⚠過呼吸注意
呼吸が、変だ。明らかに異常な呼吸音を出すおれに、世一が慌てて駆け寄ってきて背中をさすってくれる。
ぁ、どうしよう。苦しい。死んじゃう。
息苦しくて、大きく息を吸う。吐くことを忘れて吸って、苦しくなって、また吸っての繰り返し。
「凛、大丈夫だからなー。俺に合わせて呼吸しよっか。吸って⋯⋯⋯吐いて⋯⋯」
世一の声に合わせて呼吸しても、良くなる気配は無い。冷たくなった指先で、世一の服を握ると安心できる気がして。でも苦しいのは一向に治らなくて、生理的な涙が頬を濡らした。
それだけじゃなくて、頭が痛い。頭がじんじんと痛む。世一の服を握っていない方の手で、頭をぎゅっと抑える。
痛い、痛い、苦しい、痛い。
『⋯⋯ぃ、さぎ⋯っ! ごぇ、なさ⋯ぃ⋯』
おれの声が頭に響く。おれだけど、おれじゃない。きっと、前の俺の声だ。
暗い路地裏。仰向けにされて、無理やり知らない男とキスされる。それで、それで───。
「ひゅ、⋯っ! はっ、はッ⋯、、カヒュッ⋯!」
「凛⋯。大丈夫。苦しいかもだけど、絶対大丈夫だから。ゆっくり呼吸して」
世一の声に耳を傾ける。出来るだけゆっくり息を吐くと、段々と荒かった呼吸が落ち着いてくる気配がした。
あ⋯終わった⋯?
「うん。凛、上手だね。ちょっと休憩しよっか」
周りに人が居なくて助かった。路地裏から離れたベンチへ移動する。
「⋯ごめん、なさい。クッキー割っちゃった」
「大丈夫だよ。俺のクッキーと交換する?」
「⋯ううん」
多分、嫌われた。迷惑かけちゃったし、せっかく買ってくれたクッキーも、割ってしまったし。
ゆるゆると視線を下へ向ける。気にしてないよ、という世一の言葉も信じられなくて。そんな自分が凄く嫌で。
視界がぐにゃりと歪んだ。
あれから散歩する気にもなれず、病院へ戻ってきた。割れてしまったクッキーを食べながら考える。あれは一体何だったんだろう。
多分、あれは前の俺の記憶。⋯なんだろうけど。
(みんな、記憶喪失になった原因、『頭打った』って言ってたじゃん)
おれが少しだけ思い出した記憶は、頭を打ったとかそんなんじゃなかった。もっと酷い、自尊心を踏みにじられるような行為。
頭を打ったということは嘘なのかな。それとも、おれが見たあの記憶が間違い?それとも、皆おれに隠していることがある?
分からない。こんな自分が怖い。何者かすら分からない自分が。
だから、世一や冴さんに聞く。
前の俺が何だったのかを。前の俺が、どうして記憶喪失になったのかを。
潔side
この前凛と出かけた際、路地裏を見て過呼吸を起こしていた。頻繁に過呼吸になると聞いていたから、一応対処法を聞いておいて慌てはしなかったけれど⋯。
あの時の苦しそうな凛が、頭から離れない。どうして凛がこんな思いをしなきゃいけないんだ。とずっと考えている。
⋯まぁでも、考えてもムダか。
男達は捕まって、復讐も何も無いんだから。
「凛、おはよ」
「⋯世一」
「体調はどう?もう苦しかったりしない?」
首を縦に振る凛。でも別のことを考えているような気がして、どうしたの?と問う。
凛は迷ったように唇を舐めて⋯決めたように俺の目を見つめた。
「世一、おれはなんで記憶喪失になった?」
「⋯⋯え」
瞬きを繰り返す。目の前の凛を見つめて、冴に言われていた言い訳を口にした。
「えっと⋯頭を打ったんだよ。皆から聞いてるだろ?」
「違う。本当の理由」
本当の理由って⋯もしかして、これが嘘ってバレてる?
凛の目を見つめても、カマをかけている気配はない。
「おれ、この前呼吸が苦しかった時、少しだけ記憶思い出したんだ。でも⋯絶対頭打ったんじゃない。
男の人⋯?が居て、前の俺がずっと世一に謝ってて⋯」
ねぇ、世一。おれに何があったの?
そう聞かれても、答えることは出来なかった。凛は、レイプされたことを告げると苦しむから。今の凛に伝えることは出来ない。
ぐっと唇を噛み締める。
「⋯ごめん。言えない」
「、なんで!」
凛が声を荒らげた。そんな凛を見るのは初めてで、弾かれたように彼の表情を見ると、瞳に涙の膜が張っていた。
「おれ⋯怖い。前の俺がなんにも分かんないのも。皆が前の俺を見てることも。
嫌だし、怖い⋯。だから、教えてよ⋯っ」
ぎゅっと凛が目をつぶって、まくし立てた。凛は、ずっと不安だったんだ。
本当のことを伝えるべきか、伝えないべきか。グラグラと心が揺れて、顔を歪めてしまう。
ふと、過呼吸を起こしていた凛が思い浮かぶ。
あんな思いをまたするくらいなら⋯そう考えてしまった。
「⋯ごめん」
そう一言だけ謝って、荷物を持って病室を出た。最後に見た凛の顔は、本当に泣いてしまいそうで⋯。
(あんな顔、させるつもりじゃなかったのに)
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