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夕食の支度が終わって私はやることがなくなった。
時計の音だけが耳に入ってくる静まり返ったリビングで、一人テーブルに着いて古いトマトの観察記録ノートを開く。
ノートの横には一華のスクールに通うために用意した彫刻刀が置いてある。
一華に相談したときに最初は木彫りから始めると良いと言われて、専用の彫刻刀を購入した。最初こそ慣れなかったが、今ではそうでもない。
ノートの前にはサランラップをかけた私と明さんの夕食。
ノートをぱらぱらとめくって見る。
この記録をつけているとき私は何をしていたっけ?そんなことを考えながらノートを眺めていた。
カチッカチッ……。
時計の針を刻む音に合わせて彫刻刀をノートに立てた。
カチッカチッ……。
何も考えずに同じ動作を繰り返す。
私にとって結婚は良いことだった。
だけど、この退屈な時間だけはどうしようもない。
どのくらい同じ動作をしていただろうか。ふと時計を見る。
20時を少し過ぎていた。
「あっ」
そうだった。八時過ぎには帰ってくるんだった。
立ち上がるとノートと彫刻刀を片付けるために自分の部屋へ行った。
翌日の午後。今日はスクールが始まる前に、スクールが入っているビルの一階にあるカフェでスクールの友達と話していた。
日差しが温かく、私たちは窓辺の席に三人で座っていた。
「どう?もうスクールは慣れた?」
下島さんが聞いてきた。
下島さんは結婚していて私たち三人の中では最年長。
と、言っても28歳だけど。
猫目でかっきりした顔つきで男前の美人。
「うん。皆さんにこうして仲良くしてもらっているおかげで彫刻以外の楽しみも増えたし。こうして話すのも」
「おかげとかやめてくださいよ!」
笑顔で手を振ったのは斉藤さん。
三人の中では最年少で、人懐っこい妹キャラ。
24歳だがボブスタイルのせいで幼く見える。
二人とも既婚者だけど子供はいない。
そんなところも打ち解けた一因だと思う。
家庭のこと、ご近所のこと、最近のドラマの話などケーキをつつきながら、笑ったりため息をついたりしながら、話題はどんどん変わっていく。
「じゃあ橋本さんって、一華先生と同級生なんだ!」
今度は私が一華の同級生という話になった。
「中学のときだけど。それ以来ずっと会っていなくて。再会したら芸術家になっていてびっくりしちゃった。お二人はどうしてこのスクールに?昔アート系だったとか?」
「そういう人もいるだろうけど、私は暇だからかな。暇な時間に何か打ち込めるようなものが欲しかったの。そうしたらここの広告を目にしたの」
下島さんは言い終わるとティーカップを口許に運んだ。
「私も似たようなもんですけど、それより橋本さん。村重君ってどうですか?」
「村重君って……村重先生」
「そうです。村重君」
斉藤さんが悪戯っぽく笑う。
村重浩平。私がスクールに入ったときに一華がつけてくれた講師だ。
美大生で20歳。
親切丁寧に教えてくれる。爽やかな好青年といった感じ。
「そうそう。村重先生。私たちは村重君って呼んでるけど、彼なかなかイケメンじゃない?」
「まあ、そうかも」
たしかにイケメンではある。
それは下島さんに改めて言われるまでもなく、私自身そう思っていた。
「ここの生徒達の間では人気なんですよ」
「狙っている人もいるしね。ここんとこずっと橋本さんにつきっきりだから妬みとか気を付けなよ」
「妬みって、私は別に」
「私は橋本さんと村重君はお似合いだと思いますよ。見ていて絵になるし」
「もう斉藤さん止めてよ」
もう苦笑いするしかない。
「あっ!もうこんな時間。授業始まるしそろそろ行こうか」
下島さんに言われ、三人立ち上がるとスクールへ向かった。
一華のスクールに通って二週間。いつの間にかこうして気が合い、スクールの前後にカフェで話すような友達もできた。ご近所とはまた違った人間関係。家にこもったままではできなかった関係だ。
私は新鮮な日常に楽しみを感じていた。
下島さんと斉藤さんと私。三人グループで他愛もない会話をしながら各々で15センチくらいの気を彫っている。
こうして気の知れた相手と話しながらしていると、まるで学生の頃に戻ったような気分だ。
「大分慣れてきましたね。上達してますよ」
村重先生が声をかけてきた。
「そうですか?」
全くの初心者だったので、上達したと言われるのがうれしい。
