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その手紙が遠い異国の地からこの街で精神科医としての地位をゆっくりと、だが確実に固めつつある彼の元に届いたのは、街に降り注いでいた夏の太陽が秋のそれへと光を和らげ、太陽の恩恵を受けていた街路樹などが空に近い場所から色づき始めたある日の夕方だった。
今日の午後は休診だった為に資料やカルテの整理などを手早く済ませ、勉強の為と称して好きな読書に没頭していた若き精神科医、ウーヴェ・フェリクス・バルツァーは、ドアのノックになかなか気付かなかったものの、少し強めのそれに我に返り、本を閉じながらどうぞと声を掛ける。
「……お茶を用意しました」
「あ、ああ、ありがとう」
紅茶の芳香がウーヴェの鼻先にまで漂い、途端に喉の渇きを覚えて苦笑しつつ立ち上がって窓際のお気に入りのチェアへと移動をすると、コーヒーテーブルにトレイを置いたリアが微苦笑混じりに本に集中するのは良いがリオンとケンカにならないかと問いかけてきた為、照れ隠しに咳払いをする。
「……時々、な」
「程ほどにした方が良いわよ、ウーヴェ」
仕事においては比類無い有能ぶりを発揮してくれるが、仕事を離れたプライベートでは姉に近い年の差がある彼女の言葉にはどうしても逆らいにくさを感じてしまっていた。
だから今ももう一度咳払いをして注意をすると伝えると、彼女の顔に嬉しそうな笑みが浮かび上がる。
忠告を聞き入れてくれて嬉しいわ、忠告をありがとう、そんな言葉を交わしながら香りのよい紅茶のカップをソーサーごと手に取った二人だったが、ノックの音が聞こえてほぼ同時に顔を見合わせる。
こうしてお茶をしている時に必ずと言って良いほどやってくるのはウーヴェの最後にして永遠の恋人であるリオンだが、リオンがするノックはドアを破るつもりかと言いたくなる程の激しさを持っていた。
だが今聞こえてきたものはごく一般的なものだった為、来客であることに気付いたリアが素早く立ち上がり、どちら様でしょうかと誰何の声を挙げつつドアを開ける。
「やあ、久しぶりだね、リア」
「アロイス? 本当に久しぶり」
同じアパートの上下なのにほとんど顔を合わせることがないと苦笑したのは、上の階でデンタルクリニックを経営しているアロイス・ベンカーだった。
リアの声にウーヴェも驚きを隠せずにチェアから立ち上がり、今お茶をしているが良かったら飲んでいかないかと誘いの声を掛けると、リアの肩越しにアロイスの黒髪が見えて分厚い眼鏡も見えてくる。
「やあ、ありがとう、ウーヴェ。でも今日は読みたい本があるから止めておくよ」
リアの身体の横からひょっこりと顔を出して申し訳なさそうに笑う彼にウーヴェも苦笑し、同じ本属本の虫科に生息する者同士理解出来る心情に何度も頷き、そんな事情ならば気にせずにと笑うと、アロイスもウーヴェと共通する笑みを浮かべて頷くが、ヨレヨレのジャケットのポケットから少し汚れている封筒を取り出す。
「これが間違えてぼくのクリニックに届いたんだ」
「……郵便局の配達員は何処に目をつけているんだろうな」
アロイスが差し出す封筒を受け取ったリアが無言で肩を竦め、チェアに腰を下ろしたウーヴェがぽつりと呟くと、アロイスとリアが顔を見合わせて苦笑する。
「じゃあ渡したよ」
「ありがとう、アロイス」
「そうだ、ウーヴェ、この間探しているって言ってた本が見つかったよ。時間のある時にでもぼくのクリニックに来てくれないか?」
「もちろん、行かせて貰う」
「楽しみにしてる。じゃあリア、お茶の時間を邪魔してしまったね」
「いいえ、気にしないで」
