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『恋の授業。恋愛を教えてください』~a×s~
Side佐久間
春先の風ってやつは、どうしてこうも無責任に心地いいんだろうね。
桜ももうほとんど散ってしまって、校舎の前には淡い花びらがまだ少しだけ残ってる。俺はそれをぼんやり眺めながら、掲示板の前に立ち尽くしていた。
「……また、か」
視線の先には無情なアルファベットと数字が並んでいる。経済学、法学、英語、全部AかB。中には教授から褒められたレポートもあった。要するに、勉強に関しては俺、そんなに悪くないんだよね。
――なのに。
『恋愛学Ⅰ 評価:不可』
その一行が、他のどんな高評価よりも俺の心を抉ってくる。
「……いやいやいやいや、なんでなの!」
思わず口に出してしまって、横にいた学生が振り返る。慌てて誤魔化すけれど、俺の心の中はツッコミで大渋滞だよ。
(なんで恋愛したい、恋愛しなきゃいけないが前提なの!しかも、ここの大学、ほぼ男しかいないじゃない!これでどうやって”模範的な恋愛”を学べっていうの!)
この国は数年前に大きな制度改正をした。少子化が深刻だよ、結婚する人が減ってるよ、そんなニュースを何度も耳にしたことはあったけれど……まさか「法律で恋愛を必修科目にする」なんて誰が想像できただろう。
曰く――社会人になる前にパートナーシップを学び、健全で豊かな人間関係を築けるようにすることが目的。
曰く――恋愛を通じてコミュニケーション能力、自己理解、他者理解を養うのが教育の使命。
理屈は分からないでもない。そりゃ、恋愛を通して人間が成長する、っていうのは分からないでもないよね。けれどね。
「……単位にする必要ある?」
俺はひとりごちた。
恋愛を必修にして、落としたら卒業できません、なんて。笑い話にもならないよ。けれど、それが今の現実なんだよね。
頭を抱えながら、仕方なく教授室へ足を運ぶ。
「佐久間くん、入って」
呼ばれて中に入ると、教授はすでに俺の成績表を手にして、眼鏡の奥からため息をついていた。
「君ね……どうして恋愛学だけ、こんなに点数が取れないんだ?」
「いや、俺が聞きたいくらいです」
思わず本音が出てしまう。教授は苦笑しつつも、首を横に振った。
「他の科目は優秀なんだよ。だが、恋愛学は必修だ。ここを落とすと卒業できない。来年以降に再履修してもいいが……君、四年生だよね?」
「……はい」
つまり。
再履修したら、卒業は一年延びる。内定も全部パーになる。最悪だよ。
「先生、正直に言いますけれど……なんで恋愛だけ必修なんですか? 俺、別に恋愛したくないわけじゃないですけれど、そんなの自由じゃないの?」
教授は机に肘をつきながら、真剣な目で言った。
「社会が変わったんだよ、佐久間くん。これからの時代、学歴や知識だけではなく、人間同士の関係性を築く力が必要とされている。君がどう思おうと、制度としてそう決まってしまったんだ」
「……そんな」
俺はがっくり肩を落とす。
(人間関係?恋愛?いや、そんなの自然に身につけるものでしょ。俺、別に人付き合い苦手じゃないし、友達だっている。けれど、”恋愛の点数”って……そんなの数値化できるの?)
