コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
春の終わり。 夜の雨が冷たかった翌朝、いつもなら一番に登校してくる莉月の姿が教室になかった。
「白川、今日休みだって」
翔真の一言に、光希――いや優希の手が止まった。
「……休み?」
「うん。昨日ちょっとフラフラしてたし、風邪じゃね?」
優希の胸がざわついた。
授業の終わるチャイムが鳴ると同時に、優希は教室を飛び出した。
気づけば、足は迷わず莉月の家の前に止まっていた。
チャイムを押すと、少ししてドアが開いた。
「……優希?」
ぼんやりした声。
頬は赤く、額にはうっすら汗。
その顔を見た瞬間、優希は息を呑んだ。
「ちょ、寝ててよ。出てきたら悪化するでしょ」
「鍵、閉めっぱなしだったから……」
「ほんと世話が焼けるんだから」
優希は呆れたように言いながら靴を脱いで中に入った。
部屋の中は静かで、少し熱っぽい空気が漂っていた。
机の上には散らかったノートと薬の袋。
莉月を布団に戻し、優希は濡れタオルを作って額に乗せた。
「……冷たっ」
「我慢しなって。高熱だよ、三十八度超えてる」
「マジか……」
「ほら。寝ときなよ」
莉月は小さくうなずいて目を閉じた。
その横顔を見ていると、昔を思い出す。
風邪を引いて寝込んでいた優希を、莉月が家までプリントを届けに来てくれたことがあった。
あのときも同じように、「寝てろ」って言われたのだ。
(……今、逆になってるんだな)
少しだけ笑って、優希はそっと椅子に座った。
どれくらい時間が経っただろう。
外の光が夕方色に変わるころ、莉月がゆっくり目を開けた。
「……優希?」
「起きた? 熱、少し下がってきたよ」
「お前……ずっといたのか?」
「まあね。ノートまとめてたし」
机の上には、丁寧にまとめられた授業ノートが置かれていた。
莉月はそれを見て、ふっと笑う。
「お前、ほんと真面目だな」
「真面目なんじゃなくて、ほっとけないだけだよ」
優希は照れくさそうに目をそらした。
「……昔、お前が俺の看病してくれたの、覚えてる? あれ、けっこう嬉しかったんだよ」
「はは、そんなこともあったっけ」
「だから今日は、俺の番」
そう言う優希の声は、どこか優しくて、あたたかかった。
莉月はそれを聞きながら、再びまぶたを閉じた。
カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込む。
静かな寝息が部屋に広がり、時計の針の音だけが小さく響く。
優希は寝顔を見つめながら、そっと前髪を直してやった。
「……いつも強がってるくせに、熱出すとすぐ弱るんだから」
苦笑しながらつぶやく。
だけど、その弱った表情が、どうしようもなく愛おしく見えてしまった。
心の奥がくすぐったくて、優希は少しだけ目を逸らす。
そして、小さな声で続けた。
「……早く良くなれよ。お前がいないと、なんか変なんだ」
その瞬間、布団の中からかすかな声が返った。
「……優希、いる?」
「いるよ。ちゃんといる」
「そっか……なら、もうちょっと寝てていい?」
「うん。好きなだけ寝とけ」
優希は微笑んで、再び椅子に腰を下ろした。
夜。
熱もだいぶ引き、莉月がゆっくり体を起こした。
優希が差し出した水を飲んで、ふっと息をつく。
「……ありがとな」
「ううん、いいって。放っておけないだけ」
「……でも、嬉しかったよ」
そう言って笑う莉月の表情は、少し照れていて、どこか子供みたいだった。
“光希”じゃなく、“優希”と呼ばれたその響きが、優希の胸をあたたかく満たしていく。
「今度、元気になったらさ。飯作るよ。お礼に」
「ほんと? じゃあ期待してる」
二人の笑い声が、夜の静けさに溶けていく。
部屋の灯りはやわらかく、カーテン越しの風が心地よかった。
優希はそっと立ち上がり、振り返って微笑む。
「じゃあ、また明日」
「うん。……おやすみ、優希」
玄関を出た瞬間、夜風が頬を撫でた。
ほんの少し冷たいその風が、なぜか心地よく感じた。