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その日から、ヒルデガルドの注目度は高くなって留まることを知らない。恋愛などには爪の先ほどの興味も湧かなかったし、今はイーリスという弟子の成長を見守るほうが大事だ。非常に迷惑な気分を抱えはしたが、しかし、そのおかげもあってか彼女たちへの依頼は瞬く間に増えた。
あの伯爵家の信頼を得るほどなのだから、腕も確かだろう、と。
今ではイルフォードでヒルデガルドとイーリスのペアの名を聞けば「ああ、あのコボルトを飼ってる二人組のことか」と、誰もが言うほどに名が知れ渡っている。ゴールドランクの冒険者にしては知られ過ぎているくらいだ。
「こんなはずじゃなかったんだが」
数カ月もして、ヒルデガルドの目には疲れの色が映る。どこへ行っても名前を呼ばれ、自分が知らない人間にさえ認知されている事態。注目など浴びたくもなかったはずの彼女が、イルフォードで高い知名度を誇っているのだから当然だった。
「はは、あれからプリスコット卿も反省の手紙を送ってくるようになったね。全部、庭先で破り捨ててるみたいだけど。知ったらがっかりしちゃうよ」
「知ったことか。あの馬鹿には良い薬になる」
ふくれっ面でドーナツを齧り、特大のため息を吐く。
イーリスが「まあまあ」と優しく宥めても、彼女はツンとしたままだ。
「おかげでお仕事も増えたし、いいじゃない。例の事件も詳細を伏せてくれてるおかげで、ボクたちが現場にいたなんて誰も知らないんだから」
周囲からみれば、極めて普通のゴールドランクの冒険者。ちょっと違うのはアーネストと繋がりがあるというだけで、彼女たちを際立って特別扱いするような空気はない。たびたび「今日はデートじゃないのかい」と茶化す者が現れた程度だ。それが非常に気に入らないのだと、声を大にして叫びたい気持ちはあったが。
「にしてもボクまで有名になるとは思わなかったな……」
「それはそうだろう。君は私のパートナーなんだから」
フッ、と笑ってドーナツを彼女に向けながら。
「いいか、あのときの状況から見て本命が君である可能性も捨てがたい、という声だってたまに聞く。なんならうわさにしてやってもいいんだぞ」
「あっ、調合の途中だったの忘れてたから行かなきゃ!」
皿に並んだドーナツをひとつくわえて、イーリスは慌てて二階へ逃げていく。
「まったく。同じ経験をするのは嫌なくせに」
「ヒルデガルド、ドーナツ、まだ揚げる?」
「アベル、そろそろ休憩して君たちも食べろ。美味しいぞ」
アベルとアッシュが揃ってお腹をぐう、と鳴らす。
「食べる! 甘いもの、美味い!」
「がぁう!」
すっかり馴染んで、アベルは以前にもましてさらに言葉を話せるようになった。理解力も高く、アッシュも言葉こそ話せないが、アベルという家族を通じて、今ではどちらも町では人気者だ。友達がたくさん増えたと喜んでいる。
毎日がうんざりするほど騒がしいが、それでも家にいる間に流れる穏やかな空気は、ヒルデガルドにとって最高の時間だ。師を失い、友を失い、孤独な気持ちを抱えたまま森に引きこもっていた日々が、遠い昔になっていた。
「……フ、随分と幸せ者になったものだ」
最愛の弟子。最愛の家族。最高のパートナー。冒険者としての日々を過ごしながら、イーリス・ローゼンフェルトという魔導師の成長を見届けられる。自分が得られなかった経験でも、与えてやることは出来そうだ、と。
『ごめんくださーい。ヒルデガルドさんとイーリスさんはいらっしゃいますか、ギルドからの依頼書が届いているんですけど』
郵便受けを置いてあっただろうと思いながら、食べかけのドーナツを自分の皿の上に置き、玄関から顔をのぞかせる。小太りの男が、ふう、と息を切らして袖で額の汗を拭って、ニコニコと大きく手を振った。
「いつもありがとう、助かってるよ。なんの依頼書だ?」
「はい、なんでも、飛空艇内での警護任務とか」
「ああ、あの最近出来たとかいう金持ち向けの遊び場か」
受け取った依頼書を広げ、内容を確認する。シルバーからゴールドまでのランクを持つ冒険者向けの依頼書で、定員数は百二十名と大規模だ。誰でも受けられるわけでなく、決まった冒険者たちにのみ依頼書が優先的に配られる。必要がなければギルドへ返還、受ける場合は署名をしてギルド専属の郵便屋にその場で渡すのが通例だ。
「空飛ぶ遊覧船として初の超大型飛空艇だそうですよ。その名も、大賢者様から頂いて『グランシップ・ヒルデガルド号』とか」
苦笑いを浮かべそうになるのをグッと堪えた。
「良いんじゃないか、覚えてもらいやすそうで」
依頼書に署名して丸め直し、借りたペンと一緒に返す。
「ともかく依頼は受けるよ。ギルドへ届けておいてくれ」
「承知しました、ではそのように!」
次の家に向かっていく郵便屋に小さく手を振り、姿が見えなくなったら、気持ちよい足取りで家に戻る。イーリスはきっと喜んでくれるだろう、とうきうきした。なにしろ飛空艇に乗る機会などヒルデガルドですら殆どないのだ。
警護任務とはいえ大した問題は起きない──起きたとしても、冒険者の数から考えて暴動などあっという間に鎮圧できるだろう。これはちょっとした小旅行だと考えて、依頼を受けたことをさっそくイーリスに伝えに行く。
「魔法薬の精製はどうだ、上手く行きそうか?」
「あ。うん、疲労回復のポーションを作ってたんだ」
ヒルデガルドが最終チェックをして、納得の出来だと判断する。
「ほう、中々に筋がいい。──ではそんな君に良い報せを」
冒険者としての日常は、それほど悪くないものだ。最初こそ、その場しのぎ程度にやってきた町だったが、今では新たな家族と共に過ごせる毎日が楽しくて仕方ない。疲れはするが、退屈がない。彩り豊かな日々の移ろいに、ヒルデガルドは以前と比べて、気遣ったりもせず、ずっと自然に笑うようになっていた。