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RanJam
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雨の匂いがする夕方だった。
古びた駅前のベンチに、少女は一人で座っていた。
制服の袖は少し擦り切れていて、白いスニーカーには湿った泥がこびりついている。
人通りは多いのに、誰も彼女を見ていなかった。
まるで世界だけが先へ進み、自分だけが取り残されているようだった。
少女――紬は、ポケットの中の紙切れを何度も握り直した。
そこには、震えた文字でこう書かれていた。
「貴方に会いたくて、生まれてきたんだよ」
誰が書いたのかは分からない。
三年前、病院から退院した日に、母から渡された箱の中に入っていた。
箱の中には古い写真、青色のビー玉、小さな花の押し葉。そしてこの手紙。
母は「大事な人が残したもの」としか言わなかった。
紬は、その“誰か”を知らない。
けれど、苦しくなるたび、その言葉を読んだ。
学校で馴染めなかった日。
友達だと思っていた子たちの笑い声が、自分を避ける音に聞こえた日。
「頑張ってるつもり」が空回りして、全部嫌になった夜。
そのたびに、手紙の文字だけが、自分を現実につなぎ止めた。
――貴方に会いたくて、生まれてきた。
そんなふうに思われる価値が、自分に本当にあるのだろうか。
紬には分からなかった。
駅のホームに電車が滑り込む。
風が吹き、濡れた前髪が揺れる。
周囲の人々は当たり前みたいに前へ進んでいく。
スマホを見て、笑って、誰かと話して、明日の予定を立てている。
紬だけが、うまく歩けなかった。
「……疲れたな」
小さく呟く。
すると隣に、いつの間にか誰かが座った。
白いコートを着た、年齢の分からない男性だった。
身長はあまり高くないだろうか
黒髪で重ための前髪
その前髪の間から覗く瞳
それらすべてから不思議な感じがする綺麗な顔の人
普通の人間とは何かが違う気がする
「その紙、大事なんだね」
紬は反射的に隠す。
「……別に」
「そっか」
男性はそれ以上聞かなかった。
沈黙が続く。
雨音だけが、静かに世界を埋めていく。
やがて男性は、空を見上げたまま言った。
「人ってさ、壊れないから生きてるんじゃないんだよ」
紬は黙っていた。
「ズタズタでも、ちゃんと明日へ行けるから、生きてるんだと思う」
その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。
紬は俯いたまま、小さく笑った。
「……でも、希望なんて、すぐ消える」
「うん。消えるね」
男性はあっさり頷いた。
「だから、何回でも灯すんだよ」
電車が発車する。
光が流れ、雨粒が線になって消えていく。
紬はふと尋ねた。
「あなた、誰?」
けれど返事はなかった。
隣を見ると、誰もいない。
白いコートも、足音も、何も。
ただベンチに、小さな花が置かれていた。
押し葉と同じ花だった。
紬は息を呑む。
震える指で、それを拾う。
その瞬間、ずっと昔の記憶が微かによみがえった。
春の病室。
窓辺で笑っていた男性。
優しく頭を撫でる手。
『大丈夫。あなたはちゃんと、生まれてきてよかった子だよ』
涙が落ちた。
止まらなかった。
紬は初めて、自分のために泣いた。
苦しかったこと。
寂しかったこと。
誰にも追いつけなかったこと。
全部抱えたまま、それでもここまで生きてきた。
雨は少しずつ弱くなっていた。
駅前の水たまりに、滲んだ空が映る。
紬はゆっくり立ち上がる。
明日が急に輝いて見えたわけじゃない。
傷が消えたわけでもない。
それでも。
「……もうちょっと、生きてみるか」
小さく呟く。
その声は、確かに自分自身へ向けた言葉だった。
遠くで鳥の群れが飛び立つ。
灰色の空の向こうへ。
紬は濡れたスニーカーで地面を踏みしめ、一歩だけ前へ進んだ。