あなたやあなたの助手のクリスや事務を引き受けている双子達ならば大歓迎だと笑ったリアは片手を挙げてクリニックを出て行くアロイスの背中を見送り、扉の向こうに行ってしまうとドアを閉めてウーヴェが腰を下ろすチェアの前に向かう。
「ウーヴェ、イズミルに知り合いでもいるの?」
「イズミル?」
「ええ、そう」
疑問を顔中に広げつつ封筒をウーヴェに差し出したリアがウーヴェのデスクにあるペーパーナイフを取る為に向かい、踵を返してウーヴェに視線を向けるが、ウーヴェの手が封筒の裏面を己へと向けている姿勢のまま動きを止めていることに気付いて瞬きを繰り返す。
「ウーヴェ?」
「…………」
リアの疑問の声に返事は無く、ペーパーナイフの柄をウーヴェに向けるものの一向に受け取る気配がない為に少し強めの声でウーヴェを呼ぶと、彼女がここにいる事を一瞬忘失していた様な顔でウーヴェが驚くが、リアがもう一度名前を呼ぼうとする寸前に掠れた声がどうしたと問いかけてくる。
「あなたこそどうしたの?」
顔色が悪いと不安に眉を寄せつつペーパーナイフをもう一度差し出したリアは、受け取った後封を切ろうとするウーヴェの手が不自然なほど握りしめられていることを発見し、イズミルにゆかりのある何かがこのクリニックにあるだろうかと思案するものの、次の旅行先の候補であり過去に一度訪れた事があるだけの異国の港町とこのクリニックを結びつける存在が思い浮かばなかった。
「……リア、この封筒を開けてくれないか?」
「え? ええ、良いわ」
ウーヴェ宛の封筒をリアが開封するというのは製薬会社や病院などのダイレクトメールのみであり、明らかにウーヴェの私物と思われるものなどはただ手渡すだけだったが、たった今告げられた言葉の真意が掴めずに驚きつつも封筒を受け取ったリアがペーパーナイフで慎重に開封していく様を何故か息を詰めたウーヴェが見守っていて、緊張感すら漂う中で封を開けたリアは、中身の確認は自分でしてくれと告げる代わりに封筒をウーヴェに差し出し、チェアに腰を下ろしてウーヴェの手に移動した封筒から出てくるものを待ち構えるが、出てきたものは地模様のある白い便箋とスナップ写真のようなものだけだった。
便箋を見たウーヴェの表情にはさほど変化は無かったが、テーブルに落ちたスナップ写真を手に取った瞬間、ウーヴェが激しく息を飲んで写真を手にしたまま完全に動きを止めてしまう。
「ウーヴェ?」
リアの呼びかけにまた答えられない様子のウーヴェに本当にどうしたんだと声を顰める彼女だったが、ウーヴェの手が滑稽なほど上下に震えだして写真が手の中からひらりとテーブルに舞い落ちる。
テーブルに落ちた写真は随分と色褪せていて、これが写されたのはかなり昔であることを教えていたが、写真の中央で聡明そうな笑みを浮かべている黒髪の巻き毛の少年に見覚えはなかったために一体誰だろうと脳裏で呟いた瞬間、ウーヴェが激しく深呼吸を繰り返しながらリアを呼ぶ。
「……リア、今日はもう良い。片付けはしておく、から」
「え、でも……」
片付けは己の仕事だしそんな顔色のあなたを置いて帰れないと不安に顔を曇らせるリアだったが、ウーヴェの喉から震える声で良いからとにかく今日は帰ってくれと小さく叫ばれて驚きに目を瞠ってしまう。
今までウーヴェと一緒に仕事をしてきたがこんな風に理由もなく追い立てるように怒鳴られたことなど無く、また例え見た目が華奢であっても身体は頑丈であり精神もそれに見合った強靱さを持つウーヴェの顔色が蝋人形のようになっている所など未だかつて見た事がなかった。
