テラーノベル
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多少歪んでいたとしても、自分に愛情を注いでくれる母親と一緒にいるほうが何倍もマシだ。
『嫌です。僕はお母さんが待つ家に帰らないといけないんです』
じりじりと距離を詰めてくる眼鏡男から距離を取りながら岳斗が言ったら、背後から『岳斗!』と自分を呼ぶ声がした。
この雨の中、取るものも取り合えず走ってきたのだろう。事務服姿のまま傘が用をなしていないくらいびしょ濡れになっているのは、仕事で参観日には来られなかったはずの母・真澄だった。
***
母は傘を投げ出して岳斗の方へ駆け寄ると、キッと花京院岳史を睨み付けながら息子を自分の背後に庇った。
母親が持っていた傘が放物線を描くように道路わきに転がるのが視界の端に見える。
岳斗は土砂降りに濡れそぼる母の後ろ姿を傘を傾けてじっと見詰めた。
『そのお話はお断りしたはずです。この子は私が一人で産んで一人で育てた私の大切な息子です! 岳史さんとは何の関係もありません!』
その言葉を聞いて、岳斗は傘を放り出して母親にギュッとしがみついた。
『お母さん……!』
どんな形であるにせよ、母は自分を目の前のオトウサンとやらより断然愛してくれているのだと感じられて、純粋に嬉しかったのだ。
『真澄。何故キミが今ここにいる? 今日は納期の差し迫った仕事をキミの課へ山積みにするようそちらの勤め先へは圧力を掛けておいたはずなんだがね。もしかして職務放棄してきたのかい? やれやれ……。元々そんなに手取りもないくせにそんなことをしていて、私の息子にまともな生活がさせてやれるのか?』
その言葉とともにあからさまに落とされた侮蔑まじりの吐息が、雨音をすり抜けるようにして岳斗の耳にも届いて、それが物凄く不快だった。
今日、お母さんが自分の参観に来られなかったのは、この男のせいだったのだ。
『ですから! 岳斗は岳史さんの子ではありません! 確かに私が不甲斐ないせいでこの子には不便な想いをさせてしまっているかも知れません。ですが……そんなの、他人のあなたには関係ないことです!』
母はそう告げると、オトウサンとやらが発した『そんな嘘が通用するとでも?』という言葉を無視して岳斗の手を引いて足早に歩き出してしまう。
スーツ眼鏡がそんな自分たちの行く手を阻むように立ち塞がったけれど、母はひるまずその男に『退いてください。これ以上しつこくなさるのなら、この子の親権者として警察を呼びますよ?』と脅しをかけた。
岳斗は道端に転がった大小ふたつの傘を気にして振り返ったけれど、母親はそんなものに頓着する気はないみたいに岳斗に歩くことを促してくる。
傘は失くしてしまったけれど、あの日そんな母の背中を見詰めながら、岳斗は確かに幸せだったのだ。
なのに――。
***
それからわずか三ヶ月後。
母親は態度を一変させて、岳斗に花京院家の養子になるよう説得してきた。
『ごめんね、岳斗。お母さん、お父さんに言われて気が付いたの。ふたりでいたら、岳斗もお母さんも幸せになれないなって』
以前あの男が岳斗をさらいに来た時、母は一線を引くみたいに彼のことを〝岳史さん〟と呼んでいたはずだ。
なのに涙ながらに〝お父さん〟と言いながらさよならを告げてきた母に、岳斗はお母さんに捨てられたと思って彼女を恨んだのだ。
けれど――。
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