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ウリオの大山脈が北へと足を延ばした先に、東西の大陸に挟まれるように麗しの塩海が横たわっている。スノウキアの大海と姉妹であり、東方大陸においては船乗りの神の涙なのだという。
両沿岸には海を越えて名を知られる無数の町々がある。悪しき珊瑚の砦、最果ての大理石島、サンヴィアの都享楽の河口。いずれも、麗しき女王の如きバイナ海の身を飾る珠玉の都だ。そしてその数ある港町の一つがトイナムだった。かつてはアルダニの諸都市国家と覇を競ったが、ミーチオン都市群の一同盟国となってからは鳴りを潜めている。
ユカリはその海と港町を眺め渡すことのできる丘にたどり着いた。嗅いだことのない塩気のある風を浴び、眼前に広がる青い景色にユカリは目を輝かせた。
「わあ。綺麗!」と感嘆を漏らす。「ね、グリュエー」
「塩辛い」
「こんなにも青いんだね。空よりもずっと濃くて、深い色」
「磯臭い」
英雄妙なる調べの化け蟹退治。魔女爪の彷徨う塔船。義母ジニが若い頃に訪れたという海の中の海。世界の海にまつわる物語。バイナ海にまつわる物語。ユカリはそれらをいくつも知っていたが、初めて見た海は想像していた景色の何倍も美しく感じられた。蒼玉の溢れる宝蔵もここまで輝かしくはないだろう。その海に臨む橙と白のトイナムの港町をユカリは感慨深く見つめる。
海岸に沿うように広がるトイナムの港町もその海の身を飾る宝飾品のようだ。家々は海風の使者が好むという夕日の如き橙色の瓦で葺かれている。入り江の港から放射状に延びる街路は白い石畳が敷かれ、そこだけ雪が降り積もったかのようだ。
海に立ち向かう城壁や陽気な家々の眩しい屋根。髭を伸ばした賢者のように立ち尽くす鐘楼に、厳めしい歩哨のごとき物見やぐら。そのどれもにトイナムの民が海と風へ感謝を捧げる青く長い旗と白く短い旗が掲げられている。海風がそれらの旗を弄び、街のあちらこちらで翻っていた。
海側には長く高く堅牢な城壁が設けられている。古い時代にはグリシアン全土に名高き英雄を幾人も退け、海の底に捧げた信仰篤き城壁だ。
城壁の上には見張りらしき者たちが何人か行き来し、時折胸壁の間から海を覗くが、広々とした青い海に脅威の予感など少しもなかった。平和な海には陽光を受けて白く輝く帆一杯に風を受けた船が気持ちよさそうに行き来している。
ユカリが見たところ街の中心に神殿らしき建物はあるが、救済機構の寺院らしき建物は見当たらなかった。
救済機構の寺院には概して篝火台が設けられているものだが、常に火が灯っているわけでもない。名高い巨大都市では常に火を灯し続けている寺院もあるが、海風の強い港町ではそれも難しい。
そもそも寺院があるのかどうかもユカリには分からない。この街でハルマイトが救済機構と取引するのだということしかわかっていない。
結局、ユカリはハルマイトに追いつくことが出来なかった。ワーズメーズの街に比ぶべくもないが、ネドマリアが草原に残した迷いを抜け出すのに時間がかかってしまった。
その上、取引する時間も場所も知らず、ハルマイトの取引相手が救済機構の誰かだということしか分からない以上、手がかりになりうるのは寺院だけだった。
ユカリは遠目に寺院の篝火を探すのを諦め、街で情報収集することにする。少なくともこの街に魔導書があるのは確かだと気配が告げている。
世にある数多の港町の住民と同じく、トイナムの民は歌と酒を愛する陽気な人々だった。彼らは春の訪れを喜ぶ小鳥のように事あるごとに歌を歌い、若い恋人たちがそうするように神秘の夜には神聖な海に愛を囁いた。それは祈りと同様に、海の神やその小間使いや使者を寿いだ。神秘に住まう彼らは大地に戒められた哀れな人間たちにせめてもの祝福を忠良なる海風に運ばせた。
ユカリは辛抱強く救済機構の寺院の場所をトイナムの人々に尋ねて回った。
しかし誰も答えることができなかった。彼らもまたわずかな幸いと喜びのために辛抱強く働く者たちだ。その信仰が海とその支配者を祀る神殿に捧げられているのは致し方ないことで、救済機構の総本山よりはるか遠い土地に寺院の教権が行き届いていないこともまた致し方ないことだった。