だからその不安から言い募ろうとする彼女を片手で制したウーヴェは、頼むから言う通りにしてくれと切羽詰まった声で命じると、さすがにリアも尋常ではない事を察してウーヴェの願い通りにする為に立ち上がる。
「……失礼します」
「あ、ああ……ありがとう、フラウ」
その言葉を発することだけが精一杯、そんな態度の己のボスにリアが心底心配そうに顔を曇らせて診察室を出て行くが、手早く帰り支度を整えると、どうか明日はいつものウーヴェでありますようにと願いながらクリニックを出て行く。
重厚な木の扉を彼女が背後で静かに閉めたと同時に何か聞いた気がして足を止めて振り返るが、いつもと同じ静寂を漂わせるだけだった為、己の上司でもあり友人でもあるウーヴェの心が明日になれば平穏を取り戻していますようにと呟き、エレベーターではなく階段をゆっくりと降りていくのだった。
何故、今になってあの少年の写真が届けられたのか。
その疑問は写真と手紙を手にした直後に芽生え、リアを無理矢理帰らせたウーヴェの脳裏から消えることはなかった。
彼女より少し遅れてクリニックを出たウーヴェだったが、車の流れに上手くスパイダーを乗せて走っていても脳裏に浮かんでいるのは写真の中で笑っている少年の顔と、見るも無惨に変わり果てた姿だった。
当時、その姿を見せつけられても悲しむことすら出来なかったウーヴェの脳裏に甦るのは何の罪もない少年の明るく長く続くであろう人生を強制的に終わらせた男女の嘲笑や罵倒の声で、もう事件から何年も経過しているのだから許されても良いはずだと心が折れそうなときには力を分け与えてくれる声がウーヴェの中から掻き消されてしまっていた。
男女の嘲笑が強く大きく世界を覆い尽くす前に家に帰り着かなければならないと日頃の彼からすれば信じられないほどの荒い運転で自宅に何とか到着し、車から転がり落ちるように飛び出してエレベーターに乗り込み、足下から徐々に上がってくる震えを抑えるために両肘をきつく握りしめる。
手の色が変わるほど握りしめた肘だが痛みを感じる余裕はなく、フロアに到着した箱から飛び出して震える手を手で押さえつつ何とか鍵を開けて廊下の壁に背中を預けると膝が崩れてしまい、その場にへたり込んでしまう。
立ち上がろうと手を付くがその手に伝わってくるのがポーチに使用している大理石の冷たさではなく、事件の当時いつも身を横たえていた古い板張りの床の感触だったため、今自分が何処にいるのかを咄嗟に忘失してしまう。
掌から伝わった木の感触が脳に辿り着くと目の前の光景が一気に変化をし、見るものすべてが大きくなったことから完全に過去の世界に戻ってしまったことに気付くがどうすることも出来ず、あの頃と同じようにすべてを諦めようとした刹那、大理石と触れあった右手薬指から微かな金属音が響き、過去に囚われかけていたウーヴェの精神世界に澄んだ音を響かせる。
「――!」
その金属音が何に由来するのかを努力もせずに思い出せたウーヴェは、右手をぎゅっと握りしめると同時に力が籠もったことにも気付き、右手から生まれた力を足にまで届けると、崩れていた膝に手を付いて何とか立ち上がろうとする。
そんな彼の行動を嘲笑と暴力で抑え込もうとする男女の声も聞こえてくるが、今はそれ以上に大きな声がもう大丈夫だ、お前はもう過去から解放されても良いはずだと強く告げる声に縋るように立ち上がって壁に背中を預けると、蹌踉けつつ廊下を右に曲がった先にある部屋のドアを開けて中に転がり込む。
その部屋は昨年の夏以降に恋人が引っ越しをしてきてから使うようになった部屋で、一年と少しの間と言っても殆ど使われることのない部屋であるにもかかわらず、この三日ほど仕事で帰ってきていない恋人の存在が分かる部屋でもあった。
