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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ロンドン支店で仕事というのは建前。
本音は彼女を驚かせたい。
そして、メールの嫌みをいくつか言って、困った顔をさせて最後に笑顔で終わらせる。
完璧だった。
「壱都さんにこんな一途な面があったとは思いませんでしたよ」
「黙れ、樫村」
彼女の留学に合わせて、ロンドンにやってきた―――が、仕事だ。
そうあくまで仕事。
自分にそう言い聞かせた。
ピカデリー沿いの公園の隣にあるホテルに入った。
白の大理石に金色のラインが入った床の上を歩く人の中でカジュアルな服装をしている人間は誰もいなかった。
このホテルは伝統と歴史あるホテルでドレスコードが決まっている。
ここのホテルに泊まっているようなイメージはなかったが、井垣会長が気を利かせたのだろうか。
そう思って歩いていると―――
「壱都さんっ!嬉しい!会いにきてくださったの!?」
「紗耶香さん?」
なぜここに紗耶香さんが?
留学日程は間違っていないはずだ。
俺はメールでもさりげなく確認したからな。
その点はぬかりがない。
紗耶香さんは派手なピンクのスーツを着ていた。
いくらドレスコードがあるとはいえ、そのド派手なブランドスーツは似合っていなかった。
「井垣の家に留学期間を問い合わせてきたって聞いて。私にお会いしたいんじゃないかと思ったの」
は?
俺が会いたい?
ぎろりと隣の樫村を睨んだが、樫村が悪いわけじゃない。
井垣の家で娘と言えば、紗耶香さんの方だと思われるのは当たり前だ。
朱加里はまるで使用人のように扱われていると聞いている。
今は仕方のないことなのだが―――
「どこに連れてってくださるの?」
なぜそうなる。
俺が紗耶香さんを好きだと一言でも言っただろうか。
だが、ここで冷たくあしらっておかしく思われても困る。
ここで印象を悪くすることは今後のマイナスになることをわかっていた。
―――まだ早い。
なにもかもが。
「いえ、仕事の都合でこちらに立ち寄りました」
「私の予定が知りたいって聞いてきたのに?」
「そうですね。勉強の邪魔にならないようにと配慮したつもりでした」
「ここで会ったのは偶然だっていうの?」
なかなかしぶとい。
スッポン並みの食い付きだ。
「そうですね。世間は狭い」
「てっきり壱都さんは私に興味があるって思っていたけど、私の勘違いなのかしら?」
ホテルで会ったことを言っているのだろうか。
紗耶香さんは一歩前に出た。
おいおい、まさか俺に迫るつもりか。
樫村に指で合図をした。
俺の意図することに気づいたらしく、素早くホテルマンにメッセージカードを渡した。
「井垣紗耶香様はいらっしゃいますか」
「私だけど?」
「ご友人からご連絡が入っております。こちらへどうぞ」
「せっかくいいところだったのに」
紗耶香さんはブツブツと文句をいいながら、日本語ができるホテルマンに案内され、俺から離れた。
「よかったですね。彼女の友達の交遊関係を把握しておいて」
「いいわけあるか!」
足早に俺と樫村はホテルから出た。
危機一髪。
俺の貞操は守られた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「なにがどうなってこうなったのかな?樫村?」
俺の笑顔に『ひっ!』と樫村は悲鳴をあげた。
「こちらは井垣の家に電話をして、留学の予定を確認したのですが、お手伝いの人が紗耶香さんと勘違いしたようですね」
「勘違い?」
お手伝いといえば、井垣会長に従順なはずの町子さんというお手伝いがいたな―――俺が紗耶香さんに好意を持っていないことはわかっているはずだ。
それが、なぜ紗耶香さんだと思って、彼女の留学予定を教えたのだろうか。
俺と紗耶香さんを引き合わせるため、わざと朱加里ではなく、紗耶香さんの留学日程を伝えたとするならば。
「樫村。そいつは信用するな。気を付けろ」
「白河の悪い血ですよ。誰も信じないのは。ちょっとした勘違いでしょう」
「実際、騙されておいて何をいってるのかな?俺に紗耶香さんと一夜を共にしろと?」
「すみませんでした……」
わかればいい。
味方だと思いたい気持ちはある。
人を信用しないのは白河の血のせいだろう。
まあ、念のためということもある。
気を付けておくに越したことはない。
「いい」
会えなかったことは残念だったが、樫村を責めても仕方のないことだ。
腕時計を見た。
俺もそんなに時間がとれない。
明日はイタリアに向かわなくてはいけない。
会えるのは今日だけだったが―――ほんの少しでいいから、会いたいと思っていた。
「朱加里さん。おじいさんが心配なの?」
その名前に俺はいち早く反応した。
偶然すぎるくらいの偶然。
足を止めて友人と公園の前で話し込んでいた。
「祖父は病気で……。たぶん、元気でいるだろうけど、連絡がないと心配なのよ」
「短期留学にきてるんだから、気にしなくてもいいのに。留学を勧めてくれたのもおじいさんなんでしょ?」
「そうなの。勉強になるからって。だから、頑張らないとって思ってるの」
「少しは手を抜いたらいいのに」
「そうはいかないわ」
真面目な顔で朱加里が答えた。
俺は声をかけそびれて、公園の中に入っていく彼女を眺めた。
「頑張らないと、か」
もっと気楽に生きているのだと思っていた。
俺は白河家の親兄弟に対して、そこまで情を持っているだろうか。
家族でも淡々とした付き合いの白河家。
白河の祖父に心配だからメールをしたと、言おうものなら杖で殴られそうだ。
家族なら、あんなふうに気にかけてもらえるものなんだな―――それがなぜか、羨ましく感じた。
彼女より俺の方がなんでも持っていて、自由にも関わらず。
気になるのは素っ気ないからだけじゃない。
俺よりずっと孤独が深いはずなのに優しくて強い。
彼女を手に入れるためには苦労をして当たり前か。
井垣会長が大切にしている孫娘だ。
だから、俺は朱加里の背中を見送ってメールを送った。
『気が向いた時でいいので、メールをください』
そんなお願いをするのは初めてだった。
お願いは弱みになる。
そう思って生きてきた。
けれど、朱加里にならいいと思えた。
気にかけて欲しい俺を。
「壱都さん。どうしますか」
「いつものホテルに泊まる手配をしておいてくれ。ロンドン支店に顔を出したら、明日の便でパリ支店に戻る」
「はい。さすが仕事熱心な壱都さんですね」
樫村の言葉に俺は一人笑った。
樫村ですら、気づいていない。
俺が朱加里に振り回されていることも『メールが欲しい』なんて、彼女にお願いしていることも。
そんな俺を君以外、誰も知らない―――