「村重君、私たちは?」
斉藤さんが聞く。
「お二人もどんどん上達してます」
「上達してるって!良かったですね!」
斉藤さんが嬉しそうに下島さんに言う。
「まあ、橋本さんのついでっぽいけどOKとしておこうか」
「そんなことありませんよ」
下島さんに慌てて村重先生が返した。
「ううん。では橋本さんはそろそろ次のステップに行きましょう」
村重先生が咳払いした後に言う。
「次のステップというと」
「今まで三日で仕上げていた作品を一日で彫ってみるんです」
「一日なんてそんなの無理ですよ」
「大丈夫です。仮にできなかったら二日でもいいのですから。ただ、目標を一日に設定するというだけです」
「なら安心しました!できなかったらどうしようかと思ったから」
「下島さんも斉藤さんも、みなさんやってきたことですから」
「そうよ!頑張れ!」
「私たちで良ければアドバイスとかしますから」
「ありがとう」
私が二人にお礼を言ったときに、教室へ一華が入ってきた。
「一華先生こんにちは!」生徒が各々挨拶する。
「皆さんそのまま続けてください」一華が笑顔で言う。
「一華先生、今日も素敵ね」「ほんと。同じ女として憧れちゃう」
教室内で一華に対する羨望の声が私の耳にも入ってくる。
「村重君。ちょっと」
一華が村重先生を呼ぶ。
「はい」
一華の方へ行く村重先生の背中を、いつの間にか目で追っていた。
スクールが終わり、私が下島さん、斉藤さんと三人でスクールの入っているビルから出てきたときだった。
「千尋!」
「一華!どうしたの?」
一華が息を切らせて来た。
「久しぶりに一緒に帰らない?」
「私と?」
すると下島さんが「私たちちょっと用事あったんだ。ごめんね橋本さん。後でLINEするね」と、笑顔で言った。
「えっ?用事ってなんですか?」「ったくあんたは!空気読みなさいって」戸惑う斉藤さんを下島さんが引っ張っていった。
夕方の街を久しぶりに、本当に久しぶりに一華と二人で歩いた。
「ごめんなさい。邪魔しちゃったね。二人には私が謝っていたって伝えといて」
「ううん。大丈夫だよ。あの二人は」
知り合って間もないが、話していて下島さんも斉藤さんもそういうことでこじれるような人じゃないと私にはわかる。
「なんだか千尋とこうして歩いていると懐かしい。中学時代を思い出すわ」
「私も。今は住んでいる場所も違うけど、こうして二人で歩いていると、あの頃の景色が見えるみたい」
歩いていてコンビニを見つけた一華が立ち止まる。
「ねえ!ちょっとなにか飲んでいこうよ!昔は学校帰りに買い食いとかしたじゃない」
楽しそうな一華は、私の手を引くようにしてコンビニに入った。
一華が二人分の会計を済ませる。私がお金を払おうとすると一華が制した。
「いいの。だって中学時代はいつも千尋におごってもらってたから。私の家はあんなだったし」
「そっか…… じゃあいただくね」
イートインコーナーに座ると外の景色を眺めながらコーヒーを飲んだ。
「ねえ。村重君どうだった?」
「丁寧で優しいし、良い先生だよね。それにイケメンだし」
「でしょう?」私が冗談めかして笑うと一華も笑った。
「教えるの上手いからっていうのもあるけど、なにより千尋にはお似合いだと思って彼にしたの」
「えっ」
「ふふ。冗談よ。彼ってね、ちょっと創作上のことで悩んでいるのよ。だから千尋に専属的に教えるようにすることで、なにかきっかけになればと思って」
「悩みって?」
「彼、絵をやってるんだけど伸び悩んでるの。この世界なら誰でもつきあたる壁よ」
「一華にもあったの?」
「私はなかったかな。あっても壁なんて感じなかったのかも。私の場合は井戸から這い上がってきたようなもんだし。だから、良かったら千尋も彼の悩みを聞いてあげて」
「私にそんな芸術的なこと無理よ」
「できるわ。千尋なら」
一華に言わせると、一番最初の作品を作れたのは私と出会ったおかげだということみたいだ。
でも、私から言わせれば、あれは副産物のようなもので、自分があの芸術品に関わっているなんて考えるのも図々しい気がした。
あれが一華の才能の結晶、現れなのだから他人は関係ない。
その後、一華の個展の話をしたり話題を変えて私たちは、まるで学生みたいに語らった。
中学時代に戻った気がした。
それが錯覚とわかっていても、懐かしく楽しい。
一華はどうなのだろう?
私の様に懐かく楽しい錯覚の中にいるのだろうか?