前の部屋から運んできた古いシングルベッドの布団は何故かいつも捲られていて、部屋中に散乱する服や雑誌などについてどれ程ウーヴェが口を酸っぱくして注意をしても一向に聞き入れられない為、いつしかウーヴェも注意することを止めてしまったのだが、部屋に転がるサッカーボールやスケートボードなどの合間を縫ってベッドに辿り着くと、途端にリオンのものとしか言いようのない匂いが漂ってくる。
その匂いにつられるようにベッドに座り込んだウーヴェは、いつも感じている過去からの恐怖とついさっき写真を見せられることで突き付けられた形にならない恐怖が手を取って居座ったために震える身体を小さく丸め、その恐怖に取り込まれないようにするためにリオンの匂いが濃く残っているシャツを手探りで引き寄せて肩に掛ける。
顔の近くから感じるリオンの存在感にウーヴェの心が少し落ち着きを取り戻したのか、少しずつ身体の震えが治まってくる。
だが次に訪れるのが頭痛である事を思い出し、この部屋で寝ていれば頭痛は治るものの、きっとリオンを心配させてしまうだろう思いから身体の震えが治まった頃を見計らって起き上がるが、身体は脳が考えた事を拒否するように起き上がったばかりのベッドに再度倒れ込んでしまう。
このままここで寝てしまえと囁く心と身体に脳味噌だけが反論をしても勝てるはずが無く、極度の緊張を経験した身体が疲労を訴えたため、脳味噌も心も身体の訴えに引きずられるように沈黙してしまい、小さな溜息をシーツに零したウーヴェの目が自然と閉ざされる。
リオンが帰ってくると心配するから寝るな、その最後の足掻きのような言葉をウーヴェの耳が聞き留めた気がするが、その呟きを発したのは口なのかそれとも脳なのかが分からないままウーヴェは意識を手放してしまうのだった。
たとえ疲れていても今日も元気だメシが美味いだろう、そんな意味の分からない呟きを発しつつ浮かれ気分で職場から帰路に就いたリオンは、路面電車を乗り継いで帰宅する方法を選択した為に駅ではなく停留所へ向かっていた。
今日は前日から追いかけていた強盗殺人の容疑者を一日掛けて追い回した結果無事に逮捕出来、同僚達が事情聴取を引き受けてくれた為にリオンは三日ぶりに自宅に戻れることになった。
この三日間仕事に追われてロクに睡眠も取れなかったが、愛する恋人が待っている家に帰ることが出来ると思うだけで先程のような意味不明の呟きが口から流れ出してしまう。
それほど恋人の元に帰るのが嬉しいのかと冷たい声で幼馴染みが脳裏で問いを放つが、悔しかったらお前もそんな恋人を見つけてみせろと嘯き、停留所までの短い間にでも煙草に火をつけると己が向かう方角とは逆の空へと目を向ける。
リオンが目を向けた空の下では世界に名だたる祭りの準備が着々と行われている筈で、つい先日もその祭りに参加しようとウーヴェを誘ったが例年通りドイツアルプスの麓の村に行く為に参加できないとにべもなく断られていたのだ。
世界でも有名な祭りが行われる地元に住んでいるのに参加できないのは悲しいとある思いを込めて情けなさそうな顔で訴えてみてもウーヴェの思いは変わることはなく、そんなに行きたいのならば仕事仲間と好きなだけ行って来いとすら言い放たれてぐうの音も出なくなったのだ。
そのやり取りを思い出すだけで何だかもの悲しくなってしまうリオンは忘れようと煙草の煙を空に向けて細く吹き付け、路面電車が近づいてくることに気付いて大股に停留所に歩み寄る。
停留所の看板に括り付けてある灰皿に煙草を投げ入れて路面電車に乗り込んでシートに腰を下ろすと同時に携帯を取りだし、着信履歴を遡っていくが珍しく恋人からの着信がなかったことに目を丸くする。