教授は柔らかい口調に戻って言った。
「佐久間くん、君に足りないのは”実践”だと思う。座学のテストはそこそこ出来ていた。だが、模擬デートやペアワークでの評価が極端に低い。照れているのか、あるいは本気で分からないのか……」
「……どっちもです」
正直に答えると、教授は思わず吹き出した。
「君らしいな。だが、いずれにせよ、克服しないといけない課題だ。来学期までに改善がなければ、本当に卒業は危ういぞ」
その言葉が、心臓にぐさりと突き刺さる。
卒業できない――たったそれだけで、四年間積み上げた努力が水の泡になる。
「……なんで俺だけ、こんな」
ため息をつきながら廊下に出る。
周りを見れば、楽しそうに談笑する学生たちがいる。カップルもいれば、男同士でふざけてる連中もいる。
(みんな、そんな簡単に”恋愛”できるものなの?俺にはどうも、恋愛って”赤点取るほど難しいもの”にしか見えないんだけれど)
風が窓から吹き抜けて、どこか遠くに桜の花びらを運んでいった。
俺はひとり取り残されたみたいに、その場に立ち尽くした。
悶々とした気持ちは、教授室を出ても全然晴れなかった。
重たい靄みたいなのが頭の中で渦巻いて、どんなに歩いてもまとわりついてくる。
(……本当、意味わからないよ。恋愛が必修?落としたら卒業できない?馬鹿じゃないの)
いくら考えても結論は出ないし、余計に腹立ってくる。
けれど怒鳴ったところで制度が変わるわけでもない。教授に食ってかかったら、ますます単位が遠のくだけだろう。
「……だめ。もう考えないでおこう」
小さくため息を吐きながら、ポケットからイヤホンを取り出す。
スマホの再生ボタンを押すと、ドラムとギターの軽快な音が耳に流れ込んできた。
音に身を委ねるように歩き出すと、少しずつ世界が色を取り戻していく気がする。
(やっぱ音楽っていいよね。頭の中ぐちゃぐちゃだったのが、ちょっと落ち着くよ)
俺は気分を変えようと、校舎の外へと足を向けた。
青空は春らしく澄んでいて、頬を撫でる風が少し冷たい。
ついさっきまで重かった胸が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
……その時。
「うわっ!」
肩に突然の衝撃が走って、思わずよろけた。
視界の端で誰かとぶつかったのが分かった。
慌てて体勢を立て直すと、目の前に背の高い男が立っていた。
「すみません!」
「いや、俺も前見てなかったし!」
互いに謝って、軽く頭を下げる。
それ以上会話することもなく、俺は歩き出した。
ぶつかった時に一瞬コードが揺れたけれど、イヤホンはしっかり耳に収まってるし、音楽もちゃんと流れ続けてる。
だから俺は何も気にせず、そのまま足を進めていった。
ところが――
数歩歩いた瞬間、ぷつりと音楽が途切れた。
「……え?」
思わず立ち止まり、スマホの画面を覗き込む。
再生ボタンは光ったまま。曲の残り時間も流れている。
なのに音だけが消えてしまった。
「なんで……?」
イヤホンの接触が悪いのかと、コードを指でつまんでみる。けれど、何の反応もない。
仕方なくイヤホンを片方外してみると、耳に入っていたのは……俺のじゃない。
デザインも似てるけれど、色味が微妙に違う。
「……あれ?これ……俺のじゃない?」
混乱して振り返った瞬間、さっきぶつかった背の高い男が少し離れた場所に立っていた。
彼もイヤホンを片耳に残したまま、手を軽く振っている。
俺は思わず固まった。
ほんの数秒前まで流れていた曲が、相手の耳元からうっすら聞こえている気がした。
まるで途切れた音楽の行き先が、そっちに移動したみたいに。
「……嘘でしょ」
どうやらさっきぶつかった拍子にイヤホンがすり替わってしまったらしい。
お互い同じメーカーで、しかも似たデザインのやつを使ってた。
そのせいで気づかないまま耳に差し込んで、しばらく同じ曲を”ふたりで”聴いてたわけだよ。
男は、まだこっちを見ながら片手を上げている。
「ついてない」
恋愛必修単位を落とし、しかも人にぶつかる。
俺も歩き出す。
あっちに向かって、すり替わったイヤホンを返すために。
近づくにつれて、相手の輪郭がはっきりする。
背は俺より頭ひとつ分高い。茶髪は陽の光を受けて艶めいて、額に落ちる前髪すら計算されたみたいに整っている。
ただ立っているだけで視線を引き寄せる。そんな空気をまとったやつだった。
「……はい、これ。すみません、俺、気づかないで」
イヤホンを差し出すと、相手は軽く笑って受け取った。
その笑顔に一瞬、心臓が跳ねる。整いすぎてて、見慣れてないせいだろうか。
「いや、こっちも落としたから。お互い様だよ」
低くて落ち着いた声。耳に心地いい響き。
その瞬間、俺の中で何かが繋がった。
(……あれ、この声。聞いたことある)
見覚えがある。いや、聞き覚えがある。
それは学内で噂に何度も上った名前と結びついていった。
思わず口をついて出た。
「……あ、あの。もしかして……阿部?」
相手は一瞬きょとんとした後、少しだけ照れたように笑って、頷いた。
「あ、ああ。そうだけれど」
胸の奥が一気にざわめいた。
阿部。――〇〇亮平ちゃん。
この大学にいる誰もが知ってる名前。
数か月前に開催されたミスコンで堂々の一位を取った男。
女子学生がほとんどいないこの学校で、「唯一の華やかさ」と言われる存在。
噂では、その”唯一の女子学生”と付き合ってるともっぱら囁かれてる。
(……え、ちょっと待って。これはチャンスでは?)