誰一人としてトイナムの民はこの街に造立された寺院など知らなかったが、ユカリと同様にこの街に流れ着いたある男が救済機構の寺院のある場所を知っていた。
「確かに寺院の場所を知ってはいるが。親愛なる同志、風に揺蕩う旅行者よ。我々は身軽く方々を巡る者同士。手を取り合おうではないか。自由の味を愛する風を孕んだ帆船にも時には水夫にとっての母なる港に錨を降ろさねばならない時もある」
「はあ」
「錨は重いに越したことはない」
「ああ、路銀を寄越せと」
「平たく言えば」
金銭と引き換えに得た情報に基づいて、ユカリはその場所へ向かった。
教えられたのは活気に満ちた入り江だった。城壁の外に、この街に海から入ることが許される唯一の港がある。多くの船でひしめき合い、自信に溢れたたくましい海の男たちが肩で風を切って闊歩している。どこの船乗りもその振る舞いは似ている。しかしユカリが見たことのない顔立ちの人々が、見たことのない服を着て、聞いたことのない言葉を交わしている。
ユカリはしばらく潮騒に耳を傾けながら、無数の亀の手に覆われた岸壁を叩く波と弾ける白い泡を眺めた。近くで見る海はずっと濃くて、そして何かを隠しているのだろう底知れない雰囲気を感じた。ユカリは不安から逃れるように空を仰ぐ。
真夏の太陽が激しく輝く蒼穹には大きな鴎が飛び交っている。海鳥の鳴き声はどこまでも追ってくるが、逃れるようにユカリは海のそばを離れる。小さな魚を咥えた猫が横切って少し驚きつつ、救済機構の寺院を探し求めた。
確かに寺院はあった。港の端で肩身を狭そうにしている。小さなものだが篝火台もある。真夏の影のように黒い蜥蜴が壁にじっと張り付いている。
この街で救済機構は流行ってないらしいことがユカリにも分かった。乗り込む気にはなれず、汗を拭いつつ、何とはなしに辺りを見回すものの、この人ごみの中でハルマイトやその取引相手を見つけるのは至難だと分かる。
どこか寺院の出入りを監視できるところで休めないものかと考え、ユカリはうろつく。その時、何やら人々の目と耳が同じ方向へと向けられていることに気づいた。何事か、とユカリもまた野次馬根性もとい知的好奇心に基づいて喧噪の中心へと向かう。
一目見ただけでは何が起こっているのかよく分からなかった。
野次馬の中心には捕縛された十数人の男たちがいる。ちぐはぐな衣を身につけ、身繕いとは無縁の装いだ。物騒な表情で、観衆を睨みつけている。
野次馬たちの話によるとどうやらそれは海賊らしい。そして騒動の中心は、捕縛された海賊たちの隣で行われている問答だ。
かたや白髭を蓄え、きっちりとした身なりの官吏らしき年嵩の男性と、後ろに控える青と白の礼装じみた輝く鎧の兵士たち、かたや鉄仮面をかぶり、黒鞘を佩いた黒の僧衣。救済機構の焚書官たちだ。
官吏に相対しているのは炎を戴く山羊の仮面の首席焚書官だった。
ユカリは反射的に身を隠す。他に同じような仮面が存在しないなら、それは故郷オンギ村の生家を焼いたチェスタに違いない。魔導書を持ち去ったのは魔法少女ユカリだが、火に巻かれて死んだはずの村娘を異国で発見したなら何かしらの疑いを抱くのは必定だろう。
ユカリは人だかりの隙間から覗き、耳をそばだてる。どうやら首席焚書官チェスタがトイナムの官吏に訴えかけているらしい。
「難しいことを求めているわけではありません。ただ彼らに改心の機会を与えて欲しいのです」
その声はほぼ間違いなくチェスタのようだった。身を隠すべきなのかもしれないが、しかしユカリは成り行きを見守りたくなった。
「そうは言ってもな、坊様よ」と呆れた様子で白髭を撫でつけて、官吏が言った。「この街の法律で決まっているんだ。海賊は縛り首だ、とな。あんたの慈悲深い御心には感心するが、トイナムの法を疎かにされては困るよ」
チェスタの方も怯まない。
「確かに法は大事です。しかし裁判もなしではありませんか」
「いくつかの重罪に関しては現行犯の場合に限り略式手続きで刑が執行されるんだ。それも法だ」
