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ドイツアルプスの麓にある人口3万人にも満たない小さな町は、その日の夕暮れ時、小さな町に似つかわしくない喧噪に包まれていた。
その町で代々暮らしている人たちも、知り合い同士が集まっては深刻そうな顔を突き付けて声を潜め、少し離れた場所で待機している何台ものパトカーや救急車を見つめ、降って湧いたような騒動の結末を見るために不安そうな顔で行き交う警官や救急隊員達を見守っていた。
制服警官の一人がパトカーへの無線を受信し、窓から手を差し入れて無線機を口元に宛って何やら口早に伝えると、程なくして救急隊員に新たな指示が飛んだようで、緊張した面持ちで待機している隊員が慌ただしく救急車に乗り込み、ストレッチャーや応急処置をするための機材を運び出してくる。
制服私服合わせて20名近くの警察官やレスキュー隊員や救急隊員も入り乱れる町の広場は異様な雰囲気に包まれていたが、その中央で指揮を執っている中年の刑事の元に制服警官が駆け寄り、己が得た情報を耳打ちすると中年刑事の貌に緊張がさっと走る。
その表情から事態が最悪の結末を迎えたのではないかという観測が流れ、刑事達の視線が少し離れた場所で闇に溶け込みつつある山を見上げ続ける壮年と年若い男に注がれる。
その二人の男は骨格などの違いはあるが顔は似通っていて、夕闇にも光るブロンドと青と碧の中間のような瞳の色も良く似ていて、一見するだけで血縁関係を簡単に想像させていたが、その二人の前に中年の刑事が顔の緊張を少し薄くしながら近寄り、口ひげを蓄えた壮年の男に小さく頷く。
『……無事、発見されたようで、今レスキュー隊員がご子息を運んでおります』
その言葉に壮年の男が組んでいた腕を解いて太い溜息をついて頷き、その横の年若い青年の顔にも安堵の色が浮かぶが、弟の様子はどうだ、見つかったのは弟だけなのかと問い掛けて刑事の首を左右に振らせてしまう。
『今はご子息の発見を第一に命じましたので、山を下りてきた者から事情を聞かなければなりません』
だから今詳しく答えることは出来ないと肩を竦められ、諦めの溜息をついた青年だったが、山に続く街道から歓声が上がり、その声に三人の男が一斉に顔を振り向ける。
ストレッチャーが石畳の上を走る音と歓声と誰かを励ますような声が次第に大きくなるが、背後の救急車に乗せるまで待っていられない様子の青年が隣で拳を握っている父の腕を一つ叩いて合図を送り、父の反応を待たずに石畳を蹴ってストレッチャーの方へと駆けていく。
その背中を見送った父はひとまず陣頭指揮を執っている刑事に手を差し出し、長い間の捜査を労い事件を解決してくれた事への感謝を述べると、すぐ近くまでやって来たストレッチャーの傍に大股に歩いていく。
『フェル、フェル!!』
ストレッチャーに駆け寄った青年が制止しようとする隊員にこの子の兄だと伝えて手を払いのけるが、己の視界に飛び込んできたものが信じられずに目を限界まで見開いて身体を強張らせてしまう。
『どうした?』
そんな息子の様子に父が肩に手を載せながら同じくストレッチャーを覗き込むが、低く唸るような声を上げた後、息子の肩を抱いてストレッチャーから引き離し、痛ましい目で見つめてくる隊員に運んでくれとだけ伝え、近くにあったレンガ造りの花壇に二人で座り込んでしまう。
その二人を取り囲むように警官が立ち、人々の好奇心の目から守ってくれる事に気付く余裕が二人にはなく、人の身体で遮られた夕陽があっという間に闇に溶けて消えてしまったような錯覚を抱き、不意に感じた寒さとそれ以外の理由から身体を震わせてしまう。
『…………己の行いは己に返ってくるんでしたよね…』
花壇に座って力無く石畳を見ていた青年がぽつりと呟いた言葉に、横にいた父も同じ事を考えているらしい表情で頷いて手を組み合わせるが、その手が小刻みに震えるのを視界の隅で見つめた青年は、石畳から真っ直ぐに伸びる大木を辿って空へと視線を流すと、込み上げてくる諸々の感情を抑え込むために拳を握り、奥歯が砕けてしまいそうなほど歯を噛み締める。
因果応報、その言葉は幼い頃から何かにつれ聞かされてきたものだったが、何故己がまいた種を、何の罪もない幼い弟が刈り取らなければならないのかとの思いが浮かび上がった時、犯人や他の被害者達の収容は難しいので明日行う為下山する旨を伝える無線が近くのパトカーから流れ出す。
『他に誰も生きていないのか!』
今回の一連の事件で情報を得られるような大人は生きていないのかと、陣頭指揮を執っている刑事が声を張り上げるものの、返ってきたのは全員死亡という悔しそうな声だけだった。
『……分かった、気を付けて下山してくれ!』
『了解』
無線のやり取りをぼんやりと聞いていた父と息子だったが、救急車から駆けだしてきた隊員に呼ばれて同時に顔を上げ、このまま近くの病院に運ぶかどうかと問われて顔を見合わせる。
