「⋯⋯つまらないなぁ。
ボクが見たいのは
そんな静かな顔じゃないんだ」
低く甘やかな声の裏に潜む狂気が
空気の温度を一段と下げた。
その言葉と共に、大太刀が振り下ろされる。
鋭い金属音も、振り抜かれる風も無く
ただ静かに──
アリアの左肩から右腰にかけて
深々と斜めに斬り裂かれた。
鮮血が、跳ねるように空中に舞う。
滴るというより、噴き上がる。
それほどまでに深く、正確な一撃だった。
だが。
アリアは、呻かない。
眉一つ動かさず、唇を結んだまま
吊るされたままの姿勢を
微動だに変えなかった。
麻酔と神経遮断剤の作用で、痛みはない。
だからこそ、ただ、静かだった。
開かれた傷口の奥で
ゆっくりと血の流れが弱まり始める。
瞬く間とはいかないが
それでも明らかに再生は始まっていた。
抉られた肉が、内側から盛り上がり
血を押し戻しながら
ゆっくりと閉じていく。
「⋯⋯ふふ。
これだけ薬を注がれても
まだ治りが早いねぇ?」
アラインのアースブルーの瞳が
皮肉げに細められる。
その色は、氷を思わせるほどに冷たく
どこか──羨望にも似た色を宿していた。
次の瞬間
男の手がアリアの繋がりたての首を掴んだ。
脊椎の再接合部に、意図的に力を込める。
骨が軋む音が、かすかに響いた。
それでもアリアの反応は変わらない。
むしろ、ゆっくりとその双眸が開かれた。
深紅の瞳──
炎の色でありながら
その視線は氷のように静謐だった。
そして
アラインの冷たい瞳と真正面から交わる。
「⋯⋯終いか?」
紅に染まった唇が、わずかに動いた。
短く、無駄のない言葉。
その声に、男は愉悦に打ち震えたように
肩を震わせ、ゆっくりと笑みを深くする。
「まさか!
ねぇ、ボクさ⋯⋯すっごく寒がりなんだ」
甘く囁かれる声。
それが意味するものを推し量る前に──
刹那、鋼の音が閃いた。
大太刀の刃が
アリアの再生を始めた腹部を
再び深々と貫いた瞬間
その場に響いたのは
鋭い金属音ではなく──
生々しい肉と骨を裂く、濡れた鈍音だった。
大太刀の柄を引きながら、下へ──
傷口を広げるように切り下ろすと
臓腑が押し出されるように露わになる。
吊るされた身体が痙攣し
膝から下が無力に震える。
アラインは、血を浴びることさえ厭わず
まるで恋人に抱きつくように
アリアの身体に顔を寄せた。
──その返り血は、熱くなかった。
かつて不死鳥の血は
灼熱を持ち
触れた者の肌を焼くほどの温度を
宿していたはず。
だが今は違う。
薬物の影響により
アリアの身体は〝燃え上がる〟力を
発動できずにいる。
その証拠に──
臓腑を貫いた刃にすら
高熱は宿っていない。
アラインは、構わず手を差し込んだ。
内臓に指を潜らせ
探るように、掻き混ぜるように
奥へ奥へと沈めていく。
灼かれる感触は、一切無い。
「⋯⋯やっぱり、効いてるねぇ。
君の身体、ほんのりぬるいくらいで
全然焼けてこない⋯⋯ふふ、可愛いなぁ」
そう呟きながら
アラインは
アリアの腹から引き摺り出した腸を
まるでお気に入りのスカーフでも巻くように
自らの首へと絡め取る。
生温かく、ぬめるそれに
頬をそっと押し当てた。
紅に濡れた皮膚が
やわく、彼の呼吸と共に動く。
「血と臓物の温かさだけは
キミも人と同じなんだね」
彼の蒼い瞳が
まるで純粋な子供のように輝いていた。
だが、その光は──
理性を喪った深淵の中にある光だった。
温度を失った不死鳥。
焼かぬ炎。
痛みも熱も伴わぬ、静かすぎる生贄。
アラインはその事実に