「現行犯?」とチェスタが首を傾げた。
「とぼけてくれるな。あんたたちが海賊を捕まえたと言ったのではないか」
「そうですが、私は海賊行為を行っている者を捕まえたとは言っていません」とチェスタは不思議そうな声色で話す。そして後ろに控える焚書官たちの方を振り返る。「誰かそう言いましたか?」
焚書官たちは誰も肯定も否定もしなかった。
官吏が少し苛立たし気に答える。「なるほど。そういうつもりか。いずれにせよ、領民が襲撃された疑いがある。引き渡してもらおうか」
「一律に海賊だとまとめて裁かないでいただきたいのです。誰もに深い事情があります。例えば、彼」と言ってチェスタは海賊の一人を指さす。海賊たちはびくりと身を震わせた。チェスタは声高に続ける。「聞けば金貸しに騙され、一家離散の目にあったといいます。隣の彼は誰よりも真面目に働いて、同業者組合からの信頼も厚かった人物ですが、事故で片足を失ってしまった。その後ろの彼はある官吏の不義の息子ゆえに苦労の多い人生だったそうです」
その時、誰かの野太い頓狂な声が聞こえ、ざわめく。何に対するざわめきなのかユカリには分からず、背伸びして見極めようとする。
しかし突然目の前の人だかりが二つに分かれ、舶刀を持った男が現れた。どうやら海賊の一人が捕縛から逃れたらしい。人だかりに囲まれた海賊はすぐ近くにいたユカリを羽交い絞めにした。
首元に刃を押し当てられる。動物の王に変身するか、グリュエーに助けてもらうかすればすぐにでも抜け出せるが、焚書官たちの目がある。魔法少女への変身も当然避けたい。せっかく故郷で変身前の狩人の娘と変身後の魔法少女が別人であるかのように装ったのだ。
そのような考えを巡らせるうち、不意にユカリを人質にとる海賊が叫びだし、解放された。何が起こったのかと振り返って見ると、海賊の首から炎が噴き出し、その頭を焼いている。地の底から響いてくるような悲鳴が辺りにつんざく。
ユカリは逃げ出すふりをして、岸壁へと走り、海に向かってまくし立てた。
「至急波を打ち寄せて、あの男の火を消して! お願い!」
すると海は白波を岸壁に打ち付けて答える。
「何を! 小娘が! 誰に命令しているつもりだ! 私は神々の愛するバイナ海の大いなる要所だぞ! 入り江の中の入り江! 船乗りたちの母にして安息の地! トイナムの勇ましき船の故郷であり……」
「そういうのは良いから! 何か欲しいなら言ってみて! 変な小石はもう持ってないからね」
「銀貨十枚といったところか」
「現金!? 分かった。用意する。取引成立」
「よいか。海との約束を破ればただでは済まないからな」
「消してから言ってよ! 早く!」
突然に大波が打ち寄せ、ユカリもろともに何人かの野次馬を押し流し、とうとう海賊の頭に燃え盛る炎を消した。ユカリは波に逆らうように態勢を立て直し、海賊の元へと何とか這うように近寄るが、呼吸も脈もその頭部と共に失われていた。ただ立ち昇る白い煙と共にその海賊の魂は罪深い肉体を抜け出し、真の安息を求めて海の向こうへと去って行った。
「彼は反省の心が見れませんでしたね。聖罰もやむなしでしょう」とチェスタが官吏たちに言った。「しかし他の海賊たちはきっと反省してみせるでしょう。どうか彼らに慈悲を」
白髭の官吏は焼かれた海賊から目を離さず、少し後ずさりして答える。「分かった。裁判にはかけよう。約束する。弁護人もつける」
「ありがとうございます。救いの乙女の加護があらんことを」とチェスタは言って、ユカリの方へと歩いてくる。
その後ろでトイナムの兵士たちが海賊を連行している。深い絶望が海賊たちの顔を彩っていた。彼らもチェスタに呪いをかけられているに違いない。
「今のは貴女がやったのですか?」とチェスタはずぶ濡れのユカリを見下ろしながら言った。
ユカリは首を振って答える。「まさか。勝手に燃えたんです、あの海賊は」
「そっちじゃなくて、波の。いえ、まあ、いいでしょう。お久しぶりですね。少しお話ししましょうか」
物腰柔らかくも有無を言わせぬ口調だった。チェスタはわずかに見える口元に微笑みを浮かべていた。