テラーノベル
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夏休みが始まってから、僕の自習室は学校から彼女の自宅、あるいは彼女が指定する「静かな場所」へと移り変わっていった。 一ノ瀬さんは、僕を指導するという名目で、僕の生活のすべてを、呼吸の回数さえも管理し始めていた。
「佐藤君、ペンを置いて。……こっちに来なさい」
彼女の部屋。冷房で冷え切った空気の中に、わずかに焦げたような、血の匂いが混じっていた。彼女はベッドに横たわったまま、僕に手招きをする。
いつもの冷徹なエリートの姿ではない。薄い寝巻きを纏い、肌は透けるほど白く、その下を走る血管が毒々しく浮き出ている。
「……一ノ瀬さん、顔色が悪い。やっぱり、病院に」
「黙って。ノイズよ、それは」
彼女は僕の腕を掴み、自分の胸元へと引き寄せた。驚くほど熱い。けれど、彼女の指先は死人のように凍えている。その温度の差が、僕の脳を狂わせる。
「怖い? 私が壊れていくのが。…それと
も、私がいない世界で、また独りぼっちの『無能』に戻るのが怖いの?」
彼女は僕の耳たぶを甘く噛み、震える声で囁いた。
彼女は知っている。僕が、彼女の支配なしではもう生きられない廃人に成り果てていることを。僕が彼女に執着しているのではなく、彼女が僕に「執着させている」のだ。
「……行かないで。一ノ瀬さんがいないなら、僕は、僕を殺す」
僕の口から出た言葉は、自分でも引くほどに重く、湿っていた。
それを聞いた彼女は、ゾッとするほど美しい、悦びに満ちた笑みを浮かべる。
「いい子。じゃあ、私のこの『欠陥』も、全部愛しなさい。私が動けなくなったら、あなたが私の手足になりなさい。私が息を引き取るその瞬間まで、あなたの脳を私でいっぱいにしなさい」
彼女は僕の手を、自分の細い首筋へと導いた。
脈打つ鼓動が、掌にダイレクトに伝わる。生きている。けれど、確実に、砂時計の砂が落ちるように、彼女の中の「何か」が失われていく。
彼女はその恐怖を僕に分け与えることで、僕を永遠の共犯者に仕立て上げようとしていた。
「……ねえ、佐藤君。私が死んでも、私を殺さないって、誓える?」
彼女の瞳に宿る、底なしの暗い執着。
僕は、彼女の毒に侵された脳で、ただ深く頷くことしかできなかった。
あの日、彼女が僕を選んだのは、僕が弱かったからじゃない。
僕が、彼女の呪いを最も美しく「保存」できる、最高の標本箱だったからだ。
コメント
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書籍化と映画化待ってます。これまでのどのシリーズより歪んでて好き