背の高さも、立ち振る舞いも、話し方の落ち着きも。全てが噂に違わない。
何より、その圧倒的な存在感が「特別」だってことを雄弁に物語ってた。
俺は心の中で頭を抱えた。
恋愛学で赤点を取り続け、卒業の危機に陥ってる俺。
そして、恋愛学で満点評価を受け、学内の誰もが憧れる阿部ちゃん。
(……この人に教わったら、もしかして俺も……?)
脳裏に一筋の光が差す。
笑ってしまうほど単純な発想だけれど、これ以上に頼もしい”先生”はいないだろう。
だって、実績は十分すぎる。
成績は満点、外見もミスコン1位。噂通り女子にモテモテ。
(恋愛に関して、これほど完璧な奴……いないでしょ。俺にとって今、一番必要な存在なんじゃないかな)
胸の奥でそんな考えが芽生えた瞬間、悶々とした霧の中に一筋の道が見えた気がした。
もちろん、簡単に頼めるものじゃない。相手からしたら迷惑に決まってる。
けれど――
(……いや、やるしかない。ここでチャンス逃したら、俺の大学生活、本当に終わりだよ)
鼓動が早まるのを感じながら、俺は阿部ちゃんを見つめていた。
……この人だったら。
「……ねぇ」
思わず声をかけていた。
俺の声に、阿部ちゃんは黒い瞳をすっとこちらに向ける。
「ん?」
その視線に、喉が詰まった。けれど、もう引き返せない。
「その……あのね……恋愛、教えてくれない?」
一瞬、風の音だけが響いた。
あまりにも突拍子もないお願いに、自分でも顔が熱くなる。
「え?」
阿部が小さく首を傾げる。
あ、やっぱ無理だったか……と思ったその瞬間。
「いいよ」
「……え?」
俺は思わず立ち止まった。
今、この人なんて言った?
「だから、いいよ。恋愛、教えてあげる」
「え?え?なんでそんな簡単なの?」
パニックになった俺の問いに、阿部は肩をすくめて笑った。
「いや。よくいるよ、”俺に恋愛教えてください”って人」
「……マジで?」
「うん。それに、その人が恋愛の単位落としそうな学生ってことも、結構あるんだ」
「……ドキッ」
思わず声に出てしまった。
阿部の黒い瞳が、楽しそうに細められる。
「図星?」
「……はい」
観念した俺が小さく頷くと、阿部は喉の奥でふっと笑った。
「ふふっ。いいよ、教えてあげる」
その笑顔を見た瞬間、俺は妙に納得してしまった。
(……なるほど、これはモテるよね)
こんな自然体で、しかも優しげに笑われたら、そりゃ誰でも惚れるだろう。
“大学のミスコン1位”って噂も聞いたことあったけれど、今なら信じられる。
「でも」
阿部が足を止めて、俺をじっと見た。
「タダとは言わない」
「……は?」
「報酬は何がいいかな?」
「……ほ、報酬?」
まさかの要求に、俺は目を白黒させる。
「そりゃ、俺だって時間割いて教えるんだから、なんか見返りがあってもいいでしょ」
「え、ええ……いや、それはそうかもしれないけれど……」
頭を抱えたくなる。
やっぱり、そんな簡単に話が進むわけないよね。
「うーん……」
阿部が腕を組んで考え込む。
俺は慌てて手を振った。
「あ、ちょっと待って!高額なお金とかはナシだよ!あと、高額なお金がかかるものも絶対ナシ!」
「ふふっ、何それ」
「いや真剣だから!?俺、お金ないし!先に言っとくけれど!重要な事だから2回言うけれど本当にお金はない!」
「分かった分かった。」
阿部は楽しそうに笑いながら、俺を覗き込む。
「じゃあ……どうしようかな」
「いや、なんだろう……俺にできること、本当限られてるよ?」
「うーん……」
少し考えたあと、阿部はすっと顔を上げた。
「そうだな。じゃあ、君が”恋愛の単位”を無事に取れたら……その時に報酬を考えて言うよ」
「……え?」
「それまで楽しみにしてて」
「……楽しみ?いやいやいや、不安しかないんですけれど」
「大丈夫。変なことは言わないから」
「本当に?」
「本当に」
そのやりとりに、思わず苦笑が漏れる。
さっきまで胸を押しつぶしてた”赤点の重み”が、少しだけ軽くなった気がした。
「……分かった。じゃあ、その条件で」
「うん、決まりだね」
阿部はそう言って、また穏やかに笑った。
その笑顔に、またしても妙に納得してしまう。
(なるほど……やっぱモテるよ、この人)
俺は内心ため息をつきながらも、不思議と胸が高鳴っていた。
――こうして俺の”恋愛の授業”は始まったのだった。
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作者名「木結」(雪だるまアイコン)でご検索ください。
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