昔のような屈託のない笑顔を見せる一華を見ながらふと思った。
もうスーパーへ夕食の買い出しに行かなければならない時間になったので、コンビニの外に出た。
別れ際に一華に声をかけた。
「ねえ一華。今度私の家へ遊びに来てよ。この前助けてもらったり、お宅に招待してもらったお返しもあるし。もちろん個展の方が落ち着いてからでいいんだけど」
すると一華は首をふった。
「それじゃあどんどん先になっちゃう。時間を作って行くわ。千尋の誘いだもの」
その後、一華は近所のスーパーまで車で送ってくれて、後で家に行ける日をLINEで送ると言って帰っていった。
西日に目を細めながら夕日の向こうに消えていく一華の車をしばし眺めていると、センチな気分になっている自分に気がついた。
たまにはこういうのもいいかもね。
良い気分で家に帰ると、なにげなくスイッチを入れたテレビから信じられないニュースが目に飛び込んできた。
福島先生が失踪。
しかもニュースではこれまで行方不明になっていた高橋智花、田島紅音、小田茉莉の三人にも触れて、警察は連続失踪事件として事件性があることも考慮して捜査本部を設置したと話していた。
同窓会で言葉を交わした先生の顔が頭に浮かぶ。
いったい先生になにがあったのだろう?
同級生の失踪に続いて担任までもが失踪。
警察はこれら四人の失踪が関連性のあるものと判断したわけだ。
いったい何が起こっているのだろう?
胸の奥底から不快なものを感じたときにスマホが鳴った。
果歩からだ。
三日ほど前に旅行から帰ってきて、お土産があるとかで電話してきたっけ。
その件かな?
「はい。どうしたの?」
「千尋、ニュース見た?福島先生の」
「ええ。行方不明のやつでしょう?」
「それに智花たちのことも」
「連続失踪事件だってね」
「それでね、千尋」
電話向こうの果歩はどこか怯えているようだった。
「果歩。どうしたの?なにかあった?」
「最近は愛と連絡とった?」
「ううん。とってないけど……どうかしたの?」
「私、一週間くらい旅行に行ってたんだけど……それは千尋に話したよね。それで帰ってきて千尋に連絡した後に愛に連絡してみたら通じないの。そういえば旅行に行く前もつながらなかった。電源が入っていないって。いつからだろう?たんにタイミングが悪いのかなって思ってたけど、福島先生のニュース見たら、もしかしてって思っちゃって」
果歩は取り乱して今にも泣きそうな気配だ。
「果歩。落ち着いて」
そういえば私もスクールに通うようになってあまり連絡は取っていなかった。
いつから?いつからだろう?
最後に愛と連絡を取ったのはいつだったか思い出してみるも、はっきりとは覚えていない。
電話を切ったらLINEの通話記録を見ればわかるだろう。
今はとにかく果歩を落ち着かせないと。
「果歩。深呼吸して。いい?自分を落ち着かせるの」
「う、うん」
電話の向こうから二回、三回と果歩の呼吸音が聞こえてくる。
私も一緒に深呼吸した。
「どう?落ち着いた?」
「うん」
「これから愛の家に行ってみるから」
「私も行く」
「わかった。じゃあ今から愛の家の最寄り駅に一時間後でどう?」
愛は実家を出て一人暮らしをしていた。
部屋があるマンションはここからも、果歩のいるところからもそう遠くはない。
しかも今外から帰ってきたばかりで、身支度をする必要もない。
電話を切るとバッグを掴んで外に出た。
この分だと夕飯の支度は難しそうなので、明さんには電車に乗ってからLINEで事情を説明した。
マンションへ行ってみたものの、愛の部屋は無人だった。
インターホンをいくら押しても応答がないので、まだ会社から帰ってきていないのかと考え、しばらく待ってみた。
その間、何度も電話してみたがつながることはなかった。
「どうしよう?」
果歩がいよいよ不安に顔を曇らせて聞いてくる。
私は一寸考えてから「愛の実家に連絡してみよう」と、答えた。
この場では二人ともわからないが、帰れば卒業アルバムを見て連絡を取ることができる。
もし愛が行方不明になってしまったのなら、会社の方はどうしたのだろう?
果歩のように一週間以上連絡がつかなければ、実家の方に連絡くらいは行くのではないだろうか?
そして家族の方でも愛と連絡が取れなければ捜索願を出すだろう。
出していれば警察が言っていた連続失踪事件の失踪者の中に愛の名前が入っているはずだ。
だが、ニュースでは愛の名前は読み上げられなかった。
もしかしたら愛は行方不明などではないのかもしれない。
私は自分の考えを果歩に話して、良くない方向にばかり考えるのは止めるように言った。
果歩も私の話に合点がいったのか、帰り道は行きよりも落ち着きを取り戻しているように見えた。
愛の実家には私から連絡してみるということで果歩と別れた。