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鷹槻れん

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#契約結婚
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第2節 千崎幸太郎『弱みは見せられない』
旋盤機の低い唸りが、夜の工場に響いていた。
いつもと同じように、作業灯をひとつだけ点け、古びた機械に油を差す。
それが、長年の習慣であり、工場を支えてきた誇りでもあった。
だが今夜ばかりは、ウエスを握る指がわずかに震えていた。
胸の内ポケットへ入れた【返済催告書】の角が、歩くたびに肋を突く。
――ことの始まりは、二ヶ月ほど前。
商工会の懇親会で再会した旧友の岩倉が、嬉しそうに話した。
「うち、『あすな銀行』からの融資が決まったんだ。あそこの審査、うちみたいな中小企業には厳しいって聞いてたんだけどさ、応対してくれた人がたまたま割と上の方の人で……案外すんなり通ったんだ」
息子・雄二の勤める銀行の名に、幸太郎はつい慎重になる。
「そうか……」
自分の会社のメインバンクも一応『あすな』だ。とはいえ今まで融資などを受けたことはなく、取引先への支払いに使う当座預金と、日々の細々とした入出金を行う普通預金の口座が開設してある程度の付き合いだ。
岩倉はさらに声を弾ませる。
「そういや、千崎んトコの息子さんも『あすな』だっけ? 俺を担当してくれたのは法人営業課の荻野って課長さんなんだけど、知ってるか? その人がうちを通してくれたんだよ」
聞き覚えのある名前だった。だが、酒席の与太話だと思い、息子のことは話さずに流した。
岩倉が心底嬉しそうに笑うのを見て、幸太郎も微笑み返していた。
(ま、『あすな』なら変なこともしないよな。課長さんが貸してもいいって判断してくれたんなら岩倉んトコの業績は悪くないってことだろう)
――まさか、それが破滅の始まりになるとは。
その後しばらくして、岩倉が焦ったような声で電話をかけてきた。
『返済が少しズレてさ。つなぎで借り直したいんだ。今のままじゃあすなに迷惑掛けちまいそうなんだ。それじゃあ銀行さんに顔向けできねぇ。あそこには世話になったんだ。なぁ千崎、悪いけど保証人を頼めないか?』
息子の職場に迷惑が掛かるかもしれない。その言葉が妙に幸太郎の胸を刺した。
『取引先から入金があったらすぐ返せるんだ』
岩倉の必死な様子と、あすなへ迷惑を掛けるのは避けねばならない。その一心で、幸太郎は判を押すことを決意した。
用意された書類には『ネクサスファイナンス』の名。
細かい条文の文字は、疲れた目には読めなかった。
それが裏金融のものだったと、後になって知った。
岩倉は、宣言通りあすな銀行への返済を済ませると、その旨を嬉しそうに幸太郎へ報告してきた。
「そうか。あとはネクサスとかいう所に返すだけだな」
幸太郎の言葉に『ああ』と応えた岩倉だったけれど、それから程なくして消息を絶った。訪ねてみた岩倉の会社はどう見ても潰れていて、自宅ももぬけの殻だった。夜逃げ同然でいなくなったのだと、商工会の仲間から聞いた。
数日後、電話が鳴る。
『岩倉さんの連帯保証人の千崎幸太郎さんですね? 返済期日が迫ってますんで連絡さしてもらいました』
慇懃な声の奥に、笑いのようなものが混じっていた。
妻の八重子には言えなかった。
息子の雄二には、なおさらだ。
主任に昇進したばかりの一人息子に、こんな情けない話をどう伝えろというのか。
「父親の役目は、いついかなる時も堂々として、弱みを見せぬこと」――そう思っていた。
それでも、状況は悪化する一方だった。
〝返済〟のために頼れる先を考え、幸太郎はついに『あすな銀行』を訪ねた。
自社の担当は若い銀行マンだったが、かつて友人が「世話になった」と言っていた荻野という男を指名したのは、彼なら何とかしてくれるかもしれないと思ったからだ。岩倉の会社に融資してくれた荻野という男なら、あるいはうちにも。
そう思ってのことだった。
日頃なら強く拒絶すれば引き下がるはずの八重子がどうしても一緒に行くと譲らなかったのには参ったが、彼女を説き伏せる時間も惜しかった。
受付で名を告げると、窓口右端の融資相談窓口へ通された。そこだけ預金窓口などと違い、パーティションで目隠しされるみたいになっていて、少しだけ心が軽くなる。
窓口には若い男性が座っていたけれど、幸太郎が荻野を指定したからだろう。数分後、奥の方から神経質そうな中年男が現れて席を代わった。岩倉の話ではとても優しげな話しやすい人ということだったが、幸太郎の目の前に座った荻野は、とても冷たい眼をして幸太郎を見据えた。
