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六月も終わりに近づくと、夏休みを目前にした五人を待っていたのは、各科目のレポートと課題という、避けようのない現実だった。
「――無理、マジで無理」
真っ先に音を上げたのは勇斗だった。勇斗の部屋のはずなのに、いつの間にか五人分のノートパソコンと参考文献が畳の上に散乱し、さながら臨時の自習室と化している。
「勇ちゃん、民法概論のレポートまだ一文字も書いてないの?」
呆れたように尋ねる柔太朗に、勇斗は突っ伏したまま呻いた。
「テーマはなんとなく決まってる。でも、いざ書こうとすると、指が動かない。六法見るのも判例集見るのもだるいわ。」
「――それ、テーマが決まってないのと同じだよ」
冷静に指摘され、勇斗はさらに深く突っ伏した。
一方、太智は意外にも快調にキーボードを叩いていた。
「今回は会計系の科目の課題がないねん。ほんとラッキー。消費者行動論のレポートしかないし、こういうのは得意分野やから、逆に楽しいまであるわ」
「なんか悔しいから、あんまり得意げに言うな。来学期苦しめ。」
舜太も舜太で、国際関係学のレポートを書こうと、素材となるニュース記事を集めていた。BBC、CNN、ロイターと続くあたりが、帰国子女の本領発揮だった。
辞書も引かずにさらさらっと英語の記事を読みながら、ある国と国の情勢を、習った理論に当てはめてするすると仕上げていく。
そんな中、仁人は少し離れた場所で、比較文学のレポートに取り組んでいた。
テーマは「西洋の童話における自己犠牲の観念」。選んだ題材は、迷わずアンデルセンの人魚姫だった。
小さい頃から何度も読み返してきた物語のはずだった。人間になりたいと願った人魚姫が、声と引き換えに足を手に入れ、それでも想い人の王子とは結ばれず、最後には自分の命さえ差し出して海の泡に還っていく―――もう諳んじられるほど頭に入っている。
改めてページをめくっていくうちに、仁人の手は、ふとある一節の前で止まった。
声を失った人魚姫は、王子に何を言われても返すことができない。得意だった歌も封じられて、自分の思いを踊りで表現することしかできない。それだと伝わらない。好きなのに伝えられない。
人魚姫はなんで伝えたかったんだろう。願いはなんだったのだろう。
結末までページをめくれば、じくじくとした胸の痛みがより増した。
好きな人の幸せのためだけに、自分のことなど顧みず、静かに全部を差し出してしまう。何も報われなかった望まない結末に、なぜだか胸の奥が、きゅっと締めつけられるよう無きがした。
なぜ、王子と生きる未来を選べなかったのだろう。
(――何でだろう。何回も読んだ話なのに)
理由の分からない痛みだった。まるで、自分自身が、いつかどこかで同じような選択をしたことがあるような、そんな錯覚さえ覚える。
―――この重くて、息ができないような選択を、知っている。否、させたことがある。したことがある。
ページの上の文字が、一瞬だけ滲んで見えた。
その様子に、たまたま隣で作業をしていた柔太朗が、そっと気づいていた。
「――仁ちゃん、大丈夫?」
「……あ、ああ。大丈夫」
我に返ったように顔を上げた仁人に、柔太朗はそれ以上、深くは聞かなかった。ただ、さっきまでの横顔が、いつもの仁人とは少し違って見えたことだけを、記憶の片隅で覚えておくことにした。
「――その話、そんなに好き?」
代わりに、当たり障りのない問いを投げる。
「……好きかな。すごく苦しいお話、なのにね」
「そっか」
それ以上は追及せず、柔太朗は自分のレポートに視線を戻した。仁人もまた、何事もなかったように、ペンを取り直す。
結局、その日の自習室は、深夜過ぎまで賑わい続けた。
「――できたあああ!俺の担保物権が!!!」
一番遅くまで唸っていた勇斗が、明け方近くになってようやく雄叫びを上げる。
「お疲れー」
「目がやばいことになってるよ」
からかう柔太朗と太智を、勇斗は涙目で睨みつけた。
「お前らも、絶対泣くことになるからな……!」
そんな声を聞き流しながら、仁人は静かに、自分のレポートの最後の一文を書き終えていた。書き終えてもなお、胸の奥に残る小さな痛みの名前だけは、まだ見つからないままだった。
水虹ひにゃ@リムらないでほしい