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地下の戸をあけると、ジャズのBGMが聴こえてきた。カウンター席は埋まってる。テーブル席がひとつだけ空いてたけど、すぐ後にやってきたグループに取られてしまった。仕方なく今閉じたばかりのドアのノブに手を掛けたとき、フロアにいた黒い蝶ネクタイの店員さんに呼びとめられた。カウンター席の一人が本を閉じて、高椅子を降りる。別にいいんですとその人に声を掛けたけど、お客はそそくさと会計を済ませて店を出た。空いた穴ぼこに俺は埋まった。 マティーニを注文すると、カウンターの中にいるマスターはカクテルの王様ですねといいながら、小さなライムを三角錐のグラスの斜め上あちこちから絞って、ほのかな香りをつけてくれた。ヨーロッパで俺が行くところは安酒屋ばかりだったから、こういうのはかえって新鮮だ。皮肉なもんだ、モンマルトルの丘の中腹では日本のことばかり考えてたっちゅうのに、今は向こうのあれこれが浮かぶ。あっちじゃ、言葉の訛りでどこの国の出身かがすぐわかったけど、こっちは母国なのに、聴こえてくる会話を耳に入れただけじゃ、何者かまるでわからない。とくに、銀座あたりで方言丸出しの人はあまりいないね。
店員は気を利かせてか、白昼夢の俺を一人にしといてくれた。いや、マティーニを頼んだからにゃひとつでちびちび居座るんだろうと、意地悪く考えてたかもしれない。