一日一度は必ず連絡があり、また電話が無理だと分かっている場合はメールでの連絡があるはずだったが、メールも無い事に気付いて体調でも悪いのだろうかと思案する。
三日前に鱈腹朝食を食べて仕事に出向く直前のリオンの身嗜みを整えつつ頑張って来いと笑ったウーヴェに体調不良を感じさせるような言動はなく、この三日間連絡をしてこなかったことは己を慮ってのことだろうかと考えるように天井を見上げるが、路面電車の天上にウーヴェの心の在処を教えてくれる文字なり絵なりが浮かんでいるはずもなく、帰ってから話をした方が良いかもしれないと苦笑した時、掌の上で携帯からピアノ曲が流れ出す。
「ハロ。どうしたー?」
ピアノ曲のワンフレーズが流れただけで通話ボタンを押したリオンがいつものように陽気な声を発するが、携帯の向こうからは何も聞こえて来ず、名前を繰り返して呼んで返事を待つものの声は聞こえて来なかった為、携帯を一度耳から離して画面を見つめ、電話の相手がウーヴェであることをディスプレイでも確かめてもう一度耳に宛がったリオンの耳に流れてきたのは不通を知らせる音だった。
「?」
自ら掛けてきて何も話さずに通話を終えることなど今まで無く、ボタン操作を間違えた結果リオンに掛かったのだろうかとも思うが、それにしては携帯の向こうに広がる世界が静かすぎたことに引っかかりを感じてしまう。
例えば鞄の中に入れていて何かが当たって運良くリオンに電話を掛けてしまった場合、鞄の中の物音がスピーカーを通して聞こえてくるはずだし、またポケットに入れている時に誤って操作をしたとしてもその場の空気ー街にいるのであれば雑踏の物音、人々が話す言葉の断片なども聞こえてくるはずだった。
だが今リオンが耳にしたのは最近ではすっかりと慣れてしまった静けさで、その事からもウーヴェが自宅にいることをリオンに伝えてくれていた。
訝りつつ長い足を組んだリオンだったが、路面電車がカーブに差し掛かってゆっくりと曲がっていった先に白いクーペを発見すると同時に脳裏にウーヴェの顔が浮かび上がる。
その顔はいつもリオンが望んでいる笑顔でも無ければつまらない言い合いをした結果、冷たい顔と声でもう知らないから好きにしろと言い放たれた時のものでもなく、そこにいるはずなのに何故か手を伸ばしても触れることが出来ない、手の届かない遠くに行ってしまいそうに感じる程朧気で表情も儚いもので、思わず路面電車の中で手を伸ばしたリオンは、己の指先が冷たいポールにぶつかって痛みを感じたことすら気付かないで青い目を瞠ってしまい、危うく降りるはずの停留所を素通りしてしまいそうになる。
慌てて合図を送って運賃を支払い飛び降りたリオンは、携帯を取りだして着信履歴の最上段にあるウーヴェの番号を呼びだしながら足早に歩き、小高い坂の上に立つ高級アパートの近くにまでやってくるが、その間何度も携帯を呼び出しているのにウーヴェの声が聞こえてくる事は無かった。
その苛立ちを舌打ちに乗せてアパートのエントランス前の詰め所で合図を送ってくる警備員にも素っ気なく頷いてしまうほど焦っていたリオンは、住人専用のエレベーターに乗り込んで苛立たしそうに足でエレベーターの床を叩いてしまう。
最上階に着くとエレベーターのドアをこじ開けるように飛び出しただひとつのドアに向かって突進したリオンは、ジーンズのポケットから鍵を取り出すことももどかしいと言いたげな顔付きで鍵を出してドアを開けると同時にポーチの壁にキーを引っ掛けながら声を張り上げる。
「オーヴェ!」
