元の人間なら知らない者がいない大企業の次期社長の娘なのだという。いわゆる高嶺の花。勉強がちょっとできること以外なんの取り柄もない僕と彼女のあいだには、当然のことながら何の接点もなかった。
校内では何の接点もなかったのに、校外では接点ができてしまった。佐野家と宮田家の争いは夏に始まり、秋になると宮田家の方は総崩れとなっていた。青息吐息の状態の宮田工務店は連日幹部たちが無駄な会議を繰り返し、金策に走り回っていた。
十一月最初の土曜日の朝九時、兄の架が宮田大夢の家に乗り込むぞというからついていった。大夢は有希の父親で、宮田工務店の専務。次期社長の呼び声が高かったが、残念ながらそうなる前に会社自体がなくなってしまった。
大夢の家に乗り込むと、兄の言うとおり大夢も妻の樹理も不在だった。社長宅で家族会議が行われていて、二人ともそれに参加してるはずだという。立派な家だがすでにこの家の所有権はこの一家にはなく、今年中の立ち退きを求められてることは分かっている。
大夢の娘二人と息子一人が、アポなしで突然訪問してきた僕らを土下座して出迎えた。長女で十七歳の雫、次女の有希、長男で十三歳の和弥。三人とも父親の大夢に顔がどことなく似ていて僕の怒りをさらにかき立てた。それをいえば僕の兄の顔も大夢によく似てるが、それは見て見ぬふりをするしかない。
長女の雫が額を玄関の床にこすりつけたまま必死に意見する。
「あなたたちの怒りはもっともだと思う。親だからといって私たちはなんでも両親の味方をするわけじゃない。ただこのままでは私たちは一家でホームレスに身を落とすしかない。お願いだから話を聞いてほしい。あなたたちと私たち、どちらも不幸にならない落としどころがきっとあるはずだから」
何を調子いいことを! おまえらの生殺与奪の自由はすでにこっち側にある。対等に話し合いなんてするわけないじゃないか!
僕は心の中でそう毒づいたが、架はあっさりとその申し出に応じた。
「歩夢は外で和弥君と待っててくれるか。おれは中で二人と話する」
兄がそう言うなら仕方ない。僕は僕より二歳年下の末っ子と庭で話した。初めは話すだけにするつもりだった。でも無理だった。気がつけば和弥に殴る蹴るの暴行を加えていた。和弥は完全に無抵抗だった。広い庭だから暴行していても誰にも気づかれず通報もされなかった。
昼頃、架が呼びに来て、宮田大夢の家のダイニングで姉妹の作る昼食を食べた。姉妹は無口で、ぼろぼろにされた弟を見ても何の反応も示さなかった。そのときの昼食がなんだったか覚えていない。昼食後、僕はまた和弥への暴行を再開し、兄と姉妹も話し合いに戻っていった。
「何をしてるの?」
と近くで叫ばれて、僕はようやく暴行をやめた。もう夕方になっていた。外からこの家の主人の宮田大夢と妻の樹理が帰ってきたところだった。
「あなた、夏海の次男の歩夢君だよね? 勝手に人のうちに入り込んで何をやってるの?」
樹理は、虫の息になっていたぼろぼろの和弥を僕から奪い取った。視線で殺せるなら殺してやりたいと思う気持ちが伝わってくるほどにらまれた。僕はふっと鼻で笑ってやった。
「勝手に人のうちに入るな? そんなのはまずあなたの夫に言ってくださいね。あなたのご主人、僕の父に黙ってうちに入り込んで、僕の母とセックス三昧だったんですから」
何も言い返せず、樹理は大夢をにらみつけることしかできない。〈人でなし!〉などと僕を責めれば、〈じゃああなたの夫は?〉と言い返されるだけだから何を言っても仕方ない。
「夏海とはただの遊びだったんだ。許してほしい」
大夢が次女の同級生の僕の前で土下座した。今日は土下座のバーゲンセールだな。そんなもの一つもいらないけどね。僕はにっこり笑って、
「僕らが今やってることもただの遊びですから、おあいこですね」
と言い返したら真っ青な顔になった。今さらどんなに後悔しても遅い。あんたと夏海が死体になるまで僕らの復讐は終わらない。
大夢夫妻と和弥は僕を無視して、というか僕を避けるように家に入っていった。樹理の断末魔のような悲鳴が轟いたのはそれからまもなくのことだった。
「きゃあああああああ……」
大夢はわが家の夫婦の寝室で母の夏海と性交することを好んだ。架もきっと宮田家の夫婦の寝室で合意の上で姉妹と性交したに違いない。ただの遊びとはいえ、復讐に慈悲は似合わない。
問題は兄と姉妹が遺伝子上は異母兄妹であることだが、兄が大夢から認知されてるわけでもないから法的にはただの他人。近親相姦にはなるまい。また近親相姦になったところで、姉妹とその両親の悲しみが深くなるだけだから、復讐としては大成功だ。まったく問題ない。
その日以降、宮田有希は登校しなくなった。翌年の夏に元気な男の赤ちゃんを産んだ。成長するにつれて祖父の大夢に似てきたが、大夢は自死した時点ですでに許されている。赤ちゃんが大夢に似ていくことを嫌悪する者は誰もいなかった。