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実習室の奥にある、人目に付かない特別なシャワーブース。
目立つのが嫌いな私にとって、そして何より「あのルシアンさん」と二人でいるところを見られたくない私にとって、この場所は本当にありがたい避難所だった。
「お疲れさま。もう身体、大丈夫?」
「あ、ありがとうございます……っ。私、いつもこんな感じで……」
絶頂の余韻で腰が抜けてしまい、まともに歩けなかった私をここまで運んでくれたルシアンさんには、もう頭が上がらない。
私なんて何もできなかったのに、彼女は嫌な顔ひとつせず、ずっと穏やかに微笑んでくれている。学園内で『王子様』なんて呼ばれて絶大な人気を誇っているのも、心から納得だった。
「ごめんなさい……その、私、足を引っ張ってばかりで。もし今回の評価が悪かったら……」
「そんなに心配? 大丈夫だよ〜」
濡れた髪から水滴を滴らせながら、ルシアンさんはフワフワと柔らかく笑った。
その声と笑顔があまりにも温かくて、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていく。
「ねえ、リルティはさ。……実習とか、苦手?」
唐突な問いかけに、思わず目を瞬かせた。
「……えっと。……苦手、です。やっぱり私、下手っぴだから……。いつもペアの人に迷惑をかけないように、そればかり気にしてて……」
ルシアンさんみたいな天才には、きっと無縁の悩みなんだろうな――そう思いながらも、不思議と口が止まらなかった。
いつもなら教室の隅で本に隠して、誰にも言えずに閉じ込めていた劣等感。それが、ルシアンさんの前だと自然と溢れ出てしまう。
「だから……ちょっとだけ、ルシアンさんが羨ましいです。色々大変なこともあると思いますけど、やっぱり上手にできたら、実習も楽しいんだろうな……なんて」
そこまで言って、ハッと我に返った。
なんて図々しいことを口走ってしまったんだろう。実習でのあの優しい熱や、今の親密な空気に甘えて、完全に調子に乗ってしまった。
「ふーん……。リルティは、上手になりたいんだ?」
「え……っ」
「ううん、そうなのかなって思っただけ」
ルシアンさんはいたずらっぽく小首をかしげると、実習着の襟元を整えながら、すっと私との距離を詰めてきた。
「ボクがアレコレ言うのもお節介かもしれないけど……もしボクの助けが必要なら、いつでも声をかけてね」
「えっ……あ、あの……」
「なーんてね。……じゃあね、リルティ」
ちゅっ、と。
ぽかんと固まる私のおでこに柔らかな唇を落とし、ルシアンさんはふわりとバニラの香りを残してブースを出ていってしまった。
一人残されたシャワーブースの中、額に残る微かな熱に触れながら、私はしばらくその場から動けずにいた。
どこかフワフワと浮き足立ったまま、教室へと続く廊下を歩く。
いつもなら胃のあたりに渦巻いている重いもやもやが、今日だけは少し薄い。
頭の中は、先ほどシャワーブースで交わしたルシアンさんの言葉でいっぱいだった。
『もしボクの助けが必要なら――』
上手になりたい。ずっと心の底で燻っていた願い。
完璧なルシアンさんなら、こんな私でも変えてくれるかもしれない――そんな都合のいい妄想が一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、教室の扉の前に立った瞬間、急速に熱が冷めていくのを感じた。
ざわつく教室。誰かと談笑するクラスメイトたち。
足を踏み入れた途端、肌に刺さる現実の冷たさに息が詰まる。
何を調子に乗っていたんだろう。教室に戻ってしまえば、私はルシアンさんのペアなんかじゃない。ただの、いつも通りの落ちこぼれの私だ。
結局、さっきだってルシアンさんが凄かっただけで、私自身は何ひとつ上手にできなかった。
迷惑をかけるわけにはいかない。あんな雲の上の人に、これ以上手を伸ばすなんて怖すぎる。
居場所のない教室で、私は逃げ込むように自分の席へと座り、机の上に視線を落とした。
――ピコン。
電子音とともに、端末へ実習の概評通知が届いた。
網膜に投影されたのは、相変わらず散々な評価ランク――けれど、いつもよりはほんの少しだけマシな数値。私が何かできたわけじゃない、全部ルシアンさんが一人で底上げしてくれただけの結果だ。
そして、数値の下に表示された『ペアからの評価コメント』。
いつもなら罵倒や悪口が並んでいるから、滅多に見ることもない項目だ。
けれど、恐る恐る視線を向けたそこには――たった一言、短い言葉だけが残されていた。
『頑張れ』
――あぁ、ずるい。
せっかくいつもの惨めな自分に戻ろうとしていたのに、またあの優しい声と体温が、胸の奥に一瞬で引き戻されてしまう。
騒がしい教室の片隅。周りの生徒たちが実習の話題で騒ぎ立てる中、私は両腕の中に顔を埋め、机に突っ伏したまましばらく動くことができなかった。
放課後、お礼だけでも言わなければと思い、私はルシアンさんのいるクラスへと向かった。もし一人きりだったら。彼女が私に気づいてくれたら、直接お礼を言いたい。そして、もしその時の私に少しでも勇気があれば——。
けれど、現実はそんなに都合よくはいかなかった。
教室の前まで行くと、ルシアンさんの周りには優秀そうなクラスメイトたちが群がっており、とても話しかけられるような雰囲気ではない。彼女が廊下へ出てくると、すれ違う生徒たちの足取りが一斉に緩み、憧れと羨望の視線が彼女へと集まる。
その中心にいるルシアンさんは、さっきとはまるで別人のように、どこか冷たく凛々しい横顔をしていた。
——ふと、視線が交差する。
私の姿を捉えた瞬間、彼女の唇がふっと微かに弧を描いた。
気のせいかと思うほど一瞬の笑み。ルシアンさんは特に声をかけてくることもなく、取り巻きたちと共にそのまま歩き去ってしまった。
呆然と立ち尽くす廊下。静まり返った空間に、不意に電子音が響いた。
——ピコン。
静かになった廊下に、私の端末の通知音が小さく響いた。
震える指先で網膜ディスプレイを開く。
…… …… ……
『個別自主実習室の予約が完了しました』
予約者:78クラス ルシアン
同伴者:134クラス リルティ
日時 :現在時刻より
場所 :第3地下区画 014号室(特殊防音仕様)
備考 :こっそりね、
ドクン、と心臓が早鐘のように激しく脈打ち始めた。
私は踵を返し、普段は誰も寄り付かない薄暗い第3地下区画へと、早足で駆け出していた。
地下フロアに到着し、冷え切ったコンクリートの通路を進む。
やがて見えてきた重厚な金属扉――『014』のプレート。
息を整え、震える手で認証パネルに触れると、シューッと密閉音を立ててロックが解除された。
恐る恐る、静かに扉を押し開ける。
薄暗い照明が灯る密室の中。
ベッドの縁に腰掛け、実習着の胸元を少し緩めたルシアンさんが、ゆっくりとこちらを振り返った。