何処にいるんだ、いるのなら返事をしてくれと叫びつつ廊下を進んでリビングを覗き、無人でテレビも電気も当然ついていないことを確かめ、そのままリビングを突っ切ってキッチンに入って無人であることを確認すると廊下に飛び出してベッドルームのドアを開け放つ。
ベッドルームの窓際に置いたキングサイズのベッドの端近くのコンフォーターが人の形に盛り上がっているのを発見し、ベッドで横になっている事に気付いて極力静かに近づいたリオンは、少しの物音でも目を覚ますウーヴェが顔を出さないことにもしかするとかなり体調が悪いのではないかと不安を感じて先程とは打って変わった優しい声でウーヴェを呼ぶ。
「オーヴェ、どうした?」
調子が悪いのかと問いかけながらウーヴェの顔が見やすいように床に胡座を掻いたリオンは、コンフォーターの下の身体に緊張が走ったように感じ、ウーヴェの顔を隠している布をそっと捲り上げる。
いつものように笑顔でよく頑張ったと誉めてくれと声に出したかったが、さすがにウーヴェの体調が悪いのならばそんな事を言える筈もなく、少しの残念さを滲ませた声で名前を呼びつつ三日ぶりに顔を見て声を聞いたのだからよく頑張ったとキスをして欲しいと呟くと、伏せられていたウーヴェの顔が上がり、その顔色の悪さに驚いて己の我が儘を引っ込めたリオンがその額に掌を宛がう。
「熱はねぇか?」
「……大丈夫、だ……」
「全然大丈夫って顔じゃねぇけど」
聞こえてくる声は掠れていて小さく、覗き込んだ顔色はまるで蝋人形の親戚かといいたくなる悪さだったのに大丈夫と言い張るウーヴェに呆れた顔で溜息を吐いたリオンは、ウーヴェの喉元にまださすがに早いのではないかと感じるものがあるのを認めると、やっぱり風邪を引いているのかと呟き、額に宛がった掌の代わりに額を軽く押し当てる。
「リ、オン……っ」
「ネックウォーマーはさすがにまだ早いんじゃねぇの?」
まだ初秋の今にそれを使わなければならない程喉が痛いのかと上目遣いに問いかけるリオンにウーヴェは咄嗟に返事が出来ず、コンフォーターの下で拳を握りしめる。
「それとも、ネックウォーマーで首を隠さなければならないことでも起こったのか?」
「――!」
「当たりかぁ」
ウーヴェがネックウォーマーを利用して首を覆い隠さなければならない理由はただひとつで、その理由も何故そんなことをしなければならないのか根本の理由も知っているリオンがもう一度溜息を吐くと、ウーヴェの目尻に口付けながら指でネックウォーマーをずり下ろす。
「……やめ……っ!」
「……いつもよりヒドイなぁ。いつから出てたんだ、これ?」
ウーヴェの喉をぐるりと取り巻く痣に目を細め、いつからこんな状態になったんだと低い声で問いかけたリオンにウーヴェは顔を振って答えることはなかったが、リオンの視線に籠もる強さに負けてしまったように震える吐息を零し、今日の夕方からだと返す。
「親父が来たのか? それとも兄貴から電話があったのか?」
ウーヴェのトラウマが肌に表れた結果の痣が浮かび上がる理由は過去に巻き込まれた事件に関係する文物を目の当たりにした時や、その事件以来不仲になってしまった父と兄がウーヴェの前に顔を出したり電話を掛けてきたからだと知っているリオンが目を細めると、ウーヴェの口から諦めの溜息がこぼれ落ちる。
「オーヴェ」
頼むから自ら理由を語ってくれとリオンが呟くとウーヴェの手がコンフォーターの下から姿を見せ、リオンのくすんだ金髪の中に差し入れられる。
「……リーオ……っ……」
「うん。どうした、オーヴェ」
どうか俺を信じてくれとも告げてその手を取り口元に引き寄せて掌にキスをするとウーヴェの目がぎゅっと閉ざされ震える吐息を零して何度か深呼吸を繰り返すが、話そうと思ってもウーヴェの思いを裏切るように-または遮るように-喉に蓋がされてしまい、声に出せたのは手紙という一言だけだった。