陶酔すらしているようだった。
返り血に染まった礼服
濡れた髪、頬に貼り付く紅。
アラインの瞳は
まるで子供のように澄んでいた。
蒼く、美しく、
──そして、狂っていた。
吊られた身体から腸を引き摺り出され
首に巻きつけられながらも
アリアは眉一つ動かさずにいる。
薬剤によって
疼痛も熱も遮断されているとはいえ
その姿はまるで、人形のように静かだった。
口元から流れ出る血が顎を伝い
ぽたぽたと床を紅く染める。
それでも──
彼女の深紅の双眸は、揺るがなかった。
ただ真っ直ぐに
目の前の男を見据えている。
その眼差しに、アラインがふっと笑った。
しかしその笑みに宿るのは、愉悦ではなく
どこか苛立ちに近いものだった。
「⋯⋯ボク、キミのその瞳、嫌いだな。
何処までもボクを見下してるみたいでさ」
アラインは胸に手を置き
指先で自らの心臓をなぞるように叩いた。
「この男を殺した時も
キミはそんな目をしていたね⋯⋯
背中に不死鳥の鉤爪を喰らい
虫の息だったこの男に」
その声には、明確な敵意と
捻れた復讐心が滲んでいた。
アリアの瞳がわずかに細められる。
それは、記憶の扉を開いた。
焼け落ちた村、黒煙の中を彷徨う影。
不死鳥の鉤爪が
追い詰めた一人の魔女の背に
深く突き刺さる。
その顔。
怯え、苦悶し
それでも助けを求めるように振り返った──
アースブルーの瞳。
当時のアリアは
彼を早く解放するべきだと考えた。
苦痛を引き延ばすことは無意味だと──
だからこそ、すぐに炎で包み
苦しむ暇もなく、灰にしたはずだった。
(⋯⋯この者は⋯⋯
なぜ、その光景を知っている⋯⋯?
前世の記憶を──憶えているのか)
アリアの視線は
アラインから離れなかった。
その奥で
彼女の無表情の仮面が微かに揺れていた。
記憶の中の彼は、あまりにも優しかった。
戦いとは縁遠く
人を傷つけることを恐れ
ただ静かに
穏やかに生きようとしていた青年。
それが今──
目の前には、腸を首に巻き
血に濡れた顔で微笑む
あまりにも歪んだ狂気があった。
それは確かに、自分の手が生んだもの。
アリアの心は
痛みを知らぬまま、自らを責めていた。
「もう新しい腑ができあがってるのか。
⋯⋯気持ち悪いね」
アラインは
首に巻いていた腸を片手で乱暴に剥ぎ取り
床に投げ捨てた。
まるで飽きた玩具を放る子供のような顔。
血と臓物が床に広がる音だけが
室内に静かに響いた。
そして彼は
モニターのひとつへと目を向けた。
画面には
椅子に縛られ、目隠しをされた時也の姿。
深く俯き、身動きも取れぬまま
静かに座らされていた。
アラインのアースブルーの瞳が
冷たくそこに向けられた。
「⋯⋯いい事、思い付いたよ」
口元に滲むのは
遊戯に興じる前の悪童の笑み。
そのまま
ゆっくりと再びアリアへと歩み寄っていく。
血塗れの足音が、ぬるりと床を鳴らす。
アリアは
その歩みにわずかに身を強張らせた。
心に、名も無き不安が静かに芽吹いていく。
だが彼女は、なおも逃げはしなかった。
深紅の瞳が、鋭くアラインを睨む。
言葉もなく、表情もなく──
その静けさの奥に、強い意志が燃えていた。
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肉体を嬲り、心を蹂躙し、なお折れぬ魂を嘲笑う。 愛する者の悲鳴を耳に、血に濡れ、穢されても、 アリアは絶望だけは許さなかった。 求め伸ばした指先に、 舞い落ちた一片の花弁── 地獄の果てでさえ、踏み躙れぬものがあった。