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突く妻(つくつま)
彼女は、いつも包丁を磨いていた。
料理が好きなわけではない。ただ、刃が自分の顔を映す瞬間だけ、心が静かになるのだと言った。鏡は嘘をつく。けれど刃は、ありのままを返す、と。
夫は、彼女の沈黙を理解しようとしなかった。
仕事の疲れを言い訳に、食卓の向こうに座り、温度だけを食べていた。会話は冷めきっているのに、スープだけがやけに熱かった。
「あなた、何か隠してるでしょう」
彼女は時々そう言って、包丁の腹で机を軽く叩いた。
夫は笑って誤魔化した。隠しているのは、彼女そのものだった。彼女の孤独を、見ないふりをしている自分を。
ある夜、停電が起きた。
闇は家の隅々まで入り込み、二人の影を一つに溶かした。彼女はろうそくを灯し、いつものように包丁を磨いた。刃に映ったのは、彼女ではなく、夫の不在だった。
「ねえ、私はここにいる?」
夫は答えなかった。答える言葉を、持っていなかった。
彼女は静かに立ち上がり、夫の前に進んだ。
“突く”という言葉が、台所に置き忘れられたまま、空気だけを貫いた。刃は、誰にも触れなかった。それでも、何かが確かに断ち切られた。
翌朝、近所の人は異様な静けさに気づく。
窓は開かれ、風がカーテンを揺らしているのに、家はまるで無人のようだった。警察が来て、包丁は見つかったが、二人はいなかった。床には、磨かれすぎて透けるほど薄くなった影だけが残っていた。
人々は噂した。
妻が夫を刺して逃げたのだと。
夫が妻を捨てて消えたのだと。
けれど真実は、どれにも似ていない。
二人は、互いに互いを“突いた”のだ。
言葉で。沈黙で。拒絶で。期待で。
刃を使わずに、心臓を。
だから、どこへ行ったのかは誰にもわからない。
ただ、その家の台所では今も時々、金属を磨く音がするという。
刃が、誰も映さない日が来るまで。
——だれも、幸せにならないまま。