「手紙?」
その手紙は何処だとリオンが室内を見回すが、サイドテーブルにも壁際の小さなデスクにもソファにも封筒や手紙らしきものは無く、何処にあるんだと首を傾げるリオンにウーヴェは何も答えることが出来ずにリオンの手を逆に掴んで胸元に引き寄せて顔を埋めるように身体を丸めてしまう。
「……やっぱり話せねぇか?」
「……ち、が……、ごめ……っ……」
「……分かった。もう良い、オーヴェ」
ウーヴェの口から出てくる言葉が途切れていることに目を細めたリオンだが、出来る事ならば自ら口にして欲しいと言う思いと以前の失敗は繰り返さないという強い思いから溜息ひとつで諦めを表すと、ウーヴェの肩がびくりと揺れて見放されたのではないかという疑問を浮かべ、リオンの手だけが縋れるものだというように胸に抱き寄せようとする。
「リオン……リーオ……っ!」
「見放した訳じゃねぇよ、オーヴェ」
ただ無理矢理お前に言わせて前のように涙を流させるのも嫌だし、それに何よりも必ず約束は守るお前がいつか話すと言ってくれたのを忘れた訳じゃないだろうなと、己の手に縋り付くウーヴェの肩を撫でて太い笑みを浮かべたリオンは、驚きに目を瞠るウーヴェに更に笑みを深めてベッドに顎を載せる。
「オーヴェは自分で言えるようになれば絶対に言ってくれるよな」
だから俺はそんなお前を信じて待つだけにするが、今みたいに辛そうな時はずっと傍にいてハグしてるから安心しろと、まるで胸を張るように告げて笑ったリオンにつられたウーヴェの口元にも笑みが浮かぶが、その笑みもあっという間に掻き消えてただただ申し訳なさそうに眉を寄せてきつく目を閉じたため、リオンが閉ざされている瞼にそっと口付ける。
「オーヴェ、ひとつだけ教えてくれ」
「……な……、だ……?」
「俺が信じられねぇ?」
ウーヴェを信じて待つと決めたもののやはり不安は解消出来なかったリオンの問いにウーヴェが勢いよく顔を上げ、みっともない程掠れて聞き取ることすら難しい小さな声であっても精一杯出せる限りの声でその言葉を全力で否定する。
「ちが、う……!」
「うん。――無理に言わせようとしてごめんな。でもさ、いつか必ず話してくれるよな」
だからそのいつかが明日訪れても一年後に訪れても良いように心の片隅にだけ置いておいていつもは忘れていることにすると笑ったリオンは、ウーヴェが身体を少し起こして肘で躙り寄って己の首に腕を回そうとしているのを確かめると、手助けをするように膝立ちになってウーヴェの上体にしっかりと腕を回す。
「あ、そうだ。命の水を作ってくるからさ、それを飲んで今日はもう寝ろよ」
ハチミツとレモンとジンジャーで作る、疲れている心身に力を分け与えてくれる魔法の飲み物を作ってくるから待っていてくれと片目を閉じ、腕の中の身体が全身で頷いたのを感じ取って白い髪にキスをすると、ウーヴェを寝かせコンフォーターを肩まで引っ張り上げて幼い頃己がされていたようにその肩を軽く叩くとベッドルームを出て行く。
リオンの背中を見送ったウーヴェは、申し訳なさとあの写真を見た苦しさを思い出して胸を抱えるように身を丸め、恐怖のあまり目を通すことも出来なかった手紙をクリニックに置いてきたことだけは伝えようと決め、命の水と呼ぶ飲み物をリオンが運んでくるのを待っているのだった。
命の水を総て飲み干し、リオンの言葉に促されてベッドに横臥したウーヴェは、帰って来たリオンの食事の用意が出来なかったことを詫びると、そんなウーヴェに瞬きを繰り返したリオンが盛大な不満を頬を膨らませることで表しつつウーヴェの隣に潜り込んでくる。