「……融資のご相談ということでしたね」
そこでチラリとパソコンの画面に視線を走らせた荻野があからさまに吐息を落とす。そのパソコン画面の光がアクリル越しに反射して、一瞬だけ、何かの数字と〝岩倉〟の文字が見えた気がした。
「千崎さん。どうやら個人で保証債務を抱えておられるようですね」
その一言で、頭が真っ白になった。すぐそばで八重子が「保証債務?」とつぶやく声がする。
「い、いや、これには……事情が……」
「お気の毒ですが、審査基準上は融資不可です」
画面を見つめながら淡々と、荻野は打ち切るように言った。
「そこを何とかっ」
八重子がそばにいるのも忘れて、幸太郎はカウンター台に額を擦り付けるようにして懇願した。
「……千崎さん、そういうことをされても困ります。まるで私があなたをいじめてるみたいじゃないですか」
アクリル越しにも分かるくらい、荻野が迷惑そうに吐息を落としたのが分かった。
「あなた……」
背後から八重子がオロオロしたように声をかけてきて、まるでそれに絡めるみたいに荻野がいう。
「こういうことを言うのは脅しみたいで心苦しいのですが、お宅の息子さんはうちにお勤めなんですよね?」
その声にふと顔を上げると、目の前の荻野の口元がうすく笑った……ように見えた。
「ほら、息子さんのためにも……ご家庭の事情はね、あまり外に出ない方がよろしいでしょう?」
その言葉のねっとりとした響きに、嫌な汗が背中を伝う。
――そんなことはないと信じたいが、ひょっとしたらすべて……最初から仕組まれていたことなのかもしれない。
(この男は……雄二に思うところでもあるのか?)
だとしたら、これ以上父親の自分が荻野に隙を見せるわけにはいかない。
「帰ろう、母さん……」
疲れたように言葉を落とすと、八重子が何かを言いかけて……グッと言葉を詰まらせたのが分かった。
「あなた、雄二に相談……」
「ダメだ。あいつにだけは言うな!」
幸太郎は、八重子にも重い気持ちを背負わせてしまったことを申し訳なく思いながらも、息子にだけはこのことを知られてはいけないと思った。
ホームを渡る風が、油の匂いと冬の冷たさを一緒に運び去っていく。
列車の進入を知らせる風圧が頬を打った。
――今、このまま身を投げれば、すべて終わる。
けれど、そんなことをしては家族に迷惑が掛かるのは目に見えていた。
すぐ隣で、八重子がギュッと自分の服の端を掴んでいる。
まるでその小さな手が、自分をこの世へ引き留めているかのようだった。
どうすれば、家族に迷惑を掛けずにこの窮地を乗り切れるのか。
その答えを見つけられないまま、夜が更けていった。
***
その夜、玄関の外から靴音がした。
硬い革靴がコンクリートを叩く音。
続いて、金属の柵を蹴る音が響いた。
「おい、出てこいよ! アンタ、連帯保証人だろ!?」
「借り主が返せねぇーときは保証人が返す。当たり前のことだよなぁ?」
数人の男の声が、工場と隣合わせの家を取り囲む。
八重子が蒼ざめ、震える手で幸太郎の袖を掴んだ。
「構うな」
幸太郎は低く言って、玄関の鍵を閉めようとした。
だがタッチの差でドアを開けられ、男たちが無遠慮に玄関先を見回す。
「……へぇ、いい家だな。息子さん、いい男じゃねぇか。ゲイビでも通用するぜ?」
下駄箱へ置かれた家族写真へ向けて下卑た笑いが漏らされ、八重子が顔を覆う。
「奥さんも綺麗じゃねぇか。熟女モノに出りゃあ、結構稼げる。なぁ? 悪くねぇ話だろ?」
幸太郎は咄嗟に前へ出て、声を震わせながら吐き捨てた。
「妻と息子には手を出すな。……帰れ!」
男たちはニヤニヤと笑い、ひとりが吐き捨てた。
「期日まであと三日。覚悟しとけよ」
車のドアが乱暴に閉まる音。
残されたのは、耳鳴りのような静けさだった。
八重子は嗚咽を漏らし、幸太郎は膝に顔を伏せた。
守りたかった家族が、汚されかけた。
これ以上、この手でなにも守れないのなら――。
***
深夜、幸太郎は工場へ戻った。
作業灯だけをつけ、旋盤の刃に油を差す。
磨き上げた金属が、月明かりを弾いて鈍く光った。
ウエスで最後の汚れを拭き取り、電源を落とす。
ポケットから封筒を取り出し、短く書き記した。
『八重子、保険金で後処理を頼む。雄二には言うな。心配かけたくない』
字は震え、油の染みが涙のように滲んだ。
静かな夜だった。
旋盤機の機械油の残り香だけが、まだ薄く漂っていた。
コメント
2件
切なすぎる😢
鷹槻れんさん、第二章読みました……。千崎さんの、家族を守りたい一心で弱みを見せられないもどかしさが、本当に切なくて胸が痛みました。最後の旋盤のシーン、静かなのに重くて、心臓がギュッてなりました。続き、どうなっちゃうんだろう……。