────数日後。平和な朝を迎え、顔に当たる陽射しで眠い目をこすりながらヒルデガルドは目を覚ます。賑やかな町の喧騒に窓を開けて空気を入れ替えながら、大きく深呼吸をする。今日も頑張ろうと空を見上げて思った。
魔塔での戦いの翌日には大々的に公表され、ヒルデガルド・イェンネマンの指名によってカトリナ・セルキアが公式的に魔塔主となった報せが届き、大賢者の間は復元されない方針で話が固まったとも伝えられた。
なにしろ蓄積されてきた技術の悪用を行い、神聖な場所を穢す者が現れたという事実は、ほとんどの魔導師たちにとっても寝耳に水だ。ウルゼン・マリスを信奉に近い形で支持してきた者たちも互いに罪の重さを押し付け合い、一斉に除名処分を受けたうえ、魔塔の敷地内への進入が禁止となった。
一時的なものではあるが、少なくともカトリナが生きているうちは魔塔の機能は正常化するだろう。庭に投げ込まれた号外の記事を読み、彼女はほくそ笑む。
『お手柄、プリスコット卿! 違法な実験に手を染めていた大賢者代理、魔導師のウルゼン・マリスを処断! 新たな魔塔主には大賢者の遺言によりカトリナ・セルキアが就任、今後の活躍が期待される美女大魔導師とは?』
魔塔の話題は世間を賑わせた。彼ら魔導師が常日頃から、人々の生活を助ける一方であらゆる研究を隠匿してきた事実を批判する声もあがり、大賢者がいなくなった今、民の冷たい言葉は重たく圧し掛かった。
しかし、カトリナは事件から二日後、公表を受けたあとで会見を開き、自分たちの甘さゆえ招いた事態であったと正式に謝罪をして、新たな魔塔主として公表できる事実のすべてを伝えることを約束した。それが今後の魔塔の在り方だ、と。
「おはよう、ヒルデガルド。新聞、届いてたんだ」
「ああ。魔塔の件が記事になって各地に出回り始めたようだ」
「じゃあ、あの実験のことも?」
「だと思ったんだが、それほど騒ぎにはなってないな」
証拠品として回収された研究資料はアーネストの手に渡り、確かに公表されたはずだった。だが、それはあくまでウルゼン・マリスが違法な実験を行っていたことだけに留まり、ホブゴブリンやコボルトロードを操って何をしようとしていたかまでは明確にはしなかったのだろうと結論付けた。
そうでなければ、今頃は魔塔の存続を許さない者たちの激しい怒りの声が噴出して、とても許されるような環境ではなかったはずだ、と。
「これで懸念もひとつ消えた。ギルドにでも行ってみるか?」
「ああ、いいね! ゴールドランクにもなったし!」
彼女たちの冒険者ランクが異例の速さでゴールドまで駆け上がったことは、未だにギルドでも話の種になっている。もしかしたら大きな依頼のひとつでも来ているかもしれないと顔を出してみることにした。
ここ数日は、すっかり大人しい日常に気持ちを緩ませた。イーリスは魔法薬の研究に没頭し、ヒルデガルドはコボルトたちと一緒になって家事をこなす。ギルドにも行かず、疲れを癒すのに費やした穏やかな日々だったので、そろそろ刺激的な仕事のひとつくらいあってもいいだろう、と身体を動かしたくなっていた。
アベルたち家事を任せて、歩いてギルドまで向かう。相変わらず冒険者たちで賑わっているロビーで、いつもよりも受付の周りに人だかりが出来ているのを見つけて二人は意外そうに近付いていく。
「ねえ、君たち。何かあったの?」
イーリスに声を掛けられて、彼らはひそひそ話しながら振り返る。いったいなんの騒ぎだと思っていると、群衆の隙間を縫うように二人を見つけた誰かが嬉しそうに花束を掲げてやんわりと振って自分の存在を示す。
「ヒルデガルド、俺だ。数日ぶりになる、元気にしていたか」
受付に人だかりが出来ていた理由に、うんざりした。
「プリスコット卿……なんで君がここにいるんだ」
彼はとにかく目立つ男だ。眉目秀麗で、身なりの整った服装は、彼の体型にはややぴったりすぎるのか、筋肉質な身体がはっきりしている。『大陸の大槍』と呼ばれるほどの実力者は、一部の冒険者から強い人気もあった。
「あなたを労いに。先日は魔塔の件で世話になっただろう? とはいえあなたが欲しがるものなんて想像もできなかったから、とりあえず花束を──」
差し出された花束を奪い取り、そのまま彼の頭を叩く。
「要らん、さっさと持って帰れ。あと二度と来るな」
「すまない、機嫌を損ねてしまったか」
「そうじゃなくて……ああもう、最悪だ。君がここまで馬鹿とは!」
労いなど必要ない。目立ちたくないのだ。だから魔塔の件が済んだら、さっさと逃げ帰ったのに、彼は肝心な部分を理解していない。大賢者という存在が既に死亡していることにさえすれば、ヒルデガルド・ベルリオーズには別人として会っても良いと考えたのだ。魔塔の受付で『今は別人だ』と話したことが彼にそう思わせた。
おかげでギルドのロビーでは、瞬く間に新しいうわさができあがった。ヒルデガルド・ベルリオーズという新参者が、歴代の誰よりはやくゴールドランクに到達しただけでなく、『プリスコット伯爵の心を射止めた』と。
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