『今全身を診たのですが、刃物による裂傷や刺し傷はありませんでした』
ご子息の身体に残されている暴行の痕だが、特に目立つものは殴打による痣、内出血や骨折だけだが、身体の傷よりももっと重篤なものがあると声を潜められて隊員に詰め寄った青年は、命に関わることだから少しでも早く病院に連れて行って手当してくれと捲し立てるものの、落ち着かせようとするのか父が肩に手を載せて隊員に息子に会わせてくれと伝えるのを聞いて我に返る。
『……名前を呼んでも身体を叩いて合図を送っても反応がないのです』
『!?』
心拍数は危険なレベルほど落ちてはおらず、また血圧も低いものの意識を失うほどのものでもないし、何よりもずっと目が開かれているのに目の焦点が合っていないようなのですと教えられて絶句した二人は、隊員に付き添われて救急車に乗り込み、たった今教えられた言葉が事実であると知らされてしまう。
ストレッチャーから備え付けの寝台に寝かされている小さな身体は、隊員の言葉通りに見るも無惨な痣が数え切れないほど浮かび上がり、その中には煙草を押しつけたような火傷の痕らしきものも幾つかあった。
小さな身体に残された暴行の痕を目の当たりにした父と兄は、犯人に対する怒りに顔を赤らめて今にも飛び出しそうになっていたが、痣が浮く素肌の横に切断された赤いベルトのようなものを発見して視線だけで問い掛けると、隊員が二人の顔を見ることが出来ない様子で犬用の首輪だと告げて拳を握る。
幼い子どもがまるでペットのように扱われていた事実をその子どもの家族に伝える事は、事件や事故に巻き込まれた人たちを数多く見てきた隊員にとっても辛いものだっただろうが、その辛さを振り切るように顔をあげ、このまま近くの病院に搬送すると二人に伝えるが、二人から返ってきたのは時間や金はいくら掛かっても良いから指定する病院に搬送してくれとの言葉だった。
『……一刻を争う外傷がある訳ではないのなら……そうしてくれ』
自分たちの主治医に連絡を取り、彼から紹介して貰う病院に搬送してくれと父が頼むと息子は黙って救急車を降り、陣頭指揮を執る刑事の前に静かに歩み寄ると、隊員に説明したことを手短に説明する。
『その病院は……』
『街にある病院で、私たちの主治医も勤務しています』
家族全員のホームドクターが勤務する病院でもあると伝え、そんな事情ならばと刑事が頷くが、その表情には厄介な事件の生き残りである子どもから事件の情報など得られないだろうという諦めが浮かんでいて、つい溜息を吐くことでその思いを表してしまう。
『……事情をお聞きになりたいのは分かるが、主治医とまず相談します』
とにかく自分たちは救急車の後を追いかけて街に帰るつもりだとも伝えると、もう一度溜息を吐いた刑事が一つ頷いて後日警察署に来て話を聞かせて欲しいと頷くが、マスコミに対しては弁護士に一任していること、ことを大げさにしたくないことと今後の事もあるので弟の症状などは発表を控えて欲しいと青年に念押しをされて眉を寄せる。
『分かった。そうしよう』
あの様子だと病院にマスコミが押しかけたとしても何の情報も得られないだろうと、今も遠巻きに様子を見ている記者達に目を向けた刑事の溜息混じりの言葉に青年も頷き、では弟の傍にいてやりたいので失礼すると言い残して再度救急車に向かう。
その背中を見送り、恐ろしいほど冷静な男だなと呟いた刑事は、下山してきた部下やレスキュー隊員達に手を挙げて合図を送り、大人七人の遺体を収容するのはもう少し時間が掛かること、人質以外の子どもの遺体があったのでとにかくその子どもだけを収容したことを報告され、犯人も含めて今回の誘拐事件に関連した人質を除く人間総てが死亡するという異様な結末を迎えた一連の事件に重苦しく溜息を吐いた後、暗くなり始めた空と陰になりながらも聳える山を見上げて止める術を忘れたように何度も溜息を吐くのだった。
そんな刑事の耳に救急車が街に戻る為に動き出した音が流れ込み、その救急車の後ろを一台の高級車がゆっくりとついていくのを見届けると、気分を切り替えるように頭を一つ振り、部下達に明日以降教会に残してきた遺体を収容し、地元の警察と協力して身元と死因の特定をすること、マスコミに対しては署長らと協議してから話をする為、今は何も話すなと箝口令を敷き、自らはパトカーに乗り込んでこの異様な事件の結末にただただ重苦しさを感じるのだった。
救急車に同乗した青年やその後ろを制限速度ぎりぎりの速さで追いかける車を運転する男にとって家族を不安と憤りの中に叩き落とした事件が終わりを迎えたが、その後長く続く辛く悲しい時間の始まりであることをまだ誰も知らなかった。
夕闇から夜の世界へと向かいつつある街へ向け、救急車はサイレンを鳴らしながら指示された病院へと疾走していくのだった。