「ホントだ。メシも食ってねぇけど……」
それよりも何よりも、まずただいまのキスもしてないし仕事を頑張ったから褒美のキスも期待していたのにそれもして貰えてないと、まるで小さな子どものように不満をぶつぶつと呟きだした為、ウーヴェが気怠げに寝返りを打って恋人を宥めようと顔を見るが、声の割には表情は明るくて暗い憤懣を感じている訳ではないと気付き、膨らんでいる頬に片手を乗せて悪かったと目を細める。
「――悪かったと思うのならさ、キスして、オーヴェ」
そのキスでチャラにしましょうと茶目っ気たっぷりに語るリオンに苦笑し、キスを待ち望んでいる唇にそっと口付けると離れる寸前に頭に手を回されて離れられなくなってしまう。
「……ん……っ」
「……いつでも良いからさ、俺にだけ話してくれよ、オーヴェ」
どれ程仲の良い同級生達にも話すことの出来ない過去なのだろうが、その荷物を半分持つと誓った俺にだけは教えてくれ、でなければ心の準備が出来ずにお前を支えきれないで一緒に倒れてしまうかもしれないとひっそりと本心を告げたリオンにウーヴェがその言葉を忘れないようにと胸に刻み、うんと小さな声で返事をする。
「今日のこと……許してくれ、リーオ……」
「んー、どうしようかなぁ……。あ、そうだ」
明日の朝食にチーズオムレツとカリカリベーコンに白パンを付けてくれたら多分許す気持ちになると笑って頷くリオンに呆気に取られるウーヴェだったが、次第におかしさがこみ上げてきて肩を揺らして笑ってしまうと、何で笑うんだと子どもの拗ねた声が聞こえてくる。
「白パンで良いのか? ゼンメルもあるぞ」
「じゃあゼンメルと白パンひとつ。チーズオムレツは卵二つ!」
「分かった」
それで許すなんて何て俺は心が広いんだと胸を張る恋人に苦笑し、だが朝食の件はともかくとして信じているにも関わらずに真実を語る勇気を持てない己を許して待ってくれることは本当に有り難いことだと実感し、リオンの髪を撫でて頬を撫でてもう一度唇にキスをすると驚きながらも受け入れてくれる。
「……ダンケ、リーオ……」
「オーヴェ、好き」
好きだからずっと待てるが好きだからこそ今すぐお前の総てを知りたくなる事もあるだろう、そんな時は互いに感情が昂ぶってしまうだろうがどうか手を離さないでくれとリオンがいつもの声とは似付かわしくないそれで告げてきた為、そのつもりが全く無いことを証明する為にそっとリオンの手を取り、己の顔のすぐ傍にその手を移動させると同時に掌に手を重ねてしっかりと指を組み合わせる。
「お休み、オーヴェ。眠れねぇかも知れないけど、少しでも寝ろよ」
「……お前がいるから平気だ」
「ん、じゃあ大丈夫だな」
そのネックウォーマーを外してくれと頼んでくるリオンにやや躊躇ったように視線を泳がせたウーヴェだが、諦めの溜息を吐いてネックウォーマーを脱ぐといつまで経っても消えない痣にリオンが口付ける。
「早く消えちまえ、こんな痣」
「…………」
こんな痣が早く消えてウーヴェの心の傷も瘡蓋が出来れば良いのにと笑ってウーヴェの額にキスをしたリオンは、無理であっても目を閉じていてくれと願い、その言葉に従う様に目を閉じるウーヴェの瞼に再度キスをすると、自らも向かえるかどうか分からない眠りの園に旅立つ準備をするのだった。
その手紙が長い年月を掛けてウーヴェとその家族の間に作り上げられた溝を埋める切っ掛けになるのだが、この時のウーヴェにもリオンにもそれが分かるはずはなく、ただ過去からの声のように届けられた手紙に戸惑い恐怖を覚えながらも近いうちに必ず話をしようとウーヴェに密かに決